プロローグ
ミルクマードは子供の頃、東の大陸から持ち込まれた書物を読んで胸をときめかせていた。
十二歳の女の子が読むにしては無粋な戦記物の小説だけれど、王女という立場にいるミルクマードにとって建国とか国と国の争いとかは、他の女の子よりもずっとずっと身近な事に感じられた。
心が奮い立つその小説の中でも一番のお気に入りのシーンは『三顧の礼』のくだり。
その話では――、
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ある領主が在野に埋もれている一人の賢者を自分の幕僚に迎えようとして、賢者の廬を訪れたのだが、タイミングが悪く賢者は不在。日を改めて再び訪れたときも不在だった。
それでも領主は賢者の登用を諦めなかった。
三度目の訪問。
賢者は在宅していたが、折悪しく昼寝をしている最中だった。
庭先、西の大陸で言うところのオープンテラスで、あまりにも気持ちよさそうに眠っている賢者を見た領主は、声をかけるのを遠慮してそのまま立ちつくしていた。
賢者の家で雑務をしている少年がこれに気付いて領主に主の失礼を詫び、慌てて主を起こそうとしたのだが、領主は「訪れたのはこちらの勝手な都合、使いも出さずに押しかけた私の方が非礼ですので、どうぞそのままに」と少年を止め、賢者が起きるのを静かに待っていた。
その後も賢者は昏々と眠り続け、夕方近くになってようやく目を覚ました。
目を覚ました賢者は庭に見慣れぬ貴人が佇んでいるのを見て、誰かと尋ねた。
領主が自分の素性を明かすと、賢者は慌てて自分の非礼を詫びたのだが、領主は晩春の風のように微笑んでこう言ったらしい。
「賢者の寝顔という、とても珍しいものを見させて頂きました。私はそれで満足です」
賢者は恥ずかしそうに苦笑いをした。
「ずっと見ておいでだったのですか?」
「えぇ、ずっと」
領主に仕えることになった賢者は、後にこの時の事を思い出して語った。あの時点ですでに私はこの人物に仕えようと心に決めていた。と――。
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ミルクマードはこの話を読んで胸が熱くなった。
叶うのであれば、私もこういう出会いをしてみたい。
そう思った。
そして今――。
奇しくもミルクマードは故事に出てきた領主とほぼ同じ立場に立たされていた。
サンタオルラの村で聞いた噂の賢者を自分の家臣にしようと目論んで、ミルクマードがこの屋敷を訪問するのはこれで三度目だし、賢者の通り名が故事に出てくる賢者と同じ『伏龍』であることも同じだ。
ただ、一つだけ明らかに故事とは違う点があるのだが……その一つが大問題だった。
樽の上に登っているミルクマードは、外壁の上部にある小窓から部屋の中を覗きながら、魂が零れ落ちてしまいそうそうなくらいの勢いで落胆の溜息を吐いた。
(昼寝なんかとは比べものにならないくらい声を掛けづらいわ……)
ミルクマードが交渉をしようとしている賢者は昼寝をしているのではなく、頭に女物のパンツを被り、薄暗い部屋の中でハァハァと息を荒げているところだった。
なんかもう、いろんな意味でアウトだ。
(こいつが本当に噂の伏龍なの!? 龍って言うより、ただのエロ猿じゃない!)
ミルクマードは顔を真っ赤にしながら心の中で賢者を罵倒し、それでもなぜか目を逸らさずに中を覗き続けている。
本当なら今すぐ立ち去りたいところだ。
けれど、ミルクマードは賢者を必要としていた。
殺されないためにも。生き抜くためにも。
(どうしよう? このまま強引に故事に倣った対応をするべき?)
ミルクマードは、心の底から湧き上がってくる不本意さを奥歯で噛み殺して、記憶にある『三顧の礼』を途中あたりから無理矢理今の状況に置き換えてシミュレーションしてみた。
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その後も賢者はハァハァとハッスルしつづけて、ようやく落ち着いた。
すっきりした賢者は見慣れぬ少女が小窓から覗いているのに気づいて、誰かと尋ねた。
少女が自分の素性を明かすと、賢者は慌てて自分の頭にあるものを隠したのだが、少女は晩春の風のように微笑んでこう言った。
「賢者の死ぬほど恥ずかしい場面を見させて頂きました。私はそれで満足です」
賢者は顔から血の気を退かせて苦笑いをした。というか、もう笑うしかなかった。
「ずっと見ておいでだったのですか?」
「えぇ、ずっと」
少女に仕えることになった賢者は、後にこの時の事を思い出して語った。あの時点ですでに私の人生は終わっていた。と――。
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(ちょっと待って!? これじゃあ私、脅迫してるような感じじゃない? てゆーか、完全に脅迫してるよね!?)
今の状況のままで故事に倣った行動をしたらどうなるかを想像してみたら、なぜか脅迫者になってしまっている自分に驚くミルクマード。
何かがおかしい。
そもそも、廃墟のようにボロボロな屋敷の中で一心不乱に変態行為をしていた賢者と、それをこっそり覗き見ている少女という、今のシチュエーションがおかしいのだ。
(……どうしてこうなったの?)
ミルクマードは額に手をあてて、がっくりと項垂れた。
ここに来るまではずっと真面目でシリアスな流れだったのに……と。