第1話 出会いの色1 =薄紅色の君=
君の瞳から零れた雫が、制服に藍色の染みをつくる。
複雑な感情を宿したその双眸は、ほのかに赤く色づいていた。
音楽室の窓を埋めるのは、紅と黄金と、少しの紺青が溶けた夕暮の空。
その色の鬩ぎ合うさまは、まるで君の心模様。
僕は震える手を君へと伸ばし──流れる涙に、そっと触れた。
──その肩を抱きしめ、慰められたなら……。
衝動的な感情が生まれたが、自制する。
それと同時に、その心の動きに驚いた僕の時間が止まった。
我知らず──長年抱きつづけていたこの感情の正体に、今やっと、確かな名前がついた。
予兆は何度もあった。
けれど、臆病だった僕は、二人の関係を壊すのが怖くて、その想いに蓋をしては考えることを放棄した。
──何度となく隠しつづけた心は、気づかぬうちに枝葉を伸ばし、君の心をこんなにも求めていたのだ。
嗚咽をもらして泣く君の、目が、鼻先が、二人の思い出の色に染まる。
薄紅──それは、僕達二人が初めて出会ったときの色。
突然──西日に照らされ、君の輪郭が淡く浮かび上がる。
窓から射す橙は、徐々に居場所を移し、グランドピアノに落ちると蜂蜜色に変わって揺れた。
その光の筋を辿った先に横たわるのは、飴色に輝く僕のヴァイオリン。
二人の音色を重ねた今日。
自覚した君への想い。
この日、君の涙に誓った決意を、僕は決して──忘れない。
…
君との初対面は、十年ほど前──幼稚園の頃のこと。
場所は、両親と共に出かけた旅先の空港だった。
物心ついてから初めての海外旅行は、米国の西海岸。
湿気を感じない、爽やかな風に出迎えられたことを、今でも鮮明に覚えている。
空気の色も太陽の輝きも、まるで別世界。
長旅の疲れを感じはしたが、日本とは異なる匂いに、僕は只々瞳を輝かせた。
時差という概念を知らない幼い子供は、体感時間に違和感を覚えはするが、時差ボケにはなりにくいようだ。
当時5歳だった僕にとってその日は、とびきり長くて、特別な一日だったと記憶している。
空港で出迎えてくれたのは、両親の友人である柊夫妻。
柊一家は、夫が幼い娘と共に米国で暮らし、妻は日本の音楽大学で教鞭をとっている。
彼らが三人揃って時間を過ごすのは、長期休暇の間だけ。
両親の会話を耳にしていた僕は、柊家の家庭の事情を多少なりとも知っていた。
母から挨拶を促され、一歩前に出た瞬間、目の前が薄紅色に覆われた。そう感じたのは、小さな女の子が僕の目の前に現れたから。
視界が淡い紅色に染まった理由──それは、その少女が着ていた服の色だった。
「ご挨拶と自己紹介をなさい。克己のほうが少しだけお兄さんなのよ」
その言葉に、僕は一度だけ母を見上げ、それから女の子に視線を移す。
鷹司克己です──と、挨拶の言葉を口にしようとした瞬間──突然、小さな腕が僕に向かって伸びてきた。それと同じくして、両親と柊夫妻の慌てた声が空港の中に響き渡る。
僕の唇に、何かが触れた……ような気がした。
状況がわからなかった僕は、恐るおそる周囲を見回してみる。
理解できたことは、肌や髪色の異なる人達が、微笑ましげにこちらを見ていたことだけ。
「こらっ 紅子! まったく、この子ったら……どうしましょう。本当にごめんなさいね。克己くん、大丈夫?」
改めて自分の状況を確認すると、僕の身体はその少女に抱きしめられていることがわかった。
どうしたらいいのだろうと、かなり狼狽える。
少女の顔は、距離が近すぎるため見えない。
彼女の着ている薄紅色のワンピースの色だけが、僕の目に焼き付いた。
助けを求めた両親は、口元に手を当て、何とも言えない表情をしている。
紅子と呼ばれた、小さな女の子。
それが、幼い頃の君だった。
…
僕から少し離れたところで、君は母親に窘められている。
「紅子、歓迎の挨拶で抱きつくのはパパとママにだけ。それからね、お口とお口は、好きな人としか合わせたらいけないのよ」
その言葉で、先ほど口にぶつかった物の正体が君の唇だと判明した。
当時、その意味を理解していなかった僕は、慌てることも恥ずかしく思うこともなく、ただ黙って柊母娘二人のやりとりを聞いていた。
「パパとママ──『一番』の挨拶で、いつもチュッてしてる!」
どうやら君は、両親のする挨拶を真似て、僕の訪れを歓迎してくれたようだ。
自分は礼儀正しく挨拶をしたはずが、なぜか叱られる事態に陥り、かなり不服そうだ。
母親に注意を受けたそばから、その頬が徐々に膨らみ、君はとうとう唇を突き出しはじめた。
君は僕よりも、ひとつ年下の女の子。
瞳には意思の強そうな光が宿り、そのにじみ出る輝きは、君の快活さを表しているような気がした。
柊夫妻に叱られている君のことを、助けたいと思ったのは、僕が年上だから?
その時ふと、僕が君を好きになって、君が僕を好きになれば、口がぶつかっても怒られないのかもしれない、という考えが浮かんだ。
だから僕は、君を救い出すつもりで、その考えを皆に伝えることに決める。
我ながら名案だと思ったけれど、その内容を口にした途端、両家の大人たちは僕の目をのぞき込んだ。
そして、次の瞬間、四人同時に顔を見合わせ、フフッと楽しげな笑い声をあげた。
大人たちが笑顔になった理由がわからず、僕は首を傾げたけれど、同時に、これで君が叱られることはないのだとわかって、ひどく安心したのだ。
多分このときの僕は、年下の妹を守る『兄』のような気持ちになっていたのだと思う。
僕は吸い寄せられるようにして、君の姿を視界に入れる。
大人の笑顔につられて笑う君は、まるで太陽そのもので、僕はますます目が離せなくなったのだ。
次話、『出会いの色2 =人魚姫と水に遊ぶ=』を予定しております。
(みてみん接続障害があったので、タイトルイラストを取り下げました。)