02 全ての始まり-2-
あの日から、幾日立ったのだろう。
ミカエルの堕天は周囲に知らされていないらしく、イヴルは代理として休む間もなく仕事をこなしていた。
「タキ様は、どうしている?」
目を書類に落とし、手を動かしながら近くに居る侍女に問い掛ける。
ミカエルの秘書としてそれなりの年月仕えてきていた身、極々浅いもののみとはいえ、しわ寄せはイヴルにもきていた。
「お部屋に篭っておいでです。あの日から、お食事もろくにとられていません」
「……そうか」
髪をかきあげて、深い溜め息をつく。
天井に目を向け、
今にも泣きそうな、
訴えるような表情で、
自分の無力さに腹立ちを隠せず、
それを彼の人にぶつけている、
そんな自分を隠すように、イヴルは目を閉じた。
ジークフリードがいない。
それだけの事なのに、何もする気がなくなった。
どんなに待っても帰ってくることはない。日が経つにつれて、つきつけられるその事実。
未だ知らされることは何ひとつなく、ただ無意味に日々を過ごしている。
どうして、堕天してしまった?
何が彼をそうさせた?
ジークが居たから、外に興味なんてもたなかった。
ジークを悲しませたくなかったから、外の話なんて聞こうとも思わなかった。
なのにあの人は消えてしまった
……なら、どうして僕は、まだここにいるんだろう
答えのない問いを、ただ心中で繰り返す毎日。
タキ :……ねぇジーク…僕は…何ができるのかな
時計が時を刻む音のみが支配する部屋に声はむなしく響き、やがて自分は声を出したのだろうかと思い返したくなる程の静寂がまたタキを包む。
「…………僕は……」
膝を抱えている手に力が篭る。
もう一度発した声に続きはなく、タキは強く唇をかんだ。
情けない、そんな思いだけが体中を血液と同じように循環する。
「タキ」
ふと、囁くようにやわらかな声音がタキを呼んだ。
その声に、タキは勢いをつけて顔を上げる。ありえない、そう思いながらも期待を込めて。
目の前に居たのは、紛れもない彼。
最後に見た時と変わらない笑顔で、空色の目を軽く細めて、タキを見ていた。
「………ジーク?」
もう、この地には居ないはずの彼が目の前に居る。
大切な人が、自分の前に立っている。
嬉しいはずなのに、抱きついて泣いてしまいたいのに、
何だろう
この現実感のなさは。
…ああ、そうか
幻想を、見ているんだ
直感的にそう考えた。
「……ねぇジークフリード」
それでも、タキは口を開く。
自分の弱さが生んだ彼に、本物ではない彼に、
「僕は、君がいなくなった理由を……答えを、知ることはできないのかな?」
まるで笑い損ねたとでも言うような顔をして、問い掛ける。
この言葉に、返ってくる声はないと思っていながら。
「……また、そうやって落ち込んでいるのかい?」
予想と反して、声は再びタキへとふった。
佇んでいた場所から、少しずつ歩が進められる。
「確かに君には神から頂いた名前がないけれど、でも君はちゃんとここに存在している。生まれた意味がないなんて、悲しいことを言わないでほしいな」
タキの問いの答えとは思えない言葉をジークフリードは紡ぐ。
確実にかみ合っていない。
けれどタキは、不思議とそれに違和感を感じなかった。
「神は君を愛していないわけではないよ。神はね、君にちょっとした悪戯をしているんだ。君がこの天界の誰よりも強いと信じたからこそ、神は君の名前をお隠しになった。タキ自身で名前を見つけ出せると信じて…私も、君の強さを信じてる。だからほら、顔を上げて、前を見てみよう? 答えを決め付けてしまわないで、色々考えるんだ。答えのない出来事なんて何一つ存在しないのだから、簡単に諦めては駄目だよ」
タキは、この言葉に覚えがあった。
ただ一度だけ、困らせるとわかりきっていたのに、どうして自分に天使としての名前がないのかとジークフリードに問い掛けた。
落ち込むとよく部屋に篭るタキを心配して、落ち込むたびに部屋へと来てくれたジークフリードに、八つ当たりのように叫んだ。
その時の会話だ。
もう一度、ジークフリードは微笑んだ。タキの頭を撫で、そして立ち上がる。
そこでフツリと、タキの意識は暗転した