巨大怪獣アリビオン
墓の前で坂田は手を合わせていた。
暖かな風が海から墓地のある高台まで吹いてくる。
季節は春に向かって急加速し始めていた。
今日も暖かい、と言うより暑い。
春は来ている。
季節は巡っている。
時間は進んでいる。なのに自分だけは、あの時がそのまま止まっているように感じられる。
墓の横には、ここに葬られている人々の名前が彫られた墓標がある。
坂田の父、母、そして、弟のところで坂田の視線が止まった。
「やっぱりお前の復讐か」
坂田の脳裏に断崖に立つ弟の姿が浮かんだ。
そして弟の背中に自分の手が伸びて行く。
「勇一はお前の生まれ変わりか、それとも使者か、お前は俺から祐子だけでなく比呂子までも奪おうと言うのか」
坂田は弟の名の隣に書かれている、
祐子と言う文字に目をやった。
「すまんな、俺がこんなところに連れて来たばっかりに」
祐子の笑顔が浮かんだ。
そして彼女の死に顔も。
亡骸を病院の霊安室で見たあの悲しみはまるで昨日のように思い出すことができる。
そしてあの時の怒りは今でも噴出することができる。
だがその際には必ず弟の姿が思い浮かぶ。
自分は救われてはいけない、そんな人間であることを思い知らされる。
「坂田さん、此処にいたんですか」
坂田はびくっとした。後ろから突き落とされる錯覚を感じた。
振り返るとそこに勇一がいた。
「玄さんが今日は不漁だから、魚の仕入れについて相談したいって坂田さんのこと探してましたよ」
「そうか、すぐ戻る」
勇一は坂田の背後にある墓を見た。
「奥さんのお墓参りですか」
「それもある」
坂田はゆっくり立ち上がった。
そして花を包んでいた包装紙を丸め、バケツや尺を片づけだした。
「勇一、お前は比呂子のことをどう思っているんだ」
「えっ」
勇一は突然の質問にまごついた。
彼の感情は薄々坂田も気が付いていた。
「なんでそんなこと聞くんですか」
坂田は片付けた物を手に持ち立ちあがった。
「お前が何のために戦っているか俺は知らない。ただ比呂子だけは巻き添えにするな、あいつには幸せになってもらいたいんだ、俺と違って」
「それは……」
「俺は愛する女を不幸にした。だからお前もあいつのことがもし好きなら、これ以上比呂子に関わるな」
坂田はそう言い残すと、唖然としている勇一を残してその場を立ち去った。
× × ×
坂田が矢部を連れだしたのは、大阪で交通事故遺族の会の年次集会が開かれた四月初旬のことである。
春の陽は明るく暖かい。
街ゆくサラリーマン達が上着を腕にかけて歩いている。
道行く女性の服装も明るい色に変わっている。
そんな陽気の中、どんよりと暗い男が二人、坂田と矢部は慣れないビルの谷間を会場に向けて歩いていた。
「急がないと、もう始まっているぞ」
坂田が自分の後でうな垂れ歩いている矢部に声を掛けた。
矢部は一息吐いて、
「坂田さん、もういいですよ。僕に構わないで下さい」
「たまには外に出ないと気が滅入るばっかりだからな。まあ騙されたと思って付いてこい」
そのの励ましに矢部は仕方なく重い足を動かす。
坂田には矢部の気持ちがよく分かる。
だからこそ此処まで彼を連れて出したのだか……
学生時代の後輩である矢部の家族が、交通事故に遭ったとの連絡を受けたのは一年ほど前である。
妻と幼稚園に通い始めてすぐの一人息子が死んだ。
事故は近くに住む老人が車のブレーキペダルとアクセルペダルを踏み間違えて起こった。
加害者である老人が八十歳を越えていたこともあり、周囲の雰囲気も老人への哀れみが強い、そう感じると矢部は言っていた。
そんな矢部の落胆は坂田から見てもひどいものだった。
彼の両親はすでに亡くなっており兄弟もいない。
彼はまさに天涯孤独となり、その虚しさから仕事も手に付かなくなりやがて会社を辞めてしまった。
そんな先月、加害者の老人が死んだ。
急性の肺炎を起こしあっけなくこの世を去ったのである。
事故のストレスが原因ではと、社会の同情は更に老人に向かった。
矢部の憤りの矛先は失われてしまう。
「坂田さん、僕は車が憎い。この社会が恨めしい」
矢部は加害者が死んだ後そんな言葉を口にした。
行き場のない怒りをどう処理していいか分からない。
そんな気持ちは坂田にも痛いほど分かった。いや、孤独と言う意味では矢部の方が辛いのだろうと。
家に閉じこもり誰とも会わない矢部を気にかけて、坂田は同じ思いをしている仲間と話をすれば少しは元気になるかと思い、遺族会に誘って無理やりここまで連れて来たのである。
二人が会場に入るともうすでに年次集会が始まっていた。
百人ほど入る会場の半分ぐらいの席が埋まっている。
壇上では半年前に起こったバス転落事故の遺族の女性が、事故に遭った弟の話をしている。
「私の弟は大人の癖をして、持ち物にはなんでも名前を書く変な習慣を持っていました。彼曰く、自分はすぐに物を無くすので持ち物全てに名前を書かないと気が済まないと言っていました。鞄でも靴でも、彼はありとあらゆる物に名前を書いていました。そんな彼が事故後、現場から発見されていません。彼の持ち物もほとんど発見されていません。なので私には弟が死んだと言うことが信じられませんでした」
壇上の女性が少し言葉を詰まらせる。
そう言えば半年ほど前、山道を運転中の乗用車が無理な追い越しをしてバスと正面衝突、そのバスが横転し谷底へ転落した事故があった、そのことを坂田は壇上の女性の話で思い出した。
確か何人かが行方不明とアナウンサがテレビで言っていた記憶がある。
坂田が矢部を見た。
深く首を垂れずっと下を向いている。
坂田は彼が壇上の女性のように同じ境遇を持つ人が大勢いることを知って欲しかった。
そして自分独りが孤独ではない、だから気を病むことはない、そのことに気付いて欲しいと期待した。
「枝本さん、どうもありがとうございました」
壇上の女性の話が終わった。
坂田は拍手をしながらもう一度矢部の表情を伺う。
相変わらず精気の無い矢部が周りの拍手のテンポとかなりずれて手を叩いている。
心が此処にはない。
それは矢部が救いの手を拒否していることの証。
坂田は思い返した。
それはまるで子供の頃の自分のようだと。
× × ×
「あれ、今日は休み?」
〈ほとり〉の戸を開けた時、上条は厨房にいた勇一にそう問いかけた。
「今日は坂田さんが用事で外出しているので臨時休業です」
勇一は店のテレビで正午のニュースを見ていた。
アナウンサはここ半年の怪獣騒ぎでの経済損失が膨らんでいること、そのことによる不況で各企業が派遣労働者の採用を見送る事態が続いている、などを伝えている。
「あいかわらず暗いニュースばかりだね」
上条はそう言いながらカウンタの席に座った。
「今日は何の御用ですか」
「用ってほどでもないんだがね……」
上条は手に持っていた鞄をカウンタの上に置き、中から何やら資料を取り出し始めた。
「さっきのニュースでもあった通り、今派遣切りが横行していて、愛知で住むところがなくなった労働者らでテント村を作っているんだ。ところがそこで次々と人がいなくなる、って話があって」
「仕事が見つかってどこかへ行っただけじゃないんですか」
勇一はリモコンでテレビを消した。
「そう、誰もがそう思ったんだよ。ところがね、行方不明になっていた男が路上で倒れているのが見つかってね、病院に担ぎ込まれたんだ」
上条の話を聞きながら勇一は厨房でやかんに火を掛けた。
「で、その男が言うには、自分は怪獣を作らされたって言うんだ」
「怪獣?」
お茶葉をきゅうすに入れていた勇一の手が止まった。
「なんでも、良い仕事があるからって黒衣の男が話しかけてきて、その男に付いて行ったらしい。
そこは街外れの倉庫街で、その中に人間ぐらいの大きさの金属的な皮膚を持つ二本足の怪獣がいたんだとさ。
まぁ、いたといっても動かなかったんで最初は人形かと思ってたらしいけど。
その黒衣の男曰く、エネルギーを注入すると動き出すと説明してたそうだ。
それで何やら怪しい装置を見せられて、それで怖くなって逃げようとしたら意識を無くしたらしい。気がつけば病院だったそうだ」
気がつけば病院とは、半年前の勇一と同じである。
もしかすると自分もこの黒衣の男に連れ去られた一人だったのだろうか。
「最初は警察も半信半疑だったが、その男が連れて行かれたって言う倉庫を当たって見ると、行方不明になっていた人たちが見つかったんだよ。それも死体で……」
上条の長い説明の間に火をかけたやかんからは湯気が立ち登り出した。
「物騒な話ですね」
勇一はやかんのお湯をきゅうすに入れた。緑茶の良い香りがした。
「で、その病院に搬送された男はどうなったんですか」
「いなくなった」
「いなくなった?」
湯呑みに緑茶を注ぎこみながら勇一は嫌な予感がした。
「次の日、〈忽然〉と言う言葉がそのまま当て嵌るかのように、本当に忽然と消えたらしい」
「消されたって言いたそうですね」
勇一は静かに湯呑みを上条の前に置いた。
「たぶんね、その黒衣の男にね。警察も事件が事件だけに公にはしていないんだ」
「そうですか」
勇一は自分の湯呑みにも緑茶を注いだ。
「で、それを言いにわざわざここへ?」
上条は熱い緑茶をすすりながら、
「なんてったって、怪獣と言えばここでしょう。勇一君に聞けば何か分かるかと思って」
「僕は怪獣博士でもなんでもないですよ」
「そうかい、まあいいから」
上条は資料の中から数枚の写真を取り出した。
「これは、その倉庫街の写真。死体が見つかった倉庫からは怪獣は発見されなかったんだけどね」
手渡された写真には、どれも倉庫と数人の警察官が写っている。
「手掛かりにはならなさそうな写真ばっかりですね」
「そうかな」
勇一は順に一枚一枚写真をめくって行く。
と、ある写真で手が止まった。そこにはやはり倉庫と数人の警察官が写っている。
だがその奥、倉庫の脇に白い何かが。
里子だ。
「その女だけど」
「えっ」
なぜ上条は里子に目を止めたことが分かったんだろう。
勇一は上条の罠にはまった気がした。
「君、前にその女性と会っていたことなかったっけ」
「え…… ないですよ」
勇一はしらを切った。
しかし里子と会っているところをどこで見ていたんだろう、やはりこの男、どこか気が置けない気がする。
「病院から消えた男が調書で黒衣の男以外に白いワンピースを着た綺麗な女を見たと言っているんだ。俺はその写真に写っている女じゃないかと思ってる」
「そうですか」
勇一はあくまで無関心のふりをした。
だが里子は怪獣製造現場にいた。
それは深く関心があることだ。やはり彼女は……
「そうか、勇一君ならその女性の正体を知っていると思ったのに」
上条が知る以前に、勇一こそこの女の正体を知りたい、本当に里子は敵なのか、それとも味方なのか、彼女の正体は何者なのかと。
× × ×
矢部は妻子の写真を見ながら、何もせずにソファーに持たれて寝ころんでいた。
ただ脱力感だけが残る。
それ以外は空虚と言うしかない。
今日の遺族会に参加しても何も得られない、坂田は励ましてくれるが、それで二人が戻って来る訳でもなんでもない。
今何をしたらよいかも思い付かない。言いようのない不安が彼を襲う。
不意に手元から写真が滑り落ちた。床に落ちた写真を拾い上げる、そこには妻と子供の笑顔が……。
「あの時と同じだ」
矢部は心に痛みを覚えた。
そう、事故の後、二人の葬儀の後もこんな感じだった。
脱力感と空虚感。思い出した、あの時と全く同じ。
そう考えた瞬間、彼の中で再びあの思いが、憎い、車が憎い、この社会が恨めしい。空になった器に注ぎこむように、彼の怒りがどんどん心に満ちて行く。
彼がその感情を止めようとした。
せっかく坂田が自分のことを気に掛けてくれたことが不意になる。
彼は言い聞かせた。もう妻と息子は帰ってこない、だから、考えるのを止めよう、恨むのはよそう。
だがどれだけ心に言いきかせても、妻子の笑顔が消えることはない。
そして事故後に初めて見た二人の姿も。
思い出せば出すほど憎しみの感情は増して行くばかりである。
矢部の怒りが心から溢れそうになった。
彼は写真を机の上に置き、家の外へ出た。
少し体を動かせば怒りの感情が抑えられるかもしれない、そう考えたからである。
ただそれは虚しい抵抗であった。
外の世界は車が何百台と道路を走っている。
彼は心が怒りで満ち溢れることを止めることができなかった。
× × ×
勇一は倉庫街から海を眺めていた。
上条の写真に写っていた倉庫街、それは彼がいつも見ている海ではなく、コンクリートで固められた灰色の海である。
人が作りだした海の風景、勇一は虚しさを覚えた。
その虚しさは目の前の風景だけではない。
またここまで来て里子が見つからないことで失望したからだけでもない。
彼は里子に初めて会った時のことを思い出していた。「苦しむ必要はないわ」と言って優しい笑顔で自分を抱きしめた里子。
彼女は味方ではないのだろうか、里子は怪獣製造現場にいた。
彼女は自分を苦しめる怪獣を送り込んで来る敵なのだろうか。
里子が敵ならば合点が行く。
怪獣の現れるところに姿を見せることも、怪獣の正体を知っていることも、そして自分の正体を知っていることも。
だが本当なのだろうか、アモレーが現れた時「戦ってはいけない、あなたが死んでしまう」と訴えかけたあの潤んだ目、直人を救いだした時「その親子に関わればあなたはまた傷付く」と自分のことを心配してくれた言葉。あれは全ては嘘だったのか。
とにかく里子に会いたい。会って話がしたい。君は味方なのか、それとも敵なのか。
だがこの広い街で何の手がかりもなく一人の女性を探し出すことは難しい。
この場所も彼女が数日前に姿を現したと言うことだけで、再び現れると言う保証はない。
彼は絶望的な思いを持って〈ほとり〉に帰ろうとした、その時、遠目ではあるが向かい側の岸壁を歩く男がいる。しかもその男には赤い炎が重なって見える。
「あれは確か、坂田さんの知り合いの矢部さんじゃぁ」
確か今日も坂田さんと一緒に交通事故遺族の会に出ていたはず。なんでこんなところを歩いているのだろうと思った時、彼の前に一人の女性がいることに気が付いた。
それは白いワンピースの女性。
「里子!」
彼は慌てて彼らのいる岸の方へと走って行った。
向い側の岸壁に着いた時、距離はまだあるが二人の姿が確認できる。
勇一は全速力で走りだす。
なんとしてでも里子と話がしたい。
二人は一番奥の倉庫の角を曲がり、勇一の視界から消えた。
「待ってくれ!」
勇一は心の中で叫んだ。だがそれは無駄だった。
勇一が一番奥の倉庫まで辿り着いた時、二人の姿はもう消えていた。
× × ×
昨日と違い今日は冬を思わせるほど気温が低い。
墓地のある高台にも冷たい風が吹きつけて来る。
勇一の横にある買い出し用の自転車が倒れるかと思うほどの強い風が吹いた。
春の天気は移り気である。
結局、昨日は里子を見つけだせなかった。
彼女が自分の味方かどうかを確認することができなかった。
もし彼女が敵ならば、自分の味方は比呂子だけ。
だが、この前ここで聞いた坂田の言葉を思い出す。
「お前が何のために戦っているか俺は知らない。ただ比呂子だけは巻き添えにするな」
坂田はなぜそんなことを言ったのか、彼は自分の正体を知っているのだろうか。
「お前ももしあいつのことが好きなら、あいつにこれ以上関わるな」
勇一は里子の言葉を思い出す。
「あなたには誰も救えない。誰も幸せにはできない。いえ、誰かを不幸にさえしているの。他人を傷つけて、そして自分も傷つける。それが今のあなたなの」
やはり自分は比呂子までも不幸にしてしまうのだろうか。
ならば比呂子から離れないといけない。でも……
「勇一じゃないか、そんなところで何してる?」
振り返ると声の主は魚屋の玄さんだった。
「玄さんこそ此処に何しに?」
「今日は親父の命日でな、墓に花を供えに来たんだ」
玄さんは手に持っていた仏前用の花を掲げて勇一に見せた。
「そこは坂田家の墓だな」
「ええ、一昨日坂田さんがここで手を合わせているのを見たもんですから」
「そうだな、奥さんの祐子さんが亡くなったのもこんな時期だったな」
勇一は坂田の「俺は愛する女を不幸にした」と言う言葉を思い出した。
そう言えば坂田から亡くなった奥さんの話を聞いたことがない。
「玄さん、坂田さんの奥さんってどんな人だったんですか」
「なんでも都会の大学で知り合って、両親が亡くなって、浩二が大学を中退して店を継いだ時に強引にこの田舎に連れてきたみたいだ。可愛い感じの気立てのよい奥さんだった。あの気立てのよさが仇になったなぁ」
「仇って?」
玄さんは少し残念そうな表情で、
「事故の日は今日みたいに風が強くって波も高かったなぁ。祐子さんが慌てて道路に飛び出た時に車に轢かれたんだ」
「何があったんですか」
「実は良く分からないんだ」
「分からない?」
玄さんは腕組みをしながら、
「周りの人が祐子さんを助けようとした時、自分のことは構わないで海で溺れている男の子を助けて、って言ったらしいんだ」
「実際に誰か溺れていたんですか」
「いや、結局海が荒れていたんで、何かを見間違えたんだろうって話になったんだ。でも見間違いにしても子どもが溺れていると思って慌てる所は祐子さんらしい気立ての良さだな」
玄さんは納得するかのように云々と二回ほど頷いた。
「事故を知った時の浩二の悲しみはかなりだった。あいつ、そうとう祐子さんに惚れてたからな。見ていられないぐらい落ち込んでたっけ」
勇一は坂田の気持ちを察した。
そう、自分だってもし比呂子に何かあれば同じぐらい落ち込むに違いない、いや、落ち込むどころか自らの命すら落としかねない、とまで考えた。
「だけど祐子さんが見間違えた溺れた男の子の話を聞いた時の浩二は何か尋常じゃなかったな。祐子さんが死んだことだけじゃ説明が付かないほど真っ青になってた気がする」
勇一には坂田がそこまで気にする男の子と言うキーワードが気になった。
「なぜ坂田さんが溺れた男の子のことを気にしていたんでしょう」
「恐らくだけど、昔、浩二には弟がいて、奴と遊んでいる時に岸壁から落ちて死んだんだ。自分の過失で弟を死なせたことを悔やんでいたって祐子さんから聞いたことがある。海で溺れてた男の子と自分の弟が重なったんじゃないのかなぁ」
「そうですか、そんなことがあったんですか」
勇一は自分の知らない坂田の過去を知った。
だが今の話だけでは「俺は愛する女を不幸にした」という言葉と結び付かない。
結局勇一の疑問は解決しなかった。
勇一は遠くに見える海を見た。
白波がうねりながら陸へ向かってくる。
それは海に消えた子供を浚った波のように。
× × ×
坂田は手紙を見ていた
「ただ今戻りました」
勇一が〈ほとり〉の戸を開けた。
「お帰り」
坂田は呼んでいた手紙を封筒に入れ、自分のポケットに仕舞った。
彼の目は少し潤んでいるようにも見えた。
「何読んでたんですか」
「なんでもいいだろう」
坂田の言葉はいつもより素っ気なく感じる。
勇一は仕入れてきた野菜を厨房に運び込む。
そして黙ってそれらを洗い出した。
「この前の話ですけど……」
勇一は黙々と野菜を洗いながら墓の前での坂田の話を持ち出そうとした。
「なんの話だっけ」
坂田はテレビを点けた。
画面にバラエティー番組が映る。
会場の人々が一斉に笑っている映像だった。
勇一は坂田がどこまで自分の正体について知っているかを聞き出したかった。
だが下手に聞くと自分から正体を明かすことになる。
彼は二つ目の疑問を坂田に質問した。
「坂田さん、祐子さんを不幸にしたと思ってるんですよね」
「そう、祐子が死んだのは俺のせいだと思ってる。
彼女は、本当は語学を生かして貿易の仕事をしたかったんだ。
俺は祐子に付いて来て欲しいと頼んだ。
彼女は迷ったと思う。なのに俺が強引に連れてきた。
連れて来なければ祐子は死なずに済んだかもしれない」
「それは坂田さんの考え過ぎでは……」
「祐子の死と今の話は何の関係もないと言いたいんだろう。
でもな、人間は誰でも理由を求めるんだ。
自分を納得させないと前へ進めない。
俺は、俺自身のせいで祐子が死んだ、そう思うことで納得しているんだよ」
店のテレビからは相変わらず笑い声が聞こえる。
勇一は野菜を洗う手を止めた。
「坂田さんは、奥さんが事故に遭った原因を作った男の子のこと、すごく気にしてると聞きましたが」
坂田の目が鋭く勇一を見た。
「もしかして海に消えた男の子と僕を重ね合わしているんじゃないですか、その男の子は実は事故で亡くなった弟さんの分身、その男の子と僕を重ねて、今回も同じように比呂ちゃんを不幸にするとでも」
勇一は坂田を睨み返した。
自分は海で死んだ弟ではない、まして比呂子を不幸にする男ではないと言わんがばかりに。
「ならば、お前はなぜ戦っている? なぜ比呂子を巻きこまないと言い切れる?」
勇一はなにも言えない。
彼は坂田から目を逸らさずにはいられなかった。
そんな時、テレビ番組が変わった。
『ここで緊急ニュースです。先ほど愛知県の沖合から怪獣が現れました。怪獣の大きさは今までよりも巨大で全長一五〇m程度はあるものとの発表です』
勇一は左手を見た。青い炎が燃えている。
「あの怪獣は、たぶん俺の友達で、矢部ってやつだと思う」
「えっ」
坂田はポケットから手紙を出し勇一に手渡した。
『拝啓 坂田様
春の日差しが暖かくここ最近は良い日和が続いていますが、ご機嫌いかがでしょうか。
私は生きる意味を失いかけています。
そんな中、ある女から誘いを受けました。
彼女は私に怪獣の人形を見せ、この怪獣アリビオンを巨大化させるのに私の怒りのエネルギーが必要と言われました。
どうもこの女が最近の怪獣騒ぎの張本人だと気付きました。
彼女の話では、派遣労働者のエネルギーを多数集めて今までにないほどの巨大な怪獣を作り出すつもりだったが、パワーが今一つ足りない。
どうも彼らにはまだ希望と言うものが残っていたのだろうと。
そこで私のような深い憎しみを持つ人間のエネルギーが必要だと言われました。
私は彼女に、私のエネルギーとやらを渡すことにしました。
私の恨みはこの女に会う前から十分怪物化していたのです。
今更断りようがありませんでした。
坂田さんには一方ならぬ恩を受けた上で誠に申し訳ありません。
坂田さんも私のような醜い姿にならないようお気をつけください。
追伸:女はシルバーマンを生け捕りにすると言っていました。
この怪獣の弱点は後頭部の鰭のところとか。シルバーマンに会うことはないでしょうが、万が一会ったらお伝えください。
怪獣の前ではすぐに空へ飛び立ち、上空から戦って下さいと。
敬具』
勇一は手紙を読み終えると、それを坂田に返した。
「行くのか」
坂田は問う。勇一は思い切ってさっきからしたかった質問をぶつけた。
「なぜ僕の正体を」
「怪獣が現れれば必ず姿を消す、シルバーマンが戦った次の日には必ずお前は疲れている。これで気付かない方がおかしいだろう」
坂田はほくそ笑んだ。
そう、やはり坂田は自分の正体を知っていたのだ。
坂田の「あいつにこれ以上関わるな」と言う言葉とともに、勇一の脳裏に比呂子の笑顔が浮かんだ。
「心配するな、比呂子には言わないよ」
そう言いながら坂田は見上げる。
見上げた先のテレビでは怪獣が街を破壊している中継が映っている。
「俺も一つ間違えればあの怪獣になっていたかもしれん。
そんな俺を救ってくれたのは比呂子の存在だった。
どんなことがあってもたった一人の妹を悲しませてはいけない、死んだ母親の言葉だ。
その言葉がなければ俺はもうすでに怪獣になっている。
もし今、比呂子を失って守るものが無くなれば、矢部と同じく怒りで体が溢れ怪獣になっていただろう。
勇一、お前は俺が怪獣になったとしても戦いに行くのか」
「僕は戦いたくて戦っているんじゃないんです。怪獣を目の前に自分を守っているだけです」
テレビではアナウンサが怪獣進撃の様子を実況している。
「そうか、それなら行って来い、そして奴を自由にしてやってくれ」
「自由?」
「人間はな、どれだけ怒りを抑えようとしても抑えきれない時がある。
それが深い絶望の中から生まれたものであればあるほどその怒りからは逃れられない。
なぜなら、怒りそのものが生きるエネルギーだからだ。
怒りを納めると言うことは、生きるのを止めると言うことだ。
だから奴を殺してやって欲しい。
そのことで救ってやって欲しい」
怪獣は港を破壊している。
船積み前の多くの車が踏みつぶされて行く。
「奴がこの手紙を送って来た理由、それは怪獣になった自分を殺して欲しいと言う願いだ。それができるのは勇一、お前しかいない。だから彼を、救ってやって欲しい」
勇一は混乱した。
怪獣を倒すことが、それによって人が死ぬことが救うことになる?
「行ってきます」
勇一は気持ちを整理しなかった。
考えれば考えるほど自分が混乱した。
だから彼は考えるのを止めた。勇一はそう言い残すと〈ほとり〉を飛び出した。
彼の体が光に包まれる。そしてシルバーマンとして怪獣の前に姿を現した。
怪獣アリビオンはシルバーマンが子供に見えるほど巨大であった。
アリビオンがシルバーマンを踏みつぶそうとする。
彼はその足をかいくぐる。
シルバーマンがアリビオンに体当たりする。
しかし金属質の皮膚はびくともしない。
逆に弾き飛ばされて地面を転がる有様である。
そのとき周りの船積み前の車が弾き飛ばされて行く。
アリビオンは雄叫びを上げながらシルバーマンに迫る。
その足がシルバーマンを踏みつぶそうとした時、シルバーマン転げながらその足の着地点から離れた。
足は空振りしそこに在った車達が踏み潰されて行く。
シルバーマンが態勢を立て直して再びアリビオンの腹目がけて飛び蹴りを、しかしやはりビクともしない。
倒れたシルバーマンの両足を掴みアリビオンが振り回す。
そして勢い良く海の方へ方に投げる。
海面に叩きつけられるシルバーマン。
大きな波が岸壁の倉庫を飲みこんで行く。
海面に浮上したシルバーマンが今度は空中へ飛び上がり、空からアリビオンへ再び飛び蹴りを、さすがのアリビオンも勢い良く倒れ込む。
周りの車達が、形が分からないほど潰されて行く。
倒れたアリビオンにまたがり拳を振り下ろすシルバーマン。
しかしその金属の皮膚では痛みを感じないのか、何事もなかったかのように立ち上がるアリビオン。
立ちあがった反動でシルバーマンはまたもや地面に放り投げられた。
ふらふらと立ち上がるシルバーマンをアリビオンは両脇から抱え込む。
羽交い絞めに合うシルバーマン。
その腕に力が入る。骨が砕けるかと思うほどの痛みがシルバーマンを襲う。
勇一は苦痛の中で思い出した。
手紙には怪獣がシルバーマンを生け捕りにしたいと書かれてあったことを。
勇一は自分がうかつに怪獣に近づきすぎたことを後悔した。
しかし今は悔やんでいる場合ではない、何とかしなければ。
彼は羽交い絞めになっている左手に思いを乗せる。
すると彼の手から青い光線が発射、アリビオンの足に命中。
足をすくわれたアリビオンは後ろ向きに倒れた。
周りの建物が全て倒壊する。
倒れたすきにアリビオンから逃れたシルバーマンは空中に飛び立つ。
アリビオンは起き上り、シルバーマンを探した。シルバーマンは怪獣の後ろにいる。彼の左手から光線が、そしてアリビオンの後頭部に命中。
轟音とともに再び倒れるアリビオン。
咆哮が響き渡る。そしてアリビオンは声だけを残して消えて行った。
× × ×
戦いが終わった後、怪獣が制作された倉庫街の海を勇一は見ていた。
相変わらずコンクリートで固められた澱んだ海である。
本当に救われたのだろうか、自分のしたことは正しかったのか、いつものように自分に問いかけても答えは出ない。
前の海の景色はいつもの海とは違って心を和ましてはくれない。
「私に用があるんじゃないの」
勇一が振り返る。
そこには白いスーツ姿の里子が立っていた。
「私を探してたんでしょ?」
「里子、教えてほしいんだ」
里子はゆっくりと首を横に振った。
「君は今日も僕の質問に答えてくれないんだね」
「人間、知らない方が幸せってこともあるわ、特にあなたには」
「君は僕が記憶のないことで救われているとでも言いたそうだね」
「そうかもしれないわね」
里子はいつもよりも優しい表情で勇一に答えた。
「ならば一つだけ答えてほしい。里子、君は僕の敵なのか、それとも味方なのか」
里子は少しだけ勇一から視線を外した。
そして間をおいて彼を見つめ直した。
「あなたは私のことを敵だと思っているのね」
「君は怪獣の制作場所で見かけられている。矢部さんの手紙にあった女とは君のことだろう」
「もしそうだったら」
里子の表情は動かない。
さっきまでの優しい表情はそこにはなかった。
「僕を欺いていたと言うことを認めるのか」
「あなたのようなお人よしで愚かな人をだますなんて簡単だったわ」
里子は笑った。
勇一を挑発するかのような小馬鹿にした笑い声で。
「そんなお人よしなあなたには、あの比呂子って名前の鈍感な田舎娘がお似合いよ」
勇一の拳に力が入る。右手に熱い物を感じた。
「僕のことはともかく、彼女のことを悪く言うな」
彼の右の拳から赤いものがゆらゆらと見え隠れしている。
それを見た里子の目がその赤いものに釘付けになった。
「あなたは比呂子さんのことになると、他人を恨むと言うことを思い出せるのね」
「恨む?」
勇一は右手を開いて見た。
そこには赤い炎が燃えている。
そう、今まで怪獣たちに姿を変えた人間たちの恨みの炎と同じものが自分の右手に燃えている。
それを見た瞬間、また脳裏にあの温室の風景が、木々が赤く染まる。
「あなたはもうすぐ覚醒する」
里子の表情が先ほどの冷たい表情から少し柔らかいいつもの表情に戻っている。
「覚醒とはなんだ!」
「あなたが覚醒すれば、【あの人】が目覚める」
「【あの人】?」
里子は目を閉じ恍惚の表情を浮かべた。
「私はあなたに死んで欲しくないと思っている。それはあなたの為なのか、そうでないのか、私にもよく分からない。ただ覚醒したあなたに私は間違いなく味方になるわ」
「なぜ君は怪獣を送り込んで来る相手を知っているんだ。それがさっき言っていた【あの人】なのか」
里子は再び首を横に振った。
「私はあなたが必ず覚醒し、そして私のところに愛する【あの人】が戻って来ると信じているの。私はその時を待つわ」
彼女の眼は勇一を真っすぐ見ている。
それは彼女の強い意志を感じるに充分過ぎるほどであった。
彼女の今の言葉は嘘ではない、それだけは分かるような気がする。
「お帰りなさい、比呂子さんのところに」
彼女は勇一に背を向けて歩いた。
勇一は彼女を追うかどうか迷った、しかし止めた。
いつものことである。
彼女はなにも教えてくれはしない。
それよりも彼女が別れを告げたことで少しホッとしている自分がいる。
なぜだろう? 彼は思い返してみた。
そこには怪獣を倒すことを非難し続ける彼女がいた。
今思えば、それもさっき言っていた自分が覚醒するための手引きだったのか、そもそも自分に恨みの炎が現れることが覚醒なのか。
謎が増えるばかりだが、今分かったことは、里子は敵であれ味方であれ、自分を救ってくれる存在ではない、それだけは確実だった。




