戦争へ
「もう止められない。彼がやりたいのは戦争だけだもの」
2035年、東京。反戦運動に参加している野宮朝美はそう呟いた。
愛情と悲しみが朝美の心を覆い、胸に交互に押し寄せる。折り重なり、朝美の心にのしかかる暗澹とした想い。
朝美は右目だけが幼い頃の転倒事故で赤く変色し、濃い二重の艶やかな瞳を持っている。
変色した右目。この欠損と同じように、何かを仕出かす。
正しくない。そう胸の内で呟きながらも朝美は、突き動かされる自分を止められない。
モーニングティー片手に朝美が見つめるテレビのモニターには、2年前に首相に就任したばかりの高橋英治が映っている。
その頃と時が交錯する出来事だ。中国での日本大使館、そして日本人街焼き討ち事件に端を発して、日本国内での反中感情の世論は湧きおこり、その最中に高橋は台頭した。
高橋は反中、軍拡を旗頭に掲げて、凄まじいスピードで勢力を拡大する。
だが彼は同時に暴虐の人、戦争へと突き進む悲劇の人でもあった。
開戦宣言の準備をひたすらに進める高橋は、マイノリティに成り下がりつつあった反戦運動を、自衛隊の武力行使でもって鎮圧。
その事件で数名に及んだ死傷者。
悲痛。高橋首相、あなたは「報復」しか頭にないのね。政治的手腕に秀でていながら、彼が通った邪道。悲しい。優れた政治家であったはずなのに。
高橋を憐れむような言葉がめくるめき、朝美に去来する。
朝美の心情など置き去りにして、演説の名手高橋は、聴衆を、そして視聴者全てを惹きこむように、みなへと語り掛ける。
「『新秩序』への扉はもう、すぐ傍で開きかけている」
高橋は、後ろへ綺麗に撫でつけた銀髪に一度手櫛を入れる。確たる意志を伴い、朝美の耳にも高橋の言葉は届く。
悲しい。この男の報復を善しとする政略で、一国が戦争へと傾くなんて。
たまらずに朝美は反戦運動のリーダーである、不破克彦の著作を開く。大きな身振りを交える高橋は止まらない。
「中国とは最早対話路線を続けられないだろう。先の政権の融和路線の果てが大使館襲撃、日本人街焼き討ちだった。ならば自ずと答えも出よう」
高橋の演説は、聞き流そうとしても聞き流せない特有の魔力があり、一つの説得力をも持つ。
朝美もそれを知っている。だからこそ、しっかりと耳を傾けて、自分の立場を明確にするべく、不破の本にのめり込む。
高橋の言わんとすることは明確だ。彼は「戦争へ。戦争へ」と大衆を鼓舞している。
止めなきゃ。誰かが。じゃないと二国間の争いで犠牲者が数多く生まれてしまう。焦りにも似た衝動が押し寄せ、朝美を突き動かしていく。
朝美は不破の著作を手元に置いて、震える手で一丁の銃を手にする。彼女の目的も高橋と同じく、定まりつつあった。
朝美の胸の内にあるのは「No more war」。そして一人の男に注がれた深い愛情だけだった。
銃の筒を、慣れない手つきで手入れする朝美の耳に、滑らかな語り口の高橋の言葉が響く。彼は人々の心の闇をまさぐり、掴むように、最後に聴衆へこう呼び掛けて、演説を終える。
「これはアジア全域に安寧を約束するものだ。皆の理解を求める」
アジア全域の安寧。それが上滑りな虚偽であると、人々は知りながらも、高橋に魅了されていく。
演説を聞き届けた朝美は、反戦運動の仲間である、館山和志と合流すべく立ち上がる。彼女の瞳は「悲しみ」と「愛」で満ちる。
「高橋首相。あなたもどこかで道を踏み間違えたのね。きっと」
朝美は、高橋が演壇から退くのを確かめる。朝美はテレビを消すと和志にメールを送る。
朝美の数少ない理解者であり、等身大の目線で語り合える仲間。そして朝美が強く想いを寄せる男性。それが館山和志だ。朝美のメールは手短だ。
「和志、覚悟は出来たわ。あなたに協力する」
和志からも、ごく簡潔で短い文面が帰ってくる。
「分かった。不破先生とは港の倉庫で会う」
和志の乾いた心情は、揺れ動く朝美を奮い立たせるように、彼女の心に滲んでいく。
メールを受け取った朝美は銃を懐に仕舞い、呟く。
「お互いが一線を越えてしまう。悲しいけれど、それも一つの道」
そう。それは私達が選んだ一つの道。間違っている? 若さや愛情ゆえ? それでも一度決めた思いは、誰にも止められない。
朝美は大きく、息を一度吸い込むと、部屋をあとにする。彼女が目指すのは東京港、その場所ただ一つだった。