2:予兆
重なり合う枝葉の間隙を陽光が貫き、地に細やかな彩りを描く。
葉擦れは汀の音に似て穏やかであり、地に生える植物は大木に遠慮するように低く地面に広がっていた。
正午を過ぎた森の静寂の包み込むような心地よさ。しかし誰もが皆享受出来るわけではない。羽虫に蛇、大小あらゆる獣。何事をも愉しむにもコツと慣れが必要であり、それは世の常である。
その森の奥で木々の囁きに重なるように、繊細な笛の音が響く。
木々が生えるのを避けたような、小さく開けた広場の中央。武骨に鎮座する岩塊の上で一人の少年が胡坐をかき、双眸を閉ざして一心に白銀の横笛を吹いていた。
丁寧に鞣した茶の革靴を鹿革の紐で結び、青、茶、緑等多種の色を織り込んだ装束を黒い帯で締めている。服の端は青く染め抜かれた紐で邪魔にならぬよう纏められていた。帯に据えられた横笛入れは鹿の皮をなめしたもので陽光を受け僅かに黒光りをしている。
少年はふと演奏を辞め、顔を上げ天を仰いだ。風が撫でる髪は新月の夜に似た混じり気のない黒であり、銀の横笛に映る瞳は若い牡鹿のような鮮やかな茶色である。僅かに細められたその眼差しには年不相応の力強さがあった。
開けた空を少しばかり見つめ、次いで気の抜けた表情になると少年は小さく溜息を吐く。
「もうそろそろ狩らなきゃな。」
声色に少々の諦観が混じる。次いで座る石の脇の大振りな弓と荒い作りの矢に視線を移した。
日々こうして、森の奥で横笛の演奏が出来るわけではない。
山奥の生活というのは忙しい。
日中の生活の殆どを農耕或いは狩りが占める。街道から離れた山奥の村にあって、購入という行為は限られた機会で行うものであり、基本あらゆるもの、食料はもちろん衣服、鉄ではない食器などを自らの手で作り、修理をしなければならない。幸い地下水が豊富な為水に関しての苦労はないものの、自由時間は家畜の世話も終わった寝る前の僅かな間だけである。
斯様な村生活の中である程度自由に時間を確保する、それが可能なのは狩人に他ならなかった。朝に村を発った後は自らの裁量でその日の作業が決まる為、ある程度の獲物を手にできれば多少自由に過ごす時間が確保出来るのである。
森は猛獣に遭遇する危険がある。しかし横笛を充分に吹けるという期待が彼を狩人への道へと進ませたのである。不思議なくらい手になじむこの横笛はダインの父の形見であり、母もとうの昔に失った今わずかな両親と自分を繋ぎ止めるものとして、この手元に置いておきたいというのが彼の本心であった。
少年は大きく伸びをすると、腰の笛入れに横笛を仕舞い荒布できつく口を縛る。緩慢な動作で立ち上がると弓矢を掴んで岩から飛び降りたその矢先、
「おい、お前ダインか?」
突如として掛けられる声に驚いて振り返ると、大柄な壮年の男が少年を見下ろしていた。乱雑につぎを当てた荒布を纏い腰帯は元の色がわからない程褪せている。その腰帯には大振りの山刀二振り、背には固定した弓。左頬を横切る深い傷跡をそのたてがみのような黒髪が僅かに隠している。
ダインと呼ばれた少年は表情を僅かに強張らせ、横笛入れを腕で隠すように少し半身を引きながら口を開いた。
「ベゼルさん、どうしてここに?」
「どうしてもクソも、北の森を散々歩き回ったのに鹿はおろか兎の一匹もいやしねえ。仕方なしに西の川を越えて獲物を探してたら、お前がいたってわけだ。」
嘆息ついでに、そういや森で会うのは初めてだな、とベゼルが言う。
ダインの親族は妹と叔母が一人。痩せた耕地を耕す叔母のところへ行くたびに、ダインは辛辣な言葉をかけられていた。要は養いきれないという話である。狩人になった理由も叔母から逃げる為という部分がある程度はあった。獲物を届けるようになってからは叔母の物腰も幾分柔らかくなったが、打ち解けたとは口が裂けても言えない。同世代のいない村に於いて今まで親族以外と会話をすることはほぼなく、唯一の例外は村の狩人を仕切るベゼルだったがそれも挨拶程度である。
「なあダイン。いや別に笛吹いてたって文句は言わねえよ。」
村で一度も見たことのない表情をする彼の様子に苦笑しながらベゼルは肩を竦めた。
「俺たちは自由なんだ。獲物を持って帰ればそれでいい。だろ?よくわからん遠慮をしてこんな西の果てまで来て笛吹かなくたって…。」
誰が気にするんだ、とベゼルが訊ねるとダインは頭を掻いて僅かに視線を外す。
「あまり人に知られたくないし、一人で吹いているのが楽だから。」
「こんな山奥でか?人目を避けすぎるのもどうかと思うぜ。まあいい仕上がりで人の耳に届けたいってんならわからんでもないがな。」
肩をすくめてベゼルは嘆息した。
「まあいい。嫌なら黙っとくさ。でもお前、可能なら村の祭りで吹きたいんだろ?」
にやっとしてそういうベゼルにダインは頬を掻き、小さく頷く。
「でもまだ巧くないし、それにいつ練習してたんだって文句つけられるのがオチだよ。笛吹きを目指すやつの家からは夜練習の音が聞こえる。皆それで誰が笛吹きになりたがってるか知るんだから。」
春も遅いこの時期に村の祭りが執り行われ、その中で笛の吹き手が非常に重要な役割を担う。祭りは前半の儀式と後半の酒の入った宴とに分かれていて、前半の儀式の最後に笛の音を天に上奏する。その時選ばれた吹き手は村に伝わる白銀の笛を手に、村人が見守る中笛を吹くのである。非常に印象的なその儀式を、ダインは横笛を手に入れた時から意識はしていたが自分がそこで吹けるとは微塵も考えなかった。そもそも練習は農閑期にするものであって狩人にそれはない。ばかりか農閑期こそ獲物を期待されるのである。
「もしうまく吹けたとしても、怪訝な顔をされるだけだから、そんな中で笛を吹きたくはない。」
「あんだけ吹ければ充分だろうに。全く面倒なこった。まあいい。知られたくないなら黙っといてやる。…それより。」
ベゼルはダインを険しい目で見遣る。
「北の森から一切の獲物が消えた。兎も鹿も、狩れる生き物一切がだ。…俺が親父から、親父は爺さんから、爺さんはひい爺さんから伝えられた警告がある。森から一切の動物が消えたら森から離れろ、だ。ざっと見た北の森そしてこの西の森、兎の糞の一つも見当たらなかったからふっとその言葉を思い出してな。」
ダインは怪訝そうな目でベゼルを見た。村からこの森の奥の広場までは一気に駆け抜けるのが常であり、今日も森の状態がどうであったか別段気にかけることをしなかった。森は常日頃と特に変わらぬ様子だとダインは思うも、ベゼルはそんな彼の胸中を見透かし眉をしかめた。
「どうせここまで急いでいて注意を払わなかったんだろう?わかんねえか、ここもおかしい。」
ダインはベゼルの言葉に首を僅かに傾げ、周囲を見る。
普段と変わらない、いつもの広場。空は雲一つなく、差し込む光が木の葉で揺らめく。風に擦れる木の葉の音を少し聴き、次いではっとした表情でダインはベゼルを見た。
「鳥がいない。…鳴き声が、一つも聞こえない。」
「そうだろう。蛇や虫は多少いたがな、それも普段より少ない。移動した形跡もあるが、少ないんだ。まるで消えたみたいにな。」
何が起きてるんだか、と呟くと、ベゼルはおもむろに腰に二つある肉厚の山刀の内、一つを手に取ってダインに投げた。
掴んだ右手に伝わる重量。片手で振るには少々重いそれをダインは両手で支える。鉄の柄を握り鹿皮の鞘から少しばかり抜くと、傷一つない刀身が陽を弾き金色に輝いていた。刃のは見慣れぬ刻印があり、それは模様にも文字にも見える。ダインが顔を上げると、その疑問に満ちた表情が予想通りだったのかにやりと笑ってベゼルは口を開いた。
「そいつはひい爺さんの持ち物でな。なんでも行き倒れになりかけた旅人を助けた礼だとかで二振りもらったうちの一本なんだが、刀身に傷一つないだろ?」
陽を弾く眩しさに、目を細めつつその刃を眺めるが、確かに傷、刃こぼれが一切見当たらない。造られたばかりかのようなその美しさは、
「まるで時間が止まってるみたいだ…。」
思わずそう呟いたダインの言葉にベゼルはほう、と小さく感嘆の声を漏らした。
「そう、ひい爺さんの話だと、エルフの魔術で完成した瞬間から時間が止められていると旅人が説明したらしい。絶対に錆びず、刃こぼれしないってな。いや俺もそんな馬鹿なとは思った。だがひい爺さんもひい爺さんも、そして爺さんに死んだ親父もそいつを毎晩布で拭うだけで一切手入れしていないって話だ。親父から受け継いだ際に、試しにそいつで岩を思いっきり殴ってみたこともあったんだが、何回やってもこの薄い刃先に傷も刃こぼれもない。そもそもこんな金属見たことねえ。」
エルフにあったら訊いてみてえがそうそう会えるもんじゃねえからな、とベゼルは付け加える。
ここよりさらに北方の森の狩人は、稀に森を彷徨うエルフと出会うことがあるという話を以前、ダインはベゼルから聞き及んだことがある。森に生きる人とも妖精ともしれぬその種族は非常に美しい姿をしていると言う。人とほぼ変わりない姿だが、流れるように後ろに伸びる耳と天の高殿のような澄んだ青い瞳が人と大きく違う特徴だということだった。北の山の奥の森、そのさらに深部、人の近寄らぬ奥地に居を構え、野菜と木の実、川魚を食べて生きその体は寿命が尽きることがないという。エルフは厳格な縄張り意識と土地への愛着がある種族で相当な変わり者以外住んでいる領域から出ることはない。必然的に遭遇は伝説化され、更にその持ち物となると真っ当なお宝と呼んで差支えない代物である。
「でも、なんで俺に「黙って受け取っとけ。」」
ダインの疑問はベゼルに一蹴される。
「雑な扱いしてるが代々受け継いだ代物、何があっても誰にも貸しはしねえ。」
普段はな、と一言置いてベゼルはさっと周囲を見回す。老木のような眉間の深い皺が一層深くなるその表情は警戒と幾ばくかの不安が滲んでいた。
「今日は例外だ。森がおかしい。何が出るってわけじゃないが、出てくるかもしれない。勘で悪いが嫌な予感がするんだ。」
困惑と焦燥の混ざるベゼルの表情にダインは山刀を返しかけた手を僅かに引込める。
「確かに少し村から距離はあるけど、でも大丈夫だよ。何か狩ったらすぐに戻るから。」
「いや、狩りはやめておけ。死んだ親父の口癖だが『漏らしてから便所に行くようなことをするな』ってわけだ。手遅れになってから動いちゃ意味がねえ。いや何もなけりゃそれでいいんだ。だが何かあった時に、」
そいつじゃ役にたたねえだろ、とダインの弓に括り付けてある小刀を見てベゼルは首を振った。
「森に入った他の奴には戻れと伝えてある。…急げよ。」
俺はもう少し西の端まで見て回る、とベゼルはそう残して踵を返すとあっという間に森の陰間へと消えて行った。
一人になって急に不安を感じダインは側の岩に背を預けた。いざ森の異変を意識すると、どうにもこの静寂が不気味なものに感じてしまう。とても笛を吹く気にはならなかった。
しかし、今日はまだ獲物を得ていない。脳裏に浮かぶ叔母の表情は憤怒に満ちており、ダインは溜息をついた。
獲物なしでは村に戻られない。激怒した叔母は会話にならぬばかりか、その畑を手伝う妹にまで累が及ぶ。ダインは日頃利用する猟場を一つだけ回ろうと思い、ふと右手に握ったままの山刀を見る。
春謂えど晴天直下の陽光は貫くような眩さであり、目に直撃を受けてしまい顔を背け鞘へと仕舞い込む。その際に刀身と鍔に刻まれた模様がわずかに発光した事に、ダインは気づかなかった。
「まあ、ベゼルさんが異常に運が悪かっただけ…ってことはないか。」
異常な事態が更なる災厄を呼び込むと彼は踏んでいるのだろう。化け物弓とこの山刀で対処できることを祈るばかりである。
そっと山刀を帯に差すと、ダインは弓矢を担ぎ直す。これだけ広大な森で獲物が残らず消えるとは考えにくい。それに生きている以上、必ず水を飲む。
日はまだ高く、多少足を延ばしても日暮れまでには村に戻ることが出来る。少し南の水場へ行くと決めると、ダインは山刀を腰にしっかりと括り付け、一度周囲を不安げに見回した後少し速足で広場を去った。