ゼロ
凍えそうな夜の空気の中を歩いて愛機の前に行くと、その男が先に愛機を見つめていた。
何も言わずに彼の横へ並んで立つ。
「どうしてこいつが零って名前なのか知ってるか」
数えきれないほど世話になった、第二の親父と呼んでも構わないような老いた整備士は、おもむろにそんなことを聞いてきた。
「……こんなときになんだよ」
「お前を一端に戦わせてくれる相棒の名前の意味ぐらい知っていても罰はあたらんだろう」
――――それはそうだ。しかし自分もそのぐらいは知っていた。
「皇歴の下がゼロの時に出来たからだろ?」
「……お前にしちゃ、まァよく勉強してたな。だが本当は違う」
「何?」
そんな話は初耳だ。
しかしこの爺さんが零のことで嘘をつくとは思えない。
「この名前にはな、戦士の心意気が込められているのさ」
戦士の心意気?
「ああ。これを作った人の爺さんの爺さんの爺さんの、ずっと昔の本物の侍だった人から一族の男に残された言いつたえがな。死ぬ前の準備をするときは、真っ白の褌を締めて、この詩を胸に抱けって言われてるんだとよ」
そっと横の老整備士の表情を覗くと、穏やかな顔でじっと零を見上げていた。
俺もまたそっと零を見上げた。
「どんな詩だったんだ」
「ゼロの、無の心の話だ」
――――――男が本当に戦う時ってのは、心に零があるもんだ。
真っ直ぐで、がむしゃらで、ただ死に物狂いで
忘れられねえ色んな重いものがどれだけ背中にのし掛かっていようが、戦う為に全部忘れるんだ。
勝つために、死ぬために、生きるために、活かすために。
余計な事は全部わすれちまえ。
ここにあるのはお前だけだ。
お前自身と、お前自身の魂だけだ。
生まれた時にもらったそれだけだ。
迷うな。
ただゼロに帰れ。
「何の心配もしとらん、いってこい」
「――――応」
先輩の激励に、ありがとな。と心の中で静かに礼を言って、零に乗り込む。
戦う為に。ただ無心で、己の為すべきを為す為に。
老いた整備士が見送るなか青白い光の名残を残して、若く精悍な兵士は、夜空の水平線に消えて行った。