深海怪獣ロープテールⅠ
勇一が発見されたのは、彼の目覚める三日前までさかのぼる。
紀伊半島のとある町、その海岸沿いの岩場の陰で倒れていたところを地元の漁師たちによって発見されたのであった。
早朝、漁に出掛ける一人の漁師の目に、黒い岩場の影に白い服を着た女が見えた。こんな時間、そんな場所に女がいるはずない。
そう思ってもう一度目を凝らして見てみると、それは女ではなく何か別の白い物体、それが若い男であると判明したのは、船を岩場まで近付けたからであった。
十一月に入った頃は暖かい日も続いていたが、一昨日ぐらいからかなりの冷え込みである。
こんな寒い朝に海岸で倒れていたのでは、その若い男が生きているはずがない、漁師たちの誰もがそう思った。
小雨が降るかも知れない薄曇りの天候の中、若い男は警察官達によって引き上げられた。
警官たちの話によると、彼らもまた男が生きているとは思わなかったらしい。それほど彼のやせ細った体は冷たかった。
男の姿はTシャツにジーンズという軽装だった。持ち物は無く、自分を証明する何かも持っていない。
ただ唯一の手掛は靴の内側に書かれた『朽木勇一』と言う海水で滲んだ文字だけ。
誰もが小学生でもないのにどうして靴に名前? とも思ったがそれを確認するすべはない。
ただそれだけが彼を特定できる唯一のものとなった。
そして三日が過ぎた。勇一が目を開けた時、そこに映ったのは白い天井と明かりの消えた蛍光灯だけ。
「痛い!」
全身に痛みが襲いかかる。体が動かない。
「ここはどこだ!」
自分に問いかけても何も答えは出ない。
「自分は誰だ!」
同じく問いかけたがやはり答えは出ない。
彼は頭の中で自分が何者なのかを駆けずり探しまわった。
すると温室だろうか、熱帯の大きな葉を持つ植物の生い茂った場所が見える。
しかしそれ以外は何も思い出せない。
自分が何者なのかの答えはどこを探しまわっても見つからない。
彼の頭が混乱し始めた。そして言いようのない不安が彼を襲い始める。
「なぜだ、なぜ思い出さない。自分は誰だ、ここはどこだ!」
もう一度温室の場面を思い出してみる。周りは木々の緑で溢れている。
その時、急にその緑が赤一色に染まる。彼は恐怖のあまり体を硬直させた。
その恐怖が体の痛みに打ち勝ったのであろうか、体が少しだけ横を向いた。
だがすぐに痛みの反撃が始まる。彼は声にならないうめき声を上げた。
「まだ動かないで!」
激しい痛みで閉じた目を再びゆっくりと開けて行く、すると白い壁、引き戸の扉、無地のカーテン、そして点滴の容器が見えた。
自分はどうやらベッドに寝ているらしい、しかも病院の。
そう思うとどことなく消毒用のアルコールの臭いがした。
だがそれ以外にも何か甘い香りがする。
彼は動かない体の代わりに眼球だけを少し動かしてみた。
「全身打撲だから安静にしていて下さい」
優しい女性の声が聞こえた。更に眼球を動かす。
すると白衣が見えた。
「そうかここは病院だから看護婦さんがいるのか……」
と心の中でつぶやいた時、彼の目の前にいきなり女性の顔が現れた。
「いいですか、安静ですよ」
大きな切れ長の目が自分を見ている。
その口元はきりっとしていて、とても反論などできそうにない意思の強さを示している。
素直に「はい」と頷かざるを得なかった。
彼女は優しい微笑を浮かべた。そしてさっきの甘い香りがした。
彼女の笑顔で、さっきまでの凍てつくような不安が一瞬で溶けてしまったような感じがする。
それははぐれた子どもが、母親を見つけた時と同じように。
看護師は腕時計を見ながら点滴の量を確認している。
勇一は彼女に話しかけたい気持ちで一杯だった、あなたは誰で私は誰かを。
しかし声が出ない。勇一は彼女の姿を目で追いかけることしか出来なかった。
看護師は手に持っていた書類に何かを書きこんで云々と自分に言い聞かせるように二回ほど頷いた。
そして書類を書き終わると勇一の方を見て微笑を浮かべる。
「また後で点滴を交換しに来ますから。それまで動かないで下さいね」
その言葉を言い残すとくるりっと振り返って扉に向かった。
勇一は出て行かないで、一人にしないで、と心で叫んだ、が、彼女にその声が届くはずがない。
看護師は扉を開け部屋を出て行く、引き戸の扉がゆっくりと閉まり、彼女の姿も見えなくなって行く。勇一は言いようのない寂しさを覚えた。
彼女がいなくなった部屋で勇一は仕方なく再び目を閉じた。
そしてさっきの看護師の笑顔を思い出す。すると再び心が温まっって行く。
あの甘い香りが蘇る。心地良い、その心地のまま彼はまた眠りに落ちて行った。
× × ×
体がある程度自由になっても、勇一への苦痛は変わらなかった。まず警察が来る。
「どこから来た? 住所は? 年齢は? 仕事は? なぜ海辺にいた?」
勇一には何一つ答えられない。
そんな質問を彼らは次々に問い正してくる。
警官が後から来た上司らしき男に説明している声が聞こえた。
「発見された男は住所不定、年齢不詳。年齢は推定で二十歳後半、身長180㎝でやせ形、他に特にこれといった身体的特徴は認められません」
あたかも身元不明の死体を説明しているように聞こえる。
本当に自分は生きているのだろうか、そんな錯覚に陥った。
次に来たのは市役所の福祉課から来た課長と名乗る人物。彼もまた問う。
「どこから来た? 住所は? 年齢は? 仕事は? なぜ海辺にいた?」
「答えられません」
その返答にその課長なる人物が、
「とりあえず、住所不定なので今すぐ住民登録ができません。ただ状況が状況なので当面、当役所の民生委員があなたをサポートします」
と言う趣旨の話をして帰って行った。
次の日はその民生委員と名乗る人物がやってきた。そして
「どこから来た? 住所は? 年齢は? 仕事は? なぜ海辺にいた?」
いつもの問いが繰り返された。
「分かりません」
といつものように答えると、
「そうですか。ただこの町で暮らすのであれば身元引受人がいないと困るでしょうから私が探してみます」
そう言い残して帰って行った。
後で聞いた話であるが、身元不明の生きた男性をどう処置すべきか、役所でも議論になっていたそうである。
ある担当者がぽつりと「この町以外で見つかってくれれば」と呟いたそうである。
ただ勇一にはそんな話などどうでもよかった。
彼自身、どこから来て、住所はどこで、年齢は幾つで、仕事は何をしていて、なぜ海辺にいたのか、その答えを知りたかった。
病室の窓からは海が見えた。民生委員の話によると、この町は紀伊半島の西側に面しているらしい、と言うことは今見ている海は紀伊水道である。
なぜ自分の名前を思い出せないのに紀伊水道と言う単語は覚えているのだろう。
彼は不思議に思った、が答えは出ない。
今日は風が穏やかだった。海は波もなく、夕日を浴びて黄金色にキラキラと光っている。
窓の外の風景を眺めながら勇一は相変わらず自分が何者なのかを自分の頭の中で探し続けている。
十一月の少しひんやりした風が吹き込んでカーテンが少し揺れた、
「あんまり窓を開けっ放しにしていると風邪ひきますよ」
勇一が振り向くと、目覚めた時に声を掛けてくれた看護師が部屋に入ってきた。
彼の表情が少し緩む、そして心も少し暖かくなる。
彼女は笑顔で、
「気分はどうです? 私が研修で一週間ほどいない間に良くなりましたか?」
「いえ、あんまり良くなってないです」
彼は正直にそう答えた。
「そう、それは嬉しくないわね。私に会えなかったからかしら?」
勇一はどう答えて良いのか困った。
彼の戸惑いはお構いなく彼女は手元の書類を見て
「うーん、なんでだろう。検査の結果は良好なのにね」
と言い、手に持っていた体温計を彼に渡した。
「念のため検温しておきまよう」
差し出された体温計を受け取る時、彼女の胸元に四角い揺れるものがある、名札だった。『坂田比呂子』と書かれている。
「どこ見ているの。私の胸、そんな見つめられるほど大きくないわよ」
「いや、そんなつもりは……」
やや伏し目がちになる勇一に、
「なに照れてるの、名札を見ていたんでしょ」
とからかって笑って見せた。
「私の名前は坂田比呂子、二十五歳、独身、彼氏募集中」
「坂田比呂子……さん」
その名前をゆっくりと唱えてみた。
「何か思い出しました?」
「いや、なにも……」
彼は力なく首を横に振った。
「そう、私もあなたに会った記憶がないなぁ。まぁ焦ることないですて。少しずつ思い出せばいい。
この町でもあなたのこと噂になっているみたいだから、必ずあなたのことを知っている人、現れると思いますよ」
体温計がピピッと鳴った。勇一は脇に挟んだ体温計を比呂子に渡した。
「36.5℃、平熱、異常なし」
比呂子は手に持っていた書類にそう言いながら書き込んで行く。
「体は治ってきているから、後は気持ちの問題ですね。また来ますから元気出して」
ポンポンと軽く肩を叩いて比呂子は扉の方に向かった。
「あっ、それから窓は閉めておくようにね」
と言い残して部屋を出て行く彼女を勇一は目で追った。
そして姿が見えなくなると、再びあの不安な気持ちが蘇った。
心が少しずつ凍えていく、寒い。
仕方なく振り向いて窓を閉めようとした時、海の景色があまり変わってないことに気付いた。
やや太陽の傾きが低くなったぐらいである。
彼女と話した時間が意外にも短いことを実感させられる。
「看護婦さんは忙しいから」
と勇一は自分に言い聞かせた。
ふと目の端、海の上にロープのような長い影が映ったような気がした。
「何?」とその方向に目をやる。
そこにはさっきまで見ていた海が広がる。
ロープのような影が見えた辺りの海面が少しだけ波立っているようにも感じられる。
「幻覚を見たのか」
そう思った瞬間、彼の頭の中に薄気味悪い生物の姿が浮かんだ。
ロープのような尻尾を持つ化け物。
「何だ、これは! やはり自分は狂っているのか!」
彼は頭の中の妄想を払うかのごとく首を激しく横に振った。
「さっきの海上に見えたロープは怪物なのか」
勇一はもう一度海の上を探してみる。
しかし再びその影が勇一の目の前に現れることはなかった。
海は静に夕暮れを迎えていた。
× × ×
再びロープの影を見たのは勇一が退院するその日であった。
その日も待合室には、大勢の持病を抱えた老人達が所せまし、と集っていた。待合室の窓は大きく、外の光を十分に取り込めるような設計になっている。
おかげで部屋全体が明るい。待合室のテレビではアナウンサが天気予報を伝えていた。
今日も晴れである。ただ老人達は天気予報に興味がないのか、婆さんたちが腰痛の話を続け、その中に爺さんが割って入る、いつもの待合室の光景である。
そんな明るい部屋の中を陰鬱な青年が中年男性に連れられて歩いていた。周りの老人たちは、その青年にお構いなく喋り続けている。
中年男性は年代物のジャケットを羽おり、寒いのであろうか少し背を丸めて歩いている。
青年は対照的に夏を思わせるTシャツにジーンズ姿である。
二人が待合室の角にたどり着いた時、そこに四十歳過ぎの男が立っていた。中年男性は彼の前に立ち止まり
「民生委員の何某です」
と軽く一礼した。何某は、後ろについてきた青年、朽木勇一の方に向き直り、
「この人が君の身元引受人になってもらえる方だ」
「坂田浩二です」
四十歳過ぎの坂田と名乗る男も、その貧弱にやせた体を折り曲げて一礼をした
勇一もまた一礼する。
「いやぁ、民生委員の私としても苦労しましたよ。身元不明で記憶喪失の人間を引き受けてくれる人なんて、そうそういるもんじゃない」
民生委員の何某は眉間に皺をよせた。
「さんざん探した揚句、やっと坂田さんのところで引き取ってもらえると聞いて、本当に安心しました。いや、大変でした」
彼は自分の手柄を身振りも付け加えて雄弁に語った。
「いや、一昨年女房を亡くしてから手が足りないところだったんで、こっちとしても大助かりですよ」
「そうですか。奥さんを亡くされてからもう二年経ちますか、いや、早いもんですね」
何某は感慨深げにそう言うと、
「坂田さんの所は食堂をやっておられて、奥さんを亡くされてから、てんてこ舞いの忙しさだ」
そう勇一に説明する。そしてまた坂田の方を向くと、
「お子さんもいらっしゃらなかったのでお寂しかったでしょう」
と、さっきよりもしみじみと語り出した。
「まぁ、仕方がないですね」
坂田は控えめに笑った。目の脇の皺が目立った。
後で聞いた話であるが坂田は三十五歳だそうだ。
ただ初対面の勇一には四十歳は過ぎて見える。
奥さんを亡くしてかなり老けこんだのだと誰かが教えてくれた。
「本当に食事付きの住み込みで、給料ゼロでいいんですよね?」
申し訳なさそうに言う坂田に勇一が頷こうとした瞬間、民生委員の何某が、
「いいですよ。そんな条件でないと、どこの誰とも分からない人間を引き受けようって人はいませんからね」
と勇一の肩を叩きながらそう言った。
「こちらとしてはありがたい限りなのでよろしくお願いします。
なぁに、孤独な者同士上手くやっていけますよ」
坂田がさっきと同じように控えめに笑った。そうか、この人も孤独なのかと勇一は親近感を覚えた。
「でも、坂田さんには妹さんがいらっしゃるんだよ。
君は知らないかなぁ。比呂子さんって看護婦さん」
比呂子の名前を聞いて勇一は目の前に「いいですか、安静ですよ」と言って自分を見つめてくれた彼女の表情が目に浮かんだ。
それは何よりも鮮明な記憶であった。
あの時より前の記憶が無い勇一にとって最初の記憶なのだから。
ある意味、生まれてきた赤ん坊が初めて母を見る時の感覚ってこんな感じなのだろうか、と彼は思った。
「妹さん、きれいな人だからねぇ。
ほら、あそこに座っている野村の爺さんなんか坂田さんの妹さん見たさに毎日病院に通っているようなもんだよ、だから君も手を出しちゃだめだよ」
ニヤつきながら何某がそう言うと
「いやぁ、あいつは男勝りで仕事ばっかりしてやがる。
まぁあれでは嫁のもらい手はないでしょう」
坂田は笑った。さっきまでとは違う真の笑いだった。
勇一は坂田と自分とは違うと思った。彼は孤独ではないのだ。
『今入ったニュースです』
テレビからアナウンサが原稿を受け取る、紙の擦れる音が聞こえた。
『先ほど太平洋沖で巨大生物と見られる物体を航行中のタンカーが目撃したという情報が入ってきました。
タンカーの乗組員の話によりますと、今日の午前七時ごろ、紀伊半島の南400㎞沖の海上に大きな尾の様なものが発見されたとのことです。
これが乗組員の撮影した巨大生物と見られるビデオ映像です』
テレビ画面に映し出された映像を見て、待合室の老人たちは低いうなり声をあげた。その声に釣られて勇一もテレビ画面の方に目をやった。
画面に再度尻尾が映る。
「これは!」
勇一は目を凝らした。そこに映っていたのは、長く太いロープを思わせる物体が、海上を叩きつけているものであった。
『この映像を見た東阪大学の津嶋教授によりますと、これが尾だとすれば、体長60mの巨大生物と言うことになり、そのような巨大生物は現在確認されておらず、もしこれが生物ならば世界的大発見につながるだろう、とのことでした。
このニュースは続報の入り次第お伝え致します。次のニュースです』
老人たちは声にならない溜息を吐いた。
「尻尾だけじゃねぇ」
「何あれ? 怪獣かしら」
「捕まえれば一商売できるのに……」
老人たちは口ぐちに感想を述べ合い、相槌を打ち、また反論し合う。だがすぐに次のニュースである大学職員の女性が同僚の男に殺害された事件の方に話題が移って行った。
そんな中、勇一だけがさっきのテレビ映像を思い返していた。
あれは以前見た影に似ている。
そう、病室からチラッと見えた影に間違いない、あれは幻覚ではい、実際にいたのだ。
自分は狂っていないのかもしれない。
そんな彼の背後に白いコートの女が立っている。
そして勇一をじっと見つめている。
勇一は女の存在に気付きもせず、頭の中で何度も繰り返し、テレビ映像と自分の見た影が間違いなく一致するかを確認していた。
× × ×
坂田が営む〈ほとり〉は町から外れた漁港近くにある大衆食堂であった。
おしゃれとは言えないテーブルが四つに、カウンタには六人ぐらいが座れるぐらいだろうか、店はその程度の広さであった。
狭い厨房に鍋やフライパンが所狭せまし、と置いてある。
厨房のすぐ上には何年前の物だろう、古いブラウン管型のテレビが置いてあった。
これが、坂田に連れられて勇一が見た〈ほとり〉の最初の光景だった。
「まぁそんなに心配しなくても、お客はそんなに来やしないさ。昼飯時に満席になるぐらいで、夜は馴染みがチラホラ来るぐらいだよ」
先に店に入った坂田がそう説明してくれた。
その坂田の説明が正しいことは二日も経たないうちに理解することになる。
勇一も一歩〈ほとり〉に足を踏み入れてみる。
「今日からここがお前の家だ、遠慮するな、さあ入れ」
坂田に促されもう二歩前に進んだ。
「ところでお前さん、料理はできるか」
「いえ、できないと思います。たぶん……」
勇一にはたぶんとしか言えなかった。
「そうか、まぁそれじゃぁ食器洗いとか、注文取りとかをしてもらうか」
その言葉を皮切りに、坂田は料理のメニュー、厨房の中、皿やどんぶりの置き場所、掃除道具の場所など次々と説明を行った。
一通り説明が終わったころ、
「そうそう」
と坂田が言い出した。
「言い忘れていたけど、お前さんの部屋は二階の一番奥だ。階段上がってすぐ左が俺の部屋、その向かいは比呂子の部屋だ」
そう言えば勇一はあのロープのような影を見た日以来、比呂子に会っていない。
病院を出る時にも挨拶出来なかった。
そのことを彼女は気にしているだろうか。
いや、きっとそうでもない気がする。
比呂子に取って勇一は大勢いる患者の一人に過ぎないのだから。
「お前さんの着替えとか、後で買いに行けばいい。取りあえずの軍資金だ」
坂田はレジを開くと、無造作に一万円札二枚を取り出し、勇一に渡した。
「ところで本当にお前さんには記憶がないか」
一万円札二枚を受け取りながら、
「覚えていません」
と答えると、
「例えば、誰かの指示で此処に来たとか、誰かに復讐するために身元を隠しているとか」
勇一は小首を傾げた。この人は何を言いたいのか分からないと言う感じで。
「すまん、すまん。少しテレビドラマの見過ぎかもしれん。気にしないでくれ。まぁ焦ることは無い。ただ思い出さなくてもいいからもう少し笑顔が作れないか」
「はぁ」
とポケットにお札を仕舞いながら、気の抜けた返事をする彼に、
「なんせうちは客商売だから、いくら小汚い食堂とは言えもう少し元気が欲しいな」
勇一は少し顔の筋肉を上に上げてみる。
「固いな。まぁ仕事は明日からだから練習しておきなさい」
「はぁ」
と勇一はさっきと同じ表情で返事をする。
「ただいまぁ!」
店の戸が勢いよくガラガラと音をたてて開いた。
「いやぁ、夜勤明けはつらいわ!」
誰かと違って元気の良い声が店に響き渡った。
比呂子が帰って来たのだ。
「おっ、元気にやっとるかね」
比呂子が勇一の肩をポンポンと二回ほど叩いた。
勇一はどぎまぎして何も答えることができない。
不意を突かれたからではない。いつもの雰囲気と違う比呂子に戸惑ったのだ。
比呂子は今までの白衣ではなく、黒い無地のセーターとジーンズ姿で、大きな手提げ鞄を肩に担ぐように持っている。
服装や言葉使いなど、今まで勇一が想像していた彼女ではなかった。
これが待合室で坂田が男勝りと表現した普段の比呂子なのだろうか。
「お帰り。すまんがそこに置いてあるビール箱を外に出しといてくれ」
「ええっ、人が夜勤明けで疲れてるって言ってんのに。
そもそもこんな美しいお嬢さんになんでビール箱なんか運ばせるかなぁ。
おかしいでしょう」
そう言いながら彼女が勇一の方をチラッと見た。勇一はその意味を即座に理解した。
「僕がやります」
勇一は入り口近くにあるビール箱を持って外に出た。
「何がお嬢さんだ、男の一人もできないくせして」
「ほっといてよ、私は理想が高いだけ」
店内ではありふれた兄妹喧嘩がおこなわれている。
勇一は一人店の外でそれを聞いていた。
あの二人の中に入って家族になれるんだろうか、ただ比呂子との生活は少し勇一の心を和ませた。
ここで生活して行くのだ、そう思いながらポケットの二万円を確認して、彼は身の回りの物を買いに出かけた。
× × ×
勇一が働き出して五日が過ぎた。
閉店間際の〈ほとり〉にはいつも通り、酔っ払い客が三人ほど、ビール片手にうだうだと喋っている。
坂田は店のテレビで旅番組を見ている。
勇一はほとんどの食器を洗い終え、ホッと一息ついたところで客の方を見る。
が、誰かが追加の注文をする気配はない。いつものことである。
今日も客たちが、コップの四分の一ほど入ったビール片手に、一日の出来事をさも大事件が起こった如く、熱く語り合っている。
いつも通り、今日もそのはずであった。
「何か騒がしくないか」
客の一人か異変に気付いた。勇一も外の様子を伺ってみる。確かに変だ、何かが違う。
テーブルに座っていた客が立ちあがり、近くのガラス窓を開けて外の様子を見た。
「おい、寒いから締めろよ」
カウンタに座る客が文句を言う。
「あっ! あ……」
窓を開けた客が、大声を上げて尻もちをついた。
「あれは、あれはなんだ!」
尻もちをついた客が外を指さした。
周りの客も一斉に彼のもとに駆け寄る。
そして指が示す方向に目を向けた。
「わあぁ!」
人間の声とも思えない叫び声が上がった。
その声を聞いて、坂田と勇一もその客の傍らへ駆け寄った。
そして同じように指先から伸びた方向へ目を向けてみる。
窓の外には旅館や民家が並んでいる。
その向こうは海である。だが彼の指さす方向、それらの建物より遥かに高い位置を指している。
民家の上に鈍く光る何かが見える。
「目だ!」
坂田が叫んだ。それは見たこともない巨大な目である。
暗闇で目しか見えないが、その大きさからみて巨大な生物が目の前にいることは確かだ。
「かっ、怪獣だ! 逃げろ!」
客の一人が慌てて店の戸を開けて出て行こうとする。
それを見て他の客たちも、置いていかれては困ると言わんばかりにその場を離れようとする。
「待ってくれ!」
尻もちをついた男も、這うように立ち上がり戸口の方へよろよろと歩きだす。
坂田と勇一が顔を見合わせた。そして何も言わず店の外へ出た。
怪獣は店から一キロメートルぐらい先、漁港のある海の方向からゆっくりと近づいてくる。
まるで昔の怪獣映画のようである。
どれぐらい巨大かは、比較する高い建物が近くにないので分からないが、この町の一番高い建物である五階建ての病院よりも遥かに大きい。
黒っぽい全身が、夜の暗闇でより黒く映り、その姿は昔の肉食恐竜を思わせように二本足で歩いている。
そして何より特徴的なのが、その後で大きく揺らめいている尻尾、そうあの勇一が病院で見た尻尾である。
「助けて!」
「逃げろ!」
人々は勇一と坂田の前を通り過ぎて行く。
「坂田さん、逃げましょう」
勇一の声に坂田は怪獣を見上げながら、
「お前先に逃げろ」
「えっ!」
勇一は聞き間違えたのかと思った。
「俺は、病院を見てくる」
坂田が口を真一文字にし、決意を語った。
「比呂子のことだ。どうせ病人たちを見捨てて逃げるようなことはしないだろう」
「僕も行きます」
病院の方向に走りだそうとする勇一の腕が急に動かなくなった。
見ると坂田の手が彼の腕を捕えている。
「お前さんまで巻き添えにできん。あの娘は俺の妹だ」
そう言って、坂田が思いっきり勇一を引っ張った。その反動で勇一は道に倒れ込んだ。
「山の方へ逃げろ!」
そう言い残して坂田が病院の方へと走り去る。
取り残された勇一に、周りの人々は彼を助け上げることもなく走り抜けて行く。
勇一がやっとの思いで立ち上がりそして見上げる。
怪獣は先ほどよりも遥かに大きく見える。かなり近づいた証拠だ。
「怖い」恐怖が勇一を満たす。
「動けない」彼は立ち竦む。もう周りには人はいない。
誰にも助けてくれない。
「このままだと殺される。逃げないと……」
心ではそう思っていても体が動かない。
「なぜだ、なぜ動かない!」
勇一は拳を握り締めた。
「熱い!」
彼が思わず左手を開く。そこには青く光る炎が見える。
「何だ、これは?」
青い炎は静かに、ゆっくりと揺らめいていた。
それを見ていると、周りの喧騒や怪獣が迫って来ていることすら忘れてしまうほど、心が少しずつ落ち着いて来る。
炎を見続ける勇一は、何か心も体もその光と一体になって行く感覚を覚えた。錯覚? いや違う、何かが変わる、自分!
ハッとして勇一は我に返った。すると自分の目の高さに怪獣の顔がある。振り向くと、さっきまでいた町が小さい。自分は海の浅瀬に立っている。
「どういうこと!」
彼は自分の姿を見た。全身銀色に輝くスーツを身に纏っている、まるでヒーローのように。
そう、彼は変身し巨大化したのだ。
「何? 意味が分からない」
そう叫んだ時、彼の背中に痛烈な痛みが走った。
怪獣の尻尾が攻撃してきたのである。
思わず膝まずいた彼に怪獣は容赦なく尻尾を振り下ろしてくる。
「わぁ、殺される!」
勇一は力一杯怪獣の腹のあたりを突き飛ばした。
怪獣は大音響と共に海中に倒れ込む。
大きな波が海岸に押し寄せて来る。
やっとのことで、よろよろと立ちあがる勇一。
怪獣も再び海面に姿を現した。
何が自分に起こっているかも分からない中、必死で助かる手段を考えようとする勇一。
「もし自分がヒーローなら、光線か何かが出ないのか」
勇一は咄嗟に左手を見た。
さっきの炎がまだそこに燃えている。彼はその左手を突き出した。
すると手の平から青い光線が怪獣めがけて放たれ、腹の当たりに命中した。
「やったか!」
勇一の期待はすぐに裏切られた。
一瞬ひるんだ怪獣だったが、まるで何も無かったかのように再び進撃する。
勇一が身構える間もなく怪獣から突き飛ばされ、砂浜まで吹っ飛ばされた。更に長い尻尾が彼を叩きのめす。
再度振り上げた尻尾を見て勇一は地面を転がった。
尻尾は誰もいない地面を叩いた。
地響きと共に砂が舞い上がる。
尻尾の攻撃を何とかかわしたものの、このままではどうにもならない。
逃げることはできないのか。怪獣は一歩、また一歩と近づいて来る。
このままでは町が破壊される。でも立ち向かうのは怖い。どうする!
怪獣の足が砂浜にかかった、一か八か! 勇一は怪獣に突進した。
そして怪獣の腕を取り、海側へ引きずり込もうとする。
しかし怪獣の力の方が圧倒的に強い。
振り回すつもりが逆に振り回されてしまい勢いで海の方に投げ返されてしまった。
立ちあがろうとする勇一、しかしそこにまた尻尾が振り下ろされる。
肩に激痛が走る、蹲る勇一に更に尻尾が勇一の頭上を襲った。
勇一の頭に激痛が走る。
「ダメだ」
勇一は意識を失いかけた。その朦朧とした頭の中で何かが囁いた。
「尻尾の付け根」
その言葉を聞いた瞬間、勇一は再度飛んできた尻尾にしがみ付いた。
そして尻尾を力一杯引っ張る、少しではあるが怪獣を海側に引き戻した。
後方によろけた怪獣も負けまいと尻尾を左右に振る。
それに合わせて左右に体を持っていかれる勇一。
それでも尻尾だけは放すまいと必死にしがみつく。
勇一は右に振られた勢いを借りてそのまま体重を預けた。
すると怪獣もその遠心力に耐えきれず、そのまま海側に倒れ込んだ。
起き上った怪獣が勇一を背に尻尾を持ち上げる。
その時、尻尾の付け根が見えた。
勢いを付けて怪獣に突進する勇一。
彼は尻尾の付け根に頭突きをする形で倒れ込んだ。
それに押され怪獣が海側へ大音響とともに倒れる。
その直後、怪獣は悲鳴とも何とも言えない鳴き声を残し、勇一と共に海の中へ消えて行った。