第五章 ~ 賢者の美田 ~ 第二話
『さてさて、どんな淫靡なことをやらかしているのかしら』
『……なんだか楽しそうですね。姫様』
二人とも毛布を被って中腰になりながらのそりのそりと進んでいるので、まるで野生の山羊が屋敷の中を徘徊しているようだった。
『なっ!? 何を言ってるのルーシー。これはあくまでも神に与えられた使命なのよ。私だって本当は他人のプライベートを探るようなことなんてしたくないんだからね』
そう言っているわりにミルクマードの目は爛々と輝いていた。
『ふっふっふっ見てなさいよぉトロン。あんたが私を生贄にしようとしたことを許した覚えはないんだからねぇ……』
ミルクマードが呟いた独り言を聞いて、ようやくルシルベアイスは気がついた。
(あ、これは意趣返しなのか)
きっとミルクマードはトロンを懲らしめる口実を得たかったのだろう。
今日、トロンがミルクマードたちを村のための生贄にしようとしていたことに対する報復がまだ済んでいない。
一度仕返しをすれば、竹を割ったようにスパンと割り切って許すことのできるミルクマードだけれど、何の仕返しもしないままだと、モチを搗いたように、もっちりねちねちと絡みつくくらいにしつこい。
村での戦いについては、ミルクマードたちにも油断があったので非難しようと思っても『認識が甘い』と言われてしまえばそれまでなので、トロンの非をなじることができない。
けれど、それとは関係のない『倫理』を武器にしてトロンを吊し上げるのは可能なのだ。
『確かあそこよね、トロンの部屋って』
ミルクマードは僅かにドアが開いている部屋を指して聞いた。
『そうです。しかし、あの中で姫様が思っているような行為をしていなかったらどうします?』
『してる。絶対にしてるわ、あのエロ猿は。私の勘がそう言ってるもの』
埃が薄く積もっている廊下をゆっくりゆっくり歩き、部屋に近づくと、ドアの隙間から部屋の中にいる二人の会話が漏れ聞こえてくるようになった。
「あ……お兄ぃ、そんなに興奮しないで……チロルのミルク飲んで……」
「今は飲む気になれないよ……」
「美味しいよ?……ほら、しっかり持って……ね?」
「……温かいな」
「お兄ぃの手、冷やっこいね……あん、こぼさないでちゃんと飲んで……」
『『――っ!?』』
聞こえてきた二人の会話が、あまりにも想像を超えたレベルのものだったので、ミルクマードたちは驚きのあまり、息を呑んでお互いに顔を向け合い、あわあわと口をわななかせた。
『ひ、姫様。幼女のチロルに、ミ、ミルクを出させるなんて、トロンは度し難い変態ですよ!?』
『なんて奴なのかしら。私の想像の遙か上をいっていたなんて……いやらしいわねっ!』
二人のセリフは同様にトロンを批判するものがったが、ルシルベアイスが慌てふためいているのとは対照的に、ミルクマードはなんだかとても楽しそうで、鼻息を荒くしていた。
山羊のようにのろのろとした速度で進んでいた二人が、急にハムスターの全力疾走くらいに速度を上げて、ちょこちょことトロンの部屋の前に来ると、ドアの隙間からそっと中の様子を窺った。
トロンの部屋の中は相変わらず物が散乱していて、変な臭いがした。
壁の棚やベッドの近くにはトロンが作ったものだと思われる家のミニチュアや城の断面模型が飾られていて、中にはサンタオルラの村で見たあの柵の試作品らしき物もあった。
やや大きめの机の上には作りかけの城があって、その横に掛けたある黒板には白墨で細々とした設計図が描き込まれている。
トロンは昼間、この家を増築したのは自分だと言っていた。
この夥しい数の模型や本格的な設計図を見る限り、本当に建築関係の事が好きなようだ。
部屋の中に漂う変な臭いは小さな壺に入っている接着剤の膠が発生源になっているらしい。
『……あ』
部屋を覗いた二人は思わず息を呑んだ。
そこには二人の想像していた光景は無く、一枚の絵画のように優しくて綺麗な情景があった。
ミルクマードがこの三日間ノゾキに使っていた換気用の窓からは青白い月の光が降り注ぎ、スポットライトのように二人を照らしている。
まるで、揺らぎのない海底に佇んでいるような幻想的な青と白の光と、たゆたう静寂の世界の中で、トロンは頭から毛布を被り、膝を抱え、胎児のように丸まって震えていた。
トロンは両手で包むようにゴブレットを持っており、ゴブレットからは温められたミルクが柔らかな湯気をのぼらせている。
部屋の隅っこで怯え震えているトロンの前には、心配そうに眉を垂らしているチロルがトロンと同じような姿勢で座っていた。
「お兄ぃ、気にしないで……もう一口、ミルク飲んで落ち着こう……ね?」
トロンはチロルにミルクを飲むように勧められたが、ゴブレットを横に置いて、膝を抱えて俯き、丸く小さくなって震えた。
「俺はまた人を殺した……」
涙声だった。
「泣かないで……仕方がなかったんだよ……」
チロルがトロンの頭に手を伸ばして、よしよしと撫でる。
「俺、命乞いしてる奴らまで殺したんだ……俺はどうしようもない殺人鬼だ……」
「そんなに自分を責めないでお兄ぃ……。誰かがああしないと、また村が襲われる。また誰かが殺されるんだよ……だから、仕方なかったんだよ……」
「でも……俺、俺は……」
トロンは本気で泣いているらしく、何度も洟を啜る音がした。
トロンが言葉を出せないでいる間、チロルは無理に話しかけようとはしないで、ずっと優しく兄の頭を撫で続けていた。
よしよし。よしとし……と。
「村のため。みんなのため。俺はこれまでそう言い続けて、もう百人以上殺してるんだ……」
「村のみんなは感謝してるよ……お兄ぃがいるから村のみんなが安心して暮らせるって……」
「でも、でも、今でも……手に残ってるんだよ。俺の剣が賊の体に食い込む瞬間の感触が……」
「眠って少しずつ忘れよう……ね? できるだけ賢者タイムになっていれば、少しは平気でしょ?」
「賢者タイム……あの状態の俺は心がない……優しさがない……」
「お兄ぃ……」
チロルは眉をそっと眉間に寄せて、悲しそうに唇を噛んだ。
「俺は今度こそ、できるだけ殺さないで済まそうと思ったんだ……。でも、賢者タイムの俺は賊を全員殺すべきだって考えた。そのほうが確実に村は平和になるって……」
「……」
「ダメなんだ……俺、ああなると歯止めが利かなくなるんだ。他人がどう考えているかなんて簡単に読めるのに、読めているのに、相手を気遣う優しさがないんだ……だから、だから……あんなに簡単に殺して……」
震えながら独白をするトロン。
チロルは兄の頭を撫でていた手を止めて立ち上がり、トロンの横に座り直した。
そして、丸くなって震えているトロンの背中に手を添えて、ゆっくりと擦り始めた。
「違うよお兄ぃ、賢者タイムのお兄ぃだって優しいってチロル知ってるよ……」
「優しくなんてない。ミマードのことだってそうだ。ずっと逃亡生活を続けていて疲れているようだったから、本当は少しくらいならここに置いてやってもいいって考えていたんだ。なのに賢者タイムの俺は賊と一緒にミマードたちを追い出そうとした。争乱の元凶になるミマードと賊を一緒に追い出したほうが合理的だと考えてた」
「……」
「ルーシーのときも同じだ。彼女のプライドをなんとも思わずに、ただ完全に勝とうとした。ルーシー、すごく怒ってた……」
「うん……怒ってたね……」
二人の会話を部屋の外で盗み聞きしていた二人が互いに目を合わせて驚いている。
「こんなやり方は間違っているって思っていても、賢者タイムの俺は誰がどう思うかなんてどうでもよくなって、必ず合理的な方法を選ぶんだ……それで誰の心が傷ついても関係ないって」
「でも、一番傷ついてるのは、いつもお兄ぃだよ……」
「……俺は。俺は、いいんだ。俺がしていることなんだから……自業自得さ……」
「そんなことないよ。お兄ぃはみんなの役に立っている。みんなが感謝してるお兄ぃが、誰よりも先に救われるべきだよ……」
「違うよチロル。村のみんなは感謝してるって言うけど、本当はみんな俺を恐れているのを知ってるんだ……俺はみんなに嫌われてる……」
チロルは嗚咽を漏らして泣くトロンの頭を抱き寄せて、胸に抱えたトロンの頭を愛おしそうにいい子いい子と優しく撫でた。
「お兄ぃ。泣かないで……お兄ぃにはチロルがいるよ……」
「変わりたい……俺、変わりたいよ……」
「お兄ぃ……?」
「村のみんなは賢者タイムの俺を恐れているけど、期待されているのも賢者タイムの俺なんだ……。じゃぁ今の俺はなんなんだろうな? 賢者タイムの絞り滓か? いらない人格なのか?」
「違うよ。お兄ぃはお兄ぃだよ。どっちも大切なお兄ぃだよ……」
「ありがとうチロル……でも、俺、強くなりたいんだ……賢者タイムの俺を必要としない、強い俺になりたいんだ……」
「なれるよ。お兄ぃならきっとなれる……」
「こんなふうにみっともなく泣くような俺でも……なれるかな?」
「うん……。でも、チロルは今のお兄ぃも、賢者タイムのお兄ぃも大好きだよ……だからそんなに自分を責めないで……」
「……ありがとう、チロル……でも、俺、やっぱり、強くなりた……い……」
チロルに頭を抱えられたまま、トロンは眠りに落ちたようだった。
部屋の隅で小さな一塊になっている二人の兄妹の姿を、ずっと無言で眺めていたミルクマードたち。
ルシルベアイスがそっとミルクマードの肩に手を置いた。
『どうやら私たちの取り越し苦労だったようです。邪魔にならないうちに部屋に戻りましょう』
『そ、そうね……』
二人は毛布を被って、再びちょこちょことハムスターのように小走りで自分たちの部屋に帰った。




