4:災いとの遭遇(後編)
ダインは全力で頭を回転させた。
どこかへ衝突している隙に逃げるか?いや、あの速さで動く相手を視界から外すのは非常に危険である。そもそもどう動き何に衝突しても音一つしないあの闇を、視界の悪い森の中で対処できるかといえば否である。どのタイミングで、どの方向に向いて突撃してくるかがわからなければ、気が付けば奴の口の中という状況になるのは間違いないだろう。
それに、何かしらに衝突してから再度動き出すまでの間隔はあまり長くない。
恐らく、この闇からは逃げられない。
ダインは闇から注意を逸らさず、そっと周囲を窺う。大きな岩は二つ。今闇が衝突した大木の裏と、最初に闇が衝突した少し遠くの水際。逡巡の後、後者へ向かってダインは全力で駆け出した。
石、岩だらけの足元に何度もこけそうになり、そのたび背後を振り返る。闇の貌がゆっくりとした動作でこちらへ向き直る頃には、どうにかダインは目的の岩の前までたどり着いていた。
再び顔を開いて加速する闇。脳が痺れるような強烈な圧迫感の中、ダインは努めて冷静になるよう自分を叱咤した。
半ばパニックになる思考のなか必死で闇との距離を見極め、その開いた貌の花弁のうねりが見えるほど近づいた瞬間、ダインは右に少しだけ跳んだ。
紙一重ともいえる僅かな距離の回避だったが、幸い掠る事もなく闇は岩に衝突する。
手を伸ばせば届く距離の闇へダインはすぐさま向き直る。そして歯を食いしばって息を吸い込むと、両手で握りしめた山刀を闇の背に全力で突き立てた。
硬い肉を刺すような手応え。勢い余って鍔近くまで山刀が闇に食い込んでいく。闇はといえば衝突して潰れた姿のまま特に反応もなく、ダインは効かなかったかと胸中舌打ちする。
しかし、次の瞬間刀身に彫られた模様が、再び強い光を発し始めた。
そして腹部に響く強烈な一撃。
ダインは刀身の発光という現象に僅かに気を取られ、闇の攻撃に対応が遅れて蹴り飛ばされた。
頭部を強打した時特有の強烈な不快感と腹部の激しい痛み。吐瀉物を河原に吐き散らし、視界が明滅するような感覚に胸中悔恨と焦りが生まれる。吐ききって多少落ち着いたダインは蹴り飛ばされた腹部を見ると、僅かな黒い揺らめきが服に付着していたが数瞬の後、陽炎のように消えた。特に影響はなさそうである。
ダインは舌打ちして闇を見る。鈍重な動きでこちらへ向き直る、その背にまっすぐ刺さったままの山刀。その光はまた一層強くなっているようだった。光は柄を、刀身を青に染める。
すると闇が弾けるような勢いで咆哮を放った。一度目のそれとは違う、悲鳴のような、苦痛に満ちたその響き。山刀が刺さったあたりから闇が煙のようにゆらめき消えていく。どうも刀身に接触した箇所が消失し始めているらしく、山刀を中心にすり鉢状に闇の体が抉れていっているのが見えた。
闇は背に刺さった山刀を疎い、引き抜きたがっているのだろうが、一度その形が定まるとその顔以外容易に変形することが出来ないのか、触手を生やして引き抜くようなこともなく横倒しになってもがいている。射抜かれた鹿のようなその見覚えのある動きに、ダインは幾分恐怖心が和らいだ。
どうもあの山刀が効いているようである。
仕留められるかもしれない。
ダインは茂みに放置した弓矢を急いで回収すると、即座に引き絞り闇を狙う。放った矢は、しかしながら闇を貫通してその背後の川へ飛び、小さな飛沫を残して水中に消える。
「岩にはぶつかるのに、矢はすり抜けるのか?」
怪訝な表情で思わずそう呟く。結局のところあの闇を攻撃できるのは背に刺さったままの山刀のみのようであった。
ダインは弓矢をそっと下ろして川側から回り込み、依然横倒しのままもがいている闇の背に向かう。すり鉢状の跡はかなり広がり、山刀が不安定に闇の蠢きに合わせ揺れている。ダインはどうにか山刀の柄を両手で掴むと、一息に傷口から引きずり出した。
瞬間、身震いと共にひときわ大きい咆哮を闇が発し、咆哮に伴う衝撃でダインは吹き飛ばされ、頭から川に落ちた。春の浅瀬いえども未だ冬の冷たさが残る。頭部への衝撃に意識が飛びかけるも、強烈な水の冷たさにすぐに引き戻される。ダインはめまいも厭わず急いで体を起こし、次いで山刀の柄を離さなかったことに安堵する。
そして肩に走る鋭い痛み。
闇の貌から伸びた錐のような細い棘が、ダインの肩を貫いていた。
手の届くような距離にいる闇。ダインは反射的に山刀で肩を貫く棘を払う。水を切るような僅かな手応えの後、棘は切った個所から消失していく。肩に刺さった棘も鍋から出る蒸気のように周囲に霧散し、少し遅れて傷口から血が噴き出してきた。
苦痛に顔をゆがめながらもダインはこの機会を逃さず、一歩踏み出すと同時に山刀を闇の頭部へと全力で突き刺した。
ひときわ大きく光る山刀。棘を切った時とは違うはっきりとした刺突の感触。確かな手応えを感じた瞬間、再度放たれる凄まじい咆哮と衝撃にダインは再度川半ばへと吹き飛ばされる。
視界を覆う水。吹き飛ばされ肺を空にされた先の水没で盛大に水を飲んでしまい、急いで嘔吐するように水を吐き出す。
荒い呼吸の中ダインは浅瀬を移動しつつ闇の姿を探した。
川縁で身を震わせるそれは明らかに動きが悪くなっていた。頭部には山刀が刺さったままであり、身を竦め不規則に四肢を揺す様はかなり限界が近いように見えた。
足元は岩と石ばかり。加えて水の流れがある。この悪すぎる足場から出ようと少し急いで移動した矢先、闇が突如としてダインに突撃してきた。
予備動作のない完全な不意打ち。川底という足場の悪さに気の動転もあってダインは回避しきれず直撃を受けた。
驚異的な突撃だった。そのまま闇に押され川から河原を越えて木の幹に叩き付けられる。闇はダインの腹部に頭を密着させたまま、大きく膨らんでダインを取り込むように覆い被さっていった。
山刀が闇の頭部から消えている。突進の際に振り落としたのだろう。ダインは流石に観念して絶望的な面持ちで目の前の闇が自分に覆いかぶさる様を見つめていた。
その時ふと右の方から河原の石を蹴る音が聞こえた。誰かいるのか、動物か。疑問に思う間もなく突如として大きく歪む闇。覆いかぶさろうとしていたその動きは非常に不規則になり、錯乱をしているような様子であった。
そしてひときわ大きく体を膨らませると、闇は一気に萎んでいく。萎む過程で闇の背後が見え、逆光の中人影が見える。
「おい、大丈夫か?」
目を凝らすとそこには山刀を携えたベゼルがこちらを見下ろしていた。
「ベゼル、さん?」
「渡しておいて正解だったな。コイツ以外効かないってのは想定外だが。」
ベゼルはダインに手を貸して立たせると、すまなかった、と言った。
「いまいち自信がなかったんだが化け物が出るっててめえで思ってるんなら、あそこで別れず二人で動くべきだった。」
悪かった、というベゼルにダインは仕方ないです、と言って首を振った。
「まさか本当に化け物が出てくるなんて思わないですから。むしろあの山刀を渡してもらったおかげでどうにか戦うことが出来ましたし。」
謝意を述べるダインに何とも言えない表情で応えると、ベゼルは頭を掻いた。
「嫌な予感がしてお前を探してたら、丁度川であの黒い塊に体当たりくらってたところを見つけたんだ。いや俺も別のあの化け物に遭遇して、まあそっちはどうにか仕留めてな。…その時正面から殴るとあの気味悪い遠吠えで吹っ飛ばしてくるから、後ろから刺せる瞬間を待ってたんだ。」
それでお前が木に叩き付けられたタイミングで後ろから切りつけたんだ、とベゼルは首を竦めた。
そしていつ拾ったのか、持っておけと闇から落ちたはずの山刀を渡される。
ダインはじっとその刃を見つめ、次いで指でそっとその模様をなぞった。
広場で受け取った時と何一つ変わらない、澄んだ刀身。確かに時間が止まっているらしく、先ほどの戦いで手から離れ岩と石の上に落ちたにも関わらず傷の一つもない。あの輝きから模様に少しの温度を予想したが一切の熱を感じなかった。今はもう模様が光る事もなく、刀身は沈黙し切っている。
「時間…。」
「え、なんだダイン。」
どうしたんだ、と訊くベゼルにダインは刀身の模様を見つめながら呟くように言う。
「時間の停止。それ以外に、多分ですけど違う効果も持っているんじゃないかって思うんです。」
「どういうことだ。」
怪訝そうな表情のベゼルにダインは違和感を覚えた。少なくともダインに渡された山刀はあの闇を切りつけた時、月光のような眩い輝きを放っていた。ベゼルの山刀は光らなかったのだろうか。
「闇を刺した時、この模様から光が溢れて刀身全体に広がっていったんです。その光が闇に触れた瞬間、のたうち回り始めて…かなり苦しんでるようでした。それって時間に関わる魔術とは別のものな感じがして。」
「いやそれは妙だ。そもそも俺の持っていた山刀は光らなかった。ただ単純に、こいつの刃があの化け物に当たる、それだけだ。それ以外に別に特別な事は何もない。」
首を傾げるベゼル。何やら顔をしかめて考え込んでいたが、ふいに顔を上げるとダインの肩をポン、と叩いた。
「掛けられたまじない、魔術が何なのかは分からねえ。が、とりあえずその山刀はお前に預ける。そもそもあの化け物と戦ったのはオレとお前だけだ。他の連中にゃ対処し様がないし、二本持ってたって上手く使い切れねえ。持っとけ。」
もしかしたら、お前はこれを使いこなせているのかもしれねえ、と言うベゼル。
「これ、使いこなせると光るんですか?」
「知らねえよ、だが今そういうことが起きたのはお前が使った時だけだし、俺以外にこの化け物と戦ったのもお前だけだ。」
そういうとベゼルは森の奥を顎で示す。
「戻るぞ。親父によると化け物は少なくとも森からは出てこられないって話だ。」
未収穫という単語が脳裏を掠めるが、確かに化け物と戦って精も根も尽き果てている。とても狩りをおこなうような気力と体力が残っている状態ではなかった。浅いとはいえ肩の傷に加え二度ふっとばされてあばらの調子も妙。叔母になんと言われようが流石に今日はどのようなことがあってももう森に戻りたくはない。
しかし、森がこのような状況にあって狩人は明日からどうするのだろう。ベゼルに尋ねると、彼は首を傾げて僅かに考え込み、ひとつ鼻息を漏らして顔を顰めた。
「そうだな。森に出ない、その選択もある。が、俺たちだけじゃ判断ができん。」
長老に確認と相談をする、とベゼルは頷きながらそうダインに言った。
「長老、ですか。」
確かいま離れで療養しているのでは、とダインが言うとベゼルは頭を掻いた。
「そこなんだよな。長老の状態が良くないと会話すら出来ねえ。こんな緊急事態だってのに。」
もし長老に会えなかったら、俺たちだけでどうにか奴らを処理しなくちゃならん、とベゼルはぼやく。
「この山刀が二振りしかないってことは、そういうことなんだ。」
ダインはため息をついて、肩の傷と腰の山刀を交互に見比べる。一体倒すのにこの手負い。二体同時に出てこられたら間違いなく死ぬだろう。一体ですら、ベゼルがいなければ命を失っていたのだから余りにも荷が重いと言わざるを得ない。
嘆息してふと腰の笛入れを見遣る。もし森に出られないならば暫くは笛の練習が出来ない。怪異に比して些細な事であるが日々の楽しみであっただけにその顔に僅かな陰りが生まれる。
「まあしばらく笛の練習は出来ねえな。人がいるとろで練習できないってんなら。」
「村のはずれまで行けばどうにか。まあ、ちょっと探してみます。」
もう何度目かわからない嘆息をすると、ダインは全身を検める。
闇と接触した痕跡は何も残っておらず、ただ血と傷と痛みだけがこの戦いが間違えようのない現実だと告げていた。
「ずいぶん手傷を負ったな。そうだな、ばあさんのところで治してもらえ。」
ひとまずの応急処置で肩の手当てをしているダインにベゼルがそう告げる。
「いたた…ばあさんって、長老ですか?医術に長けてるとか薬草に詳しいとか聞いたことがないんですが。」
「いや医術も薬も関係ねえ。知ってる奴も殆どいないとっておきがある。」
ベゼルは、お前はあの化け物とやりあったんだ、と痛みに顔を顰めるダインの頭を手荒に撫でる。
「ばあさんもトシだ。対応しきれんから広めんでくれとも言われたが、まあお前ならいいだろう。」
「話が見えないんですが。」
「治せるんだよ。医術もいらねえ、薬も不要の方法でな。」
首をかしげるダインを立たせ、周囲を警戒しつつベゼルはそう告げた。
「まさしくとっておき、ってやつだ。」