第10話 中学最後の夏1 =美沙子と『口実』=
ホテル『天球』で、君と偶然の再会を果たしてから、さらに六年の月日が流れた。
チャペルで初めて演奏をしたあの夏以降、僕らは毎年『クラシックの夕べ』に参加し、美沙子ともすっかり顔馴染みになっていた。
美沙子は月ヶ瀬グループという日本を代表する大企業の社長令嬢らしい。
出会った当初感じた、少し高飛車な様子は、出自による誇りと自負によるものだったのかもしれない。
だが、彼女からは親の威光をひけらかす様子は見られず、友人として付き合ってみると人間臭さのある好人物のように僕の目には映った。
勝手な憶測だが──君が美沙子と一緒にいるのは、美沙子の裏表のない性格を気に入っているからなのだろう。
毎年の夏、八月のお盆期間に合わせて、君は母親と共に、そして美沙子は母親である月ヶ瀬夫人の里帰りに合わせて『天球』を訪れ、『クラシックの夕べ』に参加しているようだ。
おそらく今年も、僕らはあのコンサート会場で互いの演奏を聴くことになるのだろう。
…
夏休みも間近となった七月中旬。
僕宛に暑中見舞いの手紙が封書で届き、そこにはクラシック音楽関連の季刊誌が添えられていた。
中学校から戻った僕は、居間のダイニングテーブルに置かれたその手紙を手に取り、差出人を確かめる。
そこには──柊紅子の文字があった。その名前の隣には、現在君が住んでいる都内の住所が記載されていた。
一昨年の春、君の中学進学を機に、君の父親は仕事の本拠地を米国から日本に移し、今は家族三人で一緒に暮らしている。
それまでの君は、九月から翌年六月までを父親のいる米国で暮らし、それ以外の期間は日本で母親と共に生活していたそうだ。「これからは家族三人でずっと一緒に暮らせる」と、嬉しそうに口にした君の笑顔が、僕の記憶に新しい。
僕は現在、中学の最高学年。
君と美沙子は中学2年に進級していた。
実は彼女たちは、僕の在学している私立の一貫校に、一年と少し前に進学している。
そのため、僕たち三人は先輩と後輩の関係になっているのだが、なぜか学校ではすれ違ったことさえない。
少し不思議に感じたこともあるのだが、生徒数もそれなりに多く、学年も性別も違うため、そういうものなのだろうと納得した僕は、そのうちその疑問を忘れて──現在に至る。
僕は君から送られた季刊誌をパラパラとめくった。
先頃、結果の出た音楽コンクールについて書かれた記事の一部に目をとめると、そこには二人の見知った少女を含めた数人の名前が掲載されていた。
中学生ピアノ部門
1位 柊紅子
2位 該当なし
中学生ヴァイオリン部門
1位 藤ノ宮葵衣
2位 月ヶ瀬美沙子
美沙子は今まで、出場するコンクールのすべてにおいて、必ず優勝をしていたのだが、この藤ノ宮葵衣がコンクールに出場するようになってからというもの、2位に甘んじることが多くなった。
だが、そうは言っても、美沙子の演奏技術が素晴らしく高いものであることに、変わりはない。
六年前の夏、『天球』にて、僕の演奏後に美沙子が呟いた言葉を思い出す。
『今のところ、わたしがヴァイオリンで唯一勝てないのは、同年代では葵衣だけってことか』
最近になってコンクールに出場しはじめ、1位を独占するようになったこの藤ノ宮葵衣が、美沙子の言っていた『葵衣』なのだろう。
今年の夏に『天球』を訪れたとき、葵衣のことを美沙子に聞いてみよう。
同じヴァイオリニストとして、葵衣の演奏をどう思っているのか、美沙子の口から直接聞いてみたかったのだ。
同じ学校に通っているとはいえ、僕と美沙子が会話をするのは夏の一週間のみという、深いのか浅いのかよくわからない友人付き合いが続いている。
夏の『天球』での美沙子しか知らないが、彼女は努力家で面倒見が良い人間だということがわかっていた。
彼女は自分よりも上の演奏技術を持つ人間を敬い、下にいる人間については激励を与え、時には奮起させている様子も夏の期間限定ではあるが、目にすることが度々あった。
我が儘で自分中心の人間であれば、自分を追い越していくかもしれない人間に、手を差し伸べたりはしないだろう。
なぜそんなことをするのかと訊ねたことがあるのだが、美沙子の考え方は至ってシンプル。
「レベルの高い奏者と一緒に音楽を楽しみたいからよ。それ以外になにかあるの?」と、返ってきたのだ。
美沙子にとって音楽の道を進む者は『ライバルではなく、手を取り合うべき仲間』ということが、この会話で理解できた。
だから僕と出会ったばかりの頃、「あなたはいつ本気になるの?」と奮い立たせてくれたのかもしれない。
君からの便りには、その美沙子と葵衣と共に同じコンクールで入賞できた喜びが綴られていた。
その文面から、3人ともにお互いを尊重しあい、切磋琢磨している様子が伝わってくる。
季刊誌に掲載されている少女三人の名前を、僕は再度確認した。
この葵衣を含めた少女三人は、とても気が合うようだ。もしかしたら葵衣も、僕が知らないだけで、同じ学校に通う生徒なのかもしれない。
自宅の電話に手を伸ばす。
手紙が無事届いた報告と、季刊誌を同封してくれた御礼を兼ねて、君へ連絡しようと思ったのだ。
お互いにスマートフォンの連絡先は交換しているが、僕たちはいつも自宅の電話をつかってお互いの声を聴き、季節の遣り取りは手紙を送り合っている。
僕は君との『近すぎず遠すぎず』というこの関係が、なんとなく好きだった。
おそらく君も、同じ思いでいるような気がする。
──そういえば、僕たちは何をきっかけに、文通のような交流を続けるようになったのだっけ?
電話の呼び出し音を聴きながら、その最初の交流となった出来事を記憶の中に探す。
ああ、そうだ。
子供の頃からホリディカードを送り合っていた習慣。それが根底にあったのだ。
ベルが途切れ、君の声が耳に届く。
『はい、柊です──克己くん? もしかして、もう届いたのか?』
受話器から流れ出すその声は、弾んでいるようだった。
僕からの連絡を喜んでいる様子が伝わり、それだけで無性に嬉しくなる。
ひとつ──自分の心の動きで、気づいたことがある。
どうやら、君に御礼を伝えるのは電話をかけるための『口実』だったようだ。
ただ、君の声が聞きたかった──それが本音。
学校で、すれ違うことすらなかった僕たちは、それまでの時間を埋めるように、近況を伝えあった。
次話、
中学最後の夏2 =『匂い』と『言いつけ』=
を予定しております。