セイくんとチヨさんの一筆箋
トレード・オフ:片方を追求すると、もう片方を犠牲にしないといけない関係のこと。例えば、駅の数を増やせば利用しやすくなるが、移動にかかる時間も長くなる。失業者が少なくなれば景気が上向くが、物の値段も上がる
あちらを立てればこちらが立たず、両方立てれば身が立たぬ。
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セイくんへ
今日も厨房は、大忙し。
暖かかったので、バターがベタベタになっていました。
おかげで、わたしのエプロンは油染みだらけです。
チヨ
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チヨさんへ
もう、バターが溶けてしまうような季節なんですね。
自然が残る街と違い、ここには人工物しかありません。
草花や土の匂いが恋しいです。
セイ
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セイくんへ
研究所から外へ出られないのは不便ですね。
お庭では、×××××がキレイな花を咲かせています。
街に戻ってくる日を楽しみに待ってますね。
チヨ
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チヨさんへ
どうやら、花の名前が検閲に引っ掛かったようです。
でも、あの庭に咲く花は全て覚えていますから、ご安心を。
今年も、砂糖漬けにするのでしょうか?
セイ
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セイくんへ
もちろんですよ。あと、×××××のジャムも作ってます。
摘んだあとに指をみたら、真っ赤になっていました。
いっぱい出来たので、セイくんのお母さんにもお裾分けしました。
チヨ
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チヨさんへ
ジャムをありがとう。
ただ、検疫に引っ掛かって送り返されたのが残念です。
思わず、己の数学的才能を捨ててしまいたくなりました。
セイ
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セイくんへ
他人の恨みを買うようなことを言っちゃ駄目ですよ。
今度、同じようなことを言ってごらんなさい。
街に帰って来たときに麺棒で叩き出しますからね。
チヨ
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チヨさんへ
育ててくれた街の人たちに失礼な発言でしたね。
撤回して、研究に勤しむことを約束します。
麺棒で伸すのは生地だけにしてください。
セイ
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セイくんへ
塩漬け肉や野菜が品薄になってきました。
売り場のバスケットは、茶色いパンばかりです。
お庭で採れる×××××だけが、彩りを添えています。
チヨ
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チヨさんへ
あの樹は、今年も実を結んだのですね。
こちらからも、お知らせを。
近いうちに一度、街に戻れることになりました。
セイ
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セイくんへ
喜びすぎて、テーブルの脚に膝をぶつけてしまいました。
×××××をコンポートにして待ってますね。
帰ってくるのが待ち遠しいです。
チヨ
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チヨさんへ
翡翠月の十日に立ち寄ることになりました。
僕も再会が楽しみです。
膝、大丈夫?
セイ
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セイくんへ
お砂糖だけだったのに、バターまで配給になってしまいました。
卵も、赤みが減ったように感じます。
早く、好きなものを好きなだけ買えるようにならないものかしら。
チヨ
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「セイくん、お帰りなさい!」
「おっと。急に飛び付かないでよ。――ただいま、チヨさん」
「セイくん、おなか空いてる? 今日はセイくんのために、たくさんパンを焼いて待ってたの」
「本当? 嬉しいな」
「店のほうが賑やかだと思ったら」
「久し振りね」
「ご無沙汰してます。おじさん、おばさん」
「ゆっくりして行きなさい」
「チヨ。あまりセイくんを困らせるんじゃないわよ?」
「はぁい」
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「この味は、懐かしいなぁ。研究所の食事は、味気無い栄養食ばかりだから、食欲が湧かないんだよね」
「そのせいで痩せたのね。駄目よ、しっかり食べないと」
「それに、こうやって他愛もない話をしながら一緒に食べる人がいないから」
「そうなんだ」
「ずっと、ここに居たいよ。帰りたくないなぁ」
「わたしも、そばにいて欲しいわ。……いつまで」
「ん? 何?」
「いえ、その。いつまで、セイくんの研究は続くの? いつまで、わたしとセイくんは、手紙だけで気持ちを伝え合わなきゃいけないの? いつまで、この生活が続くの?」
「チヨさん」
「ねぇ、いつまで?」
「チヨさん!」
「ハッ」
「辛い思いをさせてたんだね。ごめん」
「セイ、くん? あのね。抱き付くのは結構なんだけど、そのね。腕を自由にさせてもらえるかしら?」
「あぁ、ごめん。……これで良い?」
「ありがとう」
「……一つだけ」
「えっ?」
「一緒にいられる方法が、一つだけあるんだ」
*
「それじゃあ、この街には戻って来られないのね?」
「そういうことに」
「どうしてよ? 研究が終わったら、この街に帰ってくるものだと思ってたのに」
「騙したつもりは無かったんだ。でも、知りすぎてしまったんだよ」
「わたしは嫌よ。帰さないわ」
「チヨさん」
「だって、おかしいじゃない。何様のつもり? 他人の人生を滅茶苦茶にしてまで、何を研究してるのよ!」
「それを言ってしまったら、チヨさんも僕も、無事では済まない」
「住み慣れたこの街を離れるのも、セイくんと会えなくなるのも、どっちも選べないわ」
「二つに一つなんだ。そういう運命なんだよ」
「こんなこと、ありえないわ」
「受け容れられないだろうけど、所長に引き抜かれた時点で、全ては決まっていたことなんだ」
「そんな」
「あっ、チヨさん。待って」
「来ないで」
「チヨさん」
「近付かないで」
「……分かったよ」
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「お邪魔しました」
「もう帰るのかい?」
「もっと長居して行ってちょうだいよ」
「いえ。そろそろ戻らないと」
「そうか。まっ。しっかりやりなさい」
「気を付けて」
「お世話になりました。失礼します」
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チヨさんへ
この手紙を読んでいるということは、街に残ったということですね。
僕は新しくできた研究所へ移ります。二度と姿を現すことは無いでしょう。
さようなら。
セイ