愛は盲目なのと、雪景色。
いつまでたっても私は私なのだろうか。
死ぬ前に一回くらいは、本当の私を見て欲しいと思う。
もっとも、今の私に会ってくれる人も少ないが。
死が目の前に見えていたら、ここまで冷静になれるものなんだな。
窓の外で風に揺られている桜の葉の一枚一枚が、私よりも生命力があるように感じられた。
私は中学の時から白い監獄で暮らしている。
毎日同じ時間にご飯を食べて、白い服を着た看守が毎日私を見にきて、そうしたら日が東から西へ沈んで夜になる。
「つまらないな。」
周りの人には当たり前でないことが、もう5年もここで暮らしている私には当たり前になっていることがとても怖かった。
何度も入退院を繰り返した中学校。
辞めざるを得なくなった高校。
通うことすら諦めた大学。
私の描いていた"今"は、学校に通って、部活に入ったりバイトをしたりと大人数の人が通ることのできる"今"だ。
叶えることができない"今"を、考えてしまうのは何回目だろう。中卒を馬鹿にしていた私も結局は中卒だ。最近、学力で人を見るのを辞めた。自分は人より少し勉強ができたから優等生であった。それだけだ。
人をはかるさじでしかない学力がどれだけ高かろうが、それで人を見下すのは自分が優越感に浸りたいだけだろう。
勉強の面で優等生だった私は、健康の面では不良であった。
学校や社会の基準が学力であったから私は「いい子」であったわけで、運動で世界が回っていたのなら私は「悪い子」になっていた。そこまで考えて、ふと気づいてしまった。
「いい子ってなに……?」
真っ白なものばかりが置かれた部屋で一人つぶやいた声が溶けて消えていく。
父が三代目にして新設した棟の、他よりも大きい静かな部屋。
爆弾を抱えた少女の療養のための部屋。
お父さんが出来損ないの娘を隠すために用意した部屋。
静かなのが余計寂しい。
何年もここに住んでいて、たまにしか家に帰ったり外に出たりしないから私の筋力はどんどん落ちていった。
どうやら身体に爆弾を持っている私は、少し運動をしただけで爆発してしまうらしい。だから私はみんなみたいに走ることもスポーツすることもできない。それでも私は、自分の心拍数を上げない程度に散歩するようにしている。
今日も一階にあるふれあいルームに向かうためにゆっくりと階段を降りた。一歩一歩、踏み間違えないように、心臓を爆発させないように。
ふれあいルームには老若男女が集まっていた。近々行われるお遊戯会のダンスを練習する子ども。
ピアノを弾く少女。
ラジオ体操をする老人。
ここには不自由な人ばかりなのに、それを忘れされるほどの喧騒。
どの人も皆、期間は違えどこの建物の住民だ。
私はこのふれあいルームに毎日来ては、どの人がなにをしているのかと見ている。基本的にこの場所では住民以外の人々は立ち入り禁止だが、ごくたまに五歳以下の子どもの親が来ていることがある。
親子が手を繋いだり、絵本を読んでいるのを見て少し切なくなった。
私の母も父も兄も私に会いに来ない。
私が学校に通って、優等生であった頃は私は確かに愛されていた。でも、倒れるようになり、心臓が爆発するとわかった頃から誰も私を見てくれなくなった。最初の頃は毎日来ていた皆は日が経つにつれて数ヶ月に一回に変わった。誰も、私を愛さなくなった。
低めのソファに座りながら下を向く。もうここ一年近くはこんなことばかり考えてはうつむく。
高校生にもなって愛を求めるのはおかしいだろうか。いや、中退したから高校生ではないか。2年になって体育の出席日数が足りなくて辞めることになってしまったんだもの。
私が感傷的になっていようが、子供たちは楽しそうにダンスはするし少女はワルツを弾く。老人もラジオ体操第二に入る。
誰も私を見ていない。
「ねぇ、ここってギター弾いてもいいんだよね?」
ふと右側で高校生くらいの男の子の声が聞こえた。
顔を上げて右へ振り向くと、顔と顔の距離が思ったより近くて驚く。
「ねぇ、ここってギター弾いてもいいんだよね?」
聞こえていないと思ったのか男の子はおんなじことを繰り返した。
「いいけど……」
「そっかありがとう!」
無邪気に笑う彼の右側には黒のかっちりしたギターケースが置かれていた。歳は、私とほとんど変わらないくらい。16、17歳近く。話し方が少し幼いからか私よりも歳下の雰囲気が出ていた。
「君の隣、空いてるよね?」
まさかここに座るつもりなのだろうか?確かに私が座っているのは二人がけのソファだが、ギターを弾くために座ったら私と彼の距離が近くなるのではないか。そう思ってはいたのだけれど、どこからか湧いた好奇心からつい頷いてしまった。
「今から、歌うんだけど、うるさかったら言ってね。すぐやめるから。」
そう言うと、ギターケースから茶色のアコースティックギターを取り出した。テレビとかでアーティストが使っているのはよく見るけれど、本物は初めて見た。少し、ドキドキする。
彼が、ピンク色の三角のものを右手に持つと軽快にその手を動かし始める。
こんな音がするんだ。私は、初めて見る実物のギターと演奏に目も耳も奪われた。
左手は弦を押さえるために何度も指を動かしたり広げたりしている。
ギターの音がきちんと出ることを確認してから彼は口を開いた。先程とは違うリズム。壊れてしまいそうなくらい繊細な声であった。惹きつける、とは何か違うような。彼の声が、一つ一つの言葉を紡ぎながらメロディーを奏でる。
気づけば、私は口を開けてぽかんとした顔で彼の演奏を聴いていた。
演奏。この表現が正しいのかもわからない。演奏というよりは何かを足掻いてでも伝えようとしている行動といったほうがいいのだろうか。伝え方にリズムがあるというだけで演奏と一括りするのも何だかためらってしまう。彼の音楽は、私の知る音楽ではないことだけが、ただ確かに言える正しいことであった。
彼がリズムに乗せ何かを伝え終わると、私はちらりと周りを見た。周りも私と同じような反応をしているのかなと思ったけれど、私の考えすぎだったようだ。周りの人は周りの人の世界で生きていて、同じ場所にいる誰かの世界に興味はなかったらしい。
たまたま、私と彼の世界が重なっただけだった。
「すごい。聞いたことのない曲だったけどとっても上手だった。」
彼は困ったように笑って
「ありがとう。でもこれ有名な曲だったから君も知ってると思ったんだけど……」
普段クラシックなどしか聞かない私は、ロックバンド系には特に疎く、有名なものかつ古いものでないと知らないのだ。
「他に何かないの?私もっと聞きたいな。」
興奮していた。めったに同年代の人に会えないこともあってか目の前にいるギターの彼とつながりを持てることに喜びを感じた。
もちろん、彼の声に魅せられたのもあるが。
「ごめん、これからもうお昼の時間だから……」
語尾がもにょもにょと濁っていく。文脈から断られたことに気づいた。
時計を見ると確かにお昼を食べるべき時間だ。
「私も戻らないと。ごめんね、わがまま言って。」
「いや聞かせたくないわけじゃないんだ。」
誤解させてごめん、とじっと目を見つめられる。目は大きいが一重、でも瞼が下がって三白眼。初めて見る目だなと思った。そしてなぜか私は彼と目を合わすことが気まずくてそらしてしまった。
「もうここで歌いたくないだけなんだ」
「なんで?」
「なんでも」
なんだそれ。私は肩をすくめた。人が多いから?
「ここ以外の場所だったら歌ってくれるの?」
「いいけど……ほかにある?」
あるよ。私は口元をニヤリとつり上げた。こんな風に表情筋を動かしたのは何年振りだろうか。
「私の部屋、防音なんだ。」
あれから一週間経った。時間が残り少ない人間にとって一週間とはとても貴重だ。いつもは無意味に窓の外を見て階段を上り下りするだけだったが、今週の密度は濃かった。
結論から言えば、勇気を出して私の部屋に誘った答えはNOであった。しかも、警戒心がないだの、異性を個室に誘う意味などを考えろなど初対面にしては結構怒られた。
それでも彼は優しく、お互いのことをもっと知ることができたら行くよ。と条件付きのOKはもらえたのだ。
彼は名をはじめと言った。長男なんだ、と照れたように笑う。ふうん。と返事をすると彼は私の方に体を向けて、名前は何?家族は?と詰め寄るように聞いてくるので何だか尋問を受けているみたいになる。
私は「名前は冬華って言うの。お兄ちゃんが一人」と答えた。
苗字を言わないのは、彼が言わなかったからという理由もあるが私の父がこの建物を作った人だと思われたくなかったからだ。珍しい苗字だからすぐバレるだろう。それが嫌なのだ。
彼に学校のことも聞かれた。高校生だよ、と何だか見栄を張りたくなったが、ここは正直に中卒と言った。
「冬華さんは、学校では真面目だったでしょ」
うん、そうだよ。と頷いたらケラケラと彼は笑い出した。
「学校で真面目ってすごくない?」
「なんで?」
「だって、学校なんて正しいことを正しく言う、都合のいい人を作り出すだけの場所じゃん」
「何?私が都合いい流されやすい人間って言いたいの?」
「いやいや、そんなこと言ってないよ。」
なんだか私は馬鹿にされているようでムッと来た。
「じゃあ貴方は不真面目だったの?窓ガラス割ったり。」
私はムッと来た感情を全てこの一言に詰めて皮肉たっぷりに言った。
「いいや。僕も真面目だったよ。でもさぁ、ある日思っちゃったんだよね。いい子ってなんだろうって。画一化された社会の縮図みたいな場所で、勉強ができて気が利けばいい子になれちゃう。それってただの社会にとって扱いやすい人ってだけでしょ。」
「じゃあ貴方はいつから不真面目な人になったの?」
いや、なっていないよ。と、しれっと彼は言う。
「何かを学ぶことは楽しかったしね。僕が生きてる世界は、社会というこういう狭い範囲だ、いつか変わらないかなって考えていたら学校生活が終わってた。」
「終わってた。」
なんだか少ししょんぼりと言う彼の姿がおかしくてつい繰り返してしまう。私がクククと笑うと
「だから学校で真面目に生きてる人ってすごいと思うよ。最初から社会に馴染めてるから。」
と彼は大真面目な顔をする。それにつられて私も笑うのをやめて真面目な顔をした。
「でも聞いてはじめさん。私はね、真面目にしてないと父も母も兄も私を愛してはくれないんだ。」
私は細く息を吐いて彼の目を見る。彼の目に一瞬の驚きが浮かんだがすぐ沈んだ。
「家族は無条件に君のことを愛しているよ。」
そう微笑んだ後、思い出したように立ち上がり
「ギター弾きたい。お昼の時間が終わったら君の部屋に行ってもいい?」
太陽みたいな笑顔だった。いいよ、と笑い返すとやったー!と無邪気に喜ぶ。
じゃああとでね、と手を振ると彼はあっという間に自分の部屋に帰ってしまった。
私は帰りの階段を登る途中で
『家族は無条件に君のことを愛しているよ』を反芻した。
お昼は、ほうれん草のおひたしや焼き魚であった。
正直こんなにシンプルなものをどうやったらこんなに不味く作れるのだろうか。なんだか泥みたいな味もする。テレビによく映るアナウンサーみたい食レポを心の中でしてみる。
何千回も食べてきたここでの食事。一人で食べるのももう慣れた。この味を共感してくれる人もいなかった。私の体温や顔色にはすぐ気がつくけれど、私が寂しいと夜に泣いても白い看守は気付いてくれない。白い看守は私が父の娘というだけで優しくしてくれるけど私も見なかった。彼女らが見ていたのは全部私の陰にある父だけであったのだ。
考えながら食べていたら、どんどん食欲が失せ、最終的には半分以上残した。作ってくれた人に申し訳ないと思いつつも、もっと味を研究してくれと毒づく。
私は布団に包まって、沈んだ気持ちを消そうとした。
寂しい気持ちとだれにも愛されない自分への嫌悪がマーブル模様になって私を襲う。
「私じゃない、別の人間になったら誰かに愛されたかなぁ」
何回も考えたことだけれど、目には涙が浮かんだ。
そのタイミングで、ノックもなしにドアが開く音がする。
慌てて布団から顔を出すと、そこにはギターを持った彼がいた。
「寝てたの?」
私は首を横に振ると、もっとちゃんと身なりを整えておけばよかったと後悔する。布団に潜っていたせいで髪の毛がぐちゃぐちゃだ。私は近くにあった櫛を手に取り、髪の毛をとぐ。ところどころ絡まることで余計に恥ずかしくなった。
「ギター、弾いていいの?」
「あ、いいよ。ごめん、椅子出してなかったね。」
ベッドから降りて、来客用に用意された椅子を彼の前に置いた。何ヶ月ぶりかに使う椅子。もう必要ないかと思っていたが、彼に座られた椅子を見ると用意して置いてよかったなと思った。
「何でふれあいルームでは歌わなかったの?」
彼が、ケースからギターを出している最中に私は尋ねた。すると、ギターの弦を触りながら彼は下を向いて苦笑いしながら答えた
「自信を、無くしたんだ。」
「自信?」
「こう見えて、一応本気で音楽で生きていきたいと思ってるんだ。」
彼が、その特徴的な目を伏せがちに言う。
「だけど、ふれあいルームで歌った時、君以外反応しなかったでしょ?もし本当に音楽で生きていくなら、そこにいた人全員を魅了させなきゃいけないのに僕にはそれが出来なかったんだ。」
あまりにも彼が寂しそうに笑って言うもんだから、私は何で声をかければいいかわからず半開きになった口だけが空回りした。
「あっ、そっ……そのピンク色の三角のものは何?」
私は話題を変えようと、彼が右手に持っていたものを指差した。
「これ?ああ、これはピックって言うんだけど、これで弦を弾くんだ。指でやるのと音が違うんだ。」
彼は実際に弾いて見せてくれた。
「へぇ、面白いね。左手は何するの?」
「弦を押さえるんだ。押さえる箇所によって音が変わるんだよ。」
へぇー。目の前にあるギターに引き込まれる。
「何か歌っていいの?」
わたしが頷くと彼は、適当に弾いた後に口を開いた。実は、彼と初めて会った後から私はYouTubeなどで流行りのロックバンドの曲などを聞いたり、音楽番組を見るようにしていた。彼が次歌う時に少しでも知っていることを共有したかったのだ。
しかし残念ながら、いま彼が歌ってる曲はわたしの知らない曲であった。
彼の声は、本当に繊細だ。触れたら壊れてしまいそうな、儚さすら感じる。それでも、もがき苦しんだ跡もある。彼が歌い終わった後は声に形なんてないはずなのに、何だかスッと溶けいるような感覚に陥った。
音楽に疎い私は彼が歌った曲についての批評はできないけれど、彼が歌ったことについての感想なら述べれる。
「これも聞いたことなかったけど、すごい上手。」
彼は満足そうに口角をあげた。
「これ、僕が作ったんだ。」
「そうなの!?」
曲を作るとはどのようなことなのだろう。作ったことのない私にはわからないが、相当すごいことなのでは?と驚いた。
「音楽を好きだから、曲を作るの?」
私はなにかに熱中したこともないし、唯一好きな映画も自分では作ろうと思ったことはなかった。私はいつだって魅る側で、魅せる側ではないのだ。だから彼のような作り手の気持ちがどうしてもわからなくて、どうしても知りたくなった。
私は誰かを喜ばせたいだとか、音楽で世界を幸せにしたいとかいう事だと思っていたが、彼の答えはもっと違った。
「それもあるけど、何かを伝えたいからじゃないかな。音楽は、コミュニケーションの一つだよ。」
彼はさらりと言うけれど私には衝撃的であった。私が音楽を聴くのは娯楽であった。綺麗なメロディーに感動して、歌詞に共感する。コミュニケーションだなんて考えたことすらない。
私がそれを伝えると
「君は十分コミュニケーションがとれてるよ。作る側は、このメロディーいいなって思ってるから曲にするし、私の想いを誰かに伝えたいって思うからその言葉を音楽に載せるんだよ。感動するのも、共感するのも作り手とコミュニケーションがとれてるじゃないか。」
と語りかけるように彼は笑う。
「じゃあ、はじめさんは何を伝えたいの?」
ふと、口をついて出てしまった。やらかした、と瞬時に思った。これでは彼の音楽を否定してるようではないか。
彼が伝えたいことがわたしにはわからなかったし、コミュニケーションができなかった。自責の念が押し寄せる。
怒ったかもしれないと思った。じっと黙る彼の顔を見ることはなんだか怖くて見ることができない。
たった数十秒の沈黙に恐怖を感じつつ頭の中は大反省会。
「伝えたいこと……か。確かに何だろうね。」
てっきり彼はわたしを責めると思っていた。彼の音楽を理解できず、ただただ上手と言うことという無責任なことをしてしまったことを。何かを伝えるのが音楽になのに、彼の曲を聴いて私には何も伝わらなかったことを彼は私に責めると思った。
しかし彼は自分を責めた。私の無責任な一言で彼を深い沼に突き落としてしまったのだ。
「ごめん……」
ようやく私の喉が通した言葉はこれだけであった。私は穏やかな空気を壊す天才かもしれない。人との関わりが少なすぎたのか……、はたまた私の潜在的なものであるのか。
灰色の空気が私をジリジリと押し潰そうとしている。何か話すべきか黙っているか、悩んでいると彼が吐き出すように
「僕さ彼女がいるんだ。」
と言った。ヘドロみたいなそれを吐き出すと、彼は続けて色々なものを吐いた。
「弾き語りの旅止められてさ」
「不安なんだって」
「いい加減現実見ろって言われた」
「本当に僕のこと好きなのかな。」
口から今で貯めて来た毒をが出ているようであった。
私には恋愛経験が乏しく、また黙っているだけであった。けれどこの毒には悲壮感だけが纏われていて、絶望などは感じなかったしあるいは惚気のようにも感じた。だから私は同情すらできない。しかし彼は
「彼女は僕を愛してくれないんだ」
と目を伏せた。
パッと頭の中で何かが弾けるようであった。
パチパチと口の中で弾けるアイスを食べたようなそんな感覚。
不安なのは愛しているからではないか。きつくてはっきりとしている言葉を言うのも愛しているからである。彼は愛されているのに。血の繋がりのない赤の他人に愛されているのに!
彼女の気持ちに甘えている目の前の弱々しい生き物に呆気にとられる。
「僕はこんなにも愛しているのに……」
軽い拒絶感と言うのだろうか、彼の放つ小さな呟きにすら共感ができない。
恋は確かに通り過ぎる風のようだ。気まぐれに心を弄んでは去っていく。たまに心にしみる時もある。でも決してとどまりはしない。
愛に変わるか、通り過ぎるか。
彼女はとっくに恋から愛に変わっているだろう。恋であるなら無条件で応援するか離れているだろうに。彼女は愛しているからこそ、離れずに寄り添い、時に現実を見せようとしているのではないか。
私は愛されているのにそれに気づかない人が一番嫌いであった。
本当は私は心の奥底で愛というものについての答えを彼の中に見出そうとしていたのかもしれない。恋や友情に比べて重々しいものだから、だからこそ、この建物の住民でひと時しか会うことのない歳の近い彼に惹かれ、無責任に干渉した。
とんだ見当違いであったのだろうか。初めてあった時から興味深く、何か惹きつけられるようなものを感じたのに。椅子に座り、下を向いている生き物にはそのようなオーラは全く見えなかった。うじうじと悩み、沈み、体が半固形状のようにも見える。
「彼女、僕に『人の夢って書いて儚いって読むんだよ』って言ったんだ。彼女はきっと平穏な生活を望んでいる。でも僕はそれだとつまらないんだ。」
自嘲的に笑みを浮かべた後にすぐため息をつく。
私はいい加減にしてくれと呆れてつい口を開いた。
「彼女にあなたの歌が伝わってないだけでしょう。」
歌い方や声は魅力的で何かを伝えたいという意思は伝わるのに、肝心の伝えたい中身がわからない。
「あなたは自由に曲を作って自由に思ってることを伝えることができるのに、その"自由"を見失ってる。独りよがりよ。」
彼のその大きな瞳をさらに大きくして黙り込んだ。
私の言いたいことは伝わったのだろうか。
閉ざされた口は開こうとしない。すでに何時間も経っているような感覚だ。沈黙は何故こんなにも時が止まったようにも感じるのだろう。
楽しいことは一瞬なのに。ああでも、ここ最近はずっと等速だったか。
他愛もない外の自由な世界の話を聞いたり、心が弾む音楽で時が速くなった、お腹のあたりがモヤモヤする会話や沈黙で時が止まるような変則的な時の間隔を体感するのはいつ以来だろうか。彼が葛藤している間、私はそんな呑気なことばかり考えていた。
は私たちの間に気まづい空気が流れている。
私は彼が悩みの沼から抜け出せないでいるのを見ると、なんだかうずうずしてしまった
私は、彼が彼女との愛に気づくことを望んでいたのだろうか。彼女の愛が、彼には伝わってないことがなんだか切なかったのか。
「私、貴方みたいに面倒くさい人を彼氏にしたいなんて思わないな」
顔まわりを揺れる長い髪の毛を耳にかけた。
「僕も君みたいに考えすぎている人を彼女にしたくないよ。」
彼が片方の眉だけを吊り上げてちらりとこちらをみた時、お腹の方からどんどん笑いがこみ上げた。私は耐えきれずに声に出すと、彼も顔の筋肉を柔らかくして声を上げて笑った。ははは、んふふ、と何が可笑しいのか自分たちでも訳がわからずに笑い続ける。
「でも、嫌いじゃないよ、面倒臭い人。話し相手としてはね」
「僕も、嫌いじゃないよ。君も彼女も他のキャピキャピした女子と違って関わりやすい。」
私が、彼の彼女と一括りにされたことに心の柔らかくて繊細な部分に針が刺さったような痛みが走る。胸の部分に手を当てながらこの痛みを不思議に思った。
「彼女とはどこで会ったの?」
聞いて何になるのだろうか。生産性のない質問をしている自分が、なんだかまるで自分ではないみたいだ。彼と話していると、自分は遥か遠い丘から自分自身を眺めているようであった。客観的になれる自分を褒めるべきなのかはわからない。それでも彼と話しているときは、自分が自分でないようなのだ。
五分も経てば忘れてしまうであろう会話をしばらくしたあと、最後に退院の日時を聞くと数日後であった。退院してすぐにバイクで47都道府県全てを回るんだそうだ。
元々すぐにここから出て行ってしまうことはわかっていた事だが、なんだか心臓がキュッと縮まるような気持ちになった。
「じゃあそろそろ部屋に戻るね。君と話していたら短時間で色々な感情になるよ。」
彼は至って屈託のない笑みを浮かべた。そのまま立ち上がりギターケースにギターをしまう。
その姿を見ながら、ドクンと心臓が跳ね上がる。心拍数を上げたら爆発してしまうのに。頭ではわかってはいるが、鼓動は更に速くなる。
どうして。収まって。胸の部分に手を当て、自分を落ち着かせる。無意識な部分でどこか切ないと思ってしまっていることに気づく。
1人には慣れているし、ドナーが見つからなければあと少しで死んでしまう。自分の残りの短い人生を1人で過ごすことも別に構わない。なのに、いつから私の心に彼のスペースができてしまったのだろう。私の心から彼がいなくなることに、若干の恐怖と寂しさが私の心に語りかける。
ドクンドクン。心臓が虚しさをリズムで伝えてくるのを抑え込んで私は、部屋に戻る準備を終えた彼に話しかけた。
「また来る?」
「うん。来るよ、またね」
またねの響きの余韻が私の心臓を高鳴らせる。
私も、またねと言うと彼は去って行ってしまった。
1人になった白い牢獄で私の鼓動だけが響く。
「うるさいなぁ」
心に住んでる彼を追い出したかった。
彼には帰る場所も、夢も、彼を待つ人もいる。私のことなんてすぐに忘れてしまうのだろう。
深い深いため息と共に吐き出した、彼に抱いた感情と自分自身を心底軽蔑した。
彼は、すぐと言う言葉に偽りがないように、日をそこまで経たずとして私の部屋にやって来た。
てっきり、退院してから来ると思っていたのだが退院する日の午前中に訪ねてくれたようだ。
「今日、家に帰った後彼女に会いに行って、明日から旅の始まりさ」
彼は待ち遠しくてたまらないというように目を輝かせる。
あ、そうそうと彼は持参したギターを手に取る。
「君と話してからアイディアが止まらなくてさ」
ピッグを右手に持ち、音の確認をする。
「彼女に伝えたいことは全部詰め込んだ歌ができた。あとは彼女に伝わってくれるといいけど……」
伝わるよ、と私が不自然にならないような笑み浮かべる。
それと今から弾くのは……、と彼は言葉をひっそりと空間に置くと視線をギターの方に傾けた。
次の瞬間、彼の音楽は始まった。
音の始まりは突然であった。けれどどこか懐かしい気もした。やっぱり彼の声は繊細で魅力的である。表現として正しいのかわからないが、まるで蝶の羽の脆さと美しさがある。しかし、それとは別に私は今までより圧倒的に魅了された。
彼の声、歌い方、表情、歌詞、メロディーの全てが音楽になっている。
彼の音楽が私を包み込む。
紛れもなくこれは私の歌だ。私のための、私にとっての曲。自惚れなどではなくて純粋にそう思った。
いつの間にか私は泣いていた。彼は私が泣いても歌うのをやめない。
泣きながらどんどん寂しさと嬉しさが溢れ出す。
これが歌い終われば彼はいなくなる。行かないでほしい。夢を追い続けてほしい。彼女と幸せになってほしい。様々な感情が私の頭の中を同時に巡る。
彼の音楽は触れてしまいたくなる美しさがある。それと同時に触れてしまうとスっと消えゆく儚さを備えているのに。
「まるで雪みたい。」
雪?と彼が聞き返すのを私はコクコクと頷く。
言葉では説明したくなかった。彼自身で気づいて欲しくて、私はそれ以上のことを話さない。
「この歌は、もう君のものだよ。たまに、思い出してね」
彼はそう言った。私は首がもげそうなくらい激しい肯定を示した。
私が泣き止んで、彼がギターをしまう。私は部屋から出て行くと思ったのだが、彼は私の目を見て会話を始めた。
「君のお父さんさ、今、ドイツなんだって?」
「ああ、もうバレたんだ。あの人の娘だってこと」
「出張で一年間もドイツで何をしていると思う?」
知らないよ。私は短い返事をした。この手の話は苦手であった。
「君のためにドナー探しだって。」
彼のそのじっと目を見つめられると、私はなんだか後ろめたい気持ちになってつい逸らしてしまう。
知らなかった。私のために?何のため?もうすぐ死んでしまうのに。病院の仕事は?
様々な疑問が泉のように湧き上がる。
私が動揺していると、彼はスッと窓際の花がたくさん植えられた鉢を指差した。
「あれは?」
「ああ、それは、ついさっきお母さんに届け物をしてもらった時にくれたもの。」
ふうん。と、彼は花を見ているのか見ていないのか分からない顔をした。
「愛されているじゃん。愛がないと出来ないことばかり君の両親はやってくれてるよ」
愛されている?私が?困惑と同時に今までの両親と兄の行動を振り返る。兄は医学部へ入った。近くの大学ではなくて、わざわざ心臓に特化した人がいるところまで通っている。父は、ドイツへドナー探し。母はわざわざ私に花を買ってくれる。
三人とも、私のために動いてくれた。
私は、自分が家族に愛されているということに気づくと、今までの自分が何だか恥ずかしくなった。誰にも認められないと、ネガティブになったりしていた自分の数年間が彼の言葉でガラッと変わってしまった。私は一体何をしていたんだろう。何だか急にアホらしくなったが、決して嫌な気分にはならな
かった。それどころか不思議とすっきりとした気分にすらなる。
「ああ、もう行く時間だ。」
彼は左手につけた腕時計を見ながらそう言った。
私は彼が行く直前に、現金が入った封筒を渡した。
「このお金で、47都道府県で写真とかの葉書を送って。この県含めて。」
私はもうしばらく外に出れないから。と付け足すと彼はにっこりとしてわかったよと言った。
もう二度と会うことはないのだろう。元気でね、と彼は振り向かずに言って私の部屋を出て行った時、私は心臓が引き裂かれたかのような衝撃を受けた。こんなにも私の中で彼の存在は大きかったのかと、もう会えない彼の後ろ姿を探して思った。
一週間程度経った頃に届いたのは綺麗な湖の写真の葉書だった。裏に旅がとても楽しいと言う内容のメッセージが書かれていた。私はそれを見てクスリと笑う。
次々と届く葉書の5枚目には彼女と別れたと書かれていた。裏面に書かれたそれを見て私は良かったと感じた。直後になぜ良かったなんて思ってしまったのだろうと後悔する。
どうせもう会えないのに。
抑え込んでいた感情が、抑え込む理性に反発して溢れ出そうになる。死ぬ前に話し相手が欲しいと声をかけた彼に寄せる思いが、ジリジリと胸を焼く。
声をかけた相手が彼じゃ無くても、その人にもこんな燃え上がるような気持ちになったのだろうか。いや、きっとならなかっただろうな。彼と過ごした短い日々の中で、私ははじめての感情に出会った。自分でも驚いたが、恋というのは本当に一瞬で落ちるらしい。気づいたのは彼がいなくなった後だが。
彼が私と面倒臭いやり取りをしてくれたから。彼が私の世界を広げてくれたから。彼が、彼がと私にしてくれたことすべてが、流れる雲のように目に見えるけれど掴むことはできない。
彼との別れの日にあいてしまった心の穴を何かで埋めることもできずに、戻ることのない過去を思い返しては、私の心臓は虚しさを伝えるのであった。
どんどん溜まる葉書の写真をテーブルにきっちりと並べながら、余韻に浸るように目を瞑るのが最近の私の毎日である。美味しいものを食べた時に目を瞑り咀嚼をし、味わい、堪能するように私もまた葉書の裏面に書かれたメッセージを見ながら幸せを感じた。本当にどうということないことばかり書かれているが、その奥にいる彼の姿を見つけては嬉しくなった。
葉書が溜まって行くと同時に、私は日に日に眠りが深くなっていった。下手すると一日中寝ている日もある。それでも私は毎日彼の幻影を追いかけては想いを馳せる。
会いたいなぁ。
あと数通で四十七通になる。私は四十七通全てが集まるのが待ち遠しくてたまらなかった。
これは沖縄。これは山口。写真を見ただけでどこの県かわかるようになった。
私は沢山ある葉書の中から、つい最近届いた一番お気に入りのものを探して手に取った。
部屋のLEDにその写真をかざす。
裏面に書かれた『恋は盲目と言うけれど、愛も盲目だよね。だって自分が愛されていることになかなかきづけないんだもん』の言葉がうっすら透けている。
確かに盲目だなと私は最初見た時感心したものだが、今は目が霞んでよく見えない。
目が霞む理由を探すと、自分の瞼がどんどん重くなっていることに気づいた。
北海道から送られてきた雪景色の写真。
白銀の世界の美しさに、送られてきたその日は、自分がまるでそこにいる空想をした。
何回も何回も繰り返し見た一番新しい葉書。
この美しさを目に写すたびに彼を思い浮かべた。
まだ葉書を見ていたいと、目を開けようとするが体が思うように動かない。すると何処からか聞いたことのあるメロディーが耳をかすめる。
繊細な歌声。
まるで雪みたいな音楽。
葉書に映された幻想的な雪景色を瞼の裏に映しながらその音楽に耳をすませる。
懐かしい。
思い出した。
ああ、この音楽は彼と私のものだ。
朦朧とする意識の中で微笑みかける彼の元へ走りかけた。
この音楽が私を優しく包み込んだ時、私は深い深い眠りに落ちる。
私にとっての最期の葉書を握りしめ、雪のような音楽を耳に残しながら。