暗殺未遂 1
朝美は車で移動しながら振り返る。反戦デモが、自衛隊に鎮圧されたのは周知の通り1年半前。
軍拡と対中戦争へ進む高橋政権を止める良心がこの国にはまだあった。
いや、存在が許されていた。
報復を! 怒号にも似た叫びが、当時の街角では、あらゆるところで喧伝されていた。
それがための平和運動、反乱。
「思い出すだけで、胸が痛い」
朝美は胸を押さえ、気持ちを鎮める。彼女の辿る記憶は余りに痛ましい。
デモでは数名の死者が出た。和志は、この事件で父を亡くした。いや正確には、反戦デモに参加した父が行方不明になってしまった。
血塗られ、潜伏を余儀なくされた反戦運動。
反戦という想いが先立つが、報復行為という一面も和志にはある。
その和志に強い愛慕の念を持つ朝美。彼女は和志の報復自体には賛成していなかった。
だが和志の強い平和志向、理想主義には惹かれていた。同時に朝美には戦争イコール悪、反戦イコール善という茫洋とした気持ちもあった。
基軸が漠然としていたからこそ、そして和志へ愛情があるからこそ、朝美は彼に協力することにもなる。
朝美は思い返す。
融和を旗頭にして、炎と銃声の中で人々は死んだ。自分達の身に何が起こっていたのか?
「高橋首相はあの時、全ての幕をあげたのね 振り返るには余りにも、辛い」
朝美は、デモでの惨事を悲しみ、慈しむ。
彼女の記憶とイメージは散り散りになり、心の奥底へ消えるべくして消える。
朝美が今なすべきこと。それは和志と会うこと。乱れた心と戸惑う気持ちを整理して、高鳴る胸の鼓動を感じながら、朝美は和志と合流する。
黒いタートルネックのセーターに、スリムな青いジーンズ姿の和志は朝美を出迎える。
彼の気持ちは一本、筋が通っているようだ。朝美のような迷いはない。少なくともその時はそう見えた。
「朝美。心の準備は出来てるか?」
朝美はさっきまでは、怖気づいてもいた感情を振り切ると和志に答える。
「ええ。何もかもが全て上手くいく、はず」
朝美が言葉の終わりにつけた余白は、彼女が未だ揺れる心情を、完全には拭えぬ証でもあった。
惑い、彷徨う心。和志の報復行為、そして戦争を止めるための暴力。それは正しいの? 私達は本当に進むべき道を進んでいるの?
そう朝美は自問自答しながらも物事は淡々と過ぎて行く。
朝美は緊張をほぐすように軽く深呼吸した。和志は惑う朝美の心情を察してか、こう告げる。
「血は争えないな。父子して、ある種過激な反戦運動に関わるなんて。俺の報復劇に君を巻き込んで、心底すまないと思うよ」
和志は狂信者ではない。単なる直情家でも。和志は強い平和への意思、父への敬意そのもののだった。朝美はそんな彼に惹かれていた。
和志が選んだことだ。和志を慕うからこそ、彼に身を委ねてみよう。朝美は迷いながらもそう心に決める。
朝美の気持ち、自分達の置かれた境遇を分かっているのか、和志は切なげに一瞬だけ目を伏せる。
「すまない。朝美」
「構わないわ。和志」
行くしかない。後戻りはできない。もう、一度は決めたことだから。
朝美の想いはやがて宙へと舞い、和志と朝美の二人は、迷いを断ち切るかのように一度、手を握り合う。
向かうべきは約束の場所、「東京港倉庫」。
そこで不破に会った二人は彼の顔貌、スタイルを初めて間近にする。
不破は、白髪がやや交じった髪の毛を短く調髪し、軽装だ。
不破は、一人の戸惑わせる者、誘惑する人の面影をも多少漂わせながら、朝美と和志に現状をつぶさに分析してみせる。
「今、反戦運動は下り坂にある。人々に反高橋を貫けとはもう言えないだろう」
確たる自信に満ちた言葉、正確な現実認識。それが和志と朝美を一先ずは安心させ、奮い立たせる。
朝美と和志が不破に、著作を通して出逢ったのは1年前だ。
高橋政権への報復心と、平和への激しい衝動に突き動かされていた和志だ。
和志は、不破の堅牢な意思、戦争回避のためなら、小さな悪徳は許される、との思想に心酔していった。そして和志に呼応するように朝美も不破に魅了された。
全ては傾いた愛情の形でもあった。
それを知りながら朝美も自分自身を止められない。
朝美と和志は息を一息、吸い込む。
不破は自分達、反戦家が、今やマイノリティになっている事実を受け入れていた。その冷静さ、落ち着きが更に和志と朝美を魅了していく。
不破は、一般人の一人である和志と朝美を巻き込んでしまったのを悲しんでいるのか、軽く顔を両手で拭う。だが彼は、朝美と和志、特に朝美とは違って、反戦運動に躊躇いはない。
小さな悪徳は許される。
不破の志向は揺るぎない。
「高橋首相は中国への挑発を続け、最後には戦争を始めるだろう」
不破は、自信に満ちた表情だ。和志と朝美は、不破の考えと行動が、過激なベクトルで統一されているのを、あらためて知る。
「その戦争を避ける方法はただ一つ」
不破は一拍置くと人指し指を立てた。不破の視線の先には、自分自身の正否を未だ決め兼ねている朝美が、そして心を決めた和志がいる。
「それは高橋首相の暗殺だけだ。館山君、君は徴兵時代、抜群の銃の腕前を見せたというじゃないか」
そう呼び掛けられた和志は、報復心をも頼りに不破に応じる。
期待している。不破先生が。この自分に。そして自身も心は決まっている。
和志は背筋を伸ばし、自らの意思を明確にする。
「先生のような方がいらっしゃるのは、僕達にとって、心強いです。徴兵時代に得た知識が役立つのを僕自身、期待しています」
不破は、覚悟を決めた様子の和志に満足して、朝美にも視線を送る。
「加えて君のパートナーは、学生時代、お遊びで学んだ『ハッキング』の技術に優れている。二人で協力して、暗殺を成功させて欲しい」
和志の力になれるならば、自分の手が汚れるのも厭わない、構わない。そう意を決する朝美。
それも、一つの愛情の形と認めた瞬間、朝美の退路も断たれる。
朝美と和志は、不破に鼓舞されて、押し寄せた高揚感に後押しされる。二人が選んだのは不破の依頼を引き受けること。
和志が、そして朝美が順に口にする。
「はい、先生。任せてください」
「これで万単位の人々を救えるのなら」
朝美には、和志のためなら、「平和」という漠とした目的のためなら、自分の手が汚れても構わない。そんな危うい気持ちがあった。
それがどういう意味を持つのかこの時の朝美はまだ分かっていなかった。