6:月下の遭遇
月下の村は静寂に満ちていた。家々の窓は帳を下ろし、明かりといえば月の光一つである。
長老の家を出、村を横断する通りを北へ向かう。道すがらの家屋から聞こえるはずの夕餉の賑わいは、今は聞こえず死体のような沈黙を保っていた。
天を仰げば雲無き夜天に孤独な満月、その輪郭の際立ちはこの濃い夜闇のせいであり、長老の話を聞いた今はその暗さにすら不気味な印象を抱いてしまう。
春の夜は未だ寒い。昼の温もりに合わせた薄手の装いは容赦なく身体を冷やす。身震いを1つするとダインは足を早めた。
辿り着いた北面に外へ抜ける門はなく、辺りに家もない。外界を避くように柵が伸びるのみの殺風景な場所であり、その一部に人一人分の隙間を拵え、丸太で雑に封をしている。それが北面唯一の外に通じる通路であった。その丸太の前に辿り着くと、ダインはすぐさま山刀を抜いて右手に携えた。日中に及ばぬも今宵は満月であり見通しは良く、澄んだ山の空気が確かな視界をもたらしていた。ぐるりと睨め回すも異常はない。南を哨戒するベゼルの事が気にかかるも昼に単独で湧き闇を退けたのを思い出し自嘲する。心配すべきは己の五体満足であろう。
同一の湧き闇ならば足音はなく、また臭いもない。如何にこの月下と言えど、草の間、岩の陰に身を潜めていれば見逃すかもしれない。ダインは暫し警戒を続けるが何事もなく、次第に緊張で吹き出た汗が冷えて身震いをした。ベゼルの見間違いなのではと思うも、20年以上山にいる彼が動物の影と湧き闇を見間違えはすまい。世がそれ程までに蝕まれているならば、新たな湧き闇が湧くも道理。
しかし根元を絶たねばならない。永遠に湧くであろう湧き闇を相手取るならば、訪れるのは消耗と確かな死であろう。
湧き闇、その根元の混沌を払うにはイクイブリードをなんとしても見つける事が、疑いなく喫緊の課題である。しかし誰が伝えたのかも解らぬ遥か古代から伝わる伝承が、唯一の手がかりな現状ほぼ手詰まりではある。
尤も4体のイクイブリードが実際に使われたのかどうか不明であり、実際のところかの湧き闇が伝承通り溢れ出した混沌の一部なのかどうか、長老を含め誰も確かめる術を持たない。得られる情報が伝承のみな今は他に頼るものも助けもない。しかし命懸けで対応せねばならないこの状況で頼りが確かめる事の出来ぬ伝承とあっては、何をどうすればよいのか。
思考を繰る度暗鬱たる心持ちになり、ダインは本日何度目かのため息を吐いた。
と、ふと手元から淡い光を感じる。見ればまたしても山刀の刀身の模様が、昼程ではないものの青い輝きをゆっくりと湛え始めていた。
瞬時に跳ね上がる鼓動と研ぎ澄まされる五感。柄を握る手に力が入る。光の濃淡の所以はわからないが、何かしらの異常を知らせるものだとダインは確信してすこし柵のそばへと向かう。
「!?」
そして風に乗って届く、微かな悲鳴。この北の柵の先、草原奥のあの森から聞こえてくるそれにダインは驚くも次いで目を細めて訝しむ。
基本この村にあって日没後に外へ出る事はなく灯の油が高価な事もあって皆早々に就寝する。ましてや戒厳令下の夜、村から離れた奥の森に村人がいるとはどうにも考え難かった。
知性を得た湧き闇の謀りかとも思うが妄想の域を出ぬたわ言である。結局のところ、村の者とも言えず、万が一旅の者であっても夜冷えする春先に宿もとらずとは考えにくい、となれば自ずと結論は見えてくる。
耳に残る悲鳴は次第に薄らぎ、繰り返し自問するにつれ、或いは聞き間違いではないかと考え直す。
そして再度響く悲鳴。
「女?」
2度目は未だ微かではあるがよりはっきり耳に届き、察するにその声の主は若い女のようであった。
あり得ない。
あり得ないのだが、しかし。
夜の冷えを忘れるほどの葛藤の後。
ダインはより一層強く山刀を握りしめると勢いよく柵を乗り越え、月下煌々たる草原を蹴って陰めく森へ向かった。
夜の森は紛れもなく闇であり、聴こえるは虫と梟、香るは樺と若草、五感に届くはそれだけであった。あまりの視界の悪さに顔を顰めるも、ここに至って何かが動き回る音が奥から聴こえ始め、ダインは足を進めながら全力で耳に神経を集中させた。
音は二つ。活発に動き回るものと、そうでないもの。活発な方は恐らく獣のようで、四つ足でなければ不可能な俊敏さでもう一つの音の主の回りを移動している。
湧き闇が狼を模したもの以外にもいる可能性はないではないが、あの湧き闇からはどうにも獣の習性を感じる。今聞こえる音は、弱った何かとそれを見つけた獣の動きにしか思えなかった。
疑念は完全には消えない。しかしある程度の確信をダインは持ち始めていた。
身元不明の女性が湧き闇に襲われている。
音を頼りに直向きに闇の奥へ、奥へ。進むにつれ次第に山刀の光が強くなる。
向かう先の闇は薄くなり、透ける光は明らかに強くなり始めた。その先にひらけた場所があるのだろう、音もその辺りから強く聞こえる。極度の緊張の中ダインが駆け込んだその先は、月光に闇に慣れた目を容赦無く焼く明るさであった。
広さは日頃笛を吹いている巨岩の広場に近い。満月の下光に痛む目を凝らしてみれば、地に横臥した女性に、湧き闇がまさに今飛び付かんとしているところであった。
「まずいッ!!」
筋肉を瞬時に引き絞り、全力で湧き闇へと走る。右手の山刀を逆手に持ち替え、もっと、もっと早くとこの身に念じると呼応するかのように山刀の光が強くなった。
湧き闇はダインに気付く事なく女性に飛び掛かった。そして宙で布を広げるようにその身を薄く広げて覆い被さる。女性は気を失っているのか身じろぎもしない。丁度女性の身体を湧き闇が覆い尽くした瞬間、ダインはありったけの力を込めて薄く伸びた闇の縁に山刀を突き立てた。
硝子を擦るような響きと水を切るような虚ろな手応え。見れば確かに山刀は闇を貫いている。湧き闇は瞬時に反応して縦に伸び、こちらに覆い被さろうとする。ダインは山刀をすぐさま抜くと、今度は右から袈裟に斬りつけ、正面に突き立てると山刀を残して跳んで後ずさった。
昼とは比べ物にならない程の眩い光と甲高い不快な鳴き声。明らかに威力を増している山刀は湧き闇をその光で掻き毟るように削り、ダインの高ぶった心臓が平静を取り戻す頃には完全に消える。
相手を失った山刀は次第に光を失い、やがて釣瓶のように草叢の上に落ちた。
大きく息を吐き、山刀を拾うとダインは倒れている女へと駆け寄った。
背はダインより少し低く、髪は見事な金。そしてこの村とも、近隣のとも違う文化の下織られたであろう上等な衣類。
美しい白の上衣は金の刺繍が襟と長袖の縁を若草のようにように踊る。藍色のスカートは土に塗れていたが、その光沢から布の価値が分からないダインにもとんでもなく高価なものであると理解できた。羽織った茶の外套には背に何かしらの印章が縫い込まれているようであるが、半身を地に伏せている為仔細は分からない。
間違いなく近隣の者ではない。しかし旅行者にしては着火具、食料などを纏めた背嚢なり鞄なりが周囲に見当たらず、少し離れたところにある槍、これは恐らく彼女の物であろうがそれだけである。
さらに不可解なのは、明らかに旅には向かず、そして防寒の用をなさないその衣類。特にこの季節、防寒対策は旅に於いて死活問題であり、まるで突然この場所に放り出されたと言わんばかりのこの備えの悪さにダインは首を傾げた。
骨折もしておらず出血もなし、自発呼吸もある。気を失っているだけだろう。取り敢えず背負って村まで連れて帰ろうと上体を起こしたダインは目を剥いて驚く。
絹のようなその黄金の髪の間から、笹穂のような長い耳が溢れていた。
「エルフ…」
とはいえダインも遭遇するのは始めてである。しかしこの耳は違えることのない特徴であり、滅多に人前に姿を現さない筈の存在を前にダインは天を仰いだ。
湧き闇、輝く山刀、長老の魔術に世界の侵食、そしてエルフ。
昨日まで叔母の悪態の下妹と飯を食い、山にでて笛を吹き、獲物を仕留めて帰るただそれだけの生活だったことを思い、ダインは堪らず溜息を吐いた。