カプセル怪獣セロース
「青木さん、弟さんの今日のプログラムは終了しました」
「あ、はい」
そう声を掛けられて青木達幸の膨よかな顔が困惑し表情が強張った、そんな風に比呂子には見えた。
「次回は明日の午前十一時になりますので、よろしくお願いしますね」
壁全面にある広い窓から沢山の光を取り込んでいるリハビリ室、その中で達幸の表情は終始暗く硬かった。
比呂子は、弟のことが心配で不安がっているだろう兄、達幸を元気付けようと、できるだけ明るく彼に話しかけた。
「わ、分かりました」
相変わらず達幸の言葉はとつとつとしている。
比呂子は、交通事故で脳を半分失った達幸の弟のリハビリを担当している。
半身不随で言葉を失い、体も痩せぎすの弟とは対照的に、肥った体を揺すりながら弟を車椅子に乗せている兄。
冬なのにその角刈りの頭には汗がにじんでいる。
弟の移動を済ませた達幸がふと比呂子に目をやった。
比呂子が笑顔で反応した。
彼はその笑顔に引きつらせた笑顔で応え、すぐ目線を外し車椅子の持ち手側に回った。
「ありがとうございました」
比呂子に目線を合わさず挨拶をする達幸。しゃがんでだ比呂子が弟に向かって、
「じゃあ、来週待ってますからね」
そして立ちあがって達幸に「お大事に」と一礼をした。
達幸も軽く会釈する。彼は何も言わずにリハビリ室を出て行く。
「何かあのお兄さん、先輩に気があるんじゃないですか。リハビリ中も先輩のことずっと目が追いかけてましたよ」
後輩の美雪が横で囁いた。
「そう、全然気付かなかった」
「相変わらず鈍感ですね」
「でも、弟想いの良いお兄さんじゃないの」
比呂子はリハビリに使った器具を片づけ出した。
「でも…… 人が良くてもあの風貌じゃぁ」
「そんな、人を見た目で判断しちゃダメでしょう」
片づけが終わって手をポンポンと二回ほど叩き、近くにあった書類を手に取りながら比呂子は真面目にそう答えた。
「じゃぁ、先輩は付き合って下さいって言われたらどうするんです?」
「えっ」
比呂子は時間を置かずに、
「うーん、断るかな。だって私、今は仕事優先だから」
「本当に仕事だけですか」
「どう言う意味?」
美雪は薄笑いを浮かべて部屋を出て行った。
「ねぇ、どう言う意味よ」
比呂子も彼女を追っかけるように廊下に出た。ふと誰かの視線を感じる。
気になって長い廊下を見回したが誰かが見ている雰囲気はない。
気のせいかと思い彼女は美雪を追いかけた。
「ちょと待ちなさいよ、一体何が言いたかったのよ」
「先輩、誰にでも優しいから勘違いされるんですよ。野村さんなんか典型じゃないですか」
振り向きもせず美雪がそう言い放つ。
「え、そうかな。美雪の考え過ぎじゃない」
「先輩、鈍感過ぎですよ。絶対野村さん比呂子先輩に気がありますって」
「え、だって野村の爺さん、今年七〇歳だよ。そんな人に好かれても」
「先輩、男性のお年寄りに人気絶大ですもん」
比呂子は怪訝そうに首をかしげながら、
「なんか昔、玄さんにもそんなこと言われたことがあったなぁ。だから私には彼氏ができないんだろうって」
「だって先輩、お爺ちゃんにも若い人にも同じ対応するから、特にお爺ちゃん達が勘違いするんですよ」
「私は一人の看護師としてどの患者さんにも同じ姿勢で接することがモットーなの」
憮然とする比呂子に、美雪は少し含み笑いで、
「それにしては先輩、一人だけ違う人が……」
「なに?」
美雪はそれ以上何も言わずに比呂子の前を小走りに歩いて行く。
「ちょっと、さっきから何意味深なこと言ってるの」
比呂子は美雪に追い付こうと、歩く速度を速めて行く。
そんな彼女の姿をじっと追っている目があった。
廊下の影、車椅子を押す男の目に比呂子は気付いていなかった。
× × ×
「で、その二等の商品ってなんなの」
と玄さんが聞いた。
〈ほとり〉のカウンタにはいつも通り玄さんが比呂子と並んで座っている。
そして坂田はテレビを見上げ、厨房から勇一が比呂子達の話しに加わっている。
そんないつもの風景なのだが、どこかメンバー達の雰囲気が浮足立っている。
「ほら、病院の近くに〈海風〉って料亭があるじゃない、あそこのお食事券、ふぐ料理ご招待って書いてある」
彼らが浮足立っている理由、それは商店街の福引で比呂子が二等の商品を当てたからだった。
もともとクジ運のない比呂子が、今回初めて商品を当てたのである。目出度いことと、玄さんの乾杯の音頭で今日の宴会が始まったのだが、すぐに比呂子は深刻そうに溜息を一つ吐いた。
そんなことお構いなしに玄さんが嬉しそうに話を続ける。
「ふぐか、この時期いいじゃないか。魚屋の俺が言うんだから間違いない」
「問題はね、この食事券がペアーでご招待って言うことなのよ」
比呂子は食事券をひらひらと仰ぎながら再び溜息を吐いた。
「問題は誰と行くか、真紀か理紗ならどちらか行けなかった方がすねるだろうし、病院の後輩と言ってもね、兄さん行く?」
「俺は行かない」
坂田は振り向くこともなく素っ気ない返事を返した。
「そうよね、妹と行ってもって感じよね。真紀にあげて彼氏とどうぞって言うのもちょっと癪な気がして、せっかく私が当てたのに」
「そうだよ、比呂ちゃんが行かないと、せっかくなのに」
玄さんも同調した。
そして不思議な顔をしながら比呂子の悩みにあっさりと答えた。
「何悩んでんだい。勇一と一緒に行って来たらいいじゃないか」
「僕ですか」
今まで二人の話を黙って聞いていた勇一は少し驚いた様子でそう答えた。
「そんな、比呂ちゃんがOKと言うとは思えませんけど」
「何でそう思うんだい?」
玄さんが怪訝そうにそう問う。
「だって比呂ちゃんはいつも僕のことなんて好みじゃないって言いているじゃないですか」
「そう、勇一さんねぇ」
勇一の言った通り、この後に否定的なコメントが続くかと思った。しかし、
「兄さん、どう思う?」
「いいんじゃないか、うちの給料じゃ、ふぐなんて一生食えたもんじゃない。勇一、行って来いよ」
坂田は相変わらず振り向くこともなくあっさりと答えを出して来る。
比呂子が少し含み笑いを浮かべた。
「そうね、兄さんもああ言っていることだし、勇一さんで我慢しておきますか」
「え!」
当惑する勇一を無視して比呂子はカウンタに食事券を叩きつけた。
「と、言うことで今週の木曜、〈海風〉に集合。分かった、勇一さん」
「本当に、いいの」
「だって恋人同士じゃなきゃ、二人っきりで食事に行ってはいけないって法律でもあったっけ?」
「それはそうだけど……」
「それとも、私と食事するのが嫌なの」
「そんなことないです」
勇一は同意せざるを得なかった。
その答えを聞いた比呂子は万弁の笑みで、
「よーし、食うぞ! ふぐなんて今度いつ食べられるか分からないんだから!」
彼女は力んでそう叫んだ。
× × ×
比呂子はナースステーションで青木兄弟のことを思い出していた。
ついさっき二度目のリハビリが終了したところなのである。
比呂子は妙にあの兄弟のことが気になった。
「今日も頑張りましょうね」
比呂子の明るい言葉に以前と同じように引きつった笑顔で応える達幸、角刈りの頭にまた汗が光る。
兄である青木達幸は三〇歳、交通事故で弟が脳挫傷になり半身不随になってから五年、その間ずっと彼が面倒をみてきている。
彼は脳挫傷のリハビリに力を入れているこの病院へ弟を通わせるため、先月この町に越して来た。
と言うのが、このまえ受付事務で働く同期から聞いた情報である。
彼らの両親は早くに他界している。
達幸は弟と二人、支えあって暮らしてきたのであろう。
弟のために自分を犠牲にしてまで面倒を見ている達幸と、自分の兄とを知らず知らずに重ねている気がする。
「ご苦労さまでした」
リハビリが終わり、車椅子を引き渡す比呂子の手が達幸の手に触れた。
「す、すみません」
達幸は思わず手をひっこめた。比呂子も少し驚いたが、
「大丈夫ですか、私が玄関まで押して行きましょうか」
「そんな、申し訳ないです」
「いいえ、看護師として患者さんの車椅子を押すぐらい何でもないですから」
比呂子が車椅子を押してリハビリ室を出る。達幸と比呂子は並んで廊下を歩いた。
「青木さんのお兄さんは大変ですよね、弟さんのためにこんなに頑張っているなんて私尊敬します」
「あ、ありがとうございます」
相変わらず肥った顔は当惑気味に歪んでいる。
「弟さんと長く二人で暮らしてこられたんでしょう、早く弟さんが元気になられると良いですね」
「ええ でも弟は、完全には回復しないでしょ」
「そんな……」
看護師である以上、気休めを言うべきではないと、比呂子は思い留まった。
「でも、いくら完全回復が難しいからって諦めてはいけないと思いますよ。リハビリを続ければ言葉を回復した症例を聞いたことありますから。
でも私、医者じゃないんでこんなこと言える立場じゃないんですけどね」
比呂子はできるだけ達幸に笑ってもらおうと、少しおどけた感じで言ってみた。しかし彼の反応は変わらず、相変わらず肥った顔を困惑気味に歪めている。
「坂田さんは優しいですね」
「えっ」
「分かるんでしょう弟も、今までの病院では駄々をこねて言うこと聞かなかった彼が、坂田さんのリハビリの時は言うことを聞いている。それは坂田さんが優しいからですよ」
「そうですか、私と同じぐらいみんな優しいですよ」
「いえ、坂田さんは特別です」
達幸の歪めていた顔が少し普通に戻った。
「僕は高校を卒業すると弟の学費を払うため職に就くことを選んだんです。
死んだ父がもともと料理人だったんで、知人の紹介である料亭の下積みとして働きだしました。
仕事は厳しかったですがそれでも続けられたのは弟の学費を払うため。死んだ両親の代わりに弟を一人前にすることが僕の願いでした。
そしてやっと弟も高校を卒業し、僕と同じ料理人を目指って言ってくれたんです。嬉しかったです。でもそんな時に事故は起きたんです」
達幸の表情が比呂子の笑顔に応える時以上に歪んだ。
それは困惑でなく苦痛から来るものなのだろう。
「弟の乗っていたバイクが横転、バイクと共に民家の壁に激突。
すぐに救急車で搬送されましたが脳挫傷と診断され、再起不能とまで言われました。
僕はその時に思ったんです。ここまで弟のために働いて来たのに、なぜ、って」
「それは……」
大変な事でしたね、とは言えない。
達幸は比呂子が思っている以上に苦しんできたのだ。
そんな通り一辺倒の言葉で片付けられる話ではない。
ふと兄の坂田のことを思い出す。兄も両親が死んだ時、私を看護学校に通わせるために、大学を中退してこの街に戻って来てくれた。
達幸と同じような思いがあったのかもしれない。
もし私が事故か何かで不遇な状態に陥れば、今の達幸と同じ思いを兄にさせることになるのだろうか。
「弟は一命を取り留めました。しかし左脳の大半がダメージを受けて、弟は右半身の動きと言葉を失いました。
それから四年、左手のみで出来る職業に付かせるため自宅近くの病院でリハビリを続けましたが旨く行きませんでした。
恐らく弟も自暴自棄になりリハビリをすることに駄々をこねていたんだと思います。
でも今回は違う。もしかして旨く行くかもしれない、そう思えるんです。
それもこれも坂田さんのおかげです」
「そんな、私は看護師として当たり前のことをしたまでです」
比呂子は毅然とした態度で前を真っすぐ見て車椅子を押した。
「でも、この町に越してきてよかった」
達幸が初めて笑顔を見せた。比呂子は少しホッとした気がした。
「すみません、僕なんかの話を長々と聞かせて。
やっぱり比呂子さんは優しいですね」
達幸の笑顔は更に肥った顔を歪めさせた。
ナースステーションで比呂子はその歪んだ笑顔を回想していた。
彼等のために力になりたい。兄の哀しい姿を少しでも元気にさせたい。
比呂子は深くそう願うのであった。
× × ×
「こちら、てっさになります」
〈ほとり〉とは違い〈海風〉には沢山のお客さんが食事を楽しんでいる。
そんな中、比呂子と勇一の目の前に、美しく円形に盛りつけられたふぐの刺身が置かれた。
その薄く切り落とされた身は、下地の皿の絵が透けて見えるほどの見事な包丁さばきである。二人は目を丸くしながらその皿を眺めていた。
「これって、一枚一枚食べるの」
比呂子の箸が皿の手前で止まっている。
「何枚かまとめて食べるって、テレビで見たことあるよ」
「え、そんな勿体ない」
比呂子は大事そうに一枚の身をはがし、目の前のポン酢醤油に浸したうえで口に運んだ。
「ん?、なんか噛みきれない、でも何とも言えない食感。おいしい」
比呂子は万弁の笑みを浮かべた。勇一も控えめに二枚ほどを口に運んだ。
「おいしいね」
勇一の顔にも笑顔が浮かぶ。
「勇一さんは、ふぐ食べたことある?」
と言いかけて比呂子の箸が止まった。
「ごめん、覚えてないよね」
「謝らなくてもいいよ。だって初体験だと思えば感動がより増すでしょ」
勇一の笑顔は変わらない。
言葉通り気にしていない様子だ。比呂子は少しホッとした。
それから料理はてっちり(ふぐ鍋)へと続いた。
店の中は〈ほとり〉のテレビとは違い、琴の音のBGMが流れている。
周りのお客さんも上品で静かに食事を楽しんでいる。いつもと違う雰囲気の中、比呂子はいつも以上に楽しそうにお喋りを続けている。
同僚の看護師が来月結婚すること、病院の先生で嫌味なやつがいること、この間婦長に怒られたこと、先週患者の爺さんがどさくさにまぎれて胸を触ったことなど。勇一はそのどの話にも笑顔で頷いている。
「でね、この間から来ている重度の脳障害の患者さんのお兄さんって言うのがすごく献身的なの。感心しちゃった」
「すごいね、そのお兄さん」
「でしょ、弟さんのために家を引っ越して、ほぼ毎日リハビリに来ている。ほんと頑張ってるの。尊敬しちゃうな」
勇一の表情が少しだけ強張った。
「比呂ちゃんは優しい人が好きなの」
「んー。好きって言うか、気になるのよ、献身的で自分を犠牲にしているような人が」
そう言いながら比呂子がふぐを口に入れて熱そうにハフハフ言わせながら、それ以上においしそうな顔をしながら食べ続けた。
「比呂ちゃんは誰にでも優しいから」
「それはそうでしょう。私は一人の看護師として患者さん全てに同じ態度で接するの」
「そう言えば以前にも同じこと聞いたことがあるね」
「だって私のモットーだもん」
今度は勇一の顔から笑顔が無くなった。
「そうだね。僕も比呂ちゃんからすれば大勢いる患者の一人だもんね」
「それは……」
比呂子は何か誤ったことを言ったかと思い、さっきの失言以上に慌てた。
「何言ってんのよ、勇一さんは確かに私の患者だけど、同時に今は一緒に暮らす家族じゃないの」
「そうだね、家族だね」
勇一の顔に少しだけ笑顔が戻った。だがそれは口元だけ、目は笑っていない。
「勇一さん、どうしたの。いつもの暗い勇一さんに戻ってるよ。何か私悪いこと言った?」
勇一は軽く首を振った。
「この後、雑炊になりますが、ご飯を準備してよろしいでしょうか」
店の人が二人の会話に割り込んだ。
「お願いします」
比呂子がすかさず返事をした。
「ねぇ、私達って、店の人から見たら恋人同士に見られてるかなぁ」
「えっ」
勇一は返事に困っている。
「冗談よ、なんか勇一さん、顔赤いよ」
勇一がうろたえる。比呂子が笑った。
そんな二人を見つめる男の姿があった。
笑っている二人を凝視している。
しばらくして男は黙って店の奥へと引っ込んで行った。
そんなことがあったことに気付かない二人の前にご飯と海苔と卵が運ばれてきた。
「わーい、ふぐの雑炊っておいしいんだって、楽しみ!」
比呂子は相変わらず無邪気に笑っていた。
× × ×
「今日もお疲れさまでした」
比呂子は車椅子を押しながら達幸に声を掛けた。
「どうもです」
今日の達幸はいつも以上に仏頂面に見える。
それは曇った空の下、廊下の窓から入る光が少ないことが要因の一つなのかもしれない、だがそれだけではない気がする。
いつもならもう少し当惑しながらも笑顔を見せるのに今日は明らかに違う。
「お兄さん、疲れてますか、薬局で栄養剤でも処方するように手配しましょうか」
「いえ、大丈夫です」
やはりぶっきら棒な言い方で達幸が答える。
比呂子は少し心配になって来た。
何か自分が彼に悪いことをしたような気がした。
「どうしました?」
達幸は無言を続けている。この二人を元気にしたい、笑顔を取り戻してほしい。
そう願う比呂子の思いが達幸には通じていない。
「お兄さん、元気出して下さい。私、お兄さんのことを応援していますから」
達幸が比呂子の方を向いた。しかしその目はいつもよりきつく見える。
「この間、比呂子さんは僕のことを尊敬するって言ってくれましたよね」
「えゝ、それが」
「僕はそんなに尊敬される人間ではないです」
「そんなことないですよ、だって今日も……」
「僕は下らない人間なんです」
達幸が語気を強めた。彼の顔が今日は苦痛で歪んでいる。
「僕は弟を憎んだことがあるんです。彼がいなければ自分は自由だと、そんなことを時々考えるんです」
「それは…… でも人間だからそんなことを考えても仕方がないと思います」
「あなたに何が分かると言うんです」
達幸の語気が更に強くなった。
「あなたのように幸せそうな人に……」
比呂子は自分の愚かさに気付いた。
元気づけようと明るく振る舞ったことが仇になったのかもしれない。
確かに自分は達幸ほど不幸でない。
それどころか昨日の勇一との食事は楽しかった。
それが知らず知らず表情に出ているのだろうか。
「すみません、そうですよね。お兄さんの大変な気持ちを私ご時が分かる訳がない。私も兄と暮らしているんです。
両親が死んだ後は兄に迷惑を掛けっ放しで、そんな私にお兄さんの気持ちをどうこう言う資格なんてないですよね」
「お兄さんがいるんですか」
達幸の表情が少し緩んだ。
「こちらこそすみません。
せっかく比呂子さんが元気づけてくれようとしているのに。ごめんなさい」
「いいえ、私こそ余計なことを言っちゃいました。ごめんなさい」
比呂子は丁寧に達幸に頭を下げた。
「やっぱり優しいですね、比呂子さんは」
「そうですか? みんなから鈍感、鈍感って言われていて、もしかしたら気付かないうちに誰かを傷つけていることもあるんじゃないかって、ここ最近思うんです……」
比呂子の脳裏に勇一の顔が浮かんだ。
「そうですか……」
それ以上達幸は何も言わない。
比呂子はまた何か彼を傷つけることを言ったかと思った。
しかし達幸の考えていることを確認する術がない。
しかたなく車椅子をいつも通り玄関前まで押して行く。
二人は無言のまま廊下を並んで歩いた。
× × ×
達幸が〈ほとり〉にやって来たのは午後二時半、お昼時、閉店間際だった。
「いらっしゃい」
勇一は戸を開いた肥った男を見ていつものように声を掛けた。
「どうぞ、空いている席へ」
その肥った男は一番出入り口に近い席に腰を落ち着けた。
そこに勇一が水とおしぼりを持って来る。
「ご注文はお決まりですか」
「えーと、海鮮丼定食ください」
「はい、海鮮丼定食ですね、少々お待ち下さい」
そして勇一は店の奥へ。
坂田に注文を告げた後、さっきの肥った男の視線が気になった。
明らかに殺気立っている。
彼から赤い炎が見える。
それは誰に向けた怒りなのか、今は正直分からない、
ただ彼が自分を見る目が怖い。恐らくその怒りの矛先は勇一自身。
「お待ちどうさま、海鮮丼定食になります」
その言葉に肥った男はハッとなって勇一を見返した。
「すみまぜん、此処は私立病院で働いていらっしゃる坂田比呂子さんのご自宅ですか」
「そうですが」
勇一は恐る恐る肥った男を覗き込む。
「私、弟が坂田さんにお世話になっている青木と言うものです」
「あゝ、そうでしたか」
勇一は思い出した。先日比呂子と二人で食事をした時にその話が出たこと、そして彼女が患者を平等に扱うと言って自分が少し寂しい思いをしたことを。
「私が働いている料理屋に出入りする魚屋さんから、坂田さんのご実家が食堂をなさっていると聞いたもんですから少し寄ってみました」
その魚屋が玄さんであることは容易に想像できた。
「料理屋と言いますと」
「〈海風〉と言うところで板前をしています」
「あゝ、あの料亭で働いていらっしゃるんですか」
「以前、私どもの店に比呂子さんとお越しになられたでしょう」
「ええ、商店街の食事券を比呂子さんが当てたもので」
「仲の良い恋人同士だなぁと、少し妬けましたよ」
達幸の目が鋭くなった、と同時に赤い炎の勢いも増した。
「え、そう見えましたか。でもぜんぜん違いますよ。
比呂子さんは恋人でもなんでもないです。
たまたま一緒に行く人がいなかったんで仕方なく僕が呼ばれただけです」
その言葉に達幸の赤い炎が少し勢いを失った。
「そうですか、てっきり恋人同士かと思ってました。いや失礼」
「いえ、いいんですよ。僕なんか比呂子さんに相手にされていませんから。
いつもタイプじゃないって言い続けられているぐらいですから」
達幸の炎は少しずつ消えて行く。
「でも、また二人で食事に来てください。待ってますよ」
「ありがとうございます」
そう言うと勇一は頭を下げて店の奥に戻って行った。
背後に先ほどの殺気は感じられない。
振り向くと男は何も言わずに黙々と食事を進めた。
× × ×
「それは〈海風〉で働く青木って男だなぁ」
玄さんがビール片手に厨房の勇一にそう答えた。
「先月から働きに来ていて、何でも大阪の老舗の料亭にいたらしく、店の主人の話では、腕は確からしいぞ」
「へぇ、お兄さんあのふぐ料理を作ってたの。知らなかった。
でもこのあいだのふぐ、本当においしかったね、勇一さん」
勇一も比呂子の意見に同意して頷いた。
「あんなおいしい料理を作る人だったんだ。また尊敬しちゃうな。でもなんで家に来たんだろう。とても偵察とは思えないし」
比呂子が小首を傾げた。
「そんな、坂田さんに悪いよ」
振り向くと相変わらず坂田はテレビを見上げている。
「それにしても、どうしてわざわざこんなところに」
「たぶん、比呂ちゃんに会いに来たんじゃないのかなぁ」
「えっ」
比呂子は驚いて目を丸くした。
「病院でいつも弟に優しくしてもらってるって言ってたから」
勇一は彼の言葉をそのまま比呂子に伝えた。
だが、恐らく青木と言う男が比呂子に会いに来た訳ではない。
正確には自分に会いに来たと。
なぜなら、彼が〈ほとり〉の戸を開けた時からずっと赤い炎が彼に重なって見えていたからである。
そしてその赤い炎は、自分が比呂子の恋人でないと告げた瞬間消えた。
彼は自分に嫉妬していたのだろう。それが彼の比呂子を思っていることの裏返し。
「どうして私に? そりゃ確かに、ここ最近弟さんのリハビリで会うことは多いけど、でもそれならなんで私のいない時に?」
「比呂ちゃん、なんかここ最近気になることなんかないか」
玄さんが問うと、
「そう言えば昨日、なんか誰かに付けられていた気がしたけど、でも気のせいだと思う、振り返った時には誰もいなかったし」
比呂子は腕組みをしながら首を傾げた。
「玄さん、〈ほとり〉の場所、青木さんに言いました?」
「いや、俺自身、青木って男とは喋ったことない」
玄さんはハッと気付いた顔をして、
「たぶん、比呂ちゃんは青木って男に後を付けられたんじゃないか」
「そんなのストーカーじゃない。お兄さん、そんなことする人じゃないよ」
比呂子は怒った顔を玄さんに見せる。
「とにかくその青木って男は比呂ちゃんのことを気にいってるな。まぁ、比呂ちゃんは、病院で色んな人にもてるからなぁ、周りに勘違いされやすいタイプだし」
玄さんが二回ほど深く頷く。
「そんなぁ、病院では誰にでも同じ態度で接しているだけなのに」
「甘いなぁ、比呂ちゃんは」
玄さんがたしなめるようにそう言う。
「男ってやつはさぁ、自分の思う相手から優しくされれば、相手の女性にその気がなくても勘違いするもんだよ。そして妄想が広がって行く。
優しくしてくれるのは自分に気があるからだ、とかね」
そして玄さんはビールを一口飲み干すと更に話を続けた。
「板長の話では、あいつは容姿に自信がないし、仕事一筋だから、たぶん女に告白したことないんじゃないかって、結構比呂ちゃんに惚れてるんじゃないか、で、片思いで告白できないとか」
容姿に自信がない、女に告白できない、その言葉に勇一は反応した。何か同じ思いをした気がする。
それは記憶を無くす前。そんなことを考えていた時、急に頭の中にあの映像が、富士山を背にした赤い屋根、そして赤く染まった植物たち。勇一はいつもの如く目眩を起こした。
「でも、青木さんのお兄さんってそんな風に見えないけど。だってリハビリの時は優しく弟さんの方を見てるし、私から話しかけてもほとんど喋らないよ」
「喋れないんじゃないかなぁ」
気分が悪い中、勇一がポツリとその言葉を吐いた。
「喋ると、自分の意識が伝わって、それで今までの関係が崩れるんじゃないかって。もし比呂ちゃんが自分のことが嫌いになってリハビリ担当を変えられたら会えなくなる。そんな思いが彼の口を重くしている……」
「そうそう、そう言うの、あるね、男には」
玄さんは軽いノリで合いの手を入れた。
だが勇一にとっては重い言葉なのである。
今の関係を崩したくない。勇一も思っている、同じことを、比呂子に。
「もしかしたら、比呂ちゃんがこの間〈海風〉に行ったことも、自分に会いに来てくれたとか勝手に妄想しているかもしれないぞ」
勇一はその言葉と、達幸の「恋人同士かと思いました」と言う言葉がつながった。
やはり彼は自分に嫉妬している。しかも自分勝手な妄想の果てに。
「でも、ピンと来ないな。私、今度から青木さんのお兄さんにどう接すればいいの」
「付き合ってあげたら、《海風》の板長も優秀な男だって太鼓判を押してたぐらいだから将来有望だぞ、確かに見てくれは少し悪いが、男はカッコじゃないから」
玄さんは相変わらず能天気に喋っている。
比呂子がチラッと勇一を見た。そして目線を外して、
「そうね、いいかもしれない。勇一さんはどう思う」
勇一は何と答えて良いか分からなかった。
「比呂ちゃんの思う通りでいいんじゃない」
比呂子はやや不満そうに勇一を見ながら、
「そうね、付き合ってみようかなぁ、そんなに将来有望なら」
勇一は比呂子から視線を外した。
そして手元に会ったさっき洗ったばかりの皿を再び洗い出した。
「なんてね、嘘よ。だって私はまだまだ看護師として救わないといけない患者さんがいっぱい居るんだもん。当分仕事一筋!」
比呂子は万弁の笑みで片手を突きあげた。
その言葉に勇一は安堵した。
まだ自分は比呂子のことを思い続けても構わないんだと。
「罪な女だな、比呂ちゃんは。そのうち恨まれるぞ」
玄さんは肩を落とした。
× × ×
達幸が夜の仕事の前に弟の夕食の準備をしておこうと台所で下ごしらえをしていた時、居間にいた弟が急に癇癪を起し出した。
車椅子からずり落ちそうになって態勢を戻そうとして旨く行かなかったようだ。周りにあるものを手当たり次第に辺りに投げつけている。
「やめろ、落ち着け」
手を押さえて暴れるのを止めさせようとする達幸。
「イーダー! ダーテー!」
言葉の不自由な弟は意味不明の言葉を発している。
恐らく意のままに動かない自分の体に対する腹立たしさがあるのだろう。
彼は体をじたばたさせて抵抗して来る。
「大丈夫だから、兄ちゃんが付いているから」
そう言い、なんとか元の位置に座らせると、弟も少し落ち着きを見せた。
男二人住まいとは思えないほど片付いていたのが、今の騒ぎで部屋はめちゃくちゃになった。達幸は溜息を吐いた。
「すまんが、ここでおとなしくしておいておくれ」
そう言うと達幸は台所に戻った。
「こんな時に比呂子さんがいてくれれば……」
ポツリとつぶやいたその言葉が全てのきっかけだった。
そんなことが彼女の目の前で言えるだろうか、そんな勇気が自分にあるだろうか。
初めて比呂子に会った時、こんなに優しい笑顔を見たことがないと思った。
なにより弟が癇癪を起こさない。
この人ともっと話がしたい、一緒にいたい、不謹慎にもそんなことを考えてしまっていた。
彼女は純粋に患者の家族を思って仕事をしていただけなのに。
その日の帰り際、彼女が自分に彼氏がいないと同僚に話しているのを聞いた時には本当にうれしかった。
何か自分にも可能性があるのでは。
でも、そんな甘い考えを神様は許してくれなかった。
比呂子が自分の店に来たのである。しかも男と。
あの男は誰だ、彼氏でないとすると家族か、それとも彼女に言い寄る男か? 達幸は気が気でなく二人の様子を見ていた。
それは家族とも、言い寄られていやいや食事に付き合わされた雰囲気ではない。
明らかに恋人、そんな風にしか見えなかった。
もしかすると比呂子はこの男に片思いをしているのでは? まだ恋人同士ではないから、彼氏はいないと言ったのでは? 達幸の心は乱れに乱れた。
だから次の日のリハビリの時、自暴自棄になり自分は比呂子の言う尊敬できる人間でないと言ってしまった。
彼女は笑って流してくれた、しかも自分を比呂子の兄と重ねて見ていてくれた。
それは自分のことを身近に感じていてくれたことの証拠、もしかするとあの食事に来た男は、彼女のお兄さん? その日は嬉しい思いを胸に帰宅できた。
でもその考えも神様は許してくれなかった。
次の日、店に来た魚屋の親父が、海岸近くの食堂の話をしていた。
その店主が坂田と言い、妹が看護師をしている。
その妹が比呂子だと分かるまでにそれほどの時間はかからなかった。
だが情報はそれだけに留まらない。比呂子の家には同居している若い男がいる、そしてその男は比呂子が看ていた患者の一人だったと。
以前、彼女の同僚が言った言葉がある。「一人だけ違う人がいる」
次の日、それは偶然だった。
それも神様の仕業なのだろうか、たまたま海岸沿いを歩いているとそこに比呂子の姿があった。
夜勤明けだろうか、気だるそうに歩いている。
声を掛けようかと思ったが、なぜだろう、声が出ない。
その代わりに不謹慎な思いが頭をもたげた。
その思いに突き動かされるように彼女の後を付けて行った。
何か悪いことを自分はしている。
しかし後ろめたさよりも明らかに胸の鼓動が高鳴る。
こんなことが比呂子にバレれば間違いなく嫌われる。
でも知りたい。彼女のことを。
その思いで胸の鼓動は更に高まった。
彼女は食堂に入って行った。暖簾に〈ほとり〉と書かれていた。
会いに行くことにした。
魚屋が言っていたその男は好青年だった。
こんな男なら比呂子惚れても不思議ではない。
でも…… 彼はあっさり比呂子のことを恋人ではないと否定した。
しかも比呂子は、この青年のことを好みでないと言い続けているらしい。
安心した。
ならば勇気を持って自分が彼女に告白すればいい。
だが自分には体の不自由な弟がいる。
いくら彼女が看護師でも、自らこの体の不自由な弟を抱える、そんな不幸を選択するとは思えない。
本当だろうか? 本当は弟がいなくても、自分のことを彼女が振り向くことはない。こんな醜い自分を愛してくれる女などいない。
まして比呂子が自分など選ぶはずがない。
ふと達幸は弟の方に目をやった。さっき弟は自分の体が言うことを聞かないと怒っていた。
それは恐らく苦しいことであろう。
しかし今の自分も同じ思いのような気がする。
好きな人に好きと言えない、自分の心が言うことを聞かない。
自分も弟と同じなのだ。欲しい物を欲しいと言えない、どうしようもない人間。
そう言えば子どものころから欲しいものが手に入った記憶がない。
親からも「お兄ちゃんだから我慢しなさい」とよく言われた。
それに比べ、甘え上手な弟はちゃっかり欲しいおもちゃを手に入れていた。
それだけではない。
女性に関しても憧れの人はいたが、結局何も言えずに誰かのものになっていた。
いや相手にすらされた記憶がない。
それに比べ弟には彼女がいた。
事故に遭う直前に可愛い彼女を紹介してきたことがある。
自分はこいつのために汗水たらして働いているのに、こいつは女を捕まえていた。
なんで同じ兄弟なのにこいつには……
達幸は再び弟を見た。
車椅子に座ってテレビを見ている。
こいつは自分より良い思いをしてきた。
いや、過去だけではない、これからも未来の自分の足かせになる。
こいつさえいなければ、この邪魔者さえいなければ、
達幸は意味もなく包丁を手に取っている。そしてそれを握る手に力が入った。
× × ×
夕暮れを過ぎ、海岸沿いの道には幾つかの街灯があるだけで、光らしい光はたまに通る車のヘッドライトしかない、そんな暗い道を比呂子は考え事をしながら帰路に付いていた。
今日病院に来るはずの青木兄弟が来なかったのである。
特に連絡もなく無断で休んだのだ。
あの真面目そうなお兄さんが勝手に休んだりするだろうか、何かあったんだろうか、比呂子は二人のことが気がかりでしかたがなかった。
そう言えばこの前、自分は弟を憎んだことがある、と、兄の達幸が言っていた。
なぜ急にあんなことを言いだしたんだろう。
本当に自分は鈍感である。彼が何を言いたかったのか、そのことを推し量ることができなかった。
自分は看護師としても、人間として失格なのかもしれない。
もし相手の気持ちが推し量れたとしたら、達幸が自分に好意を持っているかどうか、その本意が分かるのだろうか、でももし持っていたとしても……
薄暗い道を〈ほとり〉に向かって歩いて行く、その時車が一台比呂子の横を通り抜けた。
光が一人の男の影を浮き上がらせた、その影は達幸だった。彼のことを考えていた比呂子はハッとなった。
「青木さんじゃぁないですか。今日病院休まれてどうしたんです。何かありましたか」
比呂子の真剣な表情を見ながら達幸は沈んだ声で答える。
「比呂子さんはいつも変わらないですね」
「えっ?」
「あなたは誰にでも優しい。今も真剣に心配してくれていた」
ゆっくりと達之が比呂子に近づいてくる。
近くの街灯が彼の歪んだ顔を映し出す。
「そんなの、あたりまえです。私は……」
「そうですよね、看護師として重度の障害を持つ弟の兄を心配するのは当たり前ですよね」
達幸が比呂子をじろりと睨んだ。比呂子はたじろいだ。
今までの彼とは違う。何か異様なまでの、殺気すら感じる。
「私は、看護師として全ての患者さんに同じ態度で……」
「でも、一人だけ違う人がいますよね」
「それは……」
それは違うと比呂子が言おうとして逆に口ごもってしまった。
達幸は比呂子の顔をその小さな目で睨み続けた。
「先日、うちの店に来た時のあなたの言葉や表情は病院にいる時と違っていた。
思い出して考えたんです。あなたは、本当は勇一さんのことが好きなんだって」
「違います、彼は住み込みで働いている単なる同居人で……
私は、私は彼にそんな思いを持っていません」
比呂子は言葉に詰まりながらそう叫んだ。
比呂子自身なぜスムーズに言葉が出て来ないか理解できないままに。
「あなたは嘘を付いています。まぁ良いです。あなたはどの道、この俺のことを好きになってはくれないのだから」
「そんな……」
「そんなことは無い、とは言ってくれませんでしたよね」
達幸はそう言うと比呂子を睨みつけるのを止め視線を遠く暗い海の方向へ向けた。
「それに私はあなたに嫌われるようなことをした人間なんです」
「そんな、お兄さんはまじめで優しくって」
「弟を殺したんです」
「えっ」
比呂子の頭の中が真っ白になった。この優しいお兄さんがそんなことを……
「この手で弟を」
達幸は右手を比呂子に突き出した。
「この手で、俺の自由を奪い続けた弟を殺したんです」
比呂子は二・三歩後ずさりする。
「そんな、冗談ですよね、悪い冗談はやめてください」
「冗談でこんなこと言えますか。そうですよね、弟を殺した殺人犯なんて嫌ですよね」
達幸が薄笑いを浮かべた。
「嘘ですよね、嘘だと言って下さい。青木さんは弟思いの良いお兄さんだって、私尊敬していたのに」
「尊敬? それは勇一さんに向けた愛情とは違う。あなたはそうやって俺の心を惑わしてきた。そして決して振り返ってはくれない。そう、もう決めました。あなたも弟と同じように殺す。そして永遠に俺の物に!」
その瞬間達幸の体が赤い炎で包まれた。ハッとして逃げようとする比呂子にその赤い炎の塊が追いかけて来る。
比呂子は助けを呼ぼうとしたが遅かった、炎の塊は素早く、逃げる彼女を一瞬で呑みこんで行った。
× × ×
勇一の左手に熱い物を感じたのは、〈ほとり〉が開店して間もない時間だった。相変わらず客は少なそうだ。今なら店を抜けても分からない。
「遅いなぁ比呂子、何かあったか」
坂田が心配そうな表情をする。確かにいつもなら、もう帰って来てカウンタに座っていてもおかしくない時間だ。
なにか嫌な予感が勇一の中で広がった。
『臨時ニュースです、先ほど徳島県沖に怪獣が現れ、徳島市北部に上陸した模様です』
テレビ画面が怪獣の映像に変わった。
三日月型の角を持ち、二足歩行する恐竜のようなその姿が、街のビルや民家を破壊している。
胸には何やら金属製のカプセルのようなものが埋まっていて、破壊する建物が燃え上がると、そのカプセルに反射し異様なほど輝いて見える。
勇一は怪獣のニュースを見ている坂田に分からないように店の裏に回った。とにかく急がなければ、彼はいつも通り目を閉じる。いつもの感覚が消えた後ゆっくりと目を開ける。
そこがさっきニュースで映し出されていた街であることは眼前の怪獣が示している。
「戦うの?」
その声には聞き覚えがある。この状況で勇一に声を掛ける女性、
「里子、今日は何が言いたいんだ?」
振り返るとそこにはいつものように里子が立っている。
「あの怪獣の胸のカプセルを良く見て」
里子の言葉に勇一がもう一度怪獣の胸元を見る。
そして凝視する。
するとどうだろう、カプセルの中が透視したように内部が見える、そこには気絶した比呂子が倒れている。
「なぜあの中に比呂ちゃんがいるんだ!」
「あの怪獣は比呂子さんに恋をした、それが報われず彼は怪獣になった」
「恋? もしかしてあの怪獣は青木さん?」
里子がゆっくりと頷く。
「あの怪獣はあなたに恨みを持っている、だからシルバーマンになったあなたが朽木勇一であることにすぐに気付くでしょうね。
彼と戦えば比呂子さんは傷付く。それだけではないわ、怪獣を倒せば比呂子さんの命すらどうなるか分からない」
「そんな、どうすればいい、里子教えてくれ!」
里子が無表情のまま続けて言う。
「シルバーマンに変身したとしてもすぐに逃げることね。そして比呂子さんを救えなかった自分を責め続けることね」
「なんでそんな言い方をするんだ、君は!」
里子は少し間をおいた。そして一呼吸置くとゆっくりと喋り出した。
「忘れないでね、私はあなたの妻なの。今あなたが彼女にどんな感情を持っているか知らないし、聞きたくもない。嫉妬で言っている訳ではないのよ。
ただあなたがその気になれば青木達幸と坂田比呂子の間を取り持つことができたはず。それをあなたはしなかった。
そのことは結果的に青木達幸の思いを邪魔し、そして彼を怪獣にした。彼を不幸にしたのは勇一さん、あなたよ」
里子の鋭い視線が勇一の心を貫いた。
「さぁどうする? 私は脇であなたの戦いを見させて頂きます」
そう言うと里子は勇一に背を向けて歩いて行く。
後方で建物が崩壊する大きな音が辺りを包み込む。
振り返る勇一に怪獣セロースはそこまで近づいてきている。
左手の青い炎が彼の体を包み込む。
そして勇一の眼線がセロースと同じ高さになった。
怪獣セロースはシルバーマンを見て、自分の強さを誇示するかのように周りの建物を片っ端に壊しだした。セロースの周りに黒煙が立ち上る。
シルバーマンは飛び上がった。そして顔面に飛び蹴りをくらわす。
セロースが仰向けで倒れた。
周りにあった民家はセロースの下敷きになる。
シルバーマンはセロースに飛びかかった。
そして胸のカプセルを取り外そうとする。
しかし埋め込まれたカプセルはそう簡単に外れない。
胸のカプセルを外そうと必死になっているシルバーマンにセロースが口から怪光線を放つ。
シルバーマンその光線をまともに喰らって吹っ飛ばされる。
蹲るシルバーマンに今度はセロースが覆いかぶさる。
そして拳をシルバーマンになんども振り下ろす。
防戦一方のシルバーマン。
それでもセロースの振り下ろされた腕を掴み、一本背負いでセロースを投げ飛ばす。
図らずも胸のカプセルが揺れた。
「だめだ、攻撃すればカプセルが壊れる」
シルバーマンは空へ飛び上がる。そして起き上ったセロースを見下げる。
「どうすればいい」
勇一が心の中で叫んだ。するといつもの声が囁く。
「セロースの弱点は胸のカプセル」
「そんな、そんな所を打ち抜けば比呂ちゃんまで……」
そう考え動きを止めた時、セロースが再び口から怪光線を発する。
不意を疲れシルバーマンは光線の直撃を喰らい地面に落下。
セロースが落下したシルバーマンを抱え込み、首を締めあげる。
苦しむシルバーマン。それでも何とか肘鉄砲でセロースを攻撃、怯んだセロースの腕の力が抜けた。
その腕を払いのけなんとか離れることに成功する。
対峙するシルバーマンとセロース。勇一は一か八かの賭けに出た。
「青木さん、勇一です。僕の話を聞いてください。比呂子さんを助けてもらえませんでしょうか」
勇一は呼びかける。セロースは怒り立っている。
「青木さんが比呂子さんを好きなこと、僕には分かります。
その思いが比呂子さんに届かない。それは僕も同じです。
青木さんの気持ちは僕が一番分かっているつもりです。
青木さんは勘違いされているかもしれませんが、比呂子さんは僕のことを好きだと言っていません。
それに僕はご覧の通り、普通の人間ではありません。
だから僕自身が比呂子さんを幸せにできないと思っています。
だから僕から彼女に告白することはないと思っています」
セロースは動きを止めた。勇一は続けて説得を試みる。
「あなたさえ元の姿に戻って、そしてあなたが比呂子さんを幸せにしてもらえるのであれば、僕はあなたを応援します。あなたの気持ちを僕から比呂子さんに伝えても良い。あなたが比呂子さんを幸せにしてあげてください」
セロースは相変わらず動かない、そしてシルバーマンも動かない。
勇一の耳に微かに聞こえる声がある。
「たぶん、比呂子さんを幸せにできるのは……」
その直後、セロースは甲高い鳴き声を上げたかと思うと、胸のカプセルを自ら掴み、自分の体から引き離した。
そして哀しげな鳴き声を上げたかと思うと、そのまま静かに姿を消して行った。
× × ×
比呂子はリハビリを続ける達幸の弟の姿を見ていた。
「弟さん、二日ほど自宅で放置されている所を見つけ出されたみたいだけど、元気そうで良かったね」
隣にいた勇一がそう言うと比呂子はゆっくり頷いた。
「青木さんのお兄さん、海岸で遺体として見つかったそうだよ。たぶん比呂ちゃんが気絶している間に海に落ちたみたいで……」
「私、覚えてないけど、青木さんのお兄さんに、弟を殺したって言われて、それから襲われそうになって、赤い炎のようなものに包まれて…… 何か悪い夢を見ていたのかなぁ」
勇一は比呂子の肩を優しくなでながら、
「たぶん、夢だったと思うよ。青木さんがそんなことするはずがないじゃないか。実際に弟さんも無事だったし」
比呂子は遠い目をしている。ショックなことが起こって動揺していることは勇一にもよく分かった。
「私、また誰かを傷つけたかなぁ」
「えっ」
「青木さんのお兄さん、私のこと好きって言ってくれた気がするの。それに何か青木さんのお兄さんに最後は助けてもらった記憶があるの。なのに……」
比呂子は相変わらず遠い目をしている。
「なのに私、お兄さんのことを拒んだ気がするの」
比呂子の目が潤んでいる。
「なんでかなぁ、青木さんのお兄さん良い人だったのに。弟さんのことが足手まといになると思ってたみたいでけど、私は看護師だから、そんなことが障害にならないのに。なのに、私は彼の申し入れを拒んだ気がする」
比呂子が勇一を見た。勇一は彼女の目から流れる一筋の涙を見て心が痛んだ。
「もし拒まなければ、青木さんは死なずに済んだのかなぁ」
「そんなことないよ、相変わらず比呂ちゃんは考え過ぎだよ」
もし比呂子が達幸の申し入れを承諾していたら、勇一が怪獣化していたかもしれない。
そう、達幸と勇一は同じ立場なのである。
彼女を失いたくないと言う気持ちは彼と変わらない。
彼女に思いを告げられないと言う意味でも。
比呂子は涙をぬぐった。そして唇を真一文字にしてリハビリ室へ、そして達幸の弟の所へ向かった、一人の看護師として。