5:帰村
山の端に陽が差し掛かる頃、2人はようやく村にたどり着いた。
村は山麓にあり、申し訳程度の粗末な柵が楕円状に村を囲っている。村人全てが柵の内に居を構える訳ではなく、そこそこの土地を要する都合上、外へ家を建てるケースもあった。例えば牧畜や農耕を営む者が新しく建てた家が、さほど離れてはいないものの村の周囲に点在する。門をくぐれば広場の井戸まで通りは伸び、その周囲に長老の屋敷など村の上役の住まいと祭場があった。井戸が最も古い構造物であり、井戸から離れるに従って新しくなっていた。ダインの間借りする叔母の家は、村の北東の高台に位置する。増えた家禽に対応すべく、叔母の祖父が建てたそうであるが仔細は知らない。
門から外へ伸びる道は粗雑な手入れの賜物である雑草がそこかしこに生え、人の往来の少なさを物語っていた。道の先の景色をダインは知らない。狩場は常に山であり、獲物に困らぬ豊かな所をわざわざ飛び出す理由も、そしてまた時間もなかった。
2人を認めた門番は、誰何することなく慌てて門を開く。ダインの様を見、何事かと尋ねられるが口を開く気力もない。立つのもやっとでベゼルに脇から支えられている現状である。
自分の代わりに門番に応対するベゼルの声を、何処か遠い所で行なっているような心地で聞きながらふと。
高速で移動する物体が視界に入った。
霞む視界に活を入れるとどうやら少女のようであったが誰かはわからない。距離が近づくにつれ次第にその姿がはっきり年若い見えてきた。
その疾駆に合わせ不規則に乱れる黒髪は、肩口程度で切り揃えられていた。青の髪留めに亜麻布の白いケープ、その下は茶の麻の服の上に薄汚れたエプロンを付けている。
柵外への急用で門へ走っているのだろうと検討をつけたが、相手は何故か自分を目指し走っているようであった。
更に距離が近づいて顔が分かるようになり、ダインは嗚呼、と声を漏らした。
「今こっちにくるのは止めてく」
「こんな傷だらけで!!いつもより遅くて心配したんだよ!!」
走り寄るはダインの妹メリダであった。ここで遭遇したのは完全なる運だったが余程心配だったのか勢いよくダインに抱きつき、
「お兄ちゃん大丈夫?傷が多すぎるよ!」
半泣きで目に涙を湛えダインを揺さぶるが、ダインもまた違う意味で落涙を堪えていた。
「傷が、傷が!!」
苦悶に満ちた声は、限界近い意識ですら痛いと妹を突きとばせない、兄としてのせめてもの意思表示であったが届くことはなかった。
「何?痛いの?何でも言って!!すぐに薬を…ああしっかりして!!」
不測の事態に錯乱するはもはや生来のものと諦めていたが、ここまで会話が通じなかっただろうかとダインはとても残念に思い、
「…痛い」
と一言漏らしついに地に倒れた。
確実に開いた感触のある肩口の傷は妹に揺さぶられてどうにもならない。
ベゼルが流石に止めに入るも、妹は依然錯乱の最中。この運のなさは星の巡りが悪いのかと諦観の念とともにダインの意識は遠くなっていった。
◇
柔らかな感触と嗅ぎなれぬ臭い。頭が疲労ですぐに覚めぬものの、上等な寝具に仰向けに横たえられているであろうという事はぼんやりと理解出来た。僅かに身動ぎすると敷物の長い毛足が手首や首筋の露出した皮膚をくすぐり、ついで開いた目に写る暗い木の天井には、暖炉から伸びた火の影が慎ましげに踊る。熱にあてられて次第に意識がはっきりしていく。同時に傷の痛みが脳を貫くように響き思わずうめき声が上がった。
「動くでない。相当痛めてるからのう。」
傍で響く声。首だけを動かして右を見ると、耳まで覆う長い帽子を被った老婆が揺り椅子に座っていた。装飾品もなく、ただ麻の茶色い服に白の帯を締めているだけであるが、凛とした佇まいには誰もが感じ取れる気品があった。
「…横になったままで失礼します、長老」
「怪我人がいらん気を使うでない。」
一応一言断りを入れるが老婆、もとい長老はその断りを一蹴した。
「随分手酷くやっとる。確かにベゼルが願い出るのもわからんでもない。ああ、気を失っとる間に傷を看たが大丈夫、死にはせんよ。」
尤も冬まで狩に出られんがのう、と告げる長老の言葉にダインは顔を顰めた。
妹、叔母、蓄えに生活、様々なイメージが脳を駆け巡る。表情に漏れていたのか、長老に随分な顔をするねえ、と言われダインは溜息を吐いた。
「今、春に入ったばかり。冬まで療養とは幾ら何でも無理です。間借りしている身で休むわけにいかないし、それに叔母に迷惑がかかると妹にも、」
「知っておる。あやつも感情的で口さがないが厳しさも責任の裏返しだよ。」
さて、と呟くと長老は手元にいつの間にか持っていた小箱の蓋を開き、幾ばくかの後蓋を閉じて脇の机に置く。
すると少々キツい香が次第に部屋に満ち始めた。充満する臭いは酪の酸味と蜂蜜の甘さを混ぜたようであり、長老は泰然自若としているがダインにとっては世辞にも褒められぬ強烈さであった。
「香がキツいかえ?」
僅かに顔を顰めるダインにそう言うと老婆は呵々と笑った。
「すいません長老、嗅ぎなれない臭いなので…」
「そうだろうとも、西の果て、バアルートという木を特殊な蜜で煮詰めた、貴重な香だ。人の心を落ち着かせ、集中させる効果がある。」
もうトシでこいつがないとダメなんだよ、と自嘲気味に笑う老婆もとい長老とは対象的に、ダインの顔には不安が浮かんでいた。
「しかし何をなさるんです?ベゼルさんは訊いてもはっきり答えてくれず、ただ長老の所へと言うだけで。自分は何も知らないんです」
「おやおや、あの小僧は何も言わなかったのかい?仕方がないねえ」
四十路の男を小僧呼ばわりして長老は嘆息し、次いでいつの間にか取り出した指輪を右手で摘むように持つ。
目に見えた訳でも、何かしらの変化が体に起こった訳でもない。しかし指輪を中心に不可視の何かが集まるのを感じ、ダインは混乱して思わず声を上げる。
「長老、一体何が」
「おや、その驚き様、もしかして"感じた"のかい?とすると相当筋がいいねえ」
ダインが聞きたい答えをはぐらかしつつ長老は指輪を数度振り、やがてにっこりと微笑む。
「さてと、大丈夫そうだ。ではしばらくの間動かないでおくれ。香の助けを借りてもなかなか辛いからね…………lasto……lasto, ir isil ilwo…」
長老はダインに指示をすると、宙を見つめ聞きなれぬ言葉を呟き始めた。
すると、指輪と長老の口元に不思議な気配が満ち始める。猛暑の風ような粘度を持った、しかし決して温度を感じぬ不可視のうねり。
うねりは指輪と口元、双方からのものが混じり合い宙にしばらく漂っていたが、やがてひと抱え程の球になっていった。
「怖気付いたかい?まあ見えもしないのに"解る"のは気味が悪いじゃろう。初めはあたしもそうだったよ。」
長老は不安一色のダインの顔を一瞥してそう言い、やがて指輪を両手で持つとうねりの中へそっと指輪を入れた。
「envinyato」
長老の声とともに、不可視だったうねりは淡い青い光を纏い始めた。やがて縦に捩れて拡散し、同時にダインの体が同様の光に包まれる。
光は僅かな間ダインを包むと次第に宙に溶けていく。
「ほれ、傷を見てみよダイン」
満足げな長老に訝しむもダインは肩口を触れ、そして驚愕した。
肩を貫く傷跡が、文字通り消えている。手の甲を見れば鹿に蹴られた傷も同様で、目を凝らしてもその痕跡すら見当たらない。
「長老、これは?」
「言うた通り、他言は許さぬ。まあ、そうさな、古の魔術で癒したとでも言っておくよ」
かなり疲れるんだよ、と言うと長老は椅子の背に身を預けて大きく息を吐いた。
ダインは腰を上げると、一度全身を大きく伸ばして体を再度検めた。傷どころか疲労すら消えている。初めて体験した魔術というものに感動を覚え、思わず小さな快哉を口にする。
「ありがとうございます、長老。こんな一瞬で、跡形も無く傷が消えるなんて」
興奮覚めやらぬダインの顔を笑顔で見、長老は小さく頷いた。
「さて、傷も癒えたところで聞かせてもらおうかのう。ベゼルめはお前さんを置いてろくに説明もせずに行きおったし、妹は妹で錯乱しておるから使いを出して家人に迎えに来させたわい」
お手数をおかけして、と萎縮するダインに長老は、尋常な傷ではなかったからと首を振る。
そしてダインは長老に、事の仔細を説明し始めた。
◇
「うむ。しかし湧き闇とはのう…。災難じゃったな。いや災難はこれからじゃろう」
湧き闇という聞きなれぬ言葉。その意味を問おうとするダインを手で制し、長老は傍の椅子を示して座るよう告げた。
「あれとやり合ったお前さんには告げねばならん。当事者じゃからのう。それに見込みもある。…まずあの闇、あたしは湧き闇と呼んでおる。世界の始まりがどういうものじゃったかは知っとるかね?」
「ええ、調和と混沌、その2つが争った話ですよね?」
背もたれのない丸椅子にそっと腰掛けながらダインはそう答えた。村の誰もが知っているはずの、昔話である。皆幼い頃に寝床で幾度となく母親に聞かされるがすっきりしない内容の為、子供達からの評判は一様に悪いけれども。
「そう、そして4つの巨人と共に混沌を追い返す、というところで終わっておる。…湧き闇とはな、大地の底からおもてへ染み出した混沌の欠片なのじゃよ。そして、湧き闇が現れるという事は強大化した混沌が大地を侵食し始めている事に他ならぬ」
ゆっくりと、言葉を絞り出すように話す長老。その言葉を聞いてもどうにも要領を得ないというか、現実離れして腑に落ちない。
そんな表情のダインを一度見やり、次いで長老は暖炉の上、地図を示した。
「そこの…この村には過ぎた地図じゃが、それはこの世の端から端を大雑把に表しておる。
我々はこの…東の端。そして」
長老は対極を示す。
「ここが西の端。角が墨で塗りつぶされておろう?これは混沌がここにいる事を示しておる。混沌は西から世界を蝕む。じゃが半ばまで蝕まれぬ限りは、この東の端へ影響が及ぶことはない」
「長老、それでは!」
「そう、恐らくはもう世界の半分が闇に飲まれておる」
或いは殆どかもしれんのう、と長老は言うと長老は小さく呻いて椅子から立ち上がった。
「ダインよ、既に手遅れかもしれぬ。しかしまだ打つ手がないわけではない。この東の端には古くから…」
「ダインいるか!!直ぐに外へ出ろ!!」
扉を蹴り破る勢いで飛び込んできたベゼルが、長老の言葉をかき消すように叫ぶ。
「何事かえ!」
「長老!!村の近くに闇の化け物が出た!!村の連中は家に避難させてる。ダインお前は直ぐに準備して村の山側へ向かえ!!」
ベゼルはそう吐き捨てるように指示すると踵を返しあっという間に夜闇の中へ溶ける。
「行きなさい。腕の立つ者あれどお前しかあの山刀を使いこなせるのはお前だけだよ。」
長老がなぜ山刀の事を知っているのか、使いこなせているか否かをどう判断しているのか、疑問は尽きないがそれどころではない。
絨毯の上の山刀を取り、長老に改めて礼の言葉を告げるとダインは勢いよく月明かりの下へと飛び出していった。
語学に明るくないのでギリギリまで調べましたが間違っているかもしれません。
もし訂正する箇所がございましたらご一報下さい。
週明けに続きを投稿します。日曜までは既投稿分の手直しをする予定です。