異世界ニポン
目標:すこしだけがんばる
「……やぁっと、追い詰めたぜぇ。愚道さんよぉ?」
苦しそうに息を絞り出す男は、しかしその顔に、薄気味の悪い笑みを浮かべ、引き笑いをした。
愚道と呼ばれた30代前半ほどの男は、路地の行き止まりに追いやられたらしく、高い壁を背に、引き笑いをする男に立ち尽くす。しかし愚道の顔に恐れや焦りは微塵も感じられない。それどころか、その顔面を、自惚れとも思えぬ、確信的な自信で横溢させている。
「チッ……なぁ、愚道。てめぇの味方は全員やっちまったぞぉ? 強ぇって噂を聞いて来てみりゃぁ、なんだてめぇ? 味方放っぽって逃げるだけじゃねぇかよおぉ!?」
尚も顔色を変えない愚道に対し、男は苛立ちを露わに問いかける。——しかし次の瞬間
「……っな!? ど、どういうこったぁ? こいつ……どんどん『語威力』が増してきやがるっ……!!」
「ざぁ……すまんがのう……兄ちゃんよお」
——わしの独り芝居、見ていってくれんかのお?
愚道は頰を裂くように悍しい笑みを浮かべると、両の拳を突き合わせ、腰を抜かしてへたり込む男に飛び掛かる。
「て、て、てめぇ愚道!!! どんな細工をしやがったぁぁああ!!!」
トウキョウの空をつん裂くように、ひとりの断末魔が轟いた。
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「……じ? ……ぉじ! ……おじ!!!」
「陽治ってば!!!」
「おわっ!? ……緒彙!?」
子どもの積木のように、歪に積み重なる入母屋造の朱色の屋根の上に、仰向けに寝っ転がっていた陽治は、目蓋を持ち上げたその眼前へ、太陽に被さるようにして現れた緒彙の顔面に、心底驚いた。驚いて、そのままズルズルと屋根を滑り落ちていった。
「ちょぉ!? あ、危ない危ないぃー!!!」
緒彙はなす術もなく出荷されかける陽治の襟首部分を両手で鷲掴みにし、裸足をしっかりと屋根に貼り付け、勢いよく引っ張り上げる。
「ぐぐ、ぐるじぃ〜ッ!!!」
陽治の抵抗も虚しく、その身体は引きずられてゆき、危うく誤出荷を免れたのだった。
「なぁにすんだよこらぁ!!!」
「し、仕方ないでしょ!? ああでもしないと、あんたそのまま落っこちてたんだから!!!」
緒彙は涙目になって怒号を浴びせると、屋根の切れ端のその先を指差す。陽治はその指の先に目をやる。
陽治は雲に届くほど高い屋根から、複雑に積み重なった民家を見下ろす。まるで大樹の葉のように散乱する朱色の屋根が、大地を覆い隠している。仮に緒彙の言うように落っこちていたとすれば、陽治は大地にたどり着くまでに、その身体を、何度屋根に打ち付けることになるだろうか。陽治はそのことを想像すると、背筋が凍り身震いした。
「——あ、やべぇ、漏らしちまったかも」
「ぅぎゃあー!!!」
緒彙は咄嗟に陽治を突き放し、陽治はその勢いで屋根の先端まで吹き飛ばされる。
「お゛あぁ!!! ちょ、オイぃ!!!」
「ぎゃああああ!!! 陽治ぃー!!!」
トウキョウの空をつん裂くように、ふたりの断末魔が轟いた。
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「うぇえええん! ごめん陽治ぃ〜! どこにも行かないでぇ……」
屋根に張り巡らされた通路の隅に、陽治は座り込んでいる。緒彙はそんな陽治の下腹部に顔を埋めておろおろと泣いていた。
「っお、緒彙、そこはさぁ、あんまりさぁ?」
「陽治の馬鹿ぁ!!! 人でなしぃ!!!」
「いやいや、おめぇがいきなり突き落とそうとしたんじゃねぇか」
「あんな変な冗談言うからぁ!!!」
「……冗談じゃなかったら?」
「びぇええ!!!???」
緒彙は陽治の下腹部に埋めていた顔を刹那に引き剥がすと、座ったまま足の力のみで跳躍し、通路の壁へと張り付いた。強張った表情の、その黒い瞳には涙を浮かべたままだ。
「いやごめん。うそ」
緒彙は一瞬、思考が停止したように、陽治の言葉を脳内に反響させるも、すぐさまその意味を理解したようで、
「なんだぁ……うそかぁ……………陽治ぃ〜!!!」
緒彙は再び陽治の下腹部へと飛び込んでくる。
「おぉい! またかよぉ!?」
緒彙は赤子のように陽治にしがみついて泣きじゃくるばかりである。
「はぁ……まったく」
悄然した様子の陽治だったが、その面持ちはやわらかに綻んでいた。
「ごめんよ。心配させちまったな」
そう言って陽治の手のひらは、緒彙の艶やかな黒髪の上にやさしく置かれる。
緒彙の髪は短く切り揃えられており、つむじから後頭部に向かって目一杯に撫でてやると、うなじのあたりで、小指がその滑らかな肌の一端に触れる。その触れた肌をダ・カーポに見立てるかのように、陽治の手はつむじへと舞い戻り、またゆっくりと緒彙の頭を撫でる。
ゆったりとした律動は、次第に緒彙の啜り泣きを鎮め、安眠へと誘うのだ。
「こんなところでよぉ……。まあ、天気も良いし、いいかぁ」
陽治のいるこの通路は、乱雑に積み重なった民家同士をつなぐ渡り廊下である。ちょうど陽治が大の字になれるほどの幅のそれは、いくつもの分かれ道と、いくつもの階段により構成されており、ただでさえ複雑な民家の連なりを、さらに奇怪な姿へと変貌させる。
どうしてこんなにおかしな構造を成しているかと問われれば、それは陽治にとっても謎である。
なぜこの街の住民たちは民家を横一列にきれいに並べずに、わざわざ他人の民家の上に新たに民家を建て、そしてそれを雲に届く高さまで積み重ねてしまったのだろうか。
「……これ便所間に合うかぁ?」
陽治の悲痛な呟きは、幸い、うたた寝の中にいる緒彙には届かなかった。
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「——隊長! 愚道隊長! 勝手に走らないでくださいよ……って、ええ!? もう倒してる!?」
愚道の名を呼ぶ女が、気忙しく駆け寄ってきた。肩を持ち上げるように乱れた呼吸をするたびに、胸元にかかる、一つに束ねた長い茶髪がたゆたっている。
しかし女の眼前には、必死になって愚道を追いかけてきた理由となる男が、壁に大穴を開けてめり込み気を失っている姿と、それを容易く行ったらしい愚道の、誇らしげな仁王立ちが広がる。
「おぉ 蜜果」
愚道は首だけを蜜果という女の方へと回す。蜜果はすでにへとへとなようで、息切れをし、前屈みになっている。
その後、蜜果の背を追うようにして、ぞろぞろと隊員が愚道——隊長の元へとやって来る。
「隊長ほんと勘弁してください……おかげで僕ら大変だったんですから……」
隊員の一人が大粒の汗を流しながら言うと、
「かあぁ……じゃけん言ったろお! わしは一人で十分なんじゃあ!」
愚道は鬱陶しそうに金髪の頭を掻き毟る。
「たしかに、愚道隊長の熟語を考慮すると、私たちは邪魔なだけかもしれませんけど、だからといって隊長を単独で行動させることなんて、私たちにはできません!」
「初めっから付いてくるなと言うとるんじゃ!」
「ですからそうじゃなくてー!」
愚道は「あ゛ぁ」と煩わしそうに発し、再度頭を掻くと、一度目を閉じ、そして蜜果の方を見やる。
「……そんで蜜果。そっちの方は収穫あったかえ」
「え? 収穫って、その壁にめり込んでいる男が、それではないんですか?」
蜜果は男に視線を向ける。
「おぉ。違う。そりゃあただの人じゃけん」
「そんな……あんなに強かったのに……?」
「あぁ、わしが初めっから一人でおったら苦労はなかったがのお!」
愚道は蜜果を含めた隊員たちに、ぎろりとその鋭いつり目を向ける。
「と、ともかく、その男が違うってことでしたら、話は振り出しに戻ってしまいますね」
蜜果はそんな愚道の目線を往なすように、めり込んだ男に目を逸らす。
「おぉ。じゃけど『百鬼夜行』は、すでに目の前まで迫って来とる。すぐにでも尾を掴まんと、——トウキョウに朝はないじゃろお」