私の道は前にのみ!
何とか書けました!
『…もう一度、ふたりで会って?ちゃんと話がしたいんだ。晴海、お願いだから…』
相変わらずの留守電の内容にため息が出る。
迷わず消去。
何故に今さら25にもなる男に甘えたような声で懇願されないといけないのだ。
聞かなきゃよかった。
10年付き合った幼馴染み兼浮気男の福井 彰と別れて1ヶ月が経ったが、懲りもせず彰は私に絡んでくる。
浮気相手の智子とお腹の子供の件がどうなったのかは知らないが、彰の様子からきちんと話し合ってはいないだろう事が伺える。
何せこの1ヶ月、私に絡み過ぎだから。
時間さえあればまとわりついてると言った方がいいか。
こうなると職場が同じというのは不便だ。私が何処にいたってすぐに見付けてやって来る。
職場で私が行く場所なんて決まってるしね。
…っていうか、女の尻を追いかけてないでちゃんと仕事しなさいよ!
ただ良い点は、ちょろちょろとまとわりつく彰に職場で怒鳴るわけにもいかず、うんざりしていると誰か彼かが助けに入ってくれることかな。
職場で彰と付き合っている事を隠していなかったから、雰囲気が変わった私達に周りの人達は色々と察してくれたんだろう。
わざわざ言葉にしなくても察してくれたのは有り難い。
過去に同じ会社の女の子と浮気したりしたのも周りは知ってるしね。
浮気相手の女の子、私に対してあからさまだったし。
寧ろなんで今まで別れなかったのか不思議に思われていたようだ。
…ですよね。
何で10年もあんな浮気男と付き合ってたんだか。
我ながら謎だったけど、この1ヶ月、今まで彰に使っていた時間をフルに使って考えてみた。
同じ失敗を繰り返すつもりは無いからね、今のうちに反省しておこう。
そもそも、私と彰は家が近所の幼馴染みだ。
…ついでに智子も。
歳の離れた弟と妹のいる私は近所でもしっかりもののお姉ちゃんで通っていた。反対に彰はひとりっ子で母親に溺愛されてたし、智子は上に男ばかり3人の4人兄弟の末っ子。
初の女の子の赤ちゃんでみんなに生まれたときから溺愛されまくっていたらしい。
小さな時から甘やかされて育った2人は甘えられる存在を見付けるのが天才的に上手かった。
そして2人は自他共に認めるしっかりものの私に速攻で依存した。
親兄弟がいない時には私から離れなかったもんなぁ。
今にして思えば、私も2人を甘やかし過ぎたのだろう。
小さな兄弟がいる私は頼られる事が普通だったし、2人に対してもその延長気分だったのだ。
でも、いくらしっかりしていても所詮は子供の私、同じ歳の子を甘やかすといったって大人のように出来る訳では無い。
中学生くらいになると智子はさっさと甘やかしてくれそうな2つ歳上の先輩と付き合いだした。
子供の2歳差は大きいからねぇ。
智子がいなくなった後も、彰は私から離れず、そのまま中学の卒業式に彰に告白されて、流されるままに付き合いだして今に至る、と。
まあ、もう別れたけどさ。
う〜ん。
こうやって考えると、彰と付き合ったのって甘やかしの延長?
そうだったら我ながら最悪だな。
まあ、肉体関係はあった訳だし、全部が全部甘やかしの延長じゃないだろうとは思いたい。
さすがに愛情が無いとそんな事は出来ん。
過去の彰の浮気にその都度何も思わなかった訳じゃないが、優柔不断なところとか八方美人なところがある彰だからと諦めていた部分もある。
諦められる時点で自分の気持ちが怪しいことに気が付くべきだった。
本当に好きなら簡単に諦められないだろうし、ひょっこり何事も無かったような顔をして戻ってきた相手を受け入れられないだろう。
「あ〜。私って自分で思ってたより馬鹿だったんだなぁ」
思わず独り言もでちゃうわい。
今度誰かと付き合うときは、流されること無く自分の気持ちがはっきりしてから付き合おう。
…なんて考えてたら思考に浮かんでくる人。
上司の上田 一臣さん。
彰と別れたあの日、一緒に天ぷらなんぞを食べてくれた人。
私に、ゆっくりで良いから自分との事を考えてくれないかと言ってくれた人。
時々、瞳の奥に見えない何かを灯している人。
柔和な見た目に反した何かを隠し持っていそうな人。
あの日から、少しずつ上田課長との距離は近付いていると思う。
さりげない、スキンシップとも呼べないような触れ合いに年甲斐も無くときめいてしまっている。
背の高い彼に相応しい大きな手が、肩や手に触れるたびに自分とは違う体温にどきどきする。
惹かれている、と思う。
でも、まだあの瞳の奥を覗き込む勇気は無い。
飛び込むにはあと一歩、何かきっかけが欲しいなぁ。
次の日。
今日は彰が1日外出だから、邪魔が入らなくて久々にのびのび仕事が出来るわ〜。
午前中だけで凄い捗ったな〜、なんて鼻唄でも歌いたい気分だった。
昼休みになり、皆がお昼を食べる為に社食に行ったり外に出たりするなか私は鞄からお弁当を取り出す。
節約の為にもたまにお弁当を作るようにしてるんだよね。
今日は珍しく皆外に出たらしく、お弁当組は私だけ。
静かなフロアは若干寂しい。
「さて、給湯室にお茶でも淹れに行きますかね」
人が2〜3人も入ったらいっぱいになりそうな給湯室。
お湯を沸かしている間に、棚から自分のマグカップを出し急須に茶葉を適当に入れて用意する。
ちゃんとしたお茶の淹れ方は知ってるけど、自分の分だけだから適当でいいわ。
「あれ?井上さん、今日はお弁当なの?」
「!」
突然後ろから掛けられた声に慌てて振り返ると、上田課長が片手に紙袋を抱えて立っていた。
「ごめんね、びっくりさせたかな?」
「い、いえ、大丈夫です」
「今日はお昼をパンにしたからコーヒーでも淹れようと思ってさ」
上田課長が抱えていた紙袋を持ち上げて見せる。
会社の近所のパン屋さんの袋だ。
「ちょうど良かったですね、今お湯を沸かしてるところですよ」
棚から上田課長のマグカップを取り出し、インスタントコーヒーの粉を入れる。
「あ、ありがとう」
上田課長が笑顔でお礼を言ってくれるのに癒やされる。
そうだよね、何かして貰ったらお礼を言うのが普通なのよね。
比べるのも申し訳無いが、彰は私が彰の為にする事にあまりお礼を言わない。
昔は言っていた気もするが、ここ5年くらいで特に言わなくなったような?
あれは私がするのが当たり前だと思うようになったんだろうな。
まったく、ため息しか出ない。
「井上さん、何か疲れてる?」
「あ〜…、最近自分のアホさ加減に気付いてげんなりしてまして」
「そうなの?」
「はい。猛烈反省中です」
落ち込んでる私に上田課長は何を言うでもなくただ隣に立っている。
この距離感が心地良い。
原因を知りもしないのに、変にアドバイスや慰めを言われるのは鬱陶しいし、落ち込んでる理由を詮索されるのも勘弁して欲しい。
沸々と沸きだしたやかんの火を止めた上田課長の手がそっと私の手を取る。
「……」
お互い無言だが、彼の手の暖かさだけで十分に私は励まされているような気分だった。
「…井上さんて、綺麗な手をしてるよね」
「え?そ、そうですか?手荒れもしてるし、綺麗って言われる程じゃないと思いますが…」
上田課長からの突然のお褒めの言葉に戸惑う。
特に手入れをしている訳じゃないし、爪だってマニキュアを塗ったりしている訳じゃない。
何の変てつも無い普通の手だと思うけど…。
「特に僕は君の爪の形が好きだな」
上田課長は握っていた私の手を引き寄せ、口唇で触れる。
彼の少し濡れた柔らかい口唇の感触を指先に感じて、私の体温が一気に上がる。私の手を口唇に触れさせたままの彼の眼が私の眼を見つめる。
ああ…
また、上田課長の眼の奥に火が灯ったのを感じる。
まだ覗き込むまでの勇気は無い私に、彼はそっとその眼を伏せると私の手を離す。
「お腹空いたね、お湯も沸いたしお昼ご飯にしようか」
「…はい」
…恥ずかしい。
誰が来るかも分からない給湯室なんかで何をやっているんだ。
上田課長に少し恨めしげな顔で返事をしてしまったのは私のせいじゃない。
みんな嬉しそうに微笑んでいる上田課長が悪いんだ。
最近の上田課長と私のやり取りは概ねこんな感じ。
彼は自分の気持ちを隠さないが、明確な言葉で表現するのでは無く気持ちを態度で示してくる。
彰との付き合いでは無かった、くすぐったくなるようなやり取り。
夜な夜な思い出しては恥ずかしさに悶えてしまう。
そんな時に限って、上田課長は狙ったかのように電話してきてしどろもどろな応対をする私に嬉しそうにしている。
そういうところは意地が悪いと思う。
お互いの机でお昼ご飯を食べているけど、たまに合う視線にどきどきするとか、どこの中高生だよって自分に突っ込みを入れたい。
行儀悪く箸をがじがじとかじってしまいたい衝動を耐える。
にこにこ柔和な笑顔を浮かべてサンドイッチを食べている上田課長がちょっぴり憎いわ!
悶々とした気分でお弁当を食べ終え、お茶の残りを飲んでゆっくりしていると、フロアにお昼を済ませた人達がぱらぱらと帰ってきた。
空になったカップを片付けようと立ち上がった時、鞄の中の携帯が鳴り出した。
鞄から出して確認すると、電話は…智子からだった。
…鳴り続ける携帯に出るまで鳴らすぞっていう執念を感じるな。
昼休みの残り時間を確認して、仕方無く貴重な残りの休み時間を犠牲にする覚悟で鳴り続ける携帯を持ってフロアを離れることにする。
絶対にこんな所で話せるような内容じゃないだろうしな。
その時、背中に視線を感じたのは気のせいじゃないだろう。
滅多に人の来ない、古い資料保管室の机と椅子を拝借して、まだしつこく鳴り続けている携帯の通話ボタンを仕方なく押す。
『晴ちゃん、電話に出るの遅過ぎだよ!!』
第一声がそれか!!
…切ってもいいかな?今すぐに!
突如襲ってきた頭痛に、思わず頭を抱えてしまう。
『智子、いっぱい待ったんだから!』
何処から突っ込めば良い?
まずは、よく私に電話してこれたな、とか?
次が25にもなって自分の事を名前で呼ぶなって?
それとも、私は今日休みじゃないんだから、会社に居るの当たり前で、私用電話にそうそう簡単に出られる訳が無いってところ?
今さら私に何の用があるんだ、とか?
言いたい事は多々あった。
何処から言えば良いのか迷う程に。
『ちょっと!晴ちゃん、聞いてるの?』
…止めは何でそんなに馬鹿なの、で決まりね。
どういう育て方をしたらこんな風に育つんだろう?
彰と智子の事を知って…って言うか私がバラしたんだけど、智子のおじさんは私の家にぶっ飛んできて土下座で謝ったよ?
あんなまともなおじさんから、こんなお馬鹿が育つのか〜、不思議だわ〜。
『…晴ちゃん、もしかして智子の事、まだ怒ってるの?智子が彰くん取っちゃったから…』
通話状態になってからずっと無言の私に何か感じたのか、さすがの智子もさっきまでの勢いが無くなった。
…彰との事は《まだ》って言葉を使うほど前の事じゃなかったと思うんだけど?
1ヶ月位しか経ってない。
それにしても《もしかして》とか《まだ》とか、言葉のチョイスにいちいち腹が立つ。
私が彰に未練があるとか、まだ好きとかじゃないが、それとは別に、何で智子は私がもう怒ってないと思ってたんだ?
自分達のした事が分かってないのか?
それとも、2人を甘やかしまくってきた私が自分達に対しては何をしても怒らないとでも思っているのか?
本当に馬鹿だ。
本物だね、これは!
『で、でもね、彰くん晴ちゃんが仕事で忙しくて構ってくれないって寂しそうだったし!慰めてあげたくなったの!そ、それに智子昔から彰くんの事格好いいと思ってたんだもん!』
だもんってなんだ。
良い歳してみっともない。
社会人が生きていく為に仕事を優先するのは当然でしょう?
それでお金を貰って生活してるんだから!
それを構ってもらえないから寂しいってなんだ?
あいつは寂しいと死んじゃうウサギだったか?
慰めるって、身体でか?
昔から格好いいと思ってた?
私と彰が付き合う前に、さっさと自分で彼氏を作ったくせに、昔からだと?
その後、何人彼氏が変わったと思ってるんだ?
思考が走馬灯のようにぐるぐる回って気持ち悪い。
『なのに彰くん、あれから電話にも出てくれないし、家に行っても居留守して玄関開けてくれないの。晴ちゃん、どうしてだか知らない?』
「…まず。私に電話してくる意味が分からない」
『え?』
「彰と2人して仲良く私を裏切っておきながらよくまあ電話してこれたわね」
『だ、だって!』
「浮気と赤ちゃんの件をわざわざ私の誕生日前日に言ってくるとか最悪だし」
『……』
「赤ちゃんの事も、あんたと彰がこの先どうなるかも私には一切関係無いし興味も無い。私の人生からあんた達はもう消えたのよ?おじさんに土下座までさせたんだから、繋ぎ止めるためにみっともなく彰にすがればいいんじゃない?お腹に彰の子供もいるんだしね」
『そ、そんな…晴ちゃん酷い!!』
…酷いのはどっちだ。
「休み時間も終わるし、切るよ?鬱陶しいからもう2度と電話してこないでね」
『ちょっ!』
プツン
ツー、ツー
電話を切って、机にだらっと伏せる。
「つ、疲れた…」
最高に疲れたがこれでもう智子に振り回される事は無いだろう。
智子は甘やかしてくれる人にしか近付かないから、こんな風に批難されたり冷たい態度をとられることに慣れていない。
もう、自分を甘やかさないどころか批難すらするような私には近付かないだろう。
携帯の時計機能で今の時間を確認するとあと5分程で休みが終わるところだった。
「あ〜あ、つまんない事で貴重な時間を使ったなぁ」
やれやれとため息をつきながらフロアに戻る事にする。
…最近、ため息多いなぁ。
幸せ逃げまくってるんじゃなかろうか…
「…とりあえず、午後からもお仕事、頑張りますか」
…独り言も増えてるか?
午後6時過ぎ。
智子のせいで疲れきった心と身体に鞭打って、何とか乗りきった午後。
お腹減った…。
帰る前に机の上を片付けていると携帯がメールの着信を知らせてくる。
《晩ご飯、一緒に食べに行かないかな?》
上田課長からのメール。
確認した後、顔を上げるとこちらを見ている上田課長と眼が合った。
彼も机の上の書類なんかを片付け、帰る準備をしていた。
《美味しいピザが食べたいです》
返信完了。
上田課長が確認している間に、皆に挨拶をしてフロアを出る。
あれから何度も上田課長とは一緒にご飯を食べている。
さすがに2人揃って一緒に会社を出る事はしない。
いつも会社からちょっと離れた所で待ち合わせている。
待ち合わせ場所に着いて、仕事中にきていた友人からのメールに返信を打ったりメールマガジンを読んだりして時間を潰していると、そんなに待たないうちに後ろから肩を叩かれた。
「早かったです…ね」
振り返った先に居たのは何故か彰だった。
何でだ!?
「ちょうど会社に着いた時に晴海が出てきて…晴美と話がしたかったから付いて来ちゃった」
付いて来ちゃったって…お前はストーカーか!
油断した、今日は1日外回りだったから、そのまま直帰すると思ってたよ!
内心、あちゃーと思っているが、意地でも顔には出さない。
「なんであれから電話に出てくれないの?家に行っても入れてくれないし」
…なんか今日、同じ内容の話を聞いた気がするな。
「私と彰は別れたはずだけど?何で別れた男と用事も無いのに電話で話したり、ましてや自宅に入れなくちゃならないの?」
「俺は晴美と別れたりなんかしてない!!」
「ちょっと!こんなとこで大きな声出さないでよ!」
何が悲しくてこんな街中で修羅場らないといけないのか。
周りの視線が痛いわ!
「どこか個室で話しましょうか」
そこに落ち着いた低い声が乱入。
今度こそ、待ち人の上田課長だった。
「な…何で上田課長がここに?」
「井上さんとここで待ち合わせしていたもので」
「晴美と?」
まさか上田課長が登場するとは思ってもいなかった彰は最初きょとんとしていたが、私との待ち合わせと聞いて眉間に皺を寄せる。
「どういうこと?何で晴美と上田課長が待ち合わせするの!?」
「話は個室に行ってからにしましょう。こんな場所でする話じゃない」
癇癪を起こしたように私に怒鳴る彰を上田課長がさらりとたしなめる。
完璧子供扱いだな。
そしてスマホをスーツの内ポケットから取り出すとどこかに電話している。
その間もイライラしている彰はじっと上田課長を睨んでいる。
そんな2人を見ながら、今日は厄日かなんて私が嘆いていたのは仕方がないことだと思う。
何で1日に2人も馬鹿の相手をしないといけないんだろう。
智子だけで十分だよ。
それにしても、お腹空きまくりなんだけどな。
これからどうするのかな?
美味しいピザ食べたかったな。
こんな修羅場でもお腹が普通に空くって、私の神経かなり図太いみたい。
待つこと3分、電話を切った上田課長が私に微笑む。
「井上さん、お腹空いたでしょう?リクエストのピザの美味しいお店、個室を予約したから行きましょう」
上田課長、最高です!!
上田課長お勧めのお店はこじんまりとした可愛い外観のお店で、待ち合わせ場所から歩いて5分くらいの所にあった。
不機嫌な彰のお陰で無言でざくざく歩いたから、余計に早く着いたのかもしれないけど。
お店に着くとすぐ、待たされる事もなく店員さんに奥の個室に通された。
名前の確認されて無かったから、上田課長は結構この店を利用してるのかもしれない。
こんな時でもなかったら、入り口近くにあった大きなピザ釜の側の席に座りたかったな。
四人掛けの丸テーブル。
とりあえず私が真ん中に挟まる形で落ち着いた。
先に飲み物の注文と上田課長お勧めのピザ2種類と他にサラダとホタテのカルパッチョを頼んだ。
「ここパスタも美味しいんだけど、それはまた今度ね」
「はい!パスタ楽しみ!」
親しげな私達に彰の眉間の皺はますます深くなる。
「個室に着いたんだから、話してくれるんですよね?」
犬とかだったら唸り声をあげてそうな顔だわね。
「せっかちだね。折角だから食事してから話そうと思ったのに」
おお!
上田課長、大人の余裕が感じられるよ!
「っ!ふざけないで下さい!俺は話をするって言うからここまで来たんです!」
「いくら個室だからって、あまり大きな声を出さないようにね。とりあえず、飲み物が来るまで待ちなさい」
彰の癇癪を上田課長は軽やかにスルー。
素敵です!
飲み物はすぐに持ってきてくれた。
あそこで始めなくて良かったよ。
その時に上田課長は店員さんに料理を持ってくるのはもうちょっと後にしてくれと注文していた。
私と彰より10歳歳上の上田課長はこんな時に凄く大人の男の人なんだなと感じる。
勿論、仕事の時とか経験の差を感じるけど、プライベートで上田課長と話すときに歳の差をあまり感じた事が無かったから、きゃんきゃん吠える彰を余裕でいなす上田課長にそんな場合じゃないのにどきどきする。
「さて、何で僕と井上さんが待ち合わせをしていたか、だっけ?」
「…そうです」
余裕の上田課長に不満そうに答える彰。
膨れっ面が本当に子供みたいだ。
「待ち合わせしていた理由は食事に行く約束をしていたからだよ」
「2人だけでですか?」
「勿論。他の人もいるならわざわざ会社の外でなんか待ち合わせたりしないよ。皆で連れだって行くさ」
彰が奥歯を噛み締める音が聞こえてくるようだ。
「…上田課長と待ち合わせようが何しようが今更彰にはなんの関係も無いと思うんだけど?」
上田課長だけに任せる訳にはいかない。
元々は私の問題だ。
「さっきも言ったように、あの日あの場所で私と彰の関係は終わったの。彼氏面されても困るわ」
「俺も言ったよ!俺は晴海と別れたつもりは無いって!晴海が一方的に言って店から出ていっちゃっただけでしょ!?」
昼間も感じた疲労感がまた押し寄せてくる。
「あのね、貴女は智子と浮気したんでしょ?それで、智子には子供が出来た。別れるに十分な理由よね?自分のした事くらい分かってるわよね?」
とりあえず、分かりやすく言い聞かせてみる。
「だって、晴海が仕事ばっかりで俺の事放置してるから寂しくて…。智子が妊娠したって電話してきたけど、本当かどうか分からないし、妊娠してても俺の子とは限らないでしょ?」
…馬鹿ウサギ。
いや、寧ろウサギに謝れ。
確かに智子が本当に妊娠してるかは分からない。
もし妊娠が本当だとしても、彼氏が切れた事がない智子だもの、子供が絶対に彰の子とは言えないかもしれない。
けど……
「そういうの、智子と話し合ってくれない?私、あんた達の問題に巻き込まれたくない」
「な!なんで…」
「え?私何か変な事言った?私を裏切った2人が揉めるのに何で巻き込まれなくちゃいけないの?私、一応被害者なんだけど」
「…なんでそんな冷たい事言うの?晴海いままでそんな事言ったことないじゃん。何かあった時はいつも一緒にいてくれたし!」
25にもなった男がこれか…。
彰にしても智子にしても、いつからか成長が止まっちゃってるみたいだな。
私や皆に甘やかされて心が成長しないままこの歳になっちゃったんだろう。
私にも甘やかした責任はあるのかもしれないが、これ以上甘やかし続ける訳にもいかない。
お互いの為にならん。
彰も智子も手遅れになる前に気が付くべきなんだ。
「福井君、君は随分と井上さんに甘やかされてきたんだね」
黙って私達のやり取りを聞いていた上田課長が口を開く。
「何処までも自分を甘やかしてくれる彼女に依存するのは楽だっただろう?」
「な、何で課長にそんな事言われないといけないんですか!?俺は晴海が好きだから一緒にいたんです!楽だからなんかじゃない!」
「じゃあなんで浮気をしたりしたんだい?井上さんが好きだったら浮気なんてする必要無いだろう?寂しいからは理由にならないよ。そんなのが理由になるなら、世界中が浮気者だらけになってしまう」
「か、彼女達は俺を頼ってくれたんです!仕事とか色々。それで…」
「普段井上さんに甘やかされてばかりの君を頼りにしてくれたんだ。そりゃあ君だって男だもの、可愛い女の子に頼られたら嬉しいよね。でも、君は人から頼られるより自分が甘やかされたい人間だろう?」
…全くだ。
上田課長、彰をよく見てるな。
彰本人より彰に詳しいかもしれない。
「だから結局は自分を無条件に甘やかしてくれる井上さんの所に帰る」
「……」
彰は無言で俯いている。
「私も悪かったとは思ってるのよ?」
「…晴海?」
「彰を甘やかすばかりじゃなく、もっと叱り飛ばしておけば良かった」
彰がビクッと震える。
「ただ、私はもう後ろを振り向く気はまったく無いし、前に進みたいのよね」
「…どういう意味?」
「私にとって彰の事はもう過去な訳。振り返る価値が無いの」
彰が泣きそうな顔をして私を見ている。
でも、容赦する訳にはいかない。
「だからもう、本当におしまい。彰もあの指輪と一緒に過去は捨てちゃって。これからは幼馴染みなのは変わらないけど、ただの同僚でいて」
彰の顔を真っ直ぐに見つめたまま言い切った。
彰の顔が歪む。
「…今日はもう帰って、気持ちの整理をした方がいい」
上田課長に促され、反抗する気力も無いのかふらふらと立ち上がる彰。
その背中を押した上田課長と2人で個室から出て行く。
それを見送った私は咽の渇きに気が付き、手元にあったグラスの中身を一気に煽った。
「は〜…」
ここ1ヶ月程で癖になった大きなため息をひとつ。
どうやら緊張していたらしい。
ぐったりだ。
「福井君はタクシーに乗せて帰らせたよ」
上田課長が戻ってくる。
「あのまま電車で帰るのはキツイだろうしね」
涙目の男が1人で電車に乗ってるとか微妙よね。
タクシーならじろじろ見られる訳じゃないし良いと思います!
「料理も運んでくれるよう頼んできたから、ちょっと待ってね。あと飲み物同じので良いのかな?」
「…一から十まですみません」
上田課長、スマート過ぎます。
超人ですか!?
お勧めのピザ、最高でした。
サラダとカルパッチョも独自の工夫をしているそうでとっても美味しかった!
今度のパスタも期待出来そうだ。
上田課長と並んで歩きながら、さっきまで食べた料理の事なんかを思い出す。
そうでもしないと、最後の泣きそうな彰の顔を思い出すから。
「ねえ、井上さん」
「はい?」
「福井君の事はもう過去なんだよね?」
「そうですね。大丈夫です、今更後ろを振り向く気はありませんよ」
彰に対する甘やかし病を再発させてはいけない。
そんな事になったら、彰共々いつか暴発しちゃうよ。
「福井君が過去になったんだったら、これからの君の未来には僕がいてもいいかな?」
真っ直ぐ前を向いて歩く上田課長の大きな手が私の手に絡み付く。
「僕が触れる事を拒絶しない君に期待してもいいのかな?」
低いくせに、不思議と良く通る上田課長の声が心地良い。
手を繋いだまま、ゆったりとした歩調で歩き続ける。
返事をしないまま黙って歩く私を気にした風も無く、上田課長は話続ける。
「もしかしたら僕は福井君以上に君に執着するかもしれないけど…」
上田課長の眼を思い出す。今まで何が隠れているのか怖くて見られなかった瞳の奥。
怖いけど、彼の中を覗き込んでしまいたい、好奇心にも似た感情が沸き上がる。
勇気さえ出せば彼の眼の奥を覗き込む機会はいくつも転がっていた。
後は私が一歩踏み出すだけだろう。
立ち止まり顔を上げ、高い位置にある彼の顔を見つめる。
突然歩みを止めた私を上田課長が見下ろす。
重なる視線。
「…君は僕を受け入れてくれる?」
その言葉にどれだけの意味が込められているんだろう。
私の手を握る上田課長の手に若干力が籠る。
いつもの柔和な雰囲気とは違う彼の真剣な眼差しに心臓が破裂しそうになる。
見え掛けている瞳の奥の不思議な輝きにどうしようも無く心惹かれる。
「…晴海?」
不意に呼ばれた名前に握られたままの手が震えた。
「私は…貴方の全てが見たい。知りたい…。貴方はそれを私に許してくれますか?」
私の言葉に上田課長が笑みを浮かべる。
それはいつもの柔和な微笑みでは無く、思わず鳥肌が立つほどに壮絶な色気のある笑みだった。
「晴海がそれを望むなら、僕はいくらでも望むだけ君に全てを晒すよ?でも、もし僕の全てを知った時に君が逃げ出そうとしたら、僕は何処かに君を閉じ込めてしまうかもしれない」
…脅しじゃなく、本気なんだろうなぁ。
怖くないと言ったら嘘になる。
閉じ込めるとか、怖くないはずが無い。
でも、それって逃げなければいいんでしょ?
「…それでも、知りたい。教えて下さい。私にはもう、貴方と進む未来しか要らないから」
「…うん。いくらでも…」
繋がれた手が引かれ、上田課長の身体と触れ合う。
上から覆い被さってくる陰に眼を閉じる。
頭の何処か、冷静な部分がまたしても街中で何してるんだって言ってるが無視。
今日だけは疲れ切った自分を何処までも甘やかしてやりたい。
彼に触れたい気持ちを大事にしたい。
眼を閉じてたら、周りの視線なんて気にならない。
…まあ、眼を開けて周りを見たら死にたくなるくらい恥ずかしくなるだろうけどさ。
彼の口唇を受け止めながら、今日の一件で彰が少しでも色々な事に気が付いてこの先少しでも幸せになって欲しいなって思った。
私にはもう、彰を幸せにしてあげる事は出来ないからね。
今くらい祈ってあげる。
…智子は知らないけど。
そんな事を考えていたら、口唇を軽く咬まれた。
「僕とキスしながら、僕以外の事を考えるのは駄目だと思うよ」
…何で分かった?
「お仕置き…されたいの?」
とろりと甘い声。
声は甘いけど、眼は甘くないよ!
もう一度重なる口唇。
濡れた音に羞恥心を煽られる。
さっきよりずっと深くて胸が苦しい。
繋いだままの手に力が入ってしまう。
彼の全てを知りたいと思った。
怖くてもいいとも思った。
確かに思ったけど…。
こんな一気に甘さも怖さも見せないで欲しい。
これから先は永いんだから、少しずつ小分けにしてよ。
「これでも十分、手加減してるからね?」
私の不満に気が付いたのか、上田課長が口唇を離して囁く。
口唇に息が掛かって擽ったい。
「大丈夫。晴海が僕と2人、並んで前に向かって歩いてくれる限り僕は優しくいられるから」
いつものように柔和な微笑みを浮かべる彼。
変わり身が早いな。
…どうやら、上田課長と並んで歩く道には脇道も横道も無いようだ。
ひたすら一本道。
上田課長に手を引かれて進む道は前にしか進めないらしい。
晴海と上田課長は2人なりの幸せを掴むと思います。
ご指摘頂いた誤字を訂正しました。
ご指摘、ありがとうございます!