盆の暮れまで
ぶらりと入った店だった。
味なんて期待しちゃいなかったんだ。ああ、こんな店なら画になるな、と。ただそれだけが理由だった。小洒落た店なんだよ。洋風で、古ぼけているのにそれがいい味出してて。見てたらなんだか、イタリアの路地裏にでも迷い込んだような錯覚を覚えちまったんだ。
だから「冷たくて甘いもんくれよ」と雑なオーダーをして、出てきたもんを見たときは驚いた。
「仕上げはこちらでさせていただきます」
綺麗な白髪頭のマスターは、柔和な笑みを浮かべつつそう言った。
よく磨かれた白い皿。その上に、一口大の真っ白な四角が八個ほど乗っている。そこに一本の黒が静かに降りて、格子状の模様を描いていく。途端に、デザートというには贅沢すぎる香りが鼻をついた。
「こちら、コーヒー餅でございます」
俺はフォークよりも先に自慢の一眼レフを構える。
食べ物は目で食べる、なんていうが、コイツはまさにそれだった。無断でシャッターを切って、そこで遅ればせながら「良いよな?」とマスターへ目配せする。すると彼は「つまらないものですが」と、照れくさそうにはにかんだ。
「どうぞごゆっくり」
深々とお辞儀をし、マスターが立ち去ろうとする。
「あんた、センス良いよ」
そのビシっと決まった黒いベストの背中めがけて、俺は今の正直な気持ちを投げかけた。一見さんからの「おまかせ」なんて無茶振りに、こんな挑戦的なメニューで答えられるヤツはそういない。
「もったいないお言葉でございます」
マスターはこちらへと体を向け、会釈をしつつそう返してくれた。
センスが良い。雰囲気も良い。接客態度も良い。俺の考えうる限り、最高の店だった。
「そうそう、ついでで悪いんだがな。俺、あんたに大事なこと聞き忘れてたよ」
再び背を向けようとするマスターに、もう一度声をかける。
彼は嬉しそうに笑顔を浮かべつつ、固い動きでこちらへと振り返る。
「はい、なんでございましょう」
「なんて名前なんだ? この店」
入ったのに店名を知らないなんてことがざらな俺だが、この店のは覚えておきたかった。
少しだけ間を置き、笑顔を作り直してからマスターはこう答えた。
「『カフェふじむら』と申します」
これが、彼との最初のやりとりだった。
*
店の中には、マスターを除いて俺一人。見事に閑古鳥が鳴いている。
センスはいいけど味が悪いのだろうか? なんて思ったが、目の前の白い四角を口に放り込むと、途端に重厚なコーヒーの香りが鼻へと抜け、上品な甘みが口の中を満たした。その後を追うように、牛乳の優しい風味が広がる。それが無くなるとついつい次の四角へと手が伸びてしまう。クセになる味だった。
「これ、美味いよ」
俺はカウンターの向こう側へと声をかける。少し間を置き、奥の方からマスターが顔を出す。
「いえいえ、とんでもないです」
本当に遠慮深く、この上ないほどに礼儀正しい。一流のホテルマンみたいだ。
ふと、上を見上げた。オレンジ色のライトが店内を柔らかく照らしている。いかにもこういう店らしくて、悪くない。
窓の外を見れば、額縁みたいな窓枠の中に木の枝が見えた。若葉の眩しいこの木は、おそらく桜だろう。もう散ってしまっている様だが、それを差し引いても雰囲気満点だ。
だからこそ、考えてしまう。
もっと流行って良いはずだ。時間は13時。ランチのコアタイム真っ只中。もっと客がいないとおかしい。
「なあマスター」
「はい、なんでございましょう」
さっきから呼ばれっぱなしで迷惑だろうに、そんなことおくびにも出さない様子でマスターは返事をしてくれた。
「メニューくれよメニュー。もう無くなっちまったんだ」
米噛みの辺りを指でかきつつ、わずかに黒い筋を残す皿を見せる。
「これは失礼いたしました。すぐにお持ちいたしますので」
マスターは慌てた様子で頭をさげた。「やってしまった」という顔をしている。
「そんな謝るようなことでもねぇよ」
店の奥へと消える影にボソりと吐くと、その言葉が宙に消える前に茶色い革の冊子が現れた。余程焦っていたのだろう、息を切らした様子だ。
「先ほどは大変失礼いたしました」
「謝るようなことじゃねぇって」
今度は面と向かって否定して、それから手渡されたメニューへと目を落とす。
そして、答えはすぐに見つかった。どの品も、見ただけでは中身がわからないのだ。
コーヒー餅はまだいい。
電話パスタ。
剣山パンケーキ。
たわしコロッケ。
パッと見ではぎょっとしてしまうような名前が並んでいる。おまけに説明もない。
食えるのか? と一瞬たじろいでしまう。なんで食べられないものの名前と並べちまったんだ。
せめて。そう、せめて。
「なあマスター」
「はい、なんでしょう」
いい加減呼ばれ慣れてきたのか、彼は俺のテーブルの傍らに待機していた。相変わらず素敵な笑顔で返してくれる。
「写真、撮ってもいいか?」
「え、私のでしょうか……?」
さっきまでの笑顔が僅かに曇る。困惑した様子だ。
「それも悪くないが、そうじゃない」
俺は身を乗り出し、メニューを彼の鼻面に突きつける。その脇から彼の顔を睨んだ。
「ここに載ってるやつ、全部だ」
*
俺の言い分はこうだ。
この店には確実に光るものがある。なのに現状はその光が埋もれてる状態だ。だから写真でメニューの中身を見えるようにして、店の外にも写真付きの看板出して、誰でもわかるようにすれば絶対に流行る。金銭面が気になるっていうなら、俺が全部負担してやる。写真代なんて俺が印刷所に言えば安く上がるから、と。
俺は必死に交渉した。
しかし、マスターはなかなか首を縦に振らなかった。
押し売りか何かに見えたのかもしれない。自慢じゃないが、柄のいい方じゃないからな俺は。得体の知れない男がこんなこと言い出したら、疑わない方がおかしいか。
「大変嬉しい話なのですが、その……」
「あーあー、わかったよ。降参だ」
俺の言葉にマスターは心底ホッとした様子だった。もちろん、諦めたつもりは毛頭ない。ここからが勝負だ。
それから俺は、毎日その店に通った。無論、メニューを端から全部撮るためだ。行くたびに一品ずつ、個性あふれるメニューをレンズに収めていく。
3回目の来店で俺の思惑に気づいたらしく、マスターは阻止しようと撮影禁止の旨を伝えてきた。
しかし「悪い」と謝りながらシャッターを切り続けた。この店のため、なんてのは最早建前だ。ここまで来るとただの意地である。
さすがのマスターもこれには参ったようで、カウンターの方を見ると度々頭を抱えていた。普段は礼儀正しいのに、珍しいことだ。せめて客から見えないようにもっと奥でやれ、と言いたかったが、俺がそんなことを指摘するのは筋違いだと思ったので胸の中に留めるにしておいた。
そんなある日、俺が電話パスタ(頼んでみたらボンゴレビアンコだった。貝の位置がダイヤル式の電話みたいになっている)を食べていると、マスターが話しかけてきた。
例によって閑古鳥の鳴く店内に、静かな彼の声がポツリと響く。
「どうして、そこまでしていただけるんですか?」
「あ? なんのことだよ」
俺はパスタをくるくるしながらぶっきらぼうにとぼける。
「もう隠さなくていいですよ。あなたが嘘をつくような人ではないとわかったので」
マスターが真顔でそんなことを言うもんだから、思わず吹き出してしまった。
「俺が嘘をつかねぇって? マスターには嘘しかついてない気がするけどな」
「そういうところですよ。本当の嘘つきなら、こんなネタばらしみたいなことは言いません」
断定的な口振りで返された。
どうしてそこまでしていただけるんですか、か。
全部やりきった後にサプライズでお披露目といこうかと思っていたので、少し考えてしまう。いや、意地の張りっぱなしもいけないか。本人の協力があった方が絶対にやりやすいのだから。
「クライミングって知ってるか?」
俺はおもむろに口を開いた。
「というと、山を登ったりするあれですか?」
頭の中を探るように目を泳がせながら、マスターが答える。話題が急に飛んだから、戸惑っているのかもしれない。
「間違っちゃいないけど、惜しいな。正しくは『壁』を登るんだ」
俺はすかさずジェスチャーする。
「こうやってな、天然の山の絶壁を手探りで登るんだ。こっちの出っ張りが掴みやすいとか、この足場はしっかりしてるとか、感覚で確かめていく。うちの奴らはバカばっかだったから、命綱つけないでやっちまうことも多かった。ちなみに、専門用語で『フリーソロ』とかいうらしいが、まあ今はどうでもいい。とにかく、それをやってた。俺とつるんでる奴らだけだったけどな。中でもとびきりバカな二人とつるんで、しょっちゅう山へ遊びに出て、あっちこっち登ってたんだ。田舎だったから、環境にはことかかなかった」
気づけば、マスターは向かいの席に座っていた。真剣な面持ちで、俺の話に頷いてくれている。
「ちなみに、そん中でも一番のバカは俺な」
俺が親指で自分を指すと、マスターは「いえいえ、そんなことはないでしょう」とフォローを入れる。相変わらずの紳士っぷりだが、俺の評価は揺るがない。
「間違いねぇよ。だって、その二人のバカでも登らないような断崖絶壁を、俺は命綱なしで登りきっちまったんだから」
マスターが息を呑むのが聞こえた。様子を想像して、その想像の中で崖の底へと落ちたのかもしれない。
「まあ、登ってるときは大変だったよ。途中で何回後悔したか。ただ、何が良かったかって」
そこでたっぷり間を置いてから、俺はこう言った。
「頂上からの景色だよ」
手の届きそうな空。遠くに見える山々。いつもより低く見えるビル。米粒みたいな友人たち。まるで今見ているかのように思い出せる。
「ああ言うのを見た時の反応は人によっていくつかに分かれると思うんだ。たとえば、もっと上の景色を見たいと思うやつ。世界観が変わってクライミングに限らずもっと命知らずなことするようになるやつ。で、俺は『この景色をみんなにも見せてやりたい』ってやつだった」
自慢の一眼レフを構えてみせる。
「なるほど、それで写真に目覚めたというわけですか」
俺の言いたいことを汲み取りつつ、マスターがしみじみと頷いてみせた。
「だた写真だけじゃないんだよ。俺はそこで一つ悟ったんだな」
カメラを手放し、マスターへと真っ直ぐに向き合う。
「高い低いに限らず、俺の見てるものは誰かに教えなければ俺しか知らない。俺の感覚は、俺だけのものだからだ」
ただし、と前置きしてから続ける。
「裏を返せば、丁寧に教えりゃ俺の感覚をみんながわかってくれるようになるってことでもある。頂上の景色の素晴らしさを人にわかってもらえたとき、俺は泣くほど嬉しかった。まあ、それまでわかってくれる人が全然いなかったってのもあるが」
マスターの顔を伺うと、少し考えるような顔をしていた。確かに話題が迷子になりかけている。そろそろ話を繋げてやるか。
「俺に聞いたな? どうしてそこまでしてくれるのかって」
バン、とテーブルを叩く。皿の中にあるボンゴレの貝が僅かに跳ねた。マスターも、驚いて少し跳ねた。
「ここが今の俺にとっての頂上なんだよ。俺は、この景色をもっといろんな人に見てもらいたい」
身を乗り出し、マスターの目の奥を覗き込む。
「みんなに教えたいんだ。この店の輝きを」
しばらく見つめ合い、一抹の気まずさをはぐらかすみたいに俺は笑う。
「まあ、俺自身が写真で食っていきたいから、ってのもあるな。もちろん、マスターからは一円も取る気はないが、これが上手くいきゃポートフォリオに入れられるだろ?」
場を和ませたつもりだが、マスターは未だ考え込んでいた。
「急に、そんな話、されましても……」
どう答えるべきかわからない様子で、彼は身体を縮こまらせた。
「だったらいいさ。嫌なことだけ言ってくれればいい。そうしたらやらない。写真は嫌か?」
「そんな、滅相もないです」
「なら決まりだな」
こうして、俺はこの店公認のプロデューサーになった。
*
紫陽花が咲き始めた。最近はしばらく雨が続いている。だから、閑古鳥の代わりに雨音がよく聞こえた。
あれから店の様子はだいぶ様変わりした。安いパネルではあるが、主要なメニューは写真をA4サイズで印刷して壁に並べた。もちろん品名と値段も添えてだ。多少店の雰囲気を壊してしまったかも知れないが、客からすればこんなものでもあるだけでわかりやすさが全然違う。
メニューの冊子は、革の装丁をそのままに中身だけ入れ替えた。印刷所に頼んで写真付きのものを用意したから、前の品名だけのものよりは百倍マシになったはずだ。なお、商品説明もつけてある。俺が書いた下手くそな文章を添えただけだが、それでも無いよりはいいはずだ。
そして、店前の看板。これがデカい。もちろん大きさもそうだが、それが本質ではない。存在の話だ。この店は、雰囲気は良いもののパッと見やってるかどうかわからなかったが、看板が出てれば話は別だ。
時間は昼過ぎ。そろそろ来てもおかしくない頃だが、さてどうか。
「すいません、ちょっとよろしいですか……?」
そんなことを考えていると、ちょうど店の扉の方から声が聞こえた。女性二人組のようだ。
マスターが驚いた顔で固まっている。
「どうしたよ。まさか俺に出迎えろってか?」
「いえ、あの、ありがとうございます」
マスターはそう言い残し、この時間帯で俺以外初の客をもてなしにいった。
まあ、ぶっちゃけこれが普通なのだが。店が店としての主張をしていれば、それなりに客は来る。
「ごめんください」
「あいてますか?」
「お店の方いますか……?」
俺の考えはどうやらビンゴだったらしく、目を見張る勢いで席は埋まっていく。
いつもはガラガラの店内が、賑やかな声で彩られていった。正直快感だ。
マスターは嬉しい悲鳴をあげながら、あちこちを駆け回っている。あれはちょっとキャパオーバーみたいだな。行列のできるラーメン屋みたいに、あえて席を減らしてもいいかもしれない。
「それでは、こちらのお席へどうぞ」
本当に大盛況のようだ。俺はカウンターに陣取っていたのだが、その2つ隣りの席に一人の女性客が座った。基本的にテーブル席への案内で事足りていたのに、まさかカウンターまで使わなければいけない日が来るとは。
外へのアプローチは看板だけのはずだが、こんなにも効果があるのか。
「よう、そこのお姉さん。あんたもあの看板見て入ったのか?」
ナンパがてら声をかけてみた。物静かそうだが、よく見りゃ美人だ。「実はあれ、俺が撮った写真なんすよ」とか言えば、案外お近づきになれるかもしれない。ついでに、看板の出来についても聞けるかもだ。
「ええ、まあ……」
ナンパ慣れしてなさそうな、曖昧な返事だった。しかし、ここからが勝負だ。
「結構目立つし、あれ見たら店の中どんなかな、なんて思うよなぁ」
誇らしげに語る俺に、女性はマスターの方を気にしつつ顔を近づける。
「やっぱり、教えてあげた方がいいですよね?」
「あ? 何をだよ?」
話が噛み合っていなかった。まさか「あの看板いいですよ!」ってことを教えるなんて話ではないだろう。
「あの、ビチョビチョになっちゃってたじゃないですか? 雨で。防水とかじゃないみたいだから、どんどんフニャフニャになっちゃってて……。それ教えようと思ってお店に入ったら、おじいちゃんの店員さんがすっごい笑顔で。なんか言いにくくなっちゃって……」
俺は頭を抱えた。
「いきなりどうしたんですか!? 頭痛いんですか?」
「大丈夫だ。すぐ落ち着く……」
マスターも、よくこうやって頭を抱えていたなとぼんやり思い出す。
しばらく落ち込んでから、俺はマスターに自分の間抜けを白状しに行った。
*
何度か失敗したが、店は着々と繁盛していった。
というか、夜の時間はもともとそれなりに客が入っていたらしい。どうりでマイナーそうなメニューを頼んでもキッチリ提供してくるわけだ。
しかしながら、これまで流行ってなかったのは間違いない。マスターの話によると、俺の方策だけで売り上げが二倍になったそうだ。
利益の一割くらい要求しても良さそうなもんだが、俺は宣言通り一円も要求しなかった。それは何故か?
来る客来る客に声かけまくった結果、それが仕事に繋がっていったからだ。
これが狙いだったというわけじゃない。自分の写真の感想が気になっていろんな客に話を聞かせてもらってたら、俺の写真に興味を持ってくれる人が何人かいたというだけの話である。
もちろんデカい案件なんてない。所詮は俺の写真だ。どれだけ頑張ったって、まだ素人に毛が生えた程度の腕前である。その道の一流から見れば、趣味の域を出ていないに違いないだろう。細々とした仕事を一生懸命探し出して、コツコツこなしていくしかない状態だ。
俺がこの店を盛り上げてこれたのだって、実力ではないだろう。素人考えを盛り上げてくれた周りの協力によるところが大きい。コネとして使わせてもらったやつらには感謝感謝である。やつらには「出世払いだ」と言ってあるから、早く出世してやらないといけない。文句のメールが何通か着ているが、まあ気にすることじゃないだろう。俺が上手いこと言えば黙るのだ。可愛い後輩たちなんだよ。
「何見てらっしゃるんです?」
考え事をしながらスマホのメールを流し読みしてると、マスターが声をかけてきた。
「ああ、仕事のメールだよ。というか、あんま人のスマホなんて見たがるもんじゃねぇぞ」
後ろめたさもあってか、ちょっとデカい声がでた。
「も、申し訳ございません……。アナログ人間なもので、勝手がわからず失礼いたしました」
「やめろ、謝るな」
俺が小さい人間みたいじゃないか。いや、実際小さいのか。
「あ、そうそう。大切な話をし忘れてたよ。景気が良くてデカい話だ」
自分の小ささを隠すため、というわけじゃないが、俺は例の話題を持ち出す。
「ネットのまとめサイトって言ってわかるか?」
すると、ポカンとする彼。
「すいません、本当にそっち系は疎いもので……」
「いいんだいいんだ。いちいち謝るなよ」
頭を下げようとするマスターを静止しつつ、スマホの画面を見せる。彼は一瞬「見ていいんですか?」みたいな顔をした。
「いいから見ろよ」
俺がいうと、マスターは恐る恐るといった具合に手のひらの液晶を覗き込む。
「あ、うちのメニューが載ってますね」
「そうだよ、これがまとめサイトってやつだ」
いわゆる「◯◯まとめ」というやつだ。そのサイト内に様々なまとめのページがあるやつである。
ちなみに内部的な話をすると、トップページには記事がランダムに表示されているようで、じつは違う。サイト側でアクセスの上がりそうなものをきちんと考え、選定した上で載せている。そこに、「カフェふじむら」をねじ込んだ。これもコネの力だ。
「ピンとこないかもしれないが、まあマスターの店の宣伝が全世界に向けて発信されてると思ったらいい」
俺が得意げな顔をすると、彼は椅子にへたり込んでしまった。クセのように、また頭を抱え込む。
ちょっと大げさに言い過ぎたかな? と思ったが、しばらくして彼はこう言った。
「わ、私、英語も苦手なんですが……勉強した方が良いでしょうか?」
その切実そうな顔を見て、思わず吹き出してしまった。
柔らかく照らす初夏の日差しの下、前よりちょっとだけ賑やかになった店内で、俺はひと目もはばからずゲラゲラ笑う。最初は何がなんだかわからない様子だったマスターも、つられて笑ってくれた。愉快な時間だった。
これがマスターとの最後のやり取りになると知っていたらもう少しちゃんとこの時間を味わえてたんだろうなと、今は少しだけ後悔している。
*
それから俺はどんどん忙しくなった。
あのとき話しかけた例のお姉さん、つまり外の看板がびしょ濡れで気になっていたあの人と連絡先を交換しておいたのだが、実は出版関係の人だということが最近わかったのだ。しかもそこそこ偉い人らしい。俺のことを気に入ってくれたそうで、細々としたものばかりではあるがコンスタントに仕事を回してくれるようになった。
これまで写真の仕事なんてのは一握り程度で、もっぱら日雇いの工事現場のバイトなどをして食いつないでいたが、お陰でバイトの収入割合を0にできた。フリーターからフリーのカメラマンへ昇格だ。相変わらず裕福な暮らしとは言いにくいし、筋肉量も落ちたが、しかしそれなりに満足している。
そんな日々が続いたから、「カフェふじむら」へ足を運ぶ機会は激減した。
最後にあそこを訪れたのは、写真の仕事の途中に偶然近くを通りかかったときだ。遠目からでもわかるほどの行列ができていた。学生くらいの客が多かったから、おそらく例のまとめサイトが響いたのだと思う。夏休みの時期とも上手くマッチングして、あれだけの行列ができていたんじゃないかと想像する。
正直嬉しかった。
だが、それと同じくらい寂しかった。あの行列の中には、おそらく俺の居場所はもうどこにもなかっただろう。
成長した子どもを見送る親父の気持ちだった。
でも、これが最後だと思って、よせばいいのに足を運んでじまったんだよ。
フリーのカメラマンという地位を利用しての、少し遅めの盆休みを取っていたそのときだった。
ひぐらしの鳴く中、例の店の門を開けようとした。
閉まっていた。
店の中は薄暗く、明かりはついていない。
マスターも遅めの盆休みの真っ最中かと思ったが、様子がおかしかった。嫌な予感がした。
よく見れば、ノブのところに小さな看板がかけてあった。
「当店は8月1日をもって閉店させていただきました」
一ヶ月ほど前だ。
俺があの行列を見てから、そう経っていない。なのに、これはどういうことだろう。
せめて俺に一言くらいあってもいいだろう、と思ったが、俺はうっかりしていた。少しでも気に入った相手の連絡先は聞くようにしていたのに、マスターの電話番号も知らなければメールアドレスも知らなかった。店に来れば会えるから、という意識がどこかにあったからだろう。
反射的に、扉を殴った。
「おい、いるんだろ! 開けてくれよ!」
一発殴り、二発殴り、三発殴ると拳が壊れた。骨が折れたのがわかる。ついでに皮もめくれた。ちくしょう。
頭に血がのぼった俺は、いっそ蹴り破ってやろうかと足を振り上げた。そのときだった。
「あの、カメラマンさん……ですか?」
いったいどこを見てそんなことを聞いてきたんだと思いつつ、俺は振り返った。
そこには、綺麗な白髪頭の老婦人がいた。夏の終わりの夕暮れによく似合う、黒の日傘を差している。それだけで絵画みたいだったから、俺はカバンの中の一眼レフを取り出す。しかし、右手の人差し指が言うことを聞かずシャッターは切れない。手が震える。
「そうだけど、なんだよ。こっちは今忙しいんだ」
「夫のお知り合い……ですよね?」
すぐにピンときた。
「あんた、マスターの奥さんか?」
ホッとしたと共に、これはマズいと思った。
いまの俺は怒り心頭だ。「何が嫌だったか知らないが、もし常連客だけでのんびり店やるのが好きだったんならそう言えよ!」ってのが正直なところだった。自分を止められる気がしない。
だって、こんなのズルいだろ。いろいろしてやったのに、なんて恩着せがましいことを言うつもりはないが、勝手に閉店するなんて、とにかくズルい気がした。
俺に文句があるなら、そう言ってくれればいいのに。
ああ、言いたいことがまとまらない。でも、伝えるなら今だ。ここを逃したら、もう伝えられない。そんな気がした。
だから。
「悪いが、今の俺はあんたんとこの旦那にムカっ腹が立ってんだ。案内してくんねぇか? なあ、いいだろ?」
老婦人を容赦なく怒鳴りつける。奥さんにはなんの罪もないってのに、大人気なくて仕方ないが、それでもこういう言い方しかできなかった。
黒の日傘にすがるように、老婦人は身を縮こまらせている。永遠とも感じるほどの一瞬が過ぎ、それでも何も言わない老婦人が憎らしい。まともに動かない右手で掴みかかろうとしたまさにそのとき、彼女は静かに口を開いた。
「もとよりそのつもりでした。ご案内します」
震える声で、だがはっきりとそう言った。
*
マスターの家はこの近くらしい。
歩いているとき、俺は頭の中で言いたいことをまとめ続けた。
伝えたいことがあり過ぎたが、一個しかない気もした。
何も言わずにぶん殴れたらそれでせいせいする気もしたし、会えれば満足な気もした。
自分で自分がわからないのは久しぶりだ。学生以来だろうか。
しかし彼の家について、マスターの顔を見たとき、頭の中が真っ白になってしまった。
マスターは、いつもの笑顔で出迎えてくれた。
四角四面なその性格にお似合いの、長方形の中で。
いつも着ている黒のベストみたいな色した仏壇の上で。
ただ、止まった時間の中で笑っていた。
仏間の中、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「主人は、あなたの話ばっかりしていたんですよ」
唐突に奥さんが話を始める。
「本当に、あのカメラマンさんのお陰だ、あのカメラマンさんのお陰だって、そればっかりで」
聞いてるうちに、彼女は鼻をグズグズし始める。
「ちゃんとお礼が言いたいんだって、最近はそればっかでした」
俺は、ただ聞いていた。
「あの人、脳動脈瘤だったんですよ。ご存知ですか? 脳の血管が詰まって風船みたいに膨らんで、パンって割れたら死んじゃう病気です。最初は、ただの頭痛だと思ったそうです。病院に行ったら、その病気だって言われて、手術をしたら助かるかもしれなかったんですけど、結構患部が深かったんですよ。治療できるお医者さんがこの辺にはいないっていうんです。地方の病院になっちゃうんですって。それで、もう自分は老い先短いし、失敗する可能性もあるから手術はしないって、あの人言ったんですよ」
俺は、彼女に向き直りもせず、ひたすら仏壇を見ていた。
「そうしたらですね、お医者さん言うんです。『この病気は、本当にいつになるかわかんないんですよ。すぐの人もいれば、立派に天寿を全うする人もいます。できるだけ安静にして、興奮しないようにして、落ち着いて過ごしていれば、その分長生きできるかもしれません』って」
彼女は、繰り返す。
「お医者さんは、言ったんですよ。長生きできるかもしれませんって」
腰の辺りに軽い衝撃が走った。
「返してください、あの人を。返してください。返して……」
老婦人が体重をかけてくるのがわかる。服の背中のところがくちゃくちゃにされ、水分で重くなっていく。
俺は。
「……悪い」
その言葉しか知らなかった。
しばらくそうした後、彼女が再び口を開く。
「あの日、あの人はいつもより少し早く起きてきました。それでお水をちょっと飲んでから『頭が痛いから、もう少しだけ寝るよ』って言って、寝室に戻っていったんです。目が覚めちゃったのかなって思って『じゃあ、いつもの時間に起こします』って伝えたんですよ。でも……」
彼女がしゃくりあげる。そのときのことを思い出しているのだろう。
「……でも、起きなかったんです。すごく安らかな顔で、暖かくて、寝てるのと変わらなかったんですけど、もう心臓は止まってました」
そこで、老婦人は一気に脱力した。畳にへたり込んで、さめざめと泣き出す。
俺は、俺は。
「悪かった」
やはり、謝ることしかできなかった。他には何も出てこなかったのだ。
きっとここで少しでも泣いてやれれば良かったんだろうが、俺の中はやはり真っ白のまま。
涙だって、出てきやしなかった。
この居心地の悪い時間があとどれだけ続くのか知らないが、早く終われとそれだけ願っていた。
三十分ほどそうしていただろうか。一時間かもしれないし、もしかすると五分かもしれない。
彼女は、再び言葉を吐き出した。
「本当はですね、私もこんなのしたくないんですけど、あの人の遺志ですから……」
ブツブツと言いつつ仏間から出ていき、キッチンで何かやりだした。
「来てください。あの人が、どうしても最後に食べて欲しかったって、残しておいてくれたんですよ」
なんのことやらと思いつつ、狭い襖をくぐり、キッチンの椅子にドカリと腰を降ろす。みしりと音がして、奥さんに少し睨まれたが気にしなかった。
大人しく待っていると、何かをレンジで解凍したあと、ジューっと香ばしい音が聞こえてきた。匂いを考えると、これは、
「コロッケか?」
「たわしコロッケ」
訂正が入った。
彼の店で一度食べたことがある。もちろん、本物のたわしは使ってない。たわしみたいな大きさの特大コロッケだ。遠目に見たら、確かに本当にたわしみたいに見える。
味はまあまあだったが、なんでこのタイミングでこれなのかわからない。俺なら、最初に店で食べたコーヒー餅を出すだろう。
ひょっとすると、冷凍できるからというその一点だけの理由かもしれない。
そんなことを考えていると、目の前に故人からの贈り物が届いた。
「勘違いしないでくださいね。これはあの人の遺志だからです。あなたが代わりに死ねばよかったのに」
「おう、ありがとな。最高の挨拶だぜ。めしが美味くならぁ」
奥さんの暴言を適当に流す。
果たして一ヶ月近く冷凍され続けたコロッケが美味いのか? わからないが、食べるのに相応の勇気がいるのは間違いない。
右手は死ぬほど痛いが、左手で持つ気はなかったので、比較的痛くない薬指と小指でフォークを握る。
ままよ、と一気にコロッケを突き刺す。
「……あん?」
思いの外、浅いところでフォークが止まった。ぶっちゃけ振動で右手に激痛が走った。
が、そんなことはどうでもいい。
このコロッケの中には、何かが入っている。あまり器用に動かない右手を乱暴に扱い、無理やり中身をほじくり出す。奥さんが汚らしいものを見る顔をしたが、気にしていられない。
「見ろよ、これ」
白いジャガイモの中に埋もれる、銀色の何か。
少し大きめなそれは、うずらの卵くらいのカプセルだった。真ん中に亀裂がある。もう痛いのは嫌だったので、左手でそのうずらをテーブルにガンガン叩きつけてなんとか開ける。
「それは……」
奥さんが息を呑んだ。
「手紙、だな」
あのマスターらしい趣向だった。ここでようやく俺は、彼にちゃんと再会できた気がした。
そして、その手紙にはこう書いてあった。
拝啓 フリーのカメラマン様へ
あれだけ仲良くなれたというのに、未だに本名も知らず、こんな書き出しになってしまい申し訳ございません。
また、こんな形で挨拶をすることになってしまい、本当に申し訳ございません。
先がなく、不器用な私には、こんな方法しか残されていなかったのです。
いきなり謝罪から始まってしまったこの手紙ですが、あなたに伝えたいことは他にあります。
まず、あなたが私のことで心を痛めているのでしたら、できれば気にしないでいただきたいと思います。
私だけでは、きっとあの店をあんなに盛り上げられなかったでしょうから。
料理の腕の拙い私では、あんな妙ちくりんな面白料理でしか勝負できませんでしたし、プロモーションなんて二の次。何もかもが全然ダメでした。
病気のことはもう妻から聞いたと思いますが、できれば長生きもしたかったですし、もうのんびりやれればいいかな、なんて、諦めて過ごしていたんです。
でも、そこにあなたが現れてくれたんです。
最初は、熊みたいな人で怖いなと思っていました。詐欺にでも引っ掛けられるんじゃないかと思ってビクビクしておりました。
ですがあなたは、私の人生で出会った人の中で、妻の次に素晴らしい人でした。
恥ずかしい話ですが、私は心の中であなたを友人のように思っていたんです。
もっとも、「ひょっとするとあなたにとって私は商売相手くらいの認識かもしれない」なんてことをついつい考えてしまい、そのたびに寂しい気持ちになって、結局最後まであなたが友だちかどうか確かめられませんでしたが。
もし気持ち悪いと思ったのでしたら、老人の戯言だと思って聞き流してください。
でも、これだけは伝えさせてください。
いったい何歳の差があるのかなんてもう私にはわからないことですが、あなたは私にとって最高の友だちでした。
最後にですが、あなたは写真で食べていきたいんですよね?
この数ヶ月で稼いだ利益の半分を私の部屋の引き出しにしまっておきました。よかったら受け取ってください。妻もいるので、半分だけでご容赦いただければ幸いです。
あなたが稼いだようなものなのに、全額お渡しできずに申し訳ありません。
なんだか謝ってばっかりですね。すいません。
それでは、長くなりましたが、この辺で。
ここまで付き合っていただき、ありがとうございました。
天国で美味しい料理屋さんを出せたら、いつか食べにきてくださいね。
それでは、さようなら。
敬具
俺は、気づいたら泣いていた。
こんな気持ちになったのは、初めてだった。やり場のない感情が、胸の中で渦巻いている。
「よう、奥さん」
涙声なのを気にせず言った。
「マスターの部屋の引き出しにここ数ヶ月の利益の半分があるってよ」
そう言って、彼からの手紙を丁寧に四つ折りにし、ポケットに押し込んだ。
「え? その手紙にはなんて書いてあったんですか?」
呼びかける彼女の声には答えず、俺は仏間へと戻った。
足を無理やり折りたたんで慣れない正座をし、仏壇の近くにあった線香を取り出して、同じく近くにあったライターで火をつける。
香炉にそっとお供えして、手を合わせ、マスターに祈りを捧げた。
「天国で料理の腕磨いとけよ。そうしたら、俺が神様も食べにくるくらいの店にしてやるからよ」
黒光りする仏壇をバックに、線香の煙が白く昇っていく。
それがあまりに綺麗だったが、俺は一眼レフを取り出さず、ただ手を合わせ続けた。