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青と赤の炎 -戦え!シルバーマン-  作者: 水里勝雪
第4章 死闘編
12/18

猿人怪獣マチルダ

「お疲れ様です」

 夜十一時、廊下のほとんどの蛍光灯は消え、病室からも光の漏れることがないこの時間、唯一明かりが灯る場所、ナースステーション。

 そのナースステーションに戻ってきた比呂子に後輩の美雪が声を掛けた。


 比呂子は何も言わず自分の席に座る。

 そして机の上に置いてあった日誌取り、今日の日付のページを開いた。

 胸ポケットのペンを取り出しそのページに「北川勝子、六十九歳。クモ膜下出血」と書き込む。


「北川さんの奥さん、どんな様子でした」

 比呂子はペンを止めた。


「緊急手術で応急的な処置は済んだんだけど、先生の話だと意識の戻らない確率が高いんだって」


「奥さん高齢ですもんね」

 比呂子は持っていたペンをポンとノートの上に放り投げた。


「昨日まで元気で生活してたんだって。旦那さんが取り乱して言ってた。なんで急に倒れるんだって感じで。少し先生にも食ってかかってたわ」


「旦那さんは定期的に持病の高血圧で病院に来ることはあっても、奥さんが病気でうちの病院に来ることなんかなかったですからね」


 比呂子は小さなため息を吐いた。

 そして誰もいない暗い廊下を見つめる。


「旦那さんがね、肩を落としてて、見てられないのよ」

 比呂子はこの先の廊下にある長椅子に肩を落として座る老人の姿を思い出した。


「北川さんご夫婦、仲良さそうでしたもんね」

 美雪が淡々と話す。比呂子は相変わらず暗い廊下の先を見つめながら、


「ダメだな、この仕事どんなに長くやってきてもあんなシーン見るといつも心が痛い。慣れないといけないのにね」


 比呂子は再びペンを握ると日誌に必要事項を書き込んで行く。

 ペンを走らせながら比呂子は最愛の人が倒れたら、そしてもうすぐ会えなくなるかもしれないという事態に遭遇したら自分ならどうするだろうと考えた。


 しかし今ひとつピンとくるものがない。自分にとって最愛の人は、兄、それとも‥‥‥


「見回りに行ってきます」

 美雪が暗い廊下の方へ歩いて行った。


 その間も比呂子は考えていた。

 自分にとっての最愛の人は、と。そしてその人といつか別れが来るのか、とも。


   ×   ×   ×


 勇一は花瓶に水を入れて戻ってきた。


 その横で北川幸一郎は静かに眠る妻の勝子を無言で見守り続けている。

 勝子は緊急入院してから一度も目を覚ますことはなかった。


 勇一はなにも言わず花瓶に自分が持ってきた花を生けて行く。

 枕元では比呂子が勝子の状態を看護師らしくテキパキと確認して行く。


 窓の外は冬のどんよりした雲が海全体を覆っていて、いつものキラキラとした輝きが波間からは感じられない。

 そう言えば幸一郎に初めて出会った日もこんなどんよりとした寒い日だった。


 勇一が北川幸一郎に初めて会ったのは一ヶ月ほど前。

 腰痛で動けなくなっていた幸一郎をたまたま通りがかった勇一が見つけ、家まで送り届けたことで交流は始まった。


 幸一郎は持病の腰痛が寒さで酷くなったようで、送り届けた時、妻の勝子が幸一郎に、こんな寒い日に外出しないでとあれだけ言っていたのにと怒っていた。

 幸一郎は言い返すこともなく「すまん、すまん」と繰り返す、勇一はそんな二人の様子を微笑ましく見ていたことを思い出す。


 勝子は送り届けてきた勇一に厚く感謝し、その後も何かにつけて〈ほとり〉を訪ねてきてくれた。

 彼らは勇一の境遇に同情し、勇一もこの二人暮らしの老夫婦が気になり何かにつけて北川家を訪れた。


 勇一にとっては心優しいこの二人に癒されることが多くなって来ていた、そんな矢先の今回の出来事であった。


「北川さん、眠られたらどうですか。夕方の開店まで時間があるんで、僕が勝子さんのことを看ておきますよ」

「大丈夫だ、このままにしといておくれ」


 幸一郎は勇一に視線を向けることもなくじっと静かに勝子を見ている。

 勇一もそれ以上は何も言わず、花を生け終わった花瓶を勝子の眠るベッドの横の机にそっと置いた。


 勝子は元気な頃から幸一郎のことを気にかけていた。

 自分に何かあった場合、家の用事がなにもできない幸一郎はどうなるのかと。


 幸一郎は幸一郎で寂しがり屋の勝子が、自分のいなくなった後、どう生きて行くのかを心配していた。

 老夫婦は常に相手を労わり合っていた。労わり合っている二人を見ていると勇一の心が和んだ。


 しかしどちらかが欠けた時、その和みは失われる。


 窓の外は相変わらず光が乏しい。

 そのほの暗い光がより幸一郎の影を薄くした。


 と、思いがけず幸一郎が笑った。

 それは優しい微笑みだった。

 勇一は少し目を疑ったが、見返した時にはもとの沈んだ顔になっていた。

 しかしさっきより表情が柔和になったような。



 比呂子が自分の行うべきことを終えた後、勇一に目配せをした。

 勇一は彼女に向かって頷く。

 そして二人は幸一郎に何も言わずに病室を出た。


「北川さんところの旦那さん、大丈夫かしら」

 比呂子は勇一が閉じた病室の扉を見返す。


「そっとしておいてあげた方がいいんじゃないかな」

 勇一は幸一郎が少しでも勝子の側にいたい、そんな気持ちが分かる気がした。

 自分が同じ立場ならば、やはり同じことをするだろう。


「ねぇ、勇一さん。男の人が最愛の人の意識不明を聞いたらどうなるの」

「どうしてそんな質問を?」

 勇一は比呂子の真剣な表情を見ながら問い返した。


「よく分からないんだけど、なんか北川さんの旦那さんを見てると、妙に心穏やかな気がして、なんか不思議だなと思って」


 勇一はさっきの幸一郎の笑顔を思い出した。

 確かに比呂子が言う通り、幸一郎には穏やかさを感じる。


「もし僕なら、落ち込んで、泣き叫んで、死にたい気分になる気がする」

 勇一は想像してみた。もし比呂子に何かあればと。


「そうよね、私も同じ気持ちになる気がする。でもね、実感なくて、イマイチ分からないのよ。例えば兄さんに何かあった時に自分がそんな思いになるのかとか」


 その言葉に勇一は思う、自分に何かあった時、比呂子は悲しんでくれるんだろうかと。


「でも、もし私のことを想ってくれる人がいて、その人のことを私も愛していて、そしてその人が意識不明になったら、私も勇一さんと同じ意見で、死にたくなるほど悲しいと思うの」


 比呂子は勇一をじっと見つめてそう言った。

 そして再び病室の扉の方を見返した。


「だから旦那さんの穏やかさが分からないの」

「でもあの夫婦、とっても仲良かったよ。相手が死んでもいいと思っているとはとても思えない」

「そうよね、だって旦那さん少しも奥さんの側から離れようとしないもんね」

 比呂子は小首を傾げた。


「長く夫婦を続けて行くと、私たちには分からない心境になるのかしら」

 比呂子は納得し難いと言う表情を浮かべる。


 勇一も納得できない、しかし何か自分たちでは分からないことがあるのではとも思う。

 それが何なのか、もし愛する人とずっと長く暮らしていけばわかるものなのか。勇一は比呂子を見た。


 比呂子は相変わらず納得のいかない表情をしていた。


   ×   ×   ×


 次の日も勇一は勝子の様子を見に病院を訪ねてきていた。

 空は相変わらずどんよりしている。

 廊下の光は外からの弱い光しかなく 薄暗い中を勇一は勝子の病室を目指していた。

 病室の前に人影が見える。比呂子だった。


「何してるの」

「しっー!」

 比呂子は自分の唇に人差し指を立てた。病室の中から言い争う男女の声が聞こえる。


「そんな、もし母さんを引き取るなら兄さんでしょう、長男なんだから」

「何言ってんだ、こんな状態で俺が住んでいるところまで母さんを運べる訳ないだろう」

 病室の中から聞こえる男女の声はかなり喧嘩腰である。

 比呂子が耳元で囁いた。


「北川さんのところの息子さんと娘さんみたい」

「何があったの」

 比呂子は少し眉間にしわを寄せて


「奥さん、意識が戻らないでしょ。でも病院としては長く入院させることができないから、退院を勧めていて」

 比呂子は心苦しそうだった。


「で、旦那さんだけだと看病しきれないんじゃないかって、子供たちが集まっているの」

 その比呂子の説明の間も病室からは大声が聞こえる。


「大体どうやって東京まで母さんを運ぶ気だ。無理に決まってるだろう」

「何言ってんの、病院に相談すれば何とかしてくれるんじゃない。そもそも兄さんは義姉さんから連れてくるなって言われてるだけじゃないの」

 女性の声が低く嫌味な感じに変わった。


「今のマンションじゃ、母さんを置いておく部屋なんかないし。そう考えればお前の家の方が広いじゃないか」

「そんな、私は嫁に行った身よ」


「なら、母さんたちの家を一日一回見に行ってくれよ。家近いんだし」

 男性の声が懇願するように少し甘えて聞こえる。


「ダメよ、子供達だってまだまだ手がかかるし。第一、旦那の方の親も腰痛だのなんだの言って、病院への送り迎えしてるのよ」

 女性の怒っている感じがよく伝わってくる。


「そこをなんとか、自分お親が病気だからって言ってだな」

「やめてよ、ただでさえ旦那の親に気を使ってるのに。これ以上嫁姑問題をこじれさせないでよ」

 少し女性がヒステリックな声に変わった。


「それより、なんで病院は退院させたがってるんだ」

「そうよ、このまま入院させてくれてればいいのに」

「俺、病院側に掛け合ってくる」

「私も行くわ」


 さっきまでいがみ合っていた二人が意気投合したようだ。

 病室の扉が勢いよく開いた。

 勇一と比呂子は身を代わすように扉の前から移動する。

 勢いのある中年の男女二人がその前を通り過ぎて行く。


 勇一と比呂子が顔を見合わせた。

 比呂子は少し頬を膨らませている。


「信じられない、自分たちの親のことなのに」

 比呂子が病室を覗く。そこにはいつものように幸一郎が勝子を見守っている。


「私は両親を早くなくしたから、親孝行もできない。なのにあの人たちは何! 自分たちの都合ばっかり言って、それもお父さんの目の前で、信じられない」


 勇一は比呂子がいつも以上に怒っていると感じた。

 両親のいない比呂子にとって彼らの行動は理解できないのであろう。


 比呂子の右手に赤い炎が見える。勇一は驚いた。

 比呂子にもこんなに怒りの思いがあることを。


 彼女が病室の中に入る。

 その後を勇一も続く。

 幸一郎は何も言わず相変わらず黙って眠っている勝子を見ている。


「大丈夫ですか、御気分とか悪いところはないですか」

 比呂子が優しく幸一郎に話しかけた。

 だが幸一郎はなにも答えない。

 窓からの弱い光が幸一郎と勝子を包んでいる。


 比呂子は容態を見るため右手で勝子の脈を診た。

 するとどうだろう。勝子の口元が動いた。

 それはほんの一瞬だった、だが幸一郎はそれを見逃さなかった。


「勝子、勝子聞こえるか」

 勝子が少し頷いた。驚いた比呂子の右手から赤い炎が消えた。


「勝子、勝子!」

 幸一郎は連呼する。

 しかし勝子はそれ以上反応しない。


 比呂子は必死に名前を呼ぶ幸一郎を唖然として見ている。

 勇一が彼女の肩を叩いた。

 我に返った比呂子は勇一に強く頷いて病室を出て行った。


 残された病室には勝子を呼び続ける幸一郎だけが残った。


   ×   ×   ×


 比呂子は慌てて主治医を呼びに行ったが、結局勝子の反応は気のせいであろうとの判断が下った。

 比呂子は納得いかないようだった、が確かにそれ以上勝子は反応せず、動くこともなかった。


 幸一郎も何事もなかったようにいつものように勝子を見守っている。

 その隣に勇一も座っていた。


 さっきのは何だったんだろう。

 もしかして比呂子が触れたことで、つまり赤い炎が触れたことで勝子が生き返ったような気がする。

 とすると勝子を元の姿に戻すことができるかもしれない。



 しかし本当に幸一郎はそれを願っているのだろうか。

 勝子を見守る穏やかな幸一郎の表情に戸惑いを覚える。

 が、さっき勝子が動いた時、幸一郎は彼女の名前を連呼した。

 やはり元気になってもらいたいはず、なのになぜこんなに穏やかなのか。


「北川さん、なんでそんなに穏やかなんですか」

 勇一は率直に自分の疑問を幸一郎にぶつけてみた。


「そう見えるかね」

 幸一郎は表情を変えずに勇一に答えた。


「年寄りは何事につけても穏やかなもんだよ」

 勇一はその言葉に納得がいかなかった。それだけでは理由がつかない。


「北川さんは奥さんが元気になって欲しいと思ってるんでしょ」

「どうかな……」

 幸一郎は相変わらず視線を変えないでそう答える。


「どういう意味ですか。どうかなって。さっきも奥さんの口元が動いたことを真っ先に見つけたじゃないですか」


「勝子が元気になってくれれば、それはそれで嬉しい。でもどうせ私たち年寄りは死ぬんだから。今か、来年か。そんなに大差ないことだよ」

 淡々と語る幸一郎。


「そんなもんですか」

 と勇一が尋ねると、


「そんなもんだよ」

 と、幸一郎も答える。


「勇一君は若いから分からないかもしれないが、年を取るってことは一つ一つ出来ていたことが出来なくなるってことなんだよ。


 若い頃なら簡単に覚えられた人の名前なんかが覚えられなくなる。

 今まで見えていたものが老眼鏡をかけないと見えなくなる。


 勝子も今までできていた喋ることも食べることも出来なくなった。

 それは年を取ったから。それが年を取るということだから」


 確かに勇一にはピンと来ない。喋ることも食べることもできなくなることを仕方がないと言えることが、そのことが当たり前のように言えることが、そして何よりも寂しくないのかと。


「勇一君は私が寂しくないかと思ってるんだろう」

「えっ、」

 勇一は本心を見透かされた気がした。


「寂しいよ。でもね、年を取ることは失うばっかりじゃなくってね、得るものもあるんだよ」

「得るもの?」

「思い出だよ」

 勇一は思いがけない言葉に何を言っていいのか分からなくなった。


「勝子との思い出は消えることがない。ずっと一緒だったからね」

 少し幸一郎に笑みがこぼれた。


「結婚した頃の彼女は可愛かったよ。今では見る影もない婆さんになったけどね。それでも口元なんかは当時と変わってないんだ」

 勇一は何か分かった気がした。


 なぜ幸一郎が勝子を見て笑を浮かべるのか。色々な思い出を思い返しているのだ。

 仲の良い夫婦だからこそ、長年連れ添ってきたからこそ穏やかでいられるのかもしれない。


 幸一郎はいつまでも勝子を見ている。不意に勇一の左手に青い炎が現れた。


「こんな時に」


 と勇一はいまいましく思ったが、ふとあることを思いついた。

 彼はその左手を勝子の額に当ててみる。

 さっきの比呂子と同じことが起こるのではと期待したのだ。


 しかし何も起こらなかった。勝子の口元が動くことも、そして頷くこともなかった。


   ×   ×   ×


 空間移動した先は民家もないような山の中だった。山の木々は枯れ落ちて、森の中なのに空が見える。

 だがその空はどんよりとした雲で覆われ、太陽の光はまるで生い茂った植物が光を遮っていた時と同じようにか弱い。

 その薄暗い森の中、勇一は辺りを見回した。


 誰かが遠くで話をしている。その声がだんだん近づいてきた。


「俺は見たんだ、怪獣を。信じてくれよ」

「分かった、分かった。疲れてんだよ、お前は」

 木立に隠れて勇一はその二人の会話を聞いている。


 どうも林業関係者らしい。

 屈強な腕がそれを物語っている。


「信じてくれよ、あれは怪獣だって」

「分かったよ、しばらくこの当たりは作業中止にするから。警察にも連絡しておくから」


「警察じゃ、ダメだ。シルバーマンに連絡しないと」

「お前、連絡先知ってんのかよ」

「知らないけどさ」


 二人はそう言い合いながら山を降りて行く。

 勇一はその二人を見送りながら、ここに怪獣が現れたことを確信した。

 左手の青い炎はいつの間にか消えていた。


「青い炎が消えたようね」

 勇一は不意を突かれ、弾かれるように後ろを振り向いた。


「里子、どうしてここに」

「私はいつでもあなたを見守っているわ」

「見守っている?」


 勇一は不思議な気持ちになった。

 里子は夫である自分のことを見守っている。

 それは幸一郎が妻である勝子を見守るのと同じなのだろうか。


「あなたにとって必要なものを持ってきたわ」

 里子が右手を上げる。そこには古びたランタンが握られていた。


「それは?」

「赤い炎を写し取るランタン」

「赤い炎を写し取る?」

 里子はランタンを突き出したまま勇一に近づいてくる。


「救いたいんでしょ、あの老夫婦を」

「どうしてそれを」

「私はあなたをずっと見守っているから」

 里子が微笑んだ。


「里子、どうして赤い炎を近づけた時に勝子さんは息を吹き返したんだ」

「それはね」

 里子はランタンを持っていた手を一旦下ろした。


「赤い炎は怒りの炎、それはあなたも知っているわよね」

 勇一は頷いた。


「つまり怒りとは生きること。怒りを失えば人は生きていけない」

「そんな……」

 勇一が今度は首を横に振った。


「人は生きるために、そして自分を守るために他人を憎む。

 相手が自分よりも有利な状態であればその相手を妬む。

 自分の欲しいものを他人が持っていれば怒り、そしてそれを奪おうとする。

 自分の物を奪われまいと相手も怒り、怒りが怒りを呼ぶ。


 怒りとは、生きるために進む道を邪魔する何かを排除しようとする感情、生きていこうとする強い意志。


 つまり怒りこそが生きることの根源。生きていこうとする為のエネルギー。怒りさえあればどんな状況下でも生きていけるの」

 里子は更に強い口調で続ける。


「あなたも見たでしょ、赤い炎が触れた瞬間、死に向かっていた人が息を吹き返したのを。あなたが認めたくなくてもそれが事実なの」

 里子は口を真一文字に結び更に勇一を睨んだ。


「でも青い炎をかざした時には何も起こらなかった」

「それはね」

 里子は少しだけ落ち着いた口調に変わった。


「青い炎は悲しみの光、だから人は救えない」

「人は救えない……」

 勇一は里子の言葉を繰り返した。


 確かに今まで誰ひとりとして救えたことはない。

 そしてそのことで常につきまとう悲しみ。


「あなたではあの老夫婦を救えない。

 恐らく小さな怒りでも彼女を生き返らせることは難しい。

 怪獣の放つ強烈な赤い炎が必要なの。


 でもそれは困難を伴うわ。

 ただでさえあなたが死にもの狂いで戦ってやっと勝利しているぐらいなのに、怪獣の赤い炎をそのランタンに移すことは至難の技ね」


 勇一は左手を見た。そして再び里子を睨みつけた。


「どうすればいいと言うんだ」

 里子は黙って再び右腕を上げた。その先にはランタンがある。


「あなた自身が怒りを持つこと。それが一番確実にこのランタンに赤い炎を移すことのできる手段」

「それは……」

 勇一は戸惑った。


「勇一さんに怒りの感情が湧いてこないことは承知の上よ。ただそうしなければあの老婆の命は失われる」

 里子が即すように右手を突き出す。勇一は恐る恐るそのランタンを受け取った。


「赤い炎を持たない勇一さんは死人も同然。早く赤い炎を燃やして私のところに帰ってきて欲しいの」

 そう言うと里子は振り返りその場を去って行く。


「里子、待て。まだ聞きたいことがあるんだ」

 里子が大木の影に隠れた。

 慌てて勇一はその大木の裏に回る。


 しかしそこには誰もいない。

 ただ枯れた落ち葉だけが周りの風に吹かれてカサカサと音を立てているだけだった。


   ×   ×   ×


 今日は昨日と違い、雲もなく日差しが暖かい。

 勝子の病室もほんのり温かみを感じる光が部屋中を覆っている。

 明るい部屋で勝子は静かに眠っている。

 そしてその横には幸一郎がいつものように勝子を見守っている。


 勇一はランタンを片手にこの老夫婦を見ていた。

 この二人を救うためには赤い炎が必要である。


 だが自分ではその炎を沸き上がらせることはできない。

 やはりこの二人もいつものように救うことができないのか。

 幸一郎が勇一の方を見た。そして笑い掛けてきた。


「そんな暗い廊下じゃ寒いだろう、こっちへおいで」

 幸一郎が自分の席の傍らに丸椅子を置いて勇一に座るよう即した。


「すみません、毎日お邪魔して」

「何言ってるんだい、頻繁に見舞いに来てくれるほど嬉しいもんはない」

 幸一郎は勇一の肩をぽんぽんと二回ほど叩いた。


「息子さんたちは」

「帰ったよ、あの子達も結構忙しいらしいから」

 薄情な子供たちだと思った、が、やはり怒りに繋がらない。

 それは勇一の性格なのか、それとも幸一郎の穏やかな喋り方のおかげなのか。


「まぁ、私が勝子の面倒をちゃんと一人で見るよ」

「僕も手伝います」

「そうかい、ありがとう。勇一君が手伝ってくれるなら、これほど心強い味方はいないな」

 幸一郎が笑った。

 勇一はその笑顔で今日の日差しのように暖かな気分になる。


「北川さんは、奥さんとどこで知り合ったんです」

 勇一は何かこの二人のことを知りたい衝動にかられた。


「幼馴染でな、私は戦争に行って日本国の為に死ぬことを潔しと思っていた若造だった。それが終戦を迎えて、自分の思いが途切れたことでたいそう荒れたもんだ。そんな頃、勝子が声をかけてくれたんだよ」

「へぇ、今の北川さんからは全然想像できないですね」

 少し笑を浮かべながら幸一郎はそっと目を閉じた。


「幸いここは田舎だったから空襲もなく、畑では適当に食料も取れた。街は食糧難や空襲で焼け出された人が大勢いて大変だったらしい、しかしそんなことは露知らず、自分ひとりが不幸を背負っている、そんな気分で仕事もせずにイライラしとった」

 幸一郎は恥ずかしそうに頭を掻いた。


 勇一は「自分ひとりが不幸を背負っている」という言葉に自らを映した。

 考えてみれば自分は生きている。怪獣被害にあった遺族や、そもそも怪獣になった人々の方がよほど不幸である。


 勇一も幸一郎同様、少し恥ずかしい気がした。


「そんな時に幼馴染の勝子からガツンと言われたんだ。何甘えてるの、これから日本は立ち直らないといけない時に、あんたみたいな甘えた人間なんか海で魚の餌にでもなりなさい。そのほうがよっぽど人のためになる、って」


「厳しいですね」

「まぁ、勝子の言うことの方が正しかったんだがね。それで気づいたんだよ。自分が間違っていたこと、そして勝子に好意があったことを」

 幸一郎は少し照れくさそうに最後の方の言葉を濁した。


「それ以後も勝子には助けられてばっかりだった。結婚して、街に出て、子供たちも生まれてきて幸せの絶頂の頃、オイルショックで会社が潰れて。それでも何とかなると言ってくれたのは勝子だった。田舎に帰って農家を継ぐことも賛成してくれた。この町に帰ってきてからもボケた親父や、寝たきりになったお袋の世話も勝子が頑張ってくれた」

 幸一郎は少し眉間に皺を寄せた。


「全く、勝子がいなかったらどうなっていたことか・・・・・・」

 そして幸一郎はじっと勝子の動かない姿を見つめた。


「そう言えば、まだ結婚して間もない頃、空襲の夢を見て、大声で叫んで目が覚めた時があった。妙に怖くて震えていたらしい。その時、勝子が私のことを抱きしめてくれた。恥ずかしい話だが、今思えば勝子に包まれて心が穏やかになった記憶があるなぁ。この話は勇一君にしか話してないから、他の誰にも言わないでおくれ、恥ずかしいから」

 幸一郎は少しはにかんで笑った。


「そんな勝子との思い出がなかったらこんなに冷静ではいられないだろうに。年を取ることも悪くない。目の前に辛いことがあってもそれを受け入れられるんだから」


 勇一は幸一郎の話を聞きながら、この夫婦と比呂子と自分の関係を比べてみた。


 幸一郎にとって勝子がなくてはならない存在であるのと同じく、自分にも比呂子はなくてはならない存在である。

 だが、この老夫婦のように年を重ねてはいない。


 それだけ思い出も少ない。思い出が重ねられれば今の苦しい状況も受け入れられるのだろうか。


「ところで勇一君の持っているランタンはいったい何に使うんだね」

 幸一郎が不思議そうに尋ねた。


「これは命の炎のランタンです。ここに赤い炎が灯って、それを病人にかざすと生き返るって言われています」

「何かのおまじないかね」

「そんなようなもんです」


 勇一は本当のことを伝えなかった。

 信じてもらえるとは思わなかった。

 しかしここに赤い炎を移し取れれば、それを勝子に触れさせれば、彼女は目覚めるはずだ。


「もし勝子さんが回復したら、また思い出を重ねられますね」

「そうだね、もし勝子が目覚めたらね」

 幸一郎から笑が消えた。


 そう、いくら思い出があるからと言えど、やっぱり勝子さんに生きていて欲しいんだ、勇一はそう強く感じた。


   ×   ×   ×


 勇一は自分の部屋でランタンを睨みつけている。

 幸一郎の子供たちの我侭な言い分を思い出しても怒りの感情が湧いてこない。

 それ以上の怒り、例えば自分の命を脅かす怪獣たち、しかし彼らも深い悲しみが故の行為である。

 勇一は彼らに対しても怒りの感情が持てない。やはり自分には怒りの感情はないのだろうか。


 里子、勇一は戦い続ける自分を責める彼女の行為を思い出した。

 なぜ彼女は自分を責め続けるのだろう。そしてなぜ、自分の質問に対しては何も答えてくれないのだろう。

 そこまで考えた時、少しずつではあるが、何か心の中で嫌な気分が生まれてくる。

 今の記憶以前、何か彼女に対して特別な、それも嫌悪するような感情があったような。


 勇一は右手に熱いものを感じた。

 燃えている、小さい炎ではあるが赤い炎が右手の片隅に。

 勇一はその炎に魅入られた。その炎の中に植物が生い茂る温室が見える。

 そう、あの風景。その植物たちが周りの炎に焼かれるかの如く真っ赤に染まる。


 勇一は赤い炎から目を反らせた。

 左手をつき肩で息をする。自分にも怒りの感情が存在した。

 それは里子に対して、そしてそれはいつも見る光景に関係している。


 勇一はもう一度右手を見た。

 しかしもうそこには炎はない。


 フーっと息を吐き、心を落ち着けようとした時、今度は左手に熱いものを感じる。

 勇一はランタンを片手に自分の部屋を出た。そして誰もいない廊下の片隅で静かに目を閉じた。


 やがて人々の叫ぶ声が聞こえる。

「怪獣だ、逃げろ!」

「助けて! 家が潰される!」


 目を開けた勇一が見たのは、先日、里子と出会った場所の近くの山村だった。

 そこにトサカを持つ巨大な猿が民家を踏み潰している。

 勇一はその怪獣の胸の奥に赤い炎の燃えているのが見えた。

 勇一がランタンを地面に置きそしてゆっくりと左手を挙げる。


 勇一の目線が猿人怪獣マチルダの目線の高さまで昇った時、マチルダはまるでシルバーマンが現れるのを待っていたかのようにその目から怪光線を発射する。

 シルバーマン間一髪その光線を避ける。


 しかしマチルダは必要に光線を放ちシルバーマンを狙う。

 なんとか光線をかわし続けるシルバーマン、しかし足元の民家を避けようとして転倒してしまう。


 そこへマチルダの光線がシルバーマンに命中。

 もんどり打つシルバーマン。マチルダがシルバーマンに覆い被さってくる。

 その怪力でシルバーマンの首を絞める。

 苦しむシルバーマン。その時あの声が聞こえる。


「マチルダの弱点は口の中」


 シルバーマンマチルダの両腕を持ち、足を蹴り上げ巴投げでマチルダを投げ飛ばす。


「この猿の弱点は口、ならばランタンを口に突っ込めば赤い炎を移し取れるかもしれない」


 起き上がったシルバーマン、今度は地面に倒れているマチルダに覆いかぶさる。

 そして容赦なく腹に拳を下ろす。

 マチルダ苦しみながらもシルバーマンを怪力で払いのける。

 地面に転げたシルバーマン。マチルダが起き上がる。

 シルバーマンも起き上がる。両者が睨み合った。


 マチルダが再び怪光線をシルバーマンに発射。

 シルバーマン飛び上がり光線を避けた。

 そしてそのままマチルダの頭上に飛び蹴りを食らわす。


 マチルダが仰向けに倒れる。

 態勢を立て直すシルバーマン。マチルダが起き上がり怒り狂う。


 マチルダが近くにあった大岩を持ち上げた。

 シルバーマン目掛けて投げるつもりだ。


 その岩めがけてシルバーマンが青い光線を発射、岩に命中し反動でマチルダが手を離す。

 するとその大岩がマチルダの頭上に落下、マチルダそのまま地面に倒れこみ、脳震盪をお越したかのように痙攣して動けない。


 シルバーマン、地面に置いてあったランタンを手に取り、マチルダの口にランタンを押し込める。

 目を白黒させるマチルダ。口からランタンを抜き取るとそこに赤々と炎が燃えている。するとマチルダの体がどんどん薄くなり、やがてその姿を消して行った。


   ×   ×   ×


 ランタンを片手に勇一は勝子の病室へ急いだ。

 ランタンの中の赤い炎は勢いよく燃えている。

 この炎さえあれば勝子が目覚める。勇一はそう信じて歩みを早める。


 そして廊下の角を曲がり勝子の病室が見えた時、勇一の足がはたと止まる。

 廊下に見覚えのある中年の男女がいた。

 男は悲痛な表情で肩を落としている。

 女はハンカチを片手に泣いていた。この二人は幸一郎と勝子の子供たち。もしかすると……


 勇一が止まっていた足を再び動かす。まだ間に合うはず、そう信じて。

 病室の前まで来た。勇一は勝子たちの息子と娘に一礼し病室を覗行く。


 そこにはいつものように幸一郎が椅子に座ってベッドの上を見守っている。

 勝子の顔は白い布で覆われている。部屋の中にいた比呂子が勇一に気づいた。


「急に容態が悪化したの」

 勇一に近づき比呂子が耳打ちをした。


「ほんのさっき、息子さんたちが来てすぐ息を引き取られたわ」

 勇一はしばらく呆然としていた、が急にベッドの方へ歩き出した。


「勇一さん!」

 驚いて比呂子も後に続いた。

 勇一は横たわる勝子の腕にランタンの火をかざし初めた。


「勇一さん、何してるの!」

 慌てて比呂子が止めようとする。


 しかしその手を払い勇一は炎をかざし続ける。

 赤々と光る炎をかざしてもその手が焼けることはない。

 それとともに勝子が目覚めることもない。


「遅かった……」


 勇一はそれでも諦めきれずに炎をかざし続ける。

 愛する人を失う悲しみを幸一郎に味わって欲しくない。

 それは自分も同じように愛する人を失いたくないから。だから……


「お願いだから目覚めて!」

 比呂子はもう止めなかった。勇一の必死さが伝わったのだろう。


「勇一君、勝子はもういないんだよ。いくら呼んでももう戻って来ない」

 幸一郎は小さな声でそう言った。


「でも、もしかしたらまた、北川さんと奥さんとの思い出を今以上に重ねることができるかもしれないんです。この炎があれば勝子さんは目覚めるかも」

「もういいんだ!」

 幸一郎の語気が強くなった。


「もういい、勝子を静かに眠らせてあげておくれ」

 勇一は炎をかざすのを止めた。そして少しうなだれながら、


「すみませんでした。勝手なことをして」

「いいんだよ、君の優しさには勝子もきっと喜んでくれているだろう。ありがとう」

 勇一は幸一郎に一礼をして部屋を出た。その後を比呂子が追う。


「勇一さん、何をしたの、いくらおまじないだって、やって良い事と悪い……」


 比呂子の方に振り返る勇一の目に涙が光る。

「僕はいつまでもあの夫婦に思い出を重ねて欲しかった。

 北川さんに愛する人を失う悲しみを味わって欲しくなかった。

 僕が同じ立場ならもっと、もっと思い出を重ねたい、もっと一緒にいたいって思うから」


 比呂子がそっと勇一の涙を拭った。そして笑顔を彼に見せた。

「勇一さんに愛される人って、きっと幸せ者ね、そんなに思ってもらえるなんて。でもいつか別れが来るの。この仕事をしてると、こんな別れのシーンをいっぱい見るの。

 看護師だからって偉そうなことを言うつもりないけど、いつか別れないといけない時が来る。

 それはどんな手を使っても避けられない。勇一さんのおまじないがもし効いたとしても、あの二人にはいつか今日と同じ日が来るの」


 勇一はランタンの赤い炎を見た。

 もし、勝子の臨終に間に合ったとしても今日と同じ悲しい思いを幸一郎は味わう。


 それは避けられないこと、どうにもできないこと。

 それはいつか比呂子と別れる時が来るということ。

 ならば比呂子とのこの時間を大切にしよう、思い出を重ねるために。


「ごめんね、勇一さんの思いを踏みにじむことを言ったかも」

「そんなことないよ、ありがとう比呂ちゃん。僕が間違っていたよ」

 そう言うと勇一はランタンの炎を静かに吹き消した。


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