母なる巨人種
「────幾百年ぶりのキングサクリファイスの誕生だ。私はこの時を永らく待っていた。……そしてボクはそれを、許さない」
見知らぬ顔で。
見知らぬ声で。
だけど昔と変わらない、美しい黄金の瞳。
でもその奥に私の知らない狂気を孕んで。
その男は私──アンの前に現れました。
「……どちら様でしょうか。あいにくとリヒト様は今は出払っております。お戻りは不明ですので、また後日に」
私は一礼してその場を去ろうとします。
「冷たいな、アングルボザ。ずいぶんと他人行儀ではないか」
知らない声なのに。
その優しく耳許で語りかけるような声音は知っています。
ああ、でも。
聞きたくもない嫌な名前。
その名前は、可愛くない。
「他人ですので。あなたはロキじゃない。私の知らない人です」
「いいや、ボクがロキだ」
今度は私の知らない、威圧するような声音。
同時に右腕に違和感を覚えました。
見たら黒いスライム質が私の右腕に取り付いている。
それはロキの権能『変異』。
人と魔物を別の形へと作り変えてしまう力。
「人の形に押し込まれているのも窮屈だろう? それに君の権能を借りたくてね」
「私はもう子は生みません」
「ヘルを討たれて悲しくはないのか? フェンリルはその身体を2つに引き裂かれたぞ? 2人の力を失ってヨルムンガンドには強い負荷がかかって苦しんでいる。救えるのは母の君だけだ」
「お断りしますと言ったら?」
「君の子供達がどうなるかな」
「……っ!」
私は感情のコントロールが苦手です。
私の秘めた激情を収めるのに、人の体は小さすぎます。
はち切れそうな怒りに全身を焦がすような感覚。
でも同時にヘルを想うと悲しくて仕方がない。
だけどあれは……仕方のなかったこと。
死者の数は増え続け、すでに彼女の権能の許容範囲を超えてしまっていた。
その時が来ても肥大化したニーズヘッグはきっともう翔べなかったでしょう。
「私の可愛い息子、娘とその子からこぼれた私の孫娘。3人に手を出すと言うのなら。容赦は、しない……!」
「人の身で? だが相変わらず怒りに震える君は恐ろしく、美しい。その気迫、まるで本当の君が目の前にいるようだ」
「本当なんてありません。私はアンです。人よりは永い時を生きて。でもそれ以外は人と変わらない、ただのアンです。巨人アングルボザはもう、いない」
「でもボクの権能で甦る。遥か昔に君を人に変えたように。今度は人の形から本当の形へと作り変えてやる。そして再び夫婦として共に歩もう」
「いいえ、ロキは死にました。これ以上、彼を騙らないで。あなたは彼の紛い物です」
「ボクはロキじゃない? ……いいや、私はロキだよ、アングルボザ」
私の知る声音と知らない声音が入り交じった。
「…………あなたは1つ勘違いしています」
私は彼を見据えて言います。
でもそれよりも早くに。
彼はぐしゃりと潰れて、消えました。
「『魔物の母』の権能がこの身体で使えないといつ言いましたか」
生み出したのはいわば私の腕の模造です。
巨人の腕が彼の身体を握り潰していました。
その手からどろどろとこぼれ落ちるのは『変異』による複製体の残骸。
私は私の腕に纏う黒いスライム質を取り払いました。
「キングサクリファイスが生まれたということは、フランさんがこれ以上王位継承に巻き込まれて脅かされることはなくなりましたね」
私はパンと手を叩いて。
彼女は心優しい子ですから、どうか幸せになってもらいたいと願ってしまう。
「…………」
その時、私は胸に違和感を。
どろどろと渦巻く感触を覚えました。
それが何かすぐに分かって。
でもこうなった時点で私の負けです。
一体いつから。
いや、きっと最初から。
これはロキの思う使い方ではなかったでしょうけど。
私の中に仕込まれていた『変異』が、私を内側から作り変えてしまう。
私の内側から膨れ上がるのは激情と。
2度と見たくもない巨人の身体。
あの男への激しい怒りを抱きながら。
私はアンの引き裂ける音を、聞きました。




