3:災いとの遭遇(前篇)
息を殺して腰を落とす。
場所はあまりよくない。粘るような新緑の臭いに伸びた芦の揺らめき。風に踊る羽虫の群れが額を掠るが、見据えた目は逸らすことなくダインは弓を構えた。
「…逃げるなよ?」
相手に届かぬ言葉をそっと呟くと、耳まで引いた右手に力がこもる。
水場に着いてから暫く。矢の向かう先、芦の襖の間からは角の短い若々しい牡鹿の姿が見えていた。牡鹿との距離は歩数にして三十ほど。奥に流れる川に沿って左へ移動している。
(鹿、いるじゃないか。北の森から移ってきたのか?)
胸中で訝しみつつ、目を凝らす。
高い日の光を浴び、川の照り返しを受ける様は非常に美しい。白い腹毛は眩く、背中の毛は金に輝いている。しなやかな四肢は野生の躍動を押しこめているようである。
狩りという行為を満たす存在として、目の前の牡鹿は完璧な獲物であった。
先ほどの広場でのやりとりは一時的に脳から外れ、ダインは目の前の獲物に僅かに笑みがこぼれる。
普段使う軽い弓ならばもっと位置を寄せなければならないが、昨日作り上げたばかりのこの弓ならば、ここから獲物に中てられる。弓を引き絞ったまま、彼は牡鹿が奥へ向くタイミング、水を飲む瞬間を待った。
以前は岸辺の狩りは湿度、足場の悪さもあり敬遠していた。ただ、普段狩りに使う近場の森が村の人間で混んできたため、違う狩場を探して川を辿るうちに芦の多いこの場所を偶然発見したのである。足場の悪い水場が嫌いなダインも、この岸は絶好のポイントとして大いに利用するようになった。大物を引き当てる確率が非常に高く、そもそも来れば何かしらの生き物が水を啜っている。村の誰にも教えていない秘密の場所であった。
手に汗が滲み始める。引きに普段より力がいるこの弓に、体が悲鳴を上げていた。右の肩と二の腕がわずかに震え始め、左掌の筋肉が痛みを以て迫る限界を告げる。歯を食いしばりながら縮む弓の引きを必死に伸ばす。
牡鹿はまだ水を飲まない。優雅に闊歩する姿が非常に腹立たしい。早く川の水を飲め、早く、と心に念じながらダインは痛む体を押さえつけながら獲物を睨んだ。
不意に牡鹿が立ち止まる。気取られたか、と一瞬警戒するも、首を川に向けたのを見てわずかに息を漏らす。
まだ、まだ早い。牡鹿の前肢が川に浸かり、押しのけられた短い芦が大きくざわめく。周囲を見回したその首が釣瓶のように水面に落ちた瞬間、ダインは右手を離した。
カミソリのような鋭い羽音が頬を擦った時には、牡鹿の背から矢が伸びる。衝撃に跳ね上がる肢体を眺める時間はない。矢の的中を認めると同時、弓を芦の上に放り全力で駆け出す。小石を蹴り飛ばしながらそのまま右手で腰の短剣を抜き、水面を踏んだ瞬間、倒れもがく牡鹿の頭を抑え込み、脇腹から心臓を突き刺した。
瞬間、牡鹿の体が凄まじい勢いで暴れ、ダインを跳ね飛ばそうともがく。鮮血の混じる飛沫が服を染め、顔を打つが拭いもせず、ダインは全力で右手の短刀に力を込めた。
前肢が手の甲を打ち、皮が裂ける。強い弓を引き続けたせいで膂力を失った体が、鹿の力を抑えるのに難儀し始めていた。歯を食いしばり、鹿の奥へ、奥へと刃を進め、全体重をかけて刃を差し込んだ。
三呼吸の後、憑き物が落ちたように牡鹿の動きが静かになる。頭を押さえたまま心臓に刺した短刀を引き抜き、今度は鹿の首を抉る。
もう抵抗はない。重い水袋のような手応えは牡鹿の絶命を示していた。
大きく息を吐く。
「割と、手間取ったな。」
自嘲気味に言い溜息を吐くが仕方のないことであった。よく体に慣らさないまま携行した弓が確実に狩りの精度を落としていた。勘と経験である程度どうにかできるという自負も、慣れぬ道具では形無しである。
手傷右手を見ると甲が縦に割れ、指と掌を朱に染めていた。軽く握りこむと鋭い痛みが走る。
怪我する度に文句を言う妹の姿が脳裏をかすめ、少々げんなりしつつも血抜きに取り掛かろうと短刀を握り直した。
とその時、腰元に淡い光が溢れる。
何事かとよく見れば、借り受けた山刀の鍔から青白い光が迸っていた。光り方から察するに鞘の内、刀身が光っているようであるがそんなばかなと山刀を抜こうとしたその瞬間。
「?!」
目の前に横たわる鹿の虚ろな眼孔、胸の裂傷、肛門、あらゆる穴から、漆黒の闇としか言いようのないものが水のように噴出してきた。
本能的に全力で後ろに跳び、次いで腰を探ってエルフの山刀を引き抜くと、刀身が見えぬほどの眩い光が周囲を満たす。
「この闇に反応して光っているのか?」
漏れた呟きに呼応するように光は小さくなり、ついには刀身を走る模様の上を煌くばかりとなった。鞘を払ってすぐの強烈な光は何かの警告だったのだろうかと思い、そしてベゼルの言葉と山刀の光、目の前の怪異が頭の中で重なっていく。
山から離れなければいけない原因というのは恐らくこれなのだろう。この山刀も言い伝えとは一見無関係だが、怪異に呼応して光ったことを考慮するに何かしらの関わりがあると考えてよさそうである。尤も、有害な怪異に対処可能なのか、単純な光による警告しか出来ないのかは未だ不明なままであるが。
自分でも信じられないくらいの強さで柄を握りしめ、ダインは眼前の異常な光景を注意深く観察した。
闇は鹿の穴と言う穴から止まることなく滾々と湧き出ている。初めは水のよう、今は蜂蜜のような粘度を以て鹿の体を覆うように広がりつつあった。また日中というのにその闇は一切陽を弾くことなく、月なき夜闇がそこに噴出しているような濃密な黒さである。
やがて溢れた闇が鹿を覆い尽くすと、ふいに意志を持つような蠢きを始めた。大きく動いたかと思えば、鹿の形に添うようにしぼむ。嫌悪感を催すその不快な動きを幾度か繰り返した後、細かく闇は震え始め同時に何やら音が聞こえ始めた。
「食ってるのか?」
形容しがたい異様さに眉をひそめながら、ダインはそう呟く。
蠢く度、不気味に音が響く。肉を裂き、骨を折り、血や髄を啜る音。不規則に揺らぎ、躍動するその動きは次第に収まり、次いで膨らみ何かしらの形をとり始めた。
波打つように揺れるその体をゆっくりと変えていく闇。潰した球のような形から足のようなものが四つ脈動するような震えと共に生え、細く引き締まっていく。その姿形は鹿でもなく、また熊でもない。冬に村周りに現れる狼のような姿だとダインが思った瞬間、顔らしき位置に現れた穴から強烈な咆哮が発せられた。
金切り声と、獣の低い唸りを重ねたような強烈に不快なその響き。一呼吸、二呼吸、吠え続ける闇にダインはめまいと頭痛を覚え、視線を僅かに外して数歩後ずさる。
その意識の間隙を突いて、闇がハヤブサのような勢いでダイン目がけて突進した。
躱せたのは偶然であった。そもそも脚で駆けたすら定かではないような猛烈なスピードで突進する闇を、ダインはとっさに右に倒れて回避をする。
すぐ脇をすり抜ける闇に背筋の凍りつく思いをしながらもすぐさま身を翻し、闇の動きを追った。
勢いを出すと容易に止まれないのか、かなり離れた河原の岩に直撃した闇は打ち付けられたように醜く歪んでいる。少しの間をおいて闇はその体を起こし、その場で一つ身震いをすると元の狼のような形にすぐさま戻った。その身の縁は炎のように揺らめき始め、ダインはこれが現実かと信じられぬ表情で闇を見つめた。
手汗にまみれた山刀の柄を両手で握り直し、上がる呼吸を押さえる。単独で奇怪な相手と対峙している状況は流石に経験はない。最初の熊狩の時も歯の根が合わぬ程の緊張と恐怖があったが、今はそれ以上である。
あの動きは、恐らく狼が一番近いのだろうが動きは段違いに早く凄まじい。そもそもあの闇が体を掠めて果たして無事なのかどうか、掠っただけでも呪われそうである。
一切が未知数な中唯一の拠り所はこの握りしめた山刀であった。時間を拒絶し永遠を手に入れたこの山刀であれば、あの化け物にも対抗できるかもしれない。
闇はその頭をゆっくりとこちらに向ける。眼窩どころか、凹凸すらないつるりとした無機質な顔は輝きのない瑠璃のようであった。無貌ながらあるはずのない視線と得体のしれない威圧を感じ、ダインはどちらにでも跳べるよう少し腰を落とす。
狼と戦った経験はさすがにない。対応にしても突進の際に口蓋へ刃を叩きこむか、鼻を殴りつけるか。いずれにせよ突進を待ち寸分の違いなく一撃を当てなければならないが、あの闇に刺突が効くのかどうかは一切わからない。効くならば、岩への衝突時のような生き物でない故に生まれる“隙”を狙えば勝機がな幾分かはあるのだろうか。
闇はこちらを窺っているのか、僅かな身じろぎの他はその場から動かない。ほんの少しの睨み合いの後、最初に動いたのは闇であった。
一歩、二歩。ダインを前に忍び寄るような動作で数歩近づいた後、その貌が花弁が開くように裂け、大きく広がる。
「嘘だろ?」
生き物ではあり得ない不気味な変形にゾッとしたダインが、思わず漏らした声。それを合図に闇はその開いた顔のまま、恐ろしい勢いで飛び込んで来た。
あと十歩ほどの距離に達した瞬間、ダインはふと浮かんだ考えを試すべく大きく横へ飛ぶ。今対峙しているのが狼ならばこの距離で避けても即座に追いつかれ、喉元へ噛み付き肉を食いちぎるだろう。
しかし、闇はほぼ軌道を変える事無くダインの脇を風のように駆け抜け、その奥の立木へ衝突する。
ぶつかった闇は四方八方に開いたその貌を摘まむように閉じる。
ふた抱えもあるような丸太が粘土のように削り取られ、閉じた貌の中で咀嚼されていく様を絶望的な表情で見るが、これで確信が持てた。
あの闇は加速すると方向を変える事が出来ず、ある程度引きつけて横に跳べば回避が出来る。