集合的無意識と意識的自己完結性について
ユングの本を読んで思ったことと、今の自分のギャップをアニメの趨勢などを照応させて思考しました。物語調です
彼は多数の愛するべき女達を持っていたが、今まさにそれ故に不能であるとか不具に悩まされていた。不死である彼の女達は永遠に若いままであるはずなのに、何もかもが色褪せて見えた。それどころか最近彼女達に会うことさえ、自分の領域に留まっている事さえ以前ほど簡単、自然ではなくなった。むしろ、それ以外のところ戦に明け暮れ、何も得ることはなく前線基地に帰宅を繰り返していたのだ。怒りは悲しみのように、火は毎夜水に変わる毎日であった。
どうして今まであったものが去り、このような英雄が無用なものとなったのか。実際若い老人にはわからなかった…
単に原因は、現実がその内容を許容することができない、ということに他ならない、ということに違いなかった。魔法を忘れた時、生命力と一緒にそれは図書館の中に逃げ延びた。しかし図書館にさえ現実の荒くれどもが同じように逃げ延びたら?無論そこにもまた真実は住居を構えない…。
このように現実に準拠した精神はあくまで単純に退去を繰り返すことになった。これは傾向であって個別の事実そのものではない。だが、この事が多くの魔法の女を保有しておくこととから異世界の文化的英雄となることへ移行していった直接的原因であることに違いはない。どうして魔法がある世界に携帯電話が必要になるはずがあるのか?ローテクなのは神秘を所有していない時代の方ではないのか?そして魔法の英雄が廃れ、文化的英雄が称揚されている理由は、まさに現世と異界の境界を完全に超えているかいないかの違いにあるのだった。
つまり後者は向こうに住んでおり、前者は実際には現実での活躍を見越しているのだ。ここには二様の態度があるように思われる。異世界の文化的英雄は過酷な現実世界に根ざしており、多くの女の所有者は活動の拠点がそもそも己の内にある自然発生的なものである。ここが意識の船の進路を大きく分けている。考えてみれば考えてみるだけそれはそもそも無駄のように思える。だがそれは重要なのだ。それ故に諦めるしかないのだ。異世界の英雄にとってハーレム者は時代遅れの愚者であり、ハーレムにとって異世界者は戸惑いの的でしかない。逆方向に交差しているといってさえいいだろう。
時代の順で行けば、こういうことになろ。時代の英雄は自分から出発したがほぼ完全に挫折し、今や夢の中に住んでいる。これは時代にとって死んでおり仮に次生きる時にはもっと別の形態である事が望ましい、と告げている時代の皮肉である。時代の精神や共通の認識はこれ以上ないほど高まっており、個人の意識はつまりそうした無意識ではないことで、このような結論に至るしかないのである。ハーレム者はこの洞察において遅れをとっているではないか?既に英雄的行為を行うタイミングを彼は逸していることに気がついていない。誰が戦場に望みを託すというのか?
この失望や溜息は、完全に予期されていていたのであって覆すことは出来なかった予定調和である。闇の力の原動力は結局個人の感想の総和であるし、個人が高まればその反対の敵もいやおうなくこれまで通り増加するのだ。そしてここでいつも彼の複数の女の力が使用されて、その結果彼は彼にはいつも不可能である超常的な力により、完結する。達成されるのだ。しかしそれ故に次の英雄にとってその完結性は完結されてしまうのである。次の英雄は、孤児であり暗闇からの出発から脱却していないからだ。
それは相互に矛盾しているのである。次の英雄にとって前の英雄は失意の的でしかなく、前の英雄にとって後の英雄は全然英雄的ではないのである。つまり積極が消極に転じたのである。前の英雄は冷静ではなく、後の英雄は蛮勇に欠けている。しかしそれは合理の下した判断であり、少なくとも徒らとは言い切れない…