8:長老宅へ
「長老の使いから話は聞いてるよ。兎肉をふた塊も渡されたけど、まああんたが狩りに出られないってことでありがたくいただいておいたわ。…メリダがもう行ってるから一緒に飼い葉と乳搾りを。あと昼にまたあんたを借りてくって言われてるから、それまでに終わらせなさい。」
ようやく帰宅したところへ叔母と鉢合わせした。文句の一つ二つは覚悟していたが、叔母は昨夜の戒厳令を気にした風もなく、午前中の指示をするとすぐに裏の畑へと向って行った。
小言の多い叔母がダインは引き取られて以来あまり好きにはなれない。小言とは溢れた余分な感情の発露であり人に向けるべきではなく、言うも聞くも時間の無駄である。叔母は大体の会話に於いて余計な小言を挟むが故に今日のような日は珍しい。
ダインは拍子抜けした表情で叔母の背をしばらく見送ると、少し先の厩舎へ向かって歩き出した。
夫を失ってから1人で畑と牧場を回していた彼女にとって、姉の子というのは面倒であったが同時に働き手の確保と同義であった。ダインも、当時幼かったメリダもタダ飯喰らいになるつもりもなかったし実際よく働いたとは思う。世話になったことに関しては疑いなく事実なので、その一点に於いては感謝はしている。しかし叔母は長年の一人暮らしで何を拗らせたのか事あるごとに小言、文句を口にしていた。食事も寝床もまともに用意して貰えているが、ささくれ立った雰囲気は楽しいものではなく、また心の安寧もなかった。
ここに住み続けるのか、と漠然とした焦燥と不安がないまぜになった気持ちが親の形見の笛、そして狩人という仕事の選択になったのだろう。要するに気持ちも、身体もここから離れたかったのだ。
そんなことを考えながら歩くうち、気がつけば牧場の柵の手前に来ていた。
牧場は村の東、庭の囲いは村外周の柵を一部使わせてもらっている。村の端ということで獣害の懸念はないことはないが、基本山の生き物は山で食料を工面する。親が死んだ年のような楢の実の不作、山火事等がない限りは彼らは人里へ姿を現さない。
柵の間隙を潜り中に足を踏み入れる。
牧場に家禽は認められず、厩舎に向かうと僅かに草を揺する音が聞こえた。古び歪んで固くなった扉を押し開けると、丁度メリダがフォークで牛用の飼い葉を整理しているところであった。
「お疲れさん」
「うひゃあああお兄ちゃん!!!」
突如現れたダインにメリダは飛び上がらんばかりに驚くと、フォークを放り出し、飼い葉を撒き散らしながら飛び付いてきた。
「ねえねえ傷は?あんなにってあれ?傷ない?おろ?だって昨日あんなに」
メリダはダインの腕、首筋を検めては首をひねる。
「色々あってな…まあメリダならいいか。言うなとは言われてるんだけど、実は長老に癒してもらったんだ。」
その一言に頭にクエスチョンマークを浮かべ、仔細を語るとメリダは仰天した。
「ま、魔術!?お兄ちゃん魔術で傷治ったの?!ほー!!そんなものが、長老が」
「落ち着きなって」
そのせわしなく動く頭を無理やり抑え撫でるダインは、こんな賑やかな妹に果たして嫁の貰い手がつくのか、と心中嘆息する。
取り敢えずダインは妹を離し、フォークを拾う。彼女の頭の中も混乱から本日の作業へと移り始め、やがて2人で飼い葉の用意を始めた。
♢
「お迎えだよ」
裏庭で薪を斧で割るダインの背後から、不機嫌そうな叔母の声が投げつけられる。急ぎ表に出れば長老の使用人が居住まいを正して立っていた。
中にいた妹にはまた戻ると声を掛け、よくわかっていないその顔を尻目にダインは使用人と共に長老の屋敷へ向かった。
道すがら朝方の出来事を思い返すが、未だ実感が湧かない。前日の長老の話を聞いた時は驚きはしたものの、西の果ての災厄など、この東の果てで知る由もない。どこかまだ、自らと関わりのない事としているような感覚があった。
2度湧き闇と対峙したにもかかわらず実感がないとあっては、鈍感の謗りは免れ得ないなとダインは小さく笑う。国の戦ならともかく、世の終わりが近く、尚且つ自分に介入する役割があると告げられて素直に受け止められる筈もない。それができるのは子供ばかりであろう。叔母の無頓着ぶりを笑えない。日々の生活に手一杯で、実感出来ぬ脅威に気を回す余裕などないのだ。
などと考えるうち気がつけば屋敷の前に至るものの、玄関より出て来る年老いた使用人の顔が暗い。曰く長老が体調を崩した為今すぐには会えぬと言う。長老からの言伝を預かっているらしく、"少し休むからその間屋敷で待っていてくれ"との事であった。
屋敷内に通そうとする使用人に、少しだけ裏の方へ行きたいと一言断りを入れてダインは屋敷脇の小道へ向かった。遠くに行かなければ問題あるまい、とばかりに歩き、足元が石畳から溢れんばかりの白詰草になるあたりでダインは足を止めた。
北面の柵がよく見えるこの場所は丁度屋敷の裏にあたり、先へ進むと昨日哨戒した丸太のあたりに出る。高い陽にあてられた草原は、目眩のするような新緑の香りで満たされていた。
見回すも近くに人はいない。哨戒する村人もおらず瞬間訝しんだが、要所に点在する櫓から監視をしているのだろうと思い直した。
山刀なしに湧き闇を退治できるかは今以て不明であり、対峙せぬよう櫓に登るのは正しい選択である。ダインは今日も哨戒に加わるべきではないかと悩んだが、櫓で安全は確保しているそれぞれに警鐘も据え付けてある。哨戒で疲弊し肝心な時に満足に動けぬよりは、待機して出現時に素早く駆けつければそれで良かろうと判断した。恐らくは長老も同じ考えだろう。
ひとまずダインは、適当な木陰を見つけ腰を下ろす。ひとつ伸びをすると皮袋を開け、横笛を出した。
余りに多くの出来事故に一週間以上吹いていないような錯覚を覚える。手の内のそれは頭上の枝葉から溢れる陽を浴び鈍く輝いており、磨かれた側面に自分の不安げな目が映る。
さて遠くにも行けずしかし笛は吹きたい、となれば諦めて人目を憚らず吹くのみである。人に聴かれる事に羞恥にも似た躊躇いがあるが、とはいえ周りに人の姿はない。風向きによっては聞かれることもあるかもしれないが、それは仕方ないと自分に言い聞かせて吹き口に口を付けた。
一音鳴らしてすぐに口を離す。首を傾げ再度口を付けると確かめるように更に数音を鳴らした。
どうも鳴る音に違和感があった。高音に以前なかったギラつきがあり、一層良く鳴るようになったとも言える。しかし数年吹いたダインにしてみれば初めての音の変化で、確かに音が違うと感じ横笛を口から離すとその側、中と検める。
気候などの影響かとも思うが変化したのは今日であり関係がない。結局横笛に妙な箇所は見当たらず、まあいいか、とばかりに再度口元へ運び、軽く目を閉じると慣れ親しんだ曲を吹き始めた。
やはり笛はいい。弦楽器も悪くはないが手入れと弦の張替えが面倒で何より持ち運びに不便である。鋭すぎず、芯のあるはっきりとした音色は横笛が好きな理由の1つであった。吹けば吹くだけ五感が音へと吸い込まれ、指の動き、呼吸すら溶け込んで音そのものに自分がなる。この感覚がある時は調子よく吹けている時であり、自分と音が調和した状態をダインは心地よく思いながら一心に吹いていた。
「上手いですね、国許にもここまで繊細に吹ける方はいませんでした。」
余りに集中していた為人の気配に気づかず、いきなり声を掛けられてダインはハッと顔を上げた。
見ればリリアが柔らかな笑みを浮かべていた。今朝方とは違い、晩秋の稲穂の如き髪の房は肩越しに覗く髪紐で纏められ、少し強い風に煽られて彼女の背後で揺れている。透き通るような肌と相待って、エルフとはかくも美しいものなのかとダインは呆然とリリアを見つめていた。
「すいません、邪魔をしてしまいましたね。…隣、座ってもいいですか?」
その声に我に帰ると頬を掻くダイン。
ただでさえ人といるのはあまり好きではないのに麗しい異種族の少女となれば飛んで逃げ出したいところだが逃げ場はない。一対一とは心臓にキツい状況だが王族に礼を失する選択肢はとれなかった。心中嘆息しながら無言で頷くと、リリアは上品な仕草でダインの横へ腰を下ろした。
暫しの沈黙。そっと横を伺えばリリアは遥か山の頂を見つめているようで、ダインは声もかけられず、手持ち無沙汰で横笛の手入れを始める。
「良い村ですね…」
ふと聞こえる呟き。応えるべきか、呟きは呟きとしてそっとしておくべきか悩んだ末、ダインはそっと話しかけた。
「まあ、大した村じゃない、ですよ。食べられるだけの収穫を得るのに必死だし、土地はそこまで豊かではありません、殿下」
「いえ、殿下はよして下さい。普通に話して頂けると嬉しいです。なにせアノールアマースの及ばぬ地で王族を名乗っても滑稽なだけですし、今は1人のエルフとして接して頂ければ。…大した村ではと仰いましたが、私には静かで、人々も落ち着いている良い村に思えます」
西の方は活気はありますがその分忙しないですから、と言ってリリアはダインを見た。
「改めまして、昨日は助けていただいてありがとうございました。そうでなければfuin、湧き闇の餌食となっていた筈です。」
「いえ、その、…リリアさんが無事ならそれで。たまたま駆けつけられただけですから」
言われ慣れぬ礼の言葉に少しリリアから視線を外し、横笛を再び磨き始める。リリアはその作業をしばらく見つめ、ほう、と息を漏らした。
「大事にされているのですね」
「親の、形見なので」
言葉少なに返事をするダイン。リリアは形見、の一言に一瞬言葉に詰まったがすぐに口を開く。
「丁寧に使われているのですね。傷も錆もなく、輝くような音を鳴らしていましたから」
趣味の道具を褒められて悪い気はしない。少し饒舌になりそうな自分を抑えながら、僅かな喜色を浮かべるも下を向いたままダインは返答をした。
「ありがとう、けど何か今日は音が変、でさ。高音がギラついて、急に良く鳴るようになったんだ。音が悪くなった訳じゃないからいいんだけど。」
「それは、横笛の音に貴方の魔力が乗ったからだと思います」
思わずダインが顔を上げ、リリアを見ると彼女は優しく頷く。
「でも今までそんなこと、一度も」
「ではなにか最近、どなたかの魔力に触れる機会はありませんでしたか?もしくは行使される様を目の当たりにされたりとか」
リリアに言われ、そういえばとばかりに湧き闇に襲われた夜、長老に傷を長老癒された事と不可視のうねりを感じた事を伝えると、納得したようにリリアは頷いた。
「それが原因ですね。魔力を感じる感覚というのは人の奥深くに埋もれており、何かきっかけがないと自覚出来ないからです。朝申しましたように、人は感情と魔力が密接に結びついています。心のこもった音に魔力が乗るのは必然です」
魔力の篭った音の響きはより豊かになる、とリリアは言い、次いで横笛そのものにも言及をした。
「その横笛自体からもかなりの魔力を感じます。音に込められた持ち主の魔力が、意図せずして蓄積していったのでしょう、恐らくは貴方のお父様、そしてより前の方の持ち主の方の頃から、ずっと」
案外代々魔力豊かな血筋だったのかもしれませんね、と言うリリア。
暫く、静寂が流れ、おもむろにダインが口を開く。
「まだ実感がないんだ。…湧き闇の事も、イクイブリードの事も。悪い夢だったんじゃないかとすら思ってる。あんな大怪我したのに、おかしいだろ?けど、あまりに身の回りに変化が起きすぎてさ。頭が追いついていないだけなんだろうけど」
リリアは、愚痴にも似たダインの独白を聞いて
頷く。
「ええ、分かります。私もそうでしたから」
「リリア、さんも?」
「リリアと呼んで頂いて結構ですよ。…混沌は一度追い返すと次に勢いを増すまで何千年もの時間が空きます。ですから、混沌が勢いを増していると報告を受けた時は何故このような苦難にと思わずにはいられません。戦いで夥しい犠牲が出ますから…」
頭でわかっていてもやりきれないのです、とリリアは言って立ち上がった。
「イクイブリードを使えば滅ぼせる?」
見上げ訪ねるダインの目には、苦渋の表情を浮かべるリリアが映った。
「イクイブリードは確かに強大な力を持っています。しかし、強すぎる力は混沌、湧き闇をも呼び寄せてしまうのです。イクイブリードを用いるのは、溢れたfuinが塊をなし巨大な獣となった時。仮にfuinの姿が殆ど見当たらない、混沌の影響がとても弱いところでイクイブリードを用いるならば、凄まじい勢いでfuinが地上へ染み出して来るでしょう。結果我々で対処する場合が殆どなのです…それに、fuinは滅ぼせません。」
「そうなの?」
追い返すのが精一杯、しかしいつかは打ち倒せるのだろうと漠然と考えていたダインはリリアの言葉を訝しむ。
「父が申しておりました。この世は良くも悪くも調和で満ちている、と。強大な力は強大な敵にしか震えず、イクイブリードも男女のつがいでなければ動かず。昼が永遠に続くこともなければその逆もまたあり得ず、天と地、火と水、夏と冬、そして生と、死。あらゆるものが釣り合うべき対象をもって調和を成しています。混沌ですら滅ぼされる事なく、イクイブリードによって対抗すべしとなっています。恐らく滅ぼそうとした事は過去確実にあったと思いますが、しかしそう伝わっている以上どうしようもない事なのだと思っています」
巡り合わせた時代の者たちが戦い、そしてこれが永遠に繰り返される。終わりなき苦行に思えてダインは天を仰いだ。
どこでどう転んでこうなった、という話ではない。仮にリリアに会わなかったとしても他の誰かがこの地に来たであろう。そもそも誰が来ようと来まいと要石が光った現状、この地のイクイブリードを目覚めさせなければ恐らくここも闇に呑まれるのだろう。
選択肢は二つ、戦うか滅ぶか。
迷いも躊躇いも拒絶も胸中にはあったが、どうあっても逃れられないと分かれば狩人たるダインの腹が決まるのは早い。手負いの獣を前にした時の選択肢と同様、感情の出番はなく躊躇なくこれに挑むしかないのだろうと気持ちが固まりつつあった。
「…いやさ、色々考えた。なんで俺なんかがこんな大層な大変な役目をって思ったし、すべき事を考えると無理だ不可能だって。けど、巡り合わせた奴が戦いを強いられるって事だろ?上手く言えないけど、選択肢なんてないんだ、この役目を背負って挑むしかないってそう思い始めてる。」
ゆっくり、一言一言を無理やり吐き出すように喋る。リリアは驚いたような顔をしていたが、一言、強いですね、とこぼした。
「そういえば、どうして1人でここへ来たんだ?いくらでも相談出来る相手がいた筈だと思うけど」
そう言うと、リリアは懐から要石を取り出す。今朝ぶりの要石は陽光を弾いて目に眩しい。
「私は、いざ戦う、自分が戦いに身を投じる決断に対してかなり時間がかかりました。苦悩する父、重苦しい空気に満ちた城や街、芳しくない戦線からの報告…王女ですから役割などないのですがそれがもどかしく…ドワーフ達にも連絡を出しましたが地理的な問題ですぐに返事も来ず、何か手立てはないかと考えた結果、この要石を使おうと決意したのです。」
そこで一度言葉を区切り、リリアは僅かに要石を握る手に力を篭めた。
「…この要石は由来こそエルヴェイティの許へ跳ぶものと伝えられていましたが、魔力を込めても特に変化のない古代に使われたものの複製の宝石だと思われていました。…しかし昨日の夕方、私が丁度宝物庫を通りがかった際に強い力を感じ、急ぎ中へ入ると要石から強い光が出ていたのです」
呼ばれたのかもしれませんね、と言ってリリアは少し顔を上げて遠くを見る。
「複製とされたはずの要石から強い光が溢れ…それを前にして私はとても悩みましたが、混沌と戦う貴重な戦力を調査に割くよりかは第三王女である私が行けば良い、いなくなっても損失は少ないと思い、自室へ戻り手慣れた槍を抱えると全力で要石へ魔力を込めました」
リリアは、思えば完全に舞い上がっていましたね、と自嘲気味に笑う。けれどもその時はそうするしか良い手がないと思っていたと言い、また何か役に立ちたいとの思いが冷静さを欠如させていた、と語る。
「本当に、無鉄砲でした。長老様には返す言葉もありませんでしたし」
「ああ、あそこまで怒る姿は見たことがない。…しかしまあ怖かったみたいだね。ウチの妹みたいに布団引き寄せて縮こまってたから」
「ひどいです!そちらから見えないからわからないと思いますけど本当に怖かったんですよ?」
そしてどちらともなく笑い始める。
そしてリリアに是非続きを、と促されて横笛を構え吹き始める。
月の精霊を讃える、厳かな曲。この曲は近隣の村にはなくスラン村のみに伝わる曲である。ダインはふとエルヴェイティの象徴が月である事を思い出し、やはりこの一帯は何かしらの関わりがあるのではと思う。
使用人が探しに来るまでの間、ダインはリリアがにこやかに視線を送る中、少々やり辛そうに、しかし僅かに湧き上がる嬉しさを隠すように一心に横笛を吹いていた。