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濡れ衣 1

 「霧の街」での逃亡生活三日目。朝美は深い眠りに就いていて、中々起きられなかった。昼近くまで眠っていたらしい。朝美の目覚め際、やんわりとした声で和志が彼女に呼び掛ける。

 その声は、包容力があるが、悲しげな抑揚をも潜む。

「朝美、高橋首相が動き出した。野党議員の一部に暗殺未遂の濡れ衣をかけた。とにかく、来てくれ」

 やはり。動き出した。高橋首相が。

 朝美は、身だしなみを整えるのもほどほどに、乱れた髪の毛のまま居間に駆け込む。

 テレビでは野党議員が、報道陣の質問に答えている。

「策略でしょう。冤罪もいい所です。誰かが高橋首相の暴走を食い止めなければならない。でなければこの国は終わってしまう」

 和志と朝美は刻々と進行していく事態を受け止めるしかない。

 テレビの映像は次々と切り替わり、ニュースは、高橋が正しいと訴えているかのようだ。

 朝美は唇に人差し指をあて、和志は軽く腕を組む。

 キャスターは原稿に目を通す。

「暗殺未遂事件に関わったとされる、一部野党議員を高橋首相は軟禁。容疑が固まり次第……」

 和志は、集中してテレビに見入っている。一連の動きを目にした朝美は、一つ閃いたのか、彼に話し掛ける。

「幾ら何でも話がスムーズに進み過ぎじゃない? 私達がきっかけを与えてしまったのは分かるけれど。それにしても」

 朝美の疑う声に、和志が間を一拍置いて応える。

 和志の語るところ。そう。その通り。朝美にもそれは薄々分かっていたことだ。

 和志の声が朝美の耳に届く。

「高橋首相は暗殺計画を事前に知っていた。そう考えるほかにない。それが意味するところは……」

 朝美にも事の次第、事の全容がようやく分かってきた。和志は軽く左手をあげる。

「それはつまり、反戦グループに内通者がいるということた。暗殺計画を事前に政府へ漏らした人物が」

「内通者。やっぱりそうなのね」

 内通者。脆い基盤を持つグループ、集団には時折あることだ。水面下で自分の利益だけを図る人物がいる。 

 その事実を前に朝美は肩を落とすしかない。

 高橋首相にとっては、反戦グループなど、敵でも何でもなく、策略に使える道具でしかなかった。

 そのことが朝美にも、この時になってあらためて理解できた。

 和志は唇を噛みしめる。ニュースは目まぐるしく変わり、次々と新しい動きが報道される間、二人はテレビの前に陣取る。

 高橋のプランは進み、どうにも手が打てないもどかしさが、二人を襲う。

 時間は瞬く間に過ぎて行く。小一時間も過ぎた頃、和志は濡れタオルを顔に被せるとソファに仰向けになった。

 心の痛手が余りに大きかったのだろう。和志は気を滅入らせている。朝美は和志の横に腰かけて、彼を労わる。

「大丈夫? 和志?」

「ん? ああ」

 和志はそう応えるだけだった。

 暗殺未遂事件についてのニュースが一段落して、通常番組に切り替わった頃、和志は体を起こし、朴訥と口にする。

「煙草……、買ってくる。何か変わったことがあったら、教えてくれ」

 そう朝美に告げて、和志は家を出ていった。朝美はテレビをぼんやりと眺める。危機下にあるのにテレビ番組は、のんびりとしていた。

 それはテレビに限ったことではない。ネットも制限され、自由に情報を受け取ることも、発信すること出来ない状況にあった。

 戦争が始まるかもしれないというのに、取り上げられるのはゴシップ。健康、ダイエット、ファッション等に限られている。

「ダメね。政治の情報は監視でもされているみたい。それより和志」

 朝美はそう零すと、スマホを投げ出し、指先を絡めあわせて、和志の心の平穏を祈る。

 しばらくすると、家の扉が開く音がする。和志が帰って来たようだ。朝美は指を解いて和志を出迎える。

 和志は、気分転換にはならなかったのか、案の定塞ぎ込んでいる。和志はソファに腰を下ろすと首を横に振る。

「みんな一部の情報に流されている。煙草屋の主人が俺に話し掛けてきたよ。『みんなが一つにならなきゃいけない時に、暗殺なんて』ってね」

 和志は、高橋の思うがまま進む事態に、幻滅している様子だった。打ち沈む和志に朝美は掛ける言葉もない。

 和志は煙草に火を点ける。

「憂鬱な話だ。こうもたやすく人の心が操られるなんて」

 和志は嘆かわしげに、自分の失態をも確認すると、煙草を燻らせる。

 煙草の匂いと煙は、陰鬱な想いの和志を取り巻いていく。その和志を朝美は見守るしかない。

 和志の吐き出す白い煙は、まるでこの国の行き先を暗示しているように漂っていった。


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