宵風セルフディストラクション
プロローグ
わたしは宵闇が包む閑散とした道路の真ん中で、中心線の上を歩いていた。小柄なために歩幅は狭い。肩口まで伸びた髪がいつも以上に鬱陶しい。
一年着てもまだ袖が余っている大きめの制服がやけに重たく感じる。
コンクリートの地面、黄色く明滅する信号、色褪せて塗装のはげた緑色の歩道橋。わたしはそんなどこにでもある場所にいた。
見上げる空には月どころか星も見えない。わたしの他に人影はなく、高さの不揃いな建物にも光が灯っているものはない。両脇にある建物はわたしを逃がさないために建てられているかのように隙間なく並んでいる。
不気味で無機質な風景だけが、目の前に広がっていた。
これは夢だ、と思考の片隅で気付く。
瞬間に思う。
――これは嫌な夢だ。
他人がどうかは知らないけれど、わたしは夢の中で――嫌な夢だと気付くときがある。
踏みしめていた固いはずの地面がぐにゃりと歪んで、今にも消えてしまいそうになる。
やっぱり嫌な夢だ。
嫌な夢は大抵、終着を見ないと終わらない。悪夢は簡単には覚めてくれない。
目標もなく、勿論行くべき場所があるわけでもなく、白線の上をとぼとぼと歩いていく。前に進まなくてはならないという予感はあるのだ。
――とおりゃんせ、とおりゃんせ。
交差点では使い古された不安を煽る薄気味の悪い音がどこからともなく聴こえてくる。 言い知れない恐ろしさを感じて両手で耳を塞ぐ。
――ここはどこのほそみちじゃ。
耳を塞いでも奇怪なほどに反響して、薄気味の悪い音はわたしの耳まで響いてくる。
辺りを見回す。見たことがあるような、ないような当たり前の景色。夢のくせにリアリティがあって、気が狂いそうなほど現実からかけ離れた矛盾に満ちた景色。
いくつの歩道橋を潜り抜けただろう。点滅を繰り返す信号、こつんこつんと足音を反響させるだけの灰色の地面。寸分変わらずに過ぎていく光景と、一向に覚める気配のない夢にため息をつく。
人がいない、自動車がない、明りがない。
どのくらい歩いてきただろう。
どのくらい遠くへ来ただろう。
建物と建物が隙間をきっちりと埋めていて、真っ直ぐにしか進めないはずなのに、同じ信号、同じ歩道橋が、同じ場所をぐるぐると回っているように、何度も何度も繰り返す。
前だけを見て歩くなかで思考する。わたしはここまで一度も後ろを振り返らなかった。無駄だとわかっていたから。無意味なことはしない方がいいという当然の理屈。だけど、好奇心は理屈を容易く突き抜ける。
うしろを確認しようと、けだるげに首を捻る。
背後には何もなかった。文字通り何もなかった。歩いてきた道も、気味の悪い歩道橋も、何もなかった。
踵の後ろ側から向こうは完全な暗闇で、世界の終わりのように隔絶されていた。歩いてきた道は、がらがらと崩れ落ちるでも、音を立てて吸い込まれるでもなく、無音のまま闇に消えていた。
ごくり、と咽喉を鳴らす。
もう一度前を向いた。前を向くと背中の向こうにある暗闇は不思議と見えなくなった。
暗闇がなくなっても、目の前に新しい景色があるわけでもなく、夢の終わりが見えてくるわけでもない。変わらないゴーストタウンがあるだけだった。
そのとき、遠くにぼんやりと白い靄のようなものが見えた。
夢の終わりだ。わたしは直感する。
まったく見えていなかった夢の終わりを感じる。
走り出す。歪んで定まらない足場で、ひたすらに白い靄に向かって走る。遠ざかるように近づくように白い靄は不可解に揺らいだ。
蜃気楼のような白い靄の向こうに人影が見えた。
人影を肉眼で確認した瞬間、ぱっと薔薇が咲き誇るように鮮血が飛んだ。白い靄から飛び出た突起物が人影を貫いて、人影から飛び出た血液がわたしの身体へと降り注ぐ。生温かい弾けたペンキのような赤は地面を濡らし、わたしを濡らし、辺り一面を真紅に染め上げた。
――ほらやっぱり嫌な夢だった。
シンユウ――宵風彩花が殺される夢を見た。
最悪な蟲の報せ。
目を覚まして、脂汗でぐっしょりと濡れた身体をシャワーで洗い流していたときには、わたしのシンユウは死んでいた。
※
宵風彩花、彩花はわたしのシンユウだ。付き合いは高校に進学してからの一年間。彩花は何でも出来て、わたしは何も出来なかった。
だからだろうか。
わたしは彩花のシンユウであることが誇りだった。でも同時に、わたしがなぜ彩花のシンユウでいられたのか不思議だった。
彩花に会うまでのわたしは、臆病で、愚図で、どうしようもなく間抜けで、不細工で、他人に誇れるようなものはなにもなかった。彩花に出会って、彩花のシンユウになれて、わたしの世界は変わった。彩花だけはわたしの誇りで、憧れで、彩花との関係はわたしの宝物だった。
わたしは彩花、彩花はわたし以外に友だちはいなかった。わたしは彩花だけがいれば友だちなんていらなかったけれど、彩花がなぜ友だちを作ろうとしないのかはわからなかった。容姿も振る舞いも、何もかも他人とは違う一種の気品のようなものを彩花は持っていて、彩花に魅かれない人間は、この世界にいてはいけない気すらしていた。でも彩花に友だちが出来たのなら、きっとわたしはお払い箱になっていた。わたしは彩花と釣り合うようなものをひとつも持っていなかったし、彩花はわたしの持っていないものを全て持っていたから。
彩花は何でも出来た。スポーツも勉強も、その他の全てにおいて、他人より一つ抜きんでた才能を持っていた。彼女はなにかになろうと思えば、何にでもなれた。きっとわたしが言っていることは、大袈裟でも誇大広告でもないだろう。
だけど、彩花がたったひとつのものに熱中するという姿を見たことがない。それはなんでも出来てしまう彩花の、ある種の欠陥だったのかも知れない。
普通の人から見たら、『ひとつのものに絞れない』というのは欠点かも知れない。でも、わたしにしてみれば、それは彩花の美徳のひとつに過ぎなかった。『ひとつに絞らない』ということは『ひとつに縛られない』ということで、彩花は何からも自由だった。
わたしは彩花と結んだひとつの約束を思い出す。
――彩花のことを本姓で呼ばない。
彩花と結んだたったひとつの約束。シンユウなら、お互いの名前やニックネームで呼び合うのが当たり前で、苗字なんてものは普通なら気にしないし、声に出したりするものでもない。だけれど、彩花は近藤彩花と呼ばないで欲しいと言った。
わたしは約束をした。
心の中でも彩花のことを、本姓本名である近藤彩花とは呼ばすに、宵風彩花と呼ぶことにする。約束の意図はわからなかった。
宵風という苗字は、約束を結んだ日に、彩花が思いついて決めたものだ。約束の日から彩花は宵風彩花になったのだ。
わたしたちは圧縮されたような密度の濃いたくさんの時間を共有した。
わたしたちはシンユウだった。
だけど、わたしは本当に彩花を理解してあげられていたのだろうか。
――宵風彩花がなぜ死んでしまったのか、そんなことすらわからないのに。
※
わたし、友奈千沙には他人より優れた部分などなく、彩花のこと以外で自慢できることは、わたしの意志や行動とは無関係に咲き誇ったキクのことだけだった。
小学六年生の頃、同級生全員がそれぞれ一本ずつキクを育てることになった。わたしたちがキクに出来ることは、毎日欠かさず水遣りをすることだけで、誰でも出来て、誰もがやった。だけれど、何の要因かわたしのキクだけは他の誰よりも絢爛に悠々と花をつけたのだ。
わたしのキクは展示会で賞をとった。小学生だったわたしには、わたしのキクが受賞したのがどんな賞だったのかわからなかったし、今になってはどうでもいい。
キクが綺麗に咲いたという事実だけを認められて、体育館の壇上で表彰状をもらった。表彰状をもらったり、体育館の壇上に上がったりすることは、おそらくわたしの人生にはもう回ってこない。
わたしはキクの話を彩花にすらしたことがない。これからずっと誰にもすることはない。だからわたしが誇れることは、彩花のシンユウであることだけなのだ。
他人に伝えるほどの価値があるものは、わたしのなかには彩花しかない。
1
彩花のお葬式の日は、年明けの余韻残る一月だった。身を切るように冷たい風が、わたしの身体を通り過ぎていく、とても寒い日だった。わたしの息は白く濁り、頬を伝う温かいような冷たいような液体は凍ってしまいそうだった。
彩花のお葬式は街の葬儀場で行われ、たくさんの黒い服を着た人たちがきていた。お葬式なのだから黒い服を着ているのは当たり前なのだけれど、日常とは違う異質な空気にわたしは困惑していたのだ。
彩花が死んでから三日経った今でも、彩花が死んでしまったことを信じられなかった。受け入れられていなかった。
――ジサツなんだって、家の近くの歩道橋から飛び降りて。
場を弁えない噂話が耳に入る。彩花のお葬式には何人かの同級生がきていた。
彩花が自殺なんてするわけないのに。
自分に言い聞かせるように、声に出さず心のなかでに呟いた。
「千沙? 大丈夫? 気にしないでいいからね」
うしろから、わたしを気遣う優しい声が届く。
「アリサ?」
わたしはビクッと肩を震わせてから、かけられた声に応える。
美月アリサは、彩花を除いたら、同級生でたった一人だけ言葉を交わすことができる女の子だ。モデルのような高い身長に、栗色で艶のある長い髪。愛らしい顔立ちは男子にも人気がある。
わたしの家は学校から少し離れた場所にあるので、同じ中学校からわたしの通っている私立桐政学園高校に進学したのはアリサだけだった。小学校入学から中学校卒業まで、ずっと同じ学校で同じクラスだった。だから、高校でアリサと同じクラスになれたときは心から安心した。
彩花とシンユウになってから、アリサとは疎遠になっていたけれど、アリサはのろまなわたしをいつも気にかけてくれていた。二人でしか会話をしない彩花とわたしを、同級生たちと繋ぐパイプラインのような役割も果たしてくれていた。
「千沙はなにも気にしないでいいからね」
アリサは背中まである長い髪を冷たい風に揺らしながら言った。慰めの言葉に、わたしは思っていたことを素直に口に出してしまう。
「彩花は何で死んじゃったの?」
わたしは言った。顔に当惑の色を浮かばせながら、アリサは首を振る。
「わからないよ、わからない。きっと誰にもわからないと思う」
その言葉を聞いたときに思った。
誰にもわからないなんておかしい。シンユウであるわたしだけは彩花のことを理解していなければいけないのに。誰に理解されなくても、わたしだけは、わかってあげなければいけなかったのに。
忸怩たる思いがわたしの心の中を満たす。
「ごめんね……彩花……」
「千沙のせいじゃないから、千沙のせいじゃないからね」
アリサの優しい言葉は耳に入っても、わたしは『わたしのせいじゃない』なんてちっとも思えなかった。それどころか、『わたしのせいだ』そんなことばかり考えていた。
※
一通りの儀礼的なものを終え、刺すような風の吹く葬儀場の外に出る。葬儀場の扉近くには、わたしたちと同じ高校の制服を着た男子が立っていた。男子は身長の低いわたしよりは遥かに大きい。ひとつかふたつ年上だろう。彼は心底疲れた様子だった。今にも死んでしまいそうなほど、顔色に生気がなかった。
「――ちょっと君」
かけられた声に、わたしはおどおどと男子を見る。
「君だよ」と男子の大きな腕に肩を掴まれる。
「ひゃう」
痛い。
わたしは情けない声を出してしまう。
男子は苦手だ。みんな強そうだから。怖い。それになにを考えているのかまったくわからない。
怯えているのに気が付いてくれたのか、彼は謝って肩から手を離してくれた。
「友奈千沙さん、だよね?」
わたしはこくりと首を前に倒した。驚いていてまだ声が出せなかったのだ。
「ぼくのこと見たことないかな? 彩花の兄なんだけど」
「……はじめ……まして」
彩花に兄がいることは知っていたが、会うのはこれがはじめてだった。わたしが知らないと言うと、男子は首を傾げた。
「そっか。でもぼくは君のことを知っている。彩花の友だちだろ? 彩花は友だちが少ないから知ってるよ」
彼は笑った。身体全体から力を集めて、無理やり笑顔を作っているようだった。
「疲れてますよね?」
「ああ、うんまあね。世界中で唯一人だけ生きていて欲しかった人が、突然死んでしまったんだから。多少はね――辛いよ」
彼はそう言って、また強引に笑顔を作った。
「ぼくは近藤静流、シズルって呼んで欲しい。恰好を見ればわかるよね? 君と同じ私立桐生学園高校の三年」
気を使って話題を変えてくれたのか、彩花の兄のシズル――さんは自己紹介をはじめた。
「わたしは……友奈千沙……です」
つられて名前を言った。
少し黙ってシズルさんはきょろきょろと周りを見た。
「ここは寒いからどこか別のところで話そうか」
なぜか首を横に振ってはいけない気がして、わたしはシズルさんの後ろについていった。
※
わたしたちが入ったのは、葬儀場の近くの、チェーン店のコーヒーショップだった。
店内は外の空気とはまったく違う温かさで満ちていた。温かいというよりは生温かった。
わたしたちはお互いコーヒーだけを頼み、向かい合って適当な席へ座った。
男の子と二人で喫茶店に入ったことなんてなかったから、落ち着かずそわそわしてしまっていた。
シズルさんはコーヒーを一口飲んでから、ちらりとわたしを見た。
「彩花がどうやって死んだかは聞いた?」
また心の中に嫌な気持ちが渦巻いて、胸が苦しくなった。
わたしは無言で頷く。
「あいつには昔っからあぶなっかしいところがあったんだよ。些細なことで簡単に死んでしまえるような、日々綱渡りをしているようなところがね。あいつは何でも卒なくこなすやつだったし、何でも人並み以上にやれるやつだった。でもどこかズレてて、浮世離れをしていた。だからかな、彩花が死んだと聞かされたときに思ったことは――ついにやっちゃったか、ってことだけだったよ」
ガタッ、と大きな音を立てて立ちあがる。
激情が頭からつま先までを駆け抜けた。
「そんなことない! 彩花は絶対に死んじゃだめだった。だって――」
「――わかってるよ、あいつは死んじゃだめだった」
落ち着きはらってシズルさんは、わたしの言葉を遮った。
淡々とした姿が途方もなく辛そうで、わたしの怒りは方向性を見失って霧散してしまった。
「ごめんなさい」
取り乱してしまったのに気付いて慌てて頭を下げる。他のお客さんが一斉に、何事かとこっちを見たのが恥ずかしくて、わたしは出来るだけ素早く腰を下ろした。
恥ずかしくて顔から火が出るくらい熱かった。
シズルさんがわたしを見て小さく笑う。くすり、という微笑は作り物ではなかったけれど、それがより一層恥ずかしかった。
「ごめん」と一言置いてからシズルさんはもう一度ティーカップに口をつけた。神妙な面持ちになって話し始めた。
「こんなことを言ったら、君はぼくのことを変なやつだと思うかも知れないけど、出来たら馬鹿にしないで聞いて欲しい。ぼくはね――」
シズルさんは一分ほど黙り込んだ。
わたしの頬にはまだ恥ずかしさからきた赤色が残っていて、相手の次の言葉を考えるなんて余裕はなかった。わたしが周りを気にしてびくびくとしていると、決心したようにシズルさんは口を開いた。
「――彩花は誰かに殺されたんじゃないかと思っているんだよ」
シズルさんの口から飛び出した予想外の言葉に、わたしは驚かずにいられなかった。恥ずかしさで赤くなっていた頬の熱は、潮が引くように一瞬でなくなっていった。
胸の奥に、夜の闇よりもどす黒い何かが生まれた気がした。
黒い塊が何かはわからなかったけれど、また胸が苦しくなった。
「誰が彩花を殺したんですか?」
わたしが十六年の人生で一度も発したことのない重低音だった。
「誰が殺したのかはまだわからない。それに根拠に乏しくて申し訳ないんだけど、これはある種の直感、蟲の報せのようなものなんだ」
シズルさんは曖昧な表情で告げた。
彩花が殺された。
本当か嘘かはわからない。
行き場のなかった後悔が、シズルさんの話を聞いたときにある一定の方向を示した。
――殺してやる。
明確な殺意だった。芽生えたのは絶対的な復讐の意志だった。
彩花が殺されたなんて証拠は何もなかったはずなのに、彩花が殺されたことはわたしにとって疑いようのない真実になっていた。わたしには敵意を向けられる存在が必要だったのだ。例えそれが妄言や虚構の類だったとしても。
シズルさんがわたしの伏せた顔を覗き込む。
かなり近い。
「大丈夫? 嫌だったらいつでも止めるから」
わたしは冷めてしまったコーヒーでカラカラの咽喉を潤してから、首を横に振った。シズルさんは重い調子で頷いた。
「ここからはさらに突飛で、君にとっては何の意味もない不快になるだけの情報かも知れない。今言ったとおりいつ止めてもらってもかまわない。でもぼくは聞いて欲しい」
「大丈夫……です」
沈黙したまま言葉を待った。
「……夢を見たんだ。彩花が死んだ日にね。彩花と君が出てくる夢を」
えっ、と伏せていた顔を鈍重に上げる。
「それって」
「どんな夢だと思う?」
焦らすのではなく、わたしの想像力を試すかのようにシズルさんは言った。わたしは質問に答えずに黙っていた。
「友奈千沙は歩いていたんだ、暗い道路を。どこまでも永遠に続いていくかのような気色悪い道路。周囲にあるのは道路を挟んでいる不揃いなビルだけ。建物の高さは変化しているはずなのに、景色は驚くほどに変わらない。勿論、建物に明りはない。横断歩道、歩道橋、一定のリズムで明滅する信号機。歩いて歩いて、君は後ろを振り返るんだ。でもそこにはなにもない。歩いてきた道も何も。まるで前に進んでいくことが無駄だったかのようにね。でもね、友奈千沙は前を向くんだ、怯えながらね。そうすると、光が見えてくる。友奈千沙はその白い光へと向かって走り出す。そして彩花が殺される瞬間を見てしまうんだ。よく覚えているよ、夢なのに妙に明瞭でくっきりとしていて、――嫌な夢だった」
長い物語を語り聞かせるように、シズルさんはゆっくりと喋った。
忘れかけていた夢を嫌でも思い出す。シズルさんの語った夢の話は、まるでわたしの夢を覗き見したような内容だった。
シズルさんは、とんとんとこめかみを数回中指で叩いた。
「ぼくは俯瞰しているんだよ、君が彩花の死を見る瞬間をね。完全に蚊帳の外、傍観者なんだ、彩花が白い影に殺されているのに」
悲痛そうな面持ちで語ったシズルさんはどうしようもなく弱弱しかった。
「彩花が好きだったんですね?」
「ああ、誰よりも。彩花が唯一ぼくの生きる理由だったんだから」
唯一自分の生きる理由。それはどういうことなのだろう。ううん、それはきっとわたしと同じ理由。
わたしは脱線しかけた話を元に戻す。
「シズルさんの見た夢……」
「おかしな話だろ? 彩花が殺される夢を見たのが、彩花が誰かに殺害されたんじゃないかと思う理由なんだ」
「違う」とわたしははっきりと言った。
「ありがとう。荒唐無稽な話だから馬鹿にされないだけでも嬉しいよ」
「違う」とわたしはまた言う。今度は唇が震えて、上手く発音できなかった。
様子が変わったわたしに戸惑ったのか、シズルさんは困った顔をした。
「何がどう……」
わたしはシズルさんの言葉を遮った。
「わたしも同じ夢を見ました。歪んだ暗い道を歩く夢です。彩花が――殺されちゃう夢です……」
他人の言葉を遮るなんてことが、わたしに出来たことに驚く。
思えば、彩花と話すとき、わたしは大抵聞き役だった。上手に喋れないわたしの代わりに彩花が凛とした声で素敵な話を聞かせてくれるのだ。彩花は日常的なことでも、作り話でも、何でも人を楽しませるように喋ることが出来た。彩花の口が言葉を紡ぐたびにわたしはどこか嬉しい気持ちになったし、悲しい気持ちにもなった。
だからわたしが喋る必要はなかった。家でも学校でもこの世界のどこでも。わたしは教師が指差した黒板の問題に「わかりません」と応えるだけでよかったのだ。
わたしは言葉を繋げる。
「……だからシズルさんの言っていることはおかしくなんてありません」
シズルさんはすこし驚いてから決心したように言った。
「二人が同じ夢を見る。それも彩花の死を夢に見た。これは偶然? いや、ぼくは必然だと考える。ぼくは彩花は殺されたものだとして考える、今まで以上に真剣に。警察が、大人が、誰も信じてくれなくてもかまわない。ぼくは彩花を殺した犯人を探す」
シズルさんの瞳には強い光が宿っていた。でも、強いだけで根本の感情は読み取れない。決意の光の真意は、わたしには知りようがなかった。
「わたしも彩花が死んじゃった理由が知りたい。彩花が殺されたというなら彩花を殺した人を殺してやりたい」
わたしは泣きだしてしまいそうだった。シズルさんはわたしを見て頷いた。
「ぼくも同じ気持ちだよ」
それからは二人とも黙っていた。黙って十分くらいが経った。
シズルさんの携帯に着信が入る。シズルさんは携帯電話に出て、葬儀会社からの呼び出しだったらしく会計を済まして帰って行った。
わたしは喫茶店に一人残された形になった。
ティーカップに残った冷たいコーヒーを飲みきる。
口に含んだ黒い液体は、これまで飲んだどんな濃厚なコーヒーよりも苦くて不味かった。
2
その夜、わたしはまた夢を見た。妙に鮮明な夢だった。
恰好は三日前の夢と同じ制服姿。気取ったところのない、わたしが着るとより一層地味さが際立つ制服。
立っている場所は廃墟の入り口。鈍い闇色に染まる、老朽化の進んだ病院のような建造物。白色だったであろう外壁は所々塗装がはげ黄色く変色している。ひび割れた外壁は今にも崩れてしまいそうだ。
夢は終着を見ないことには終わらない。
自動ドアが壊れ、開け放たれている不気味な病棟へと足を踏み入れる。目を凝らしていても、5メートル以上向こうを見通すことができない。見えるけど見えない、見えないけど見える、そんな宵闇。
「彩花、いるの?」
なぜだか病棟内に彩花がいるような気がして、わたしは声をかける。反響した声が建物内に響く。返事は返って来ない。
病棟に入ると、そこはまさしく廃墟だった。
得体の知れない恐怖感がわたしを包む。足が前に進むのを拒否するように地面に張り付いたまま動かない。でも、どうしようもないのだ。前に進むしかないのだ。だって――後ろを振り返っても何もないのだから。わたしが歩いてきた道は全て文字通り闇に沈んでしまっているのだから。
じゃりじゃり、とリノリウムの床を覆う砂利を踏みしめて歩く。
病棟内は長年砂漠の吹きさらしを受けていたかのように風化していた。見ようによっては建物の外壁以上に破壊がすすんでいた。人がいる気配などなく、閑散と静まり返ってわたしの足音を響かせるだけだった。
階段を見つけ、一段一段慎重に昇る。というのも、一段昇るごとに階段はぎしぎしと音を立てたので駆け上がるなんてことはとても出来なかった。
普通の病院なら階段は最上階へと続いているはずなのだけれど、夢のなかの病棟は一階昇るごとに別の場所に階段があるらしく、階ごとに病棟内を歩き回らなくてはならなかった。
消えていくわたしが歩いてきた道も、不思議と前を向いて進んでいる分には、一度通った道に突き当たってもそこに道は存在していた。
振りかえって道を戻ることは出来ない、ただそれだけのようだった。
わたしは一階、二階、三階と順々に上を目指していく。
なぜか最上階に彩花がいるような気がした。気がする、というよりもそれは確定された事実のように思えた。
彩花はいる。わたしを待っている。
そう思うと、足の震えは止まって正常に機能してくれた。彩花のために。それだけがわたしの行動理念なのかもしれない。そう思うと誇らしかった。彩花のためだけに動けている自分に酔えていた。わたしたちはそれほどに強い想いで結ばれたシンユウ同士だったのだ。
わたしは最上階、つまり屋上へと辿り着く。
まただ。
うすぼやけた白い影が見える。
――あれが彩花を殺したんだ。
許さない許さない許さない許さない。
デジャビューを感じた。白い影の向こうに彩花がいたのだ。
「彩花!」と叫ぶように呼びかけた。彩花はこちらを向いていても、わたしには気付いていなかった。ぼんやりと何かを待つように、立ち尽くしているだけだった。
「彩花! 彩花! 彩花!」
何度も声を張り上げた。彩花は一向にわたしを見てくれない。彩花は放心したように白い影を見つめていた。
屋上という限られたスペースのはずなのに、彩花とわたしがいる位置は隔絶されたように遠かった。
わたしは三日前の夢のように屋上のタイルを蹴って走り出した。白い影に近づくと、白い影が人型をしていることがわかった。
白い影は振り向かない。こちらに背を向けて彩花と向かい合っている。
不意に白い影は右腕を振り上げた。
まさか。
「やだ……やめて……」と口から言葉が漏れたときには遅かった。
鋭利な刃物のような白い人影の右腕は、彩花の心臓を抉りだし、彩花の胸からは宵闇のなかでもそれとわかる生温かい液体が飛散した。噴水のように彩花の胸の穴から吹きだした血液は止まることがなかった。
鮮血の紅だけは夢の世界で、この宵闇の中で色を灯していた。
夢の世界を紅色が染め上げていく。
頬を伝っているのが涙なのか、彩花の血液なのか、わたしにはわからなかった。夢なのに生温い風と、どろりとした血液の感触。
これが夢なの。
夢なのに心が破れてしまいそうなほどに痛い。
夢の終わりを感じる。また何もできなかった。
なんで?
どうして?
白い人影はなぜ彩花を殺すの?
なぜわたしは何も出来ないの?
どうしたら彩花を助けられるの?
さまざまな疑問が脳裏に浮かんでは消えていった。でも考えたところで彩花を助けられるのだろうか。だって彩花はもう死んでしまっているのに。
わたしは無力感だけを覚えながら夢のなかで瞼を塞ぎ、暗い部屋のベッドの上で目を覚ました。片手にはべっとりと血糊がついていた。
※
なんてことはない。血糊はわたし自身から溢れたものだった。どうやら寝ているあいだに、あの日がきてしまったらしい。それがたまたま手の平についてしまっていた、とても簡単なことだった。べっとり、なんて表現をしたけれど、実際は大したこともなかった。
洗面所の鏡の前に立ち、蛇口を捻り、手をごしごしと洗った。鏡に映るわたしの表情は自分で言うのもなんだけど酷かった。生きることを拒否してしまいそうなほどに瞳は色を失っていたし、目の下のくまは、血液の循環が悪くなっていることを如実に表していた。 胃がきりきりと悲鳴を上げる。せり上がったきた逆流物が口内を満たす。必死に飲み込もうとしたけれど、耐えられずに戻してしまう。
洗面所の流しが詰まってしまう。そんなちっぽけなことを考える。ちっぽけだけれど親に見つかったらぶたれるだろう。それが嫌で洗面所の嘔吐物のなかに手を突っ込む。せっかく洗った手をまた汚してしまう。二度手間だ。なんて無駄なことをしているのだろう。
流しが詰まっていないことを確認してから、臭いのついた手をまた石鹸を使って洗う。石鹸を使い過ぎてもぶたれるので、極力少量にする。
自分の部屋に戻って、出来るだけ素早く着替えて、学校へ行く用意を整えた。日も昇りきらないなか、凍てついた風を受けて震えながら、わたしは黙って家を出た。
彩花が死んでから学校の周りはとても騒がしかった。
彩花の死を心待ちにしていたかのように群がった報道関係者は、ハイエナのように彩花の死に喰いつき、荒らしていった。
いじめ?
責任の所在?
自殺の誘発?
全部が下らなかった。彩花のことを何も知らないくせに好き勝手憶測を並び立てて悪者を作り出そうとする。やってくる大人は全員が根本から腐ったようなやつらだったし、より過激に彩花の死を演出したいだけの下種な連中だった。
だけれど、わたしはいつものように俯いて、校門をとおり過ぎることしかできなかった。 学校にいる誰よりも、人だかりをつくるハイエナ共を憎らしく思っているはずなのに。 行動できないわたしはどうしようもなく臆病で情けない存在だった。
※
彩花のお葬式から数日が過ぎ、一応の落ち着きを取り戻しつつある早朝の学校。その廊下でシズルさんを見つけた。シズルさんの表情はいつにも増して沈んでいた。世界の終わりでも見てしまったような痛々しい表情だった。
シズルさんがわたしに気付く。
「ひどい顔だよ千沙ちゃん……」
シズルさんは笑おうとしてか唇の端を釣り上げる。それがイビツで、より一層の悲壮感を醸し出していた。
「また彩花が殺される夢を見たよ……」
わたしが伝えようと思っていたことを、シズルさんは先読みするように言った。なぜだか驚きはなかった。そんな気がしていたからだ。わたしが見た、いや彩花がわたしに見せているのなら、シズルさんに見せない理由はないから。
「わたしも見ました。砂漠で、病院の屋上で彩花はまた殺されました」
淡々と、努めて冷静に言おうと思っていたのに、語尾が震えてしまった。
突然、シズルさんは手のひらで頭を押さえて笑いだした。調律の狂ってしまったような奇妙な笑い方だった。ひとしきり笑って彼は言う。
「もう偶然じゃない、これは誰かの意思だ。彩花? ぼく? 友奈千沙? 誰かの強い意志がぼくらに見せているんだ――」
――やめてください!
いきなり、わたしたちが話す数歩後ろから金切り声がした。
「アリサ……」
アリサがキツイ目付きでシズルさんを睨んでいた。すっ、とシズルさんの前に立ち、腕を振り上げて、思い切りシズルさんの頬を叩いた。風船が弾けるような高い音が静まりかえった廊下に響いた。
あまりにも予想外のことにわたしの思考は止まる。
シズルさんは頬をぶたれたというのに相変わらず半笑いで、何事もなかったようにアリサを見ていた。アリサも強い視線でシズルさんを見返していた。
「あなたの妄言に千沙を巻き込まないで!」
「巻き込む? 変なことを言うなよ。ぼくらは当事者なんだよ、巻き込むも巻き込まないもない、そんな選択肢は最初からないんだ。はじめから内側にいて、願っても外側には出られない。それに、千沙ちゃんは望んで蚊帳の外に行こうなんて考えていないと思うよ」
アリサはわたしの意思を確認するようにこちらを見た。
そう、わたしの意志は変わらない。
「アリサ。わたしはね、彩花を助けたいの」
アリサは茫然としてわたしを見た。
「助けるってなに? もう近藤さんは死んじゃっているんだよ。もう助けたり出来ない、もう学校にも来れないし、誰とも話せないんだよ」
「わかってるよ……」
わかっている。彩花はもういない。でも、少なくとも夢のなかでは、殺されるまでの短いあいだは生きている。だったら助けないといけない。もう一度話したい。彩花の口が奏でる透き通った声が聴きたい。
アリサはキッ、とシズルさんに視線を向ける。
「あんたが千沙をおかしくしたんだ! あなたたち兄妹はおかしい! 近藤さんもあんたも、どうしてわたしたちの日常を狂わせるようなことをするの? もうやめてよ!」
「近藤さんじゃない――」
アリサがシズルさん相手に喚く声に、わたしは切って返す。
「――宵風彩花。それが彩花の名前」
諭すように、脅すように、冷たい音がわたしの身体の奥底から生まれた。例えアリサが、昔からの知り合いだったとしても、彩花とは比べることなんて出来ない。いや彩花と比較できるものなんてこの世には存在しない。宵風彩花はそれほどに絶対的な存在だった。
シズルさんを睨んでいたアリサは、声を失って俯いた。
「もういいよ。勝手にすればいい」
諦めと皮肉が入り混じった声だった。アリサはわたしの横を通り過ぎ、廊下を先に歩いていった。
わたしはアリサの背中をじっと見つめて黙り込んでいた。何をするでもなく、ただじっと、遠くなる背中を眺めていた。
※
それから、わたしたちは一週間ものあいだ毎夜毎夜、彩花の殺される夢を見るようになった。洋風建築、和風建築、廃墟、森、海、多種多様な場所でわたしはアテもなく歩き回り、最終的に必ず彩花の死を見ることになった。彩花を白い影から救おうと必死に足掻き、結局何も出来ずにいた。眠るのが嫌になるほどに、わたしは無力で無能だった。
単純に力が足りなかった。白い影には得体の知れない凄みと、ひりつくような威圧感があった。圧倒的な恐怖と強さがあった。
なぜ白い影を強いと感じたかはわからない。本能的にアレは強いものだと悟らされたのかも知れない。
――アレを殺さない限り彩花を救うことは出来ない。
わたしとシズルさんが出した結論だった。
どうすれば殺せるの?
夢の中で闘う術なんてわたしには全く想像できない。
幾度も繰り返す絶望的な夢のなかで、わたしたちは打開策を練った。
彩花に届くと信じて。
※
心身ともに疲弊し切ったある日、「ぼくの家に来て欲しい」とシズルさんは言った。もともと解決策など思いつかなかったわたしは、シズルさんの方策に期待してついていくことになった。シズルさんに誘われるまで、わたしは彩花の家に一度も招かれたことがなかった。
彩花の家は郊外にある高級感の溢れるマンションだった。彩花には庭付きの洋館のように可憐で趣のある場所に住んでいてもらいたいという願望が、わたしにはあったけれど、流石にそれは叶わなかった。
だけれども、マンションは入り口にシンボルツリーが並び、グリーンガーデンの見える風格のある建物だった。
一階入り口の自動扉が開き、シズルさんのうしろについて、わたしはきょろきょろと忙しく目を忙しく動かしながらマンションのなかに入った。
内装も凝っていて、質素でありながら品の良い、高級感を主張し過ぎないものだった。洗練されたデザインがより一層、彩花の住んでいた場所がわたしの生活からかけ離れているということを意識させた。
彩花の家は十二階建てのマンションの十一階にあった。シズルさんがカードロック式のドアを開けると、整ったインテリアが目に飛び込んできた。シックでモダンで、わたしは内装だけで言葉を失ってしまった。
なによりわたしを驚かせ、感嘆させたのが家具や調度品の均整のとれた配置だった。
「この部屋は彩花がつくったんだ。ファニチャも絵画もすべてを彩花が選んで、彩花が置いたし、飾った。彩花はどこまでもどんなところでも非凡だった。努力とは無縁に感性と感覚だけで他人以上に他人を魅せる。そんな馬鹿げていて、狂ってるやつだった」
シズルさんは部屋をひとつひとつ案内しながら誇らしげに言った。
わたしは何とは無しにシズルさんの言葉に共感していた。彩花は狂おしいほどに他人を魅せる才能を持っていた。万能の才能――そんなものを生まれたときから持たされていた彩花はどんなことを思考し、どうやって生きてきたのだろう。彩花は死の寸前に何を想ったのだろう。
――それはわたしにはとても考えつかないようなことだと思う。
考えの及ばないことだ。
シズルさんはひとつの部屋を残し部屋の案内をやめ、わたしをリビングの柔らかいソファーに座らせた。それから、お茶を淹れてくれた。
わたしたちは彩花のお葬式の日のように向かい合ってお茶を飲んだ。お茶のことなんてまったくわからないけれど、それでも美味しいとわかるくらいに美味しいお茶だった。
「君は怖くなかったの?」
なにが? とわたしはぽかんとした顔をした。
するとシズルさんは頭をがしがしとかいた。
「無警戒に男子高校生の一人暮らしの部屋に入ってくることがさ」
はっ、として元々膝下くらいまである、同学年の女の子たちと比べれば、長いスカートの裾を握った。そんなことをしても無駄なのだけど、無警戒すぎたわたしにはそれくらいしか出来ることがなかった。
シズルさんは呆れたように大きく息を吐いた。
「ぼくが好きだったのは彩花だけだよ。君に変なことをするつもりはないから安心して良い。それにね、君はここに来なきゃいけなかった、なんとなくだけどそんな気がするんだ。男の勘だから信憑性はないけどね」
シズルさんは毒気なく笑う。わたしは安心して地味な色のスカートの裾から、握り締めていた指を放した。強く握り締めて赤くなっていた指はすぐに平常色に戻った。
「御両親はいないんですか?」
「ここにはね、どこにいるかもわからない。だけどお金は貰ってる。だから生活できるし、生きていけるし、良い部屋にも住める」
「お葬式にいたのは御両親じゃないんですか?」
「ちがうさ、彩花が死んだくらいじゃあいつらは帰ってこない。ぼくはともかく、あれほど完璧だった彩花にすら、あいつらは見向きもしなかった。二人とも不思議な人間だよ、あり得ないくらいに」
あいつら。シズルさんらしくないきつい言葉だった。娘のお葬式にすら帰ってこない両親。イビツで利己主義な、子どもをペットのようなものだと勘違いしている大人たち。わたしの持っている一般常識とは隔絶的な最低なやつら。
両親がいないのなら、彩花は何から学んでいたのだろう。何を見て育ってきたのだろう。 わたしは詮無いことを考えた。
「彩花はお父さんとお母さんが嫌いだったんですか?」
「どうだろう。嫌悪、なんて強い感情は持っていなかったんじゃないかな。あいつらを嫌いになる時間も好きになる時間もぼくたちにはなかったから」
「でも、彩花はわたしに言ったんです。『わたしを近藤彩花と呼ばないで欲しい、これからは宵風彩花でいさせて欲しい』って」
「ヨイカゼ……か」
思い当たる節があるようにシズルさんはゆっくりと発音した。
「宵風彩花、わたしのシンユウは宵風彩花なんです、約束をした日からずっと」
彩花とした約束はまだ続いている。わたしのなかで約束の日が廃れる時は永遠にこないだろう。彩花の存在は絶対的で揺らぐことはないのだから。
シズルさんはおもむろに立ちあがった。
「それじゃあ行こうか」
まだ案内されていない最後のひと部屋。
――彩花の部屋。
わたしたちは彩花の部屋の前に立った。わたしは彩花がどんな部屋でどんな風に生活していたのかをまったく知らない。わたしの知らない彩花が、この部屋のなかにはいるのだろうか。小さな不安や怯えがわたしのなかへと入ってくる。
こわい。わたしが知らない彩花を知るのがこわい。
自分でも気付かないうちに、身体は震えていた。冷や汗が制服の下の肌をつたう。
シズルさんはわたしに確認をとってから、彩花の部屋の扉をあけた。
わたしはじっと固まって、ひらいていく扉をまっすぐに見つめていた。
彩花の部屋には調度品の類がほとんどなかった。さっきまでいたリビングと彩花の部屋は不自然なほど異なっていた。まるで違う世界であるかのように断絶的だった。
飾り気のない病院のような部屋のまんなかには、大きなモニターと据え置きのゲームハードがぽつんと置いてあって、それだけがこの部屋の調度品であるかのようだった。
ゲーム機なんて玩具が彩花の部屋にあったことに、わたしは驚きを通り越して戦慄した。 それはあまりにも彩花とはかけ離れていたから。彩花のイメージとは一ミリも符合しない異色な異物。
なにかの間違いじゃないかと、まだ部屋の外にいたシズルさんを振り返る。
彩花がこんなものを持っているはずがない。
許されるはずがない。
彩花のどこを切り取っても出てこないような要素が彩花の部屋に鎮座されていた。
わたしは、ある種の恐慌状態に陥ったように、思考に歯止めが効かなくなっていた。それほどに彩花とゲームハードという異物には隔たりがあった。他のどんな人間の部屋にゲームハードがあったとしても、わたしは驚くどころか関心を示すことすらしない。
でも、彩花の場合は違う。
彩花はビデオゲームなんてものを嗜好したりしない。
間違っている。
こんなものがあってはいけない。
これは存在してはいけないものだ。
壊さなきゃ。なくさなきゃ。
どこかへ、彩花と無関係なところへ。いらない、こんなものいらない。
ぐるぐると世界が回った。意識が混濁して、自分の立っている場所が揺れた。大型のモニターもゲームハードもベッドも椅子も、彩花の部屋はイビツに歪んでわたしを取り囲んだ。まばたきを忘れた両眼は狂ったようにひらき、心臓が早鐘を打ち、破裂してしまいそうな音を立て、胃液が逆流をはじめる。
――瞬間、わたしの意識は飛んだ。
鏡が割れるような激しい音にわたしは意識を取り戻す。一瞬だっただろうか、一時間だっただろうか、わたしは彩花の部屋で立ったまま気を失っていた――のだと思う。意識を失っていたのだから確かなことはわからない。
ぼやけた視界がゆっくりと開けていく。
目の前からゲームハードが消えていた。
彩花の部屋はただの寂しいだけの部屋になっていた。これが正常なのだと、わたしは思った。あんなものはなくなって当たり前なのだと。彩花の部屋には似つかわしくない不要なものだと。
シズルさんの方に向き直る。部屋の外に立っているシズルさんは放心状態でわたしを見つめていた。
どこからか機械の作業音が聴こえてくる。
モニターにあかりが灯った。モニターに繋がれたケーブルが部屋の外へと続いている。ゲームの起動画面がモニターに現れる。チカチカとした光がわたしの瞳に映り込む。
なんで?
ゲームハードはないのに。
あっちゃいけない。
なんでこんな。
おかしい。
彩花がなんで。
なんで――
――こんな低俗なものを。
わたしの想いはそこへ終着した。放心したように立ち尽くすシズルさんを突き飛ばしケーブルを追った。廊下では角が欠けてひび割れたゲームハードが重い音を立てながら動いていた。
どうして?
なんであるの?
彩花が壊れちゃう。
わたしの彩花がいなくなっちゃう。
ただ部屋にゲーム機があっただけで、わたしの彩花は崩れていった。
絶対に揺らぐことなんてなかったはずなのに。あまりにも脆くて、あまりにも壊れやすかった。
わたしは冷たいフローリングの廊下に膝をついた。すると自然と涙が溢れて、止まらなくなって嗚咽した。心のもっとも大切な部分を削られてしまったような痛みに、どうしようもなくうちひしがれてしまっていた。
気持ち悪い。ゲームハードという異物が紛れ込んだ彩花の部屋は、わたしにとって魔窟のようなところだった。
長い時間わたしはむせび泣いていた。涙が枯れるほど、という表現が適当になるくらいの時間だった。
シズルさんはずっとそこにいてくれた。
シズルさんは泣き止んだわたしをリビングのソファーに座らせてくれた。今度は落ち着くようにとココアを淹れてくれた。甘たるいココアの味はわたしの擦り切れた感情をすこしだけ平常に近づけてくれた。
「なんであんなものが彩花の部屋にあったんですか?」
あんなもの――据え置きのゲームハードという異物のことだ。
「君には言ってなかったのか。君が床に叩きつけたアレが、何でも出来る彩花の唯一の趣味だったんだ」
また彩花が歪んだ。彩花が違う世界の住人になったような嫌な感じがした。
「でも、だって、あんなものは彩花にふさわしくない」
「格闘ゲームってやったことあるかい?」
不意にシズルさんは話題を変えた。
「やったこと……ありません」
わたしは律義に応えてしまう。
「彩花は――」
なんだろう、口の中が酸っぱくなる。
「――ある格闘ゲームの熱狂的なファンだった」
心地よい後味を残してくれたココアの甘さは、一瞬で辛酸な胃液の味へと変わった。
聴きたくない。聴きたくない。聴きたくない。
これ以上わたしの彩花を貶めないで。
何にも囚われず、どこまでも自由だった彩花がそんな低俗なものに囚われていたなんて教えないで。
「やだ……もう……」
懇願するようにわたしは言った。
シズルさんはわたしの言葉を無視して話を続けた。
「人間は綺麗な部分だけで出来ているんじゃない。汚いものが混ざってはじめて人間なんだ。彩花だってそうさ、汚い部分はある。彩花がゲームをすることが汚いことかはわからない、でも彩花には必要だったんだ。なぜなら――」
「わかってるよ! 人間が汚いことなんて! でも彩花は違うんだもん。違うったら違うんだもん」
また泣き出してしまいそうだった。子どものように、愚図る餓鬼のように、わたしは正論を突き放した。彩花のことを誰よりもわかった気になっていた、だけどわたしは彩花のたったひとつの趣味すら知らなかった。
「――なぜなら、彩花は格闘ゲームをやっているときだけ人間になれたんだ。対戦の結果に一喜一憂して、苛立つ負け方をしたときは癇癪を起して、壁は殴るし、叫ぶし怒鳴る。悪態はつくし、暴言を吐く。そんな彩花を見たことがあるかい?」
ふるふるとわたしは首をよこに振る。
彩花が癇癪を起こすなんて想像したことすらなかった。彩花はいつも涼やかに笑っていたし、感情をほとんど表に出さなかった。わたしといるときでも、どこか超然的に微笑みを浮かべているだけだった。
彩花は癇癪や暴力とまったく結びつかなかった。彩花ではなく、別の人間の話を聞いているような錯覚に陥る。
「彩花じゃない……それは彩花じゃない。シズルさんの言っている女の子は彩花じゃないよ。彩花はあんな人たちの持っているものを持っていちゃいけない……」
あんな人、わたしのもっとも嫌う人たち。癇癪と嫌味癖しか取り柄のないどうしようもなく最低卑劣な畜生共。そんなやつらのあいだに生まれたわたしも例外なく畜生だ。畜生を人間にしてくれたのが彩花だったのに。彩花が壊れていく。
彩花を知ることが恐ろしい。わたしの直感は間違いではなかった。でも彩花へと踏み込んでしまった今となっては後の祭り。なかったことにはできない。
シズルさんはわたしの両肩をがしっ、と掴まえた。
「夢を終わらせるんだ。彩花を殺したやつを探し出すんだ」
熱っぽい声が刺さる。
「どうすれば……」
「永劫回帰って知ってるかい? 超人的な意思の力で現実を永遠に固定させるっていう昔の哲学者が考えた妄言さ。色々考えてみたんだけど、ぼくたちの見ている夢は永劫回帰と似通っているところが多い。多少異なったところはあっても本質的には変わらない。ぼく、君、彩花、誰の意思が、彩花が殺されたという瞬間を固定して繰り返しているのかはわからない。でもぼくは思う、この夢を終わらせない限り彩花は救われないし、ぼくたちも真実へは辿りつけない。それに、彩花の葬式からたった一週間だけで、あの夢を見ているおかげで気が狂いそうなんだ。最愛の人が何度も何度も殺される、到底耐えられるようなものじゃない。君だってそうだろう、ぼくには君が今すぐにでも手首を切って自殺してしまうんじゃないか――とさえ思える。ぼくだってそうだ、今からベランダに飛び出て、マンション十一階という高さから自由落下してしまいそうなんだ」
まくしたてるように、ときどき上ずる声でシズルさんは語った。顔を手のひらで覆って、焦点の合わない瞳で、わたしではない何かを見ていた。
狂いそうなんだ。わたしもシズルさんも。
堪らなく彩花を想って、そのせいで苦しんでいる。でも彩花を忘れて過ごすなんて出来ない。
わたしとシズルさんは似ていた。
――彩花に囚われている。
――彩花がいなければ生きていけない。
弱く惨めに、この上なく彩花を必要としている。既に死んでいる人間を救おうなんて、狂ったことを考えてしまうほど。
「白い影を殺さなきゃ――彩花は助からない」
「そうだ、あの白い化け物を殺す。永劫回帰という妄言は超人的な意思の力が起こしている。だったら――超人的な意思で捻じ伏せれば良い。あの夢は君と彩花のふたりしか立ち入れない、彩花を助けられるのは友奈千沙だけだ」
わたしたちの思考は限りなく暗い方向へと進んでいった。
辿り着いた答えは馬鹿馬鹿しく、それでいて、そのときのわたしたちには完全に筋道の通った王道のような方策に思えた。
――彩花が狂うほどにやり込んだ格闘ゲームの動きをトレースして、夢へとアウトプットする。
馬鹿げていた。本当に馬鹿げた手段だと思う。
格闘ゲームのキャラクタの行動を夢に映し出す。あの悪夢を殺すたったひとつのやり方。たったひとつ、どうしようもない滅茶苦茶な方法。理屈なんて一片も通らない、理論を冒涜するような悪夢の攻略法。
一笑に伏されるような下らない解答が、絶望の淵でもがくわたしたちの真実だった。
3
わたしは両親と仲が悪い。ひとりっこなのに仲が悪い。
「あんたは愚図で馬鹿なんだから」がわたしに対する口癖の母親。
気性が荒く、ひどく理不尽にわたしを叱りつけ容赦なく殴り倒す父親。
わたしは毎日毎日、両親と顔を合わせないように気を使う。気を使うとは言っても、わたしにとって実に都合の良いことに、二人とも仕事で朝は早く、帰りは遅い。朝は両親より遅く目覚め、夜は両親より早く眼を閉じてしまえばいいだけだ。
それでも、扉の向こうからあれこれと嫌味を言われたり、理不尽に文字通り叩き起されることもある。
癇癪と暴力と嫌味癖。この三項目が、わたしが世界でもっとも嫌悪すべき性質になったのは、半ば当たり前のことだった。
癇癪というものは自分の苛立ちを出力して憂さを晴らすという利己主義の塊のような行為だ。暴力はどんなに殴られ、痛めつけられても慣れるということはない。嫌味癖、これは思った以上に堪える。身体ではなく精神が悲鳴を上げる。何度も繰り返されれば価値観すらも塗り替えられてしまう。
身体的にも精神的にも健全に育まれてこなかったわたしは、どうしようもなく愚図で、間抜けで鈍い人間になってしまった。
彩花によって癒されなければ、わたしの傷はわたしを喰い殺していただろう。勝手に癒され、勝手に救われていた。彩花にはきっとわたしを癒そうだとか、救おうだとか、そういうのは全然なかったと思う。
だからわたしは勝手に助けられて、勝手に彩花を好きになった。
※
夢と現実の違いは何か?
覚めるのが夢で、覚めないで続いていくのが現実。
ならわたしたちがずっと見続けている覚めることのない悪夢は現実なのだろうか。毎夜のように同じ結末へ辿り着く悪夢は現実なのだろうか。現実はどこにあって、夢はどこにあるのだろう。
そんなことはきっと、誰にもわからない。
わたしは彩花の家に滞在することになった。
わたしに無関心な両親のことだ。厄介ものがいなくなったと思うくらいで何をする気にもならないだろう。学校が家に電話をかけたところで両親はいない。
携帯電話?
何度もかけられたら面倒だから、すぐに着信拒否設定にされるはずだ。結局、わたしが学校を長期にわたって休んだところで、誰も損をしないし、誰も困らない。
わたしは彩花の部屋にいる。何か途轍もなく大きな意思に乗り移られ、操られているようにモニタの前に座って単調に指を動かしている。睡眠以外の休息はいらなかった。色鮮やかに移り変わるモニタの画面を虚脱したように見つめ、指先で反応する。
タンタンタンとリズムを刻むように、ゲームセンタにあるような、スティックの着いたアーケードコントローラを弾く音だけが、殺風景な部屋のなかに響き渡る。異常だと思って嗚咽し続けたシンユウの部屋で、ゲームハードという異色な異物を認めていた。彩花を虜にさせたアーケードゲーム。
今はネットワーク対戦でマンションの一室にいながら世界中の誰とでも対戦が可能な時代だ。モニタの向こうにいるのはCPUではなく、生の人間だ。だからこそ彩花も格闘ゲームに酔いしれたのだろう。わたしにはあまり興味のわくものではなかったけれど、彩花を救うために必要不可欠な戦闘能力を獲得するには、彩花の熱狂したゲームがもっとも適しているように思えたのだ。
――エニグマフォース。
発売はおおよそ二年前、今も様々続く新展開などで根強い人気の残る対戦型格闘ゲームだ。2D格闘ゲームの決定版ともいわれるその完成度は他の作品とは一線を画すものがあるらしい。発売から二年を過ぎた今でもネットワーク対戦を募集すると5秒以内には誰かが対戦参加してくるという確かな支持を得ている。二年のあいだに、ニューキャラクタの参戦や、様々なバージョンアップが行われているという点も、人気を確立している所以なのだろう。
設定は仮想世界での格闘大会。ありがちと言えばありがちな設定だ。
それにしても2Dという元々バーチャルな世界でさらにバーチャルファイトをしているという巫山戯た設定はどうなのだろう。それと、なんで格闘ゲームのキャラクターはダメージを受けても動きが鈍らないんだろう。このキャラクターなんかナイフで刺されているのに。
『ゲームなのだから』で片付いてしまうようなどうでもいいことだった。
エニグマフォースの特徴は、彩花のような固定のハードユーザが多いというところにもあるが、眉目秀麗なキャラクタそのものの人気も強い。発売直後のアニメーション展開やノベルズ展開、様々なメディアを通してエニグマフォースが売り出されたこともキャラクタ人気が確立された所以なのだろう。いわゆるメディアミックスというものだ。
対戦型格闘ゲーム未経験だった多くのユーザにも一大ムーブメントを巻き起こした傑作らしい。
だからわたしも名前くらいは知っていた。
低俗で凡俗なものだと決めつけて、彩花から切り離そうとした。その試みは失敗に終わったけれど。
エニグマフォースが発売してからおおよそ二年。正確には七百五十一日。時間に換算すると一万八千二十四時間。
エニグマフォースの設定画面に表示された彩花の総プレイ時間は六千時間を超えていた。 一日八時間、毎日欠かさずエニグマフォースに興じていたということになる。
恐ろしい数字だった。
彩花はわたしと出会ってから毎日学校に来ていたし、放課後はわたしと一緒に下校もしていた。つまり――彩花はわたしと過ごした時間以外は、エニグマフォースの画面を見つめて生きてきたのだ。途方もなく完璧で、万能で、誰よりも何よりも優れていたはずの彩花の生活にはエニグマフォースという異物が狂った割合で混在していた。
ハードユーザどころの話ではなかった。
この総プレイ時間は――
――廃人のそれだった。
もうひとつ彩花とエニグマフォースについてわかったことがある。彩花は固定のキャラクタを愛用し、延々と使い続けていたということだ。
愛用キャラクタについてはシズルさんから。
総プレイ時間はログイン画面からわかった。
思春期の六千時間という途轍もない時間をひとつの、いや一人のキャラクタに注込んだのだ。
彩花の愛用キャラクタ――エニグマフォースのキャラクタのなかでも群を抜いて人気のあるキャラクタだった。
また彩花が壊れた。
多くの人と同じものを嗜好する。
彩花は特別なはずなのに。
他人と同じ価値観など持っていてはいけないのに。
彩花は普通で、ゲームに興じているだけの自堕落な人間で、ただ与えられた才能で全てをこなしてしまえるというだけのどうしようもなく――どうしようもない。
――違う!
彩花を己の手で貶めてしまう寸前のところで思考を止める。
壊れそうなほどつよく握り込んだアーケードコントローラのスティックから手を放す。
彩花は特別だ。
必死にそう思い込む。
彩花の精神性は他人とは違う。価値観も違う、善悪も全てなにもかも。
思い込もうとすればするほど、目の前のモニタに映しだされた格闘ゲームとの矛盾に心が、頭がいかれそうになる。
「このキャラクタ誰かに似ていると思わないかい?」
全く気が付かなかったけれど、彩花の部屋に入ってきていたシズルさんは彩花の愛用キャラクタを指差して言った。負の螺旋構造に入っていたわたしの思考はなんとか止まる。
わたしは注意してキャラクタなんてものを見ていなかったから、まじまじとキャラクタを見つめたのはこれがはじめてだった。
「アリサ……?」
似ているような似ていないような、そんな程度の小さな類似。
誰かに似てない? と聞かれればアリサを思いつくけれど、特段酷似しているというほどのものではない。でも、これは感じ方次第なのだろうか。
彩花の愛用キャラクタ、天使のように純白で穢れのない彼女。名前はソレイユ。清白なボディースーツに身を包む、黄金の色の長い髪をもつ天使。格闘ゲームにありがちな飛び道具技はなく、基本的には肉弾戦の近距離ファイタ。キレの鋭い上段蹴りが特徴といえば特徴的。
特徴といえば、純白の天使ソレイユには他のキャラクタとは異なった、なかなか風変わりで、王道的な、自分で言っていて意味がわからなくなるような設定がある。
純白の天使ソレイユの設定というよりは、エニグマフォースの特殊な設定といった方がいいだろう。
――宵闇の天使イルネス。
ソレイユと対極の暗黒の天使。その名の示すとおりソレイユの外見を漆黒に染めて、眼の下に真っ黒いトライバルのような民族的なタトゥを施してある。真っ黒いタトゥが病的なイメージを醸し出すためのクマなのか、本物の刺青なのかはインターネットで調べてみたけれど、どこにも載っていなかった。どうでもいいと言えば、どうでもいい。
イルネスなんて直接的な命名をされているのだから、きっと病気で不健康なのだろう。精神的にも病んでいそうだ。わたしやシズルさんのように。
イルネスの基本性能はソレイユと左程変わらない。風を切り裂く演出の上段蹴りが必殺技であるし、飛び道具はない。擦れた見方をしてしまえば手抜きの色違いキャラクタに見えなくもない。しかし、イルネスもソレイユに負けず劣らず人気があるのだ。
ソレイユとイルネスの関係について公式見解は出ておらず、双子だとか、善と悪の分身だとか、クローンだとか、はたまた同一存在だとか、「日本語で話して下さい」とお願いしてしまうような幼稚な推測が熱っぽく解説されていた。
シズルさんがわたしの隣に腰を下ろす。
「ぼくはイルネスを愛用していたんだよ。ソレイユを使うと彩花と自分を比べて劣等感を覚えてしまいそうだったから」
「わたしもおんなじです。彩花の愛用していたソレイユをわたしが動かすなんて許されないから。それに、彩花はわたしの太陽で光なんです、太陽に照らされないとわたしは光ることが出来ないんです。だから太陽である彩花をわたしの手で曇らすのは嫌なんです」
「彩花が太陽か。ぼくとは違う意味で卑屈なキャラクタの選び方だね」
「そうかも知れません。でも、わたしなりに合理的にキャラクタを選んだんです。格闘ゲームにはたくさんのキャラクタがいますよね? キャラクタそれぞれに個性があって強みがあって弱みがある」
「そうだね、いわばそれが格闘ゲームをやる前提条件なのかもしれない」
「そうなると極論して弱いキャラクタ、強いキャラクタというものが生まれてくる、そうですよね?」
「キャラクタの強さに差が生まれる。だからイルネスか」
「彩花のソレイユに確実に不利にならないキャラクタ。そう考えると、イルネスしかいなかったんです」
シズルさんは考え込むように、中指をこつんとこめかみに当てた。癖のようだ。
「あのさ、安直なことを言ってしまうかも知れないんだけど」
シズルさんの言おうとしていることに大体の予測がついた。
「あの白い人影は――ソレイユってことですよね?」
「ソレイユってことはつまり――」
わたしは嫌な思考をする。
ソレイユが彩花を殺している?
なんで?
あの夢は彩花の最期の記憶を永劫的に留めたもの?
なんで?
つまり?
彩花を殺すのは?
醜い思考が脳内を高速回転して、独占する。
「――美月アリサ」
シズルさんがはっきりと、しっかりと、今考え得る上でもっとも正解率の高い解答を口にした。とても手っ取り早くて、あまりに根拠に欠いて、証拠に欠いて、どこまでも妄言で、確証なんてどこにもない、夢のような推測だった。
アリサがどうして彩花を殺すの?
そもそも彩花とアリサなんて何も関係ないはずなのに。
どうして?
わたしは止まることなく考える。考えて考えて、それでも何も出てこない。
わたしが愚図だから?
馬鹿だから?
馬鹿の考え休むに似たりってこと?
「なんでアリサが彩花を殺すの?」
チカチカと鮮やかに光るモニタ。向かい合った純白のソレイユと宵闇のイルネス。わたしは画面のなかの二人を凝視しながら、おかしくなって暗転してしまいそうな意識をどうにか繋ぎとめていた。
※
一週間、わたしは彩花の部屋に籠りきることになった。
淡々とアーケードコントローラを弾きながら、覚醒し切りらない不明瞭な頭のなかに宵闇の天使イルネスの行動を叩きこんでいく。画面を見ていなくても行動が想像できるように。夢に出る、夢に出すことが出来るまでに。
わたしは極力動くことをやめた。自分がイルネスのように行動できると思いこまなければならなかったから。鋭い上段蹴りも、人を越えた運動性能も全てを自分自身の身体で体現可能なものだと思い込まなければならなかったから。
アリサを問い詰めに学校へ行くこともできた。
でもしなかった。
なぜなら、終わらない悪夢を終わらせることが、最優先事項だったから。
眠るたびにはじまる彩花の死――それを止められないわたし。彩花の死と無能なわたし、どうしようもない板挟みはわたしを苛んで、殺してしまいそうだったから。
わたしは死ぬわけにはいかなかった。彩花を助けるまでは。わたしの精神が如何に脆弱で脆いものでも、彩花を助けるまでは壊れるわけにはいかなかった。
でも、わたしの精神が悪夢に耐えていられる時間は多く見積もっても一ヶ月ほどだと思った。一ヶ月すら希望的観測に思えるほど、わたしの意思は薄弱で、毎夜の悪夢は絶望的だった。
一週間という、一ヶ月の四分の一ほどの月日ですら、精神は擦り切れる寸前だった。辛うじてわたしの精神を此の世に留めているのは、彩花を助けるという気概と、毎夜募って行く白い人影への殺意だった。
限界は恐ろしく早かった。もう耐えられない。
いっそわたしも死んでしまおうか。
首を吊ったり、包丁やナイフで手首を切り落とすくらいなら、何処でも何時でも可能だ。死への誘惑がわたしの傍には付き纏っていた。
4
辺りを見回す。周囲がどんな風につくられているか確認する。夢に落ちたときにわたしがはじめにすべき動作だ。
今夜もまた宵闇。鮮やかな色のなにひとつない、彩りのない世界。
目の前には桜並木の一本道が続いていた。夜桜というような美しいものではない。ライトアップのない花びらは暗黒色をしていた。暗黒色の花びらがはらはらと散ってわたしを包んでいる。
わたしは前を向く。歩いていかなくては夢は終わらない。昼間に歩いたらどんなに素敵だろうと思わせる、花びらの舞う砂利の敷き詰められた一本道をとぼとぼ歩く。
エニグマフォースをはじめる前、この夢にわたしが許されていた行動は見回す、前進のふたつだけだった。まるでゲームのようだ。単純行動しかできない。単純動作しか許されていない。
だけど、わたしにもできることが増えた。イメージする、想像する、妄想する。思い描いたとおりに身体を変化させる。まだ拙いイメージを身体に貼り付ける。イルネスのモーション、必殺の上段蹴りを投影する。毎夜の実験で行動の映写が可能なことは実験済み。 このチカラだけが彩花を救うことのできるたったひとつの道筋。たった一週間で培った、まだ拙いイメージ。拙くとも、今回の夢では必要なのだ。白い影にわたしのチカラが、この手段が有効か確かめるために。わたしの心を守るためにも。希望がなくては生きてはゆけない。
わたしは飛べる。夢のなかでは確かに飛べる。そう思った。だから挑むのだ。あの死を運ぶ白い影に。
桜並木を進んだ先に、白い影は佇んでいた。わたしを待っていたかのように、砂利道の真ん中に無表情で立っていた。宵闇のなかでも、流れる金色の髪ははっきりと輝いて其処にある。
ソレイユ。アリサ。さまざまな考えがわたしのなかに渦巻く。
しかし、何を考えても結局目の前の相手を殺さなければ前には進めない。後ろにも道はない。停滞だけはしていられない。
イメージする。確かな強さを、確かな形で。たった一週間で詰め込んだイメージがどこまで白い影に通用するのかはわからない。でも、わたしの精神は限界なのだ。何日も耐えられない。もう無抵抗のまま彩花を殺させない。
白い影に向かって走り出した。白い影との距離はおおよそ五メートル。宵闇の天使イルネスならこの程度の距離一瞬でつめる。
砂利を踏みしめる音が激しく唸る。今まで感じたことのない加速に頭がついていかない。動ける。やれる。いける。飛べる。
両脚は突風のように、わたしを白い影のもとへ運んだ。
でも一瞬だった。
できた、やれたと思った瞬間、身体は地面へと叩きつけられていた。
こちらの加速と合わせるように繰り出された白い影の上段蹴りは、いとも容易くわたしを地面へと押し付けた。
何が起こったのか理解する暇さえなかった。興奮と絶望がふたつとも一緒に訪れた。
白い影はわたしの顔面を細く長い足で踏みつけて、砂利になすりつける。夢なのに押し当てられた顔の皮膚が焼けるように痛い。起き上がろうと必死に身体をもがくが、顎に上段蹴りを合わせられた衝撃で全身が麻痺したように動かない。激しい衝撃だったけれど、意識ははっきりしていて、そのかわり痛みも鮮明に感じた。夢のなかで眠ることはできないのだ。
闘えない、わたしには。わたしは愚図だから。最初から無理だった。わたしが夢のなかだからって強くなれるわけがない。甘かった。だめだった。イメージだけで白い影に勝つなんて。
やっとのことで白い影の脚から解放される。わたしの顔は永遠に鏡が見られないくらいにぐちゃぐちゃだろう。傷が燃えるように熱くてかゆくてヒリヒリする。
白い影は光のない虚ろな瞳でこちらを見つめていた。わたしは何とか立ちあがる。
「なんでこんなことするの!」
白い影は応えない。
「彩花に何の恨みがあるの! わたしに何の恨みがあるの!」
それでも白い影は応えない。
「もうやめてよ。殺さないでよ……」
わたしは俯いた。俯いて、嘆願した。惨めにも、殺すべき相手の前でむせび泣きをしながら。
「なんで。彩花がなにをしたの? あなたが嫌がることをした? 違う! あなたのこと好きだったはずなのに」
彩花は好きだったはずだ。純白の天使ソレイユを。ゲームに何時間も時間を費やすほどに愛していたはずだ。なんでそんなキャラクタに殺されなくてはならないのだろう。
「もうやめてよ……」
俯いていたわたしの頬に傷よりも熱い何かがあたった。それは頬をたらたらとつたっていった。わたしは震える。何度体験しても慣れることのない恐怖と喪失感にガタガタと震える。
もういやだ。
やだ。
こんなのおかしい。
見たくない。
限りなくゆっくりと目線を上げていく。
わずかずつ上がっていく目線に光景が映し出されていく。ひらひらと揺れる桜の花びらに色がついていた。本来の薄淡いサクラ色を染め直したような、似ても似つかないあかね色。
こんなのない。
絶対違う。
白いボディースーツを真紅に染め上げた金色夜叉の姿が其処にはあった。
白い影の右腕は制服姿の彩花の心臓を貫通していた。とめどなく流れる血の色に全てが濡れていく。
無駄なのかもしれない。
彩花を助けようとすることは。
彩花が、わたしが――なにをしたのだろう。なんの贖罪なのだろう。わたしはこの嫌な光景が早く終わって欲しくて、紅く染まる世界から眼を背けた。
※
わたしは消耗していた。一週間、七日、百六十八時間、たったそれだけの時間を孤独に過ごしていただけで。誰とも関わらず、誰とも言葉を交わさず、食事を運んで来てくれていたシズルさんの言葉も聞かず、ただディスプレイ上で跳ね回るイルネスの動作に没頭していた。
重ねて毎夜の悪夢。神経はぎりぎりまで削られて、食事をする気力さえ失っていた。彩花の部屋にいることになってから、シズルさんの持ってきてくれる食事も残してしまいがちだったが、一週間でさらに顕著になっていった。『手をつけない』から『手をつけられない』になっていったのだ。
夢から覚めた朝、久し振りに外へ出た。学校へ行こうと思った。誰かを見て、誰かと会話をしなければ壊れてしまう。
学校へ行くのには汚れていない代えの制服が必要だ。だから一度家に戻る決心をした。間が悪く、平日だというのに、その日は父親が家にいた。
おそるおそる玄関の扉を開ける。わたしの気配に気付いたのか、父親はすぐに現れた。現れて、すぐにわたしを殴った。何発叩かれ殴られたかは覚えていない。
「この馬鹿がっ! どれだけ俺に迷惑をかければ気が済むんだ! 貴様のような愚図が俺に迷惑をかけるな」
父親は恐ろしい形相でわたしを睨みつけて罵倒した。馬鹿、愚図、不細工。言われるのは馴れている。痛いのにも馴れている。そういうつもりだった。
でも痛い、身体が痛い、心が痛い。がたがたと上の歯と下の歯が小刻みに震えて噛み合わない。
馴れている?
我慢できる?
暴力も罵倒もそんなに甘いものじゃない。どちらも身体に心にズキズキと響いてくる。もうやだ。
一通り父親の折檻が終わる。部屋に行って新しい制服を持つと、逃げるように外へ出た。事実逃げ出したのだ。
顔を何発も殴られたから、数日は腫れが引かなくてまた学校に行けないだろう。アリサにはまた何も訊くことができない。
わたしはまた彩花の家に戻った。勝手に出て、勝手に戻る。随分と図々しくなったものだと思う。
昼のことだ。彩花の家をアリサが訪ねてきた。なぜアリサが彩花の家を知っているのだろう。どうでもいい疑問が浮かんだけれど、わたしはアリサを家に入れることにした。シズルさんはまだ学校にいるのでいなかった。アリサは早退してここへ来たのだ。
マンションの扉を開けて、アリサを招き入れる。
「どうしたの、その顔?」
アリサはわたしの顔を見て言った。余程驚いたのか、手に持っていた鞄が地面へと落ちて音を立てる。
「転んだの」
「嘘! あの男にやられたの?」
「それはちがう」
アリサはわたしがシズルさんに攻撃されたと思い込んでいるようだった。
「じゃあ誰に?」
「転んだの。転んで階段から落ちたの」
わたしは突っぱねた。アリサは納得していなかったけれど、とりあえずは黙ってくれた。
「もうやめなよ。これはトモダチとしての忠告だよ」
トモダチ、アリサはそう言ったけれど、わたしたちはトモダチだったのだろうか。わたしとアリサはいつも対等じゃなかった。アリサがいつも助ける側で、わたしはいつも助けられる側。お節介やきの綺麗な女の子。わたしのアリサへの認識は小さい頃からずっと変わらない。今でも。
「わたしたちってトモダチなの?」
アリサは質問の意図が組み取れなかったのか少し黙った。
「トモダチだよ。ずっと前から」
トモダチなんだ。
「トモダチなんだ……」
わたしは心のなかで思ったことを口に出していた。
「綺麗な顔が台無しだよ。こんなに青あざをつくって。誰にやられたかは言わなくていいよ。きっと理由があるんでしょ、でも手当だけはさせて」
どこから見つけたのか、アリサは救急箱を持ってくる。「大体こういうところにあるんだよね」と得意気に笑いながらアリサは救急箱から湿布をとりだした。
ひんやりとしたアリサの指が打撲傷で熱くなった頬に心地よかった。
「眼の下のクマもひどいよ。寝てないの? 寝てないよね。それに髪もぼさぼさだし、最後にお風呂に入ったのいつ? 見るからにやつれてるし、私なにか作る? 作るね」
アリサは矢継ぎ早にいくつも質問をして、それに自分で答えて、たくさんのことをしてくれた。
彩花の家の大きなお風呂に入って自分の顔をみた。夢のなかでぐちゃぐちゃにされたほどはひどくはなかったけれど、わたしの顔は不細工に青紫色に盛り上がっていた。アリサが貼ってくれた湿布はお風呂に入るために当然はがした。アリサが謝りながらはがしてくれた。
アリサにはそういうところがあるのだ。物事の順番が見えていないというか、目の前で起きていることに熱心になれるというか、そんな良いところがあるのだ。
わたしの顔の造りは不細工だ。アリサが言ってくれたような綺麗な顔じゃない。だってそう言われ続けてきたから。愚図で馬鹿で不細工、そういう人から生まれて、そういう人に育てられて、そう言われ続けてきたから。だからわたしに誇れるものはない。
お風呂から上がると、肩甲骨くらいまであるわたしの艶のない髪をアリサはドライヤーで丁寧に乾かしてくれた。とても気持ち良かった。誰かに何かをしてもらえる、ということはとても素敵なことだ。
「千沙の髪って綺麗だね」
嫌みのない笑みと声でアリサは言った。
「綺麗じゃないよ」
「そんなことない、黒くて艶があって黒真珠みたいに透き通ってる」
アリサの柔らかい手触りと、温かい声に泣き出しそうになってしまう。全部打ち明けて、彩花の夢のことも全部話して、この辛い思いを共有して欲しいと思ってしまう。
でもいけない。
だってわたしと彩花はたった二人だけのシンユウなのだから。アリサがトモダチだとわたしに言ってくれても、トモダチとシンユウでは優先順位が違う。たったふたり、彩花とわたし。それ以外の異物はこの世界に不必要なものなのだ。
「どうしたの?」
心配そうにアリサはわたしの顔を覗き込んで、ドライヤーの心地よい温風を止めた。
「どうもしてないよ」
わたしは努めて笑った。頬の筋肉を動かすと青あざが軽く痛んだ。
「髪は終わったから、次はまた湿布貼るね」
お風呂に入る前よりもアリサは器用に湿布を切って、わたしの頬に貼ってくれた。湿布のあの独特のにおいがした。打撲に効く成分がこのにおいを発しているらしいので文句はいえない。どんな成分だったのかは忘れてしまったけれど。
「ねえアリサ――」
わたし自身唐突だと思った。何の脈絡もなかった。けれど、やっぱりトモダチよりはシンユウで、アリサよりは彩花で。わたしはアリサに思っていること言わないわけにはいかなかった。
「――彩花が死んじゃったことについてなにか知ってる?」
空気は凍りつき、吐く息は温かみを失った。そんな静寂がわたしたちのあいだにぽたりと落ちる。そう思ったのはわたしだけだろうか。
「なにかって何?」
嘘吐きは質問を質問で返す、なんていう話をどこかで聞いたことがあった。
「彩花はどうして死んじゃったの?」
わたしは彩花のお葬式のときと同じ問いをアリサへと投げかけた。
「わからないよ、きっと誰にも彩花さんの気持ちはわからない」
アリサはわたしの方とは違う虚空を見つめながら言った。わたしに配慮してくれたのか、彩花をコンドウさんとは呼ばなかった。
「そうなの……かな」
「そうだよ。彩花さんのお兄さんにも同じことを訊かれたけど、わたしには彼女がなぜ死んでしまったのか、さっぱりわからない。本当に、心から、彼女は理解できない」
どことなくアリサは怯えているように見えた。人間は理解できないものを恐れるらしい。だったら、アリサにとって彩花は怯えるべき存在なのかも知れない。万能の才を持って、他人とは異なる特異な価値観を持っていて、そこにいるだけで他人にイノベーションを与えずにはいられなかった一人の女の子。わたしのシンユウ、宵風彩花。
格闘ゲームをしていようが、彩花がどんなことに時間を費やそうが変わらない。彩花は他人とは違う。特別な存在。
そんな彼女がわたしのシンユウだった。
アリサは救急箱を元あった場所に仕舞い終わると、わたしに断りを入れてから彩花の家を出ていった。「送って行く」とわたしも立ちあがろうとしたけれど、アリサの住む家は彩花の住むマンションから近いらしく断られてしまった。
小さな頃、何度か遊びに行かせてもらったことのあるアリサの家。その場所を思い出して、そうだったと納得した。
わたしだけになったマンションの一室は伽藍として、せつなかった。わたしはまたゲームハードの電源を入れて、エニグマフォースをはじめた。
アリサと純白の天使ソレイユは確かに似ているかもしれない。でもだからなんだというのだ。そんなのまったく関係ない。
※
顔の腫れが引いてから、わたしはおおよそ二週間ぶりに、家の外へと足を踏み出した。冷え込むけれど、太陽の光は優しく温かい、そんな日だった。
彩花の住んでいるマンションから出てすぐの『彩花の死んでしまった歩道橋』へと向かった。今日は平日で、普通なら放課後にあたる時間だけれど、わたしは学校へ登校する気もなかったので、ふらふらと歩道橋へやってきた。
はじめて訪れた彩花の死んだ場所は、あまりにも日常的なところだった。車通りが多くて、歩道橋が建てられているのにも納得のいくそんな通り。空気が悪くて汚らしいそんな場所。
とおりゃんせとおりゃんせ、なんていうありふれた音楽も聴こえてこない。
わたしは歩道橋の中央に立つ。なんでこんなに平凡なところで彩花は死んだのだろう。
「千沙?」
急にわたしの名前が呼ばれた。
わたしと同じ制服、わたしとは違う綺麗な面立ち。
「彩花っ?」
視界の端に彩花を見つけたような気がした。
もちろん彩花の姿はどこにもなかった。わたしを呼んだ声は、空耳か彩花を想うあまりに聴こえてしまった幻聴なのだろうか。
かたかたと、歩道橋を駆け上がってくる足音が聴こえた。
紛れもない人間の靴音、人間の足音。
わたしは歩道橋の中央から、階段を上がってくる人物が現れるのをじっと待った。わたしは眼球さえ固定したまま、その場で固まっていた。
「やっぱり……」
綺麗でモデルのように小さな顔があらわれて、呆けたような声がわたしへと届く。
「――千沙ここ?」
アリサはわたしがなぜこの歩道橋にいたのか、すぐに思い至ったようだった。
「そう。彩花がいなくなったところ」
歩道橋の下を走る自動車が発する騒音が聴こえた。彩花には似合わない汚い音だった。
アリサはわたしへと駆け寄って、わたしの肩をしっかりと掴まえた。肩に触れるアリサの手のひらは制服の上からでもわかるくらい冷たかった。
「痛い……」
わたしがそう言うと、アリサは肩からすっと手を放してくれた。
「私ね、家がこの近くなの、千沙も来たことあるよね――」
わたしはこくりと頷く。
「――それでね、通学にはいつもこの歩道橋を使ってた。でも、彩花さんがここで死んでからは一度も使えなかった。当たり前だよね、だってクラスメイトだよ。他人じゃないんだよ」
アリサは独白のように、わたしに言った。
「わたしは彩花がまだこの歩道橋にいるような気がするの。なんでって訊かれてもわからないけど、なんとなく。背の違う灰色のビルと忙しそうに走る車しか見えないような、汚い景色のなかで誰かを待っている気がするの」
「……彩花さんはもういないよ」
「ううん、いるの。この歩道橋に来たときすぐに感じた。彩花はここにいて、何かを待っているんだって。助けて欲しがってるんだって」
わたしは嬉々として喋った。わたしが喋る度にアリサの表情は沈んでいったけれど、それはあまり重要な問題ではない気がした。
「彩花さんのことがそんなに好き?」
アリサはわたしの方を見なかった。わたしにはアリサの言った言葉の意図がわからなかった。だってわたしが彩花を好きなのは当たり前のことで、わたしたちはシンユウだったのだから。
わたしは黙っていた。アリサがどうしてそんなことを訊いたのかわからなかったから。わたしが彩花を想う気持ちを口に出してしまったら、何か大切なものが零れていくように思えたから。
アリサはわたしの手をおもむろに握った。アリサの冷えた手のひらが柔らかくわたしの手を包んだ。わたしたちは互いの体温を手のひらで遣り取りしているようだった。
「千沙の手は暖かいよ、血が通ってる、生きてるんだよ。私怖いの、歩道橋の下から千沙を見たときね、千沙は今にも歩道橋から飛び降りてしまいそうだったから」
「そんなことしないよ」
唇を小さく動かして弱弱しく否定した。
「近藤静流さん、彩花さんのお兄さんも怖かった。私を問い詰めるように、彩花さんのことを訊いてきた。でも、問い詰められることよりも、あの人が彩花さんのあとを追って死んでしまう未来が容易に想像できるのが怖かった」
「シズルさんも死なないよ」
アリサの身体は小刻みに震えていた。唇も紫色に変色して、呼吸も荒くなっていた。握り込んだ手のひ平から感じる体温も今まで以上に冷たい。
「彩花さんのお兄さんだけじゃない! その何百倍も千沙が死んじゃうのが怖いの。彩花さんが千沙を連れて行ってしまうんじゃないかって。千沙も近藤静流さんも同じ、明日にはこの世界からいなくなっているんじゃないかって、そう思っちゃうの」
わたしはアリサの身体を抱きしめた。わたしがアリサを助けてあげたのは初めてかもしれない。はじめて会った小学生の頃から、事あるごとにわたしはアリサに助けられてきた。
何回今とは逆の立場で抱きしめてもらっただろう。愚図馬鹿不細工そんな取り柄のないわたしを、嫌な顔ひとつしないで助けてくれた。アリサは誰にでも優しい、誰にでも好かれる。彩花と出会うまではアリサがわたしの理想だった。
「わたしは死なないよ」
※
アリサと別れ彩花の家に帰ると、学校からシズルさんが戻っていた。シズルさんは毎夜の夢で神経を衰弱させながらも学校には通っていた。シズルさんの顔色を見れば、神経衰弱は誰にでもわかる。
ノートパソコンを目の前にして、シズルさんは抜け殻のように虚脱しながらソファーに座っていた。
シズルさんは彩花のことを『最愛の人』と呼んでいた。最愛の人が殺される夢を延々と見せられているのだ。精神状態が安定している方がおかしい。
「彩花のことについてなにかわかりましたか?」
わたしから声をかけた。シズルさんの瞳は虚ろで、わたしを捉えていなかったから。声に気付いた様子で、シズルさんはこちらを向いた。
「ああ、千沙ちゃんいたんだ」
シズルさんは虚ろに笑った。
どんなときにでも笑顔を作れる人だ。その笑顔がもっと痛々しいのだけれど。
「ちょっとこれを見てくれないか?」
シズルさんは手元にあったノートパソコンの画面を、わたしが見えるように移動した。
画面にはエニグマフォースのネットワーク対戦動画が表示されていた。平面に向かい合うのは純白の天使ソレイユと宵闇の天使イルネス。
エニグマフォースをプレイし始めてわかったことがある。2D格闘ゲームは理詰めの読み合いに終始する。相手の行動に対して、自分のキャラクタの行える最善のコマンドを入力することが勝利への道である。格闘ゲームには『判定』というものがあり、両者が同時にコマンドをしたとしても判定の強いコマンドを入力した方が相手にダメージを与えられる。 研究が進むと最善の行動というものは自ずと絞られていくもので、相手キャラクタの攻撃に対して延々とこちらの有利なコマンドを繰り返していけば、理論上は百パーセントの確率で勝利できるわけである。
勿論、理論上は理論上、相手の攻撃に対して有利なコマンドを繰り返すというのも、相手キャラクターの動きが全て読み切れてこその神業であるし、絶対にミスをしないという前提に成り立っているもので、つまり机上の空論、卓上理論だ――みたいな話をシズルさんに聞いて、エニグマフォースをプレイするうちになんとなくだけれどわかってきた。
ノートパソコンの画面へと目を落とす。
シズルさんが再生ボタンをクリックし、動画がはじまる。
ソレイユとイルネスが間合いを計るように小刻みに移動する。格闘ゲームにも間合いは当然存在する。紛いなりにも格闘の名を冠しているのだから当たり前と言えば当たり前。
自分の攻撃の当たる間合い、相手の攻撃を避けられる間合い。一般的に『立ち回り』と呼ばれる間合い取りは格闘ゲームをする上でもっとも重要なテクニックのひとつだ。というよりも、間合い取りなんていうものは剣道、柔道、ボクシング、おおよそ格闘技全般に共通する基本であり、奥義足り得る技術でもある。これもシズルさんの受け売りで、シズルさんも格闘ゲームが好きだったらしく、わたしに色々と教えてくれた。
画面のなかの二人が動きを見せる。
先に動いたのはイルネス、漆黒の闇を纏ったスタイリッシュな肢体が躍動する。鎌のような鋭い前蹴りの牽制から一気にソレイユの懐へと潜り込む。黒い旋風が顎を狙って穿つ掌低打ちを、ソレイユが紙一重で避ける。確実に決まるタイミングで放たれた掌低打ちを超反応で避けたソレイユの身体は弧を描く要領で反転し、間合いを広げる。
次に間合いを詰めにいったのは、ソレイユだった。一瞬――たった一瞬、間合い取りで勝った瞬間だった。ソレイユの純白に包まれた流線形のラインが駆動する。黄金の髪が揺れ、金色の疾風がイルネスへと迫る。イルネスの身体を持ちあげる蹴り上げからの連続攻撃。蹴り上げ、掌低打ちが流れるように決まり、それでも純白の天使の追撃は止まらない。蹴り上げ、掌低で二段に打ちあげたイルネスの身体を目掛けて繰り出すのは――。
ごくりと息をのむ。
わたしはいくつかのネットワーク対戦動画を見た。ゲームアカウント『SAVANT』、どうやらシズルさんがわたしに見せたかったのはこのプレイヤーらしい。
わたしの知っているエニグマフォースではない何かがノートパソコンの画面上で行われていた。それは勿論、わたしのプレイしたエニグマフォースとなにひとつ変わりはないのだけれど、別のゲームだと思ってしまうほどにSAVANTの操るソレイユの動きは洗練されていて隙がなかった。別ゲームと見紛うほどにゲームアカウント『SAVANT』は圧倒的だった。素人が見てもわかるほどの反応速度と対応力、何よりもわたしを惹き付けたのはSAVANTの変幻自在の立ち回りだった。ときに攻め、ときに受ける、格闘ゲームという限定された舞台の上で行われているとは到底思えない何通りもの戦法をSAVANTは行った。
SAVANTの操るソレイユは踊っているようだった。感覚と感性でもっとも対戦相手を倒すにふさわしい戦法を選択し、勝利する。感覚で対戦しているようでいて、恐ろしく合理的な闘い方。
「この動画は?」
見入っていたわたしは、このときはじめて声を出した。
「SAVANT。ネットワーク上にしか姿を現さない最強のプレイヤ、エニグマフォースの発売から何度も行われている公式大会に一度も参加せず、参加の招待も徹底無視。幻の最強プレイヤの対戦動画だよ」
わたしの頭の回転はどこまでも遅くて、シズルさんの言わんとしていることが掴めずにいた。
SAVANT、サヴァン、フランス語で賢人。確かにSAVANTの操るソレイユは他のプレイヤーと一線を画すほどの天才的な強さを持っていた。だけれども、サヴァン症候群という言葉があるくらいに賢人は欠陥を併せ持つ。そんなことを何かの小説で読んだことがある。
いいや、とわたしは頭を振りはらう。SAVANTという命名も戯れにつけたのかも知れない。これは所詮ゲームなんだから。
「SAVANTは恐らく彩花だよ」
シズルさんの言葉に、わたしの頭の歯車がかっちりと音を立てて符合する。
彩花ならあり得ないことじゃない。彩花の持つ万能の才能は格闘ゲームという娯楽でさえ例外なく発揮されていた。何事にも関心を示さず、何事も努力をせずに結果を出してきた彩花が、唯一自分の時間を割いて繰り返した格闘ゲーム。それが非凡でないはずがない。
彩花のアカウントはパスワードロックが掛っていて入ることができなかった。プレイ時間はわかっても対戦履歴を見ることも、どんなアカウント名でエニグマフォースをプレイしていたのかもわからなかった。
だからSAVANTが本当に彩花なのかはわからない。だけど、わたしたちはSAVANTが彩花であることに何の疑いも持たなかった。
「こんな化け物に勝てるわけない……」
夢のなかの白い人影よりも、なお化け物と形容してしっくりくる実力。SAVANTの操るソレイユはまさに化け物だった。強いんじゃない、強過ぎる。
「化け物だよ、本当に。まるで三秒先の画面が見えているように相手の動きを捕捉して自分の攻撃に移す。こんなやつを殺すなんて可能なのかな……、例えば夢の白い人影が彩花のソレイユだとしたら――」
平然と言っていたけれど、絶望により色の濃い絶望を塗り込んだかたちになったことは、シズルさんにもわかっているはずだ。
「――友奈千沙はソレイユを殺せる?」
それはどういう意味?
彩花の分身のようなキャラクターを殺せるかということ?
それとも圧倒的に強いSAVANTのソレイユを倒せるかということ?
どちらにせよわたしには無理かもしれない。彩花を救うために彩花の分身を殺すことも、想像すらできない強さをもった彩花のソレイユを殺すことも。
殺す殺す殺す殺す殺す。
最近はそればっかりを考えている。心の奥に物騒な考えが芽生えて離れない。
「わたしなら殺せる」
どこからくるのかわからない根拠のない自信。その言葉にもっとも驚いたのはわたし自身だった。愚図で馬鹿で不細工で無力で無能、そんなわたしがなんで『わたしなら』なんて大それたことを言えるのだろう。
ちがう。
――わたしならじゃない、わたしにしかできない。
わたしは一体どうしたというのだろう。
もうやめたい。何も考えたくない。
久し振りに外出したせいかもう眠い、でも眠ってしまったらまた嫌な夢を見る。今日も彩花は殺されて、わたしは無力に目を覚ます。
5
『自分にしかできないこと』なんていうものは大抵の場合存在しない。自分のできることは、きっと顔すら知らないたくさんの誰かにもできることなのだ。他の人ができることなら、なぜ自分がやらなければならないのだろう、そう思ったことがある。
やりたくないこと、やりたいこと。例えば掃除、すすんでやりたい人がいるだろうか。きっといるだろう。綺麗好きだったり、もしかしたら部屋を掃除することに性的快感を覚える人もいるかもしれない。
でもわたしはできれば掃除をしたくない。綺麗好きじゃないし、性的興奮なんて一ミリも呼び起こされない。掃除は誰にでもできることなのだから他の人にやってほしい。わたしはわたしにしかできないことをするから。
だけれども、わたしにしかできないことってなんだろう。
そんなものあるのだろうか。
わたしが生きるなかで『わたしにしかできないこと』なんていうものは現れることはないだろう。
わたしは百メートルを十秒では走れないし、それどころか二十秒以上かかってしまう。百メートルを二十秒以内で走ることは中学生でさえできる。それほどわたしは鈍い。普通の人ならできることもできない。
永遠に永久にわたしは誰にでもできることだけをやっていくつもりだった。わたしに自信という感情が芽生えるまでは、少なくとも本当にそうやって生きていくつもりでいた。
――友奈千沙にしかできない。
モニタの隣りにあるスピーカからエニグマフォースの派手なゲーム音声が流れ出て、五月蠅く反響する部屋のなかで、わたしはわたしにしかできないことをやっていた。
彩花の操る純白の天使ソレイユの対戦動画を見た日から、わたしのイルネスの動きは見違えるほどの変化を見せた。まるで彩花がわたしに乗り移ったかのようだった。わたしの指は精密機械のように正確にコマンドを刻むようになり、モニタに向かうと異常なほどに脳内が冴え渡った。反射的に浮かぶ選択肢、反射的に動く指、人格とは切り離されたところで全てが冴え渡った。
※
わたしが彩花の部屋から一歩も出ずに、エニグマフォースを延々と続けていたときのことである。マンションの十一階、わたしの居候している彩花の家に誰かが入ってくる気配がした。最初――わたしはシズルさんが帰って来たのだと当たり前に思った。下校してくるにしてはやや早い時間帯だったけれど、この家に戻る人間は、今はただ一人、シズルさんしかいないのだから選択肢なんて他になかった。
だから、わたしは手も脳も五感すべてを休めずに、思い通りに動く宵闇の天使だけを見ていた。
足音はひたひたとこちらに近づいてくる。それでもわたしは何を思うでもなくアーケードコントローラを弾いているだけだった。
「いるのか?」
わたしが冷や汗を流したのは、その聞き覚えのない声を聴いたときだった。シズルさんしかいるはずのない場所で、知らない人間の声がした。
誰だろう、マンションは電子カードロックのはずだ。彩花のカードはわたしが持っていて、誰も入って来られないはずなのに。
一枚扉を隔てた向こうには明らかに誰かがいた。
「いません」そう言えたらどんなに楽だろう。
わたしはこのときやっと、リズムを刻むようにコントローラを弾いていた手を止めた。
彩花の親戚?
もしかして両親?
ここでそんな人たちと会うのはあまりにも気不味い気がした。気不味い――久しく忘れていた恐ろしく現実的で平凡な思考。
音を立てて扉がひらく。
ゆっくりと開いていく扉を、わたしはただ茫然と見つめていた。
扉をあけて現れたのは品の良さそうな背の高い男性だった。わたしとそう年齢が変わらない、そう思わせるくらいに若く見える男の人だった。上等そうなダークスーツに、趣味の良い鮮やかな青色のネクタイをしていた。
「あっ、あのわたし」
なにを説明すればいいのかわからずに混乱してしまう。わたしを客観視したならば、図々しく他人の家でゲームをするただの不細工な女の子だ。
男の人は考え込むような仕草をしてから、ひとり頷いた。
「お前が彩花か?」
なにをいっているのだろう。
わたしが彩花であるはずがない。
「違う……です」
あまりの不意打ちに日本語がおかしくなる。
「彩花でないなら、お前は誰なんだ? ここには静流と彩花しかいないはずなんだがな。静流は男だ、彩花でないならお前はなんだ」
糾弾するような口調だった。少なくともわたしにはそう聴こえた。
「わたしは友奈千沙……です」
それだけ言った。
「馬鹿かお前は? おれがお前の名前だけ聞いて何がわかる。それともなにか? 調べろとでも、不法侵入者の素性を調査するために探偵を雇えとでも」
「わたしは彩花のシンユウです」
男の巫山戯た態度に耐えかねてわたしは言った。
「シンユウ? なんだそれは。そんなものは知らないな。それに彩花は一週間前に死んだのだろう。シンユウだろうがここにいていい理由にはならないと思うがね」
男の言っていることは、確かに筋が通っているように思えたけれど、何か釈然としないものを感じて、わたしは彩花の部屋を動くことはしなかった。それに彩花の死を知っているのなら、わたしに「お前が彩花か?」なんて訊く必要はなかったはずだ。
「あなたこそ誰なんですか!」
「なんでお前にそんなことを教えなければいけない?」
「わたしはこの家の人間に了解をとってここにいる」
わたしは目の前の不遜な男に、やっとのことで一矢報いたように感じた。こいつが口を開くまでのとても短いあいだけだ。
「了解? そんなことおれは知らないな。ああ、なにか。お前は静流の愛人か?」
勘違いも甚だしかった。
「違いますっ」
腹が立った。わたしも目の前の男の人もどちらも不法侵入者のようなものなのに、どうしてわたしはおどおどして、こいつは堂々としているのだろう。
「違う? 違うのならお前は出ていけよ。ここにいて良い理由がないだろう」
「なんなんですか。わたしはこの家の人に了解をとってここにいるって言ってるじゃないですか」
「だから俺は知らんのだ。お前のことなど微塵も」
何か会話が咬み合っていないような気がするけれど、わたしがここにいるのはシズルさんの許しを得ているからで、誰にも恥じることなんてないのだ。いやいや、それは居候なのだから誰かに恥じ入ることもあるのかも知れないけれど、その相手は目の前のこいつじゃない。
「埒が明かないな、時間の浪費だ」
同感です。
男はつかつかと歩き、彩花の部屋に侵入してきた。わたしは身構えて立ち上がる。
わたしとの距離を少しずつ詰めてくる男にわたしは後退る。
冗談のような雰囲気なのに、恐怖がぽつりぽつりと堆積してきた。
彩花の部屋が広いとは言っても、無限に辺が続いているなんてことはないわけで、わたしはすぐに壁を背にして追い詰められた。
男はわたしのすぐ前に立ってから、わたしをじろじろと、上から下まで品定めするように見た。
「面はマシな部類か、だがいたずらに細過ぎる。なんでお前らのような年代の女はこうも細いかね。まあ、俺だって太いより細い方が良いとは思うが、行き過ぎなんだよ」
「どいてください」
男はわたしを逃がさないように、わたしの背にした壁に右手をついて、またじろじろとわたしを見た。
この男の顔は綺麗だ。シズルさんとは違った意味で。勿論彩花とも違う。
だから見つめられると参るのだ。
自分の意思とは関係なく顔が紅潮してしまう。
「彩花の代わり――にはなりそうにないな。いまのところ、だが」
彩花の代わり、何を言っているのかわからない。
あなたは彩花のなんなんですか。
そう訊こうとしたとき、家の扉が開く音がした。今度こそシズルさんだ、そう思った。
慌てて帰って来たのか扉を開ける音は荒かった。
「やっと戻って来たか」
男はするりとわたしから離れた。
「……父さん」
急いで現れたシズルさんの驚きに満ちた声。
トオサン、倒産、父さん?
わたしのなかで変換がすすんだ。
こんなやつが彩花と静流さんの親なのだろうか、傲岸不遜で理不尽なこの男が。
「久し振りだな静流、彩花が死んだそうだが変わりないか?」
彩花が死んだそうだが変わりはないか。
なにそれ。意味がわからない。
「変わらないわけないでしょう、彩花がいなくなったんですよ。それがぼくにどれだけ影響を与えるか、きっとあなたにはわからないでしょうけど、『変わりないか』なんて言葉が出てくるなんてどうかしてますよ」
シズルさんは努めて冷静に言葉を発しているようだった。しかし、シズルさんに父さんと呼ばれたこの男は軽くシズルさんを嘲笑った。
「ほらな、変わっていないじゃないか。彩花がいなくなった今も、お前は彩花に焦がれている。お前は面白いほどにジレンマを抱えて、一人相撲をして勝手に苦しんでいる。だからおれはお前が気に入っている」
「うるさい」
「反対に彩花はつまらなかったな、あれほど面白味に欠けるやつも珍しい。あんな女の何処が良い、顔か? 面だけは良かった気もするな、もう忘れたが」
わたしは茫然と立っていることしかできなかった。この奇妙な親子の会話にわたしが入り込める隙間なんてなかった。
「うるさい」
シズルさんのぞっとするような低い声。それでも、男は意に介す様子もなく言葉を続けた。
「なんでもできる代わりに何もしない。なんでもできるくせに何もしない。無関心、無感動、彩花はそういう下らないやつだったな。どこへ出しても恥ずかしくないクズだった」
シズルさんがこの男を殴るかと思った。しかし、怒りを堪えるように震えるシズルさんは俯いて、それ以上なにも言い返さなかったし、何もしなかった。
シズルさんのことなどお構いなしに、男はだるそうにわたしを指差して話を変えた。
「ところで、この女は何だ?」
この男がシズルさんの父親だとわかった今も、わたしはこの嫌な男に丁寧に挨拶をしようとは思えなかった。
「彩花のトモダチですよ、たった一人のね」
「トモダチ? あんなやつにもトモダチがいたのか」
わたしが言ったはずのことを、シズルさんに言われてはじめて理解したようだった。というよりも、この男はわたしの話しをまったく聞いていなかったのだと思う。きっと興味がないのだ、わたしに。
男はくくっ、と忍ぶようにして笑った。
「おいお前、狭いところだが好きなだけここにいるといい。静流は好きな女と二人で暮らしていても手を出さなかったほどの安全なやつだ。安全過ぎる変態だ、だから何も心配することはない」
それだけ言い残して、シズルさんの父親は名前すら言わずに家を出ていった。
なにをしたかったのだろう。
ほんとに。
※
無駄に存在感のあったシズルさんの父親がいなくなった部屋は、がらんとしたように静まり返っていた。
「なんだったんですか、あれ?」
「ああ、あいつがぼくらの父親さ、名前は近藤瑠璃。知っているかもしれないけど、血は繋がってない。養子なんだ、ぼくも彩花も」
わたしは現実に養子なんてものが存在していることをはじめて知った。知識としては知っていたけれど、これまで出会ったことがなかった。
いや、出会っていたけれど知らなかったのだ。教えてもらえなかった。彩花はわたしに自分の身の上のことを何も話してくれなかった。彩花はあまり自分のことを話したがらなかった。
「おおかた、彩花がいなくなっておかしくなっているだろうぼくのことでも見物しにきたんだろうね。他人の葛藤やら苦悩やらを見るのが生き甲斐みたいなやつだから」
なんだか理解し難かった。養子をとってまで、他人の葛藤を見物したいのだろうか。
「彩花がいなくなってもあの人は何も思わないんですね」
「思わないだろうね。ぼくらはあいつの玩具みたいなものだから。あいつにとっては替えが利くんだ、いくらでも」
現実感のない話にわたしは戸惑ったが、そういうこともあるのだろう、と納得することにした。わたしが納得しようがしまいが、あの男とシズルさんの関係はそこにあるのだ。わたしが無駄に悩むことなんてない。
「あの人は彩花のことが嫌いなんですね」
「嫌い? どうなんだろうね、確かに望んで会いに来るってことはしなかったけど、嫌いというよりは無関心――だったのかな」
嫌いの反対は無関心。どこかで聞いたような言葉。
わたしは嫌われるよりは無関心でいて欲しいと思う。
わたしの両親はわたしのことが嫌いだ。あいつらは日々の憂さを、わたしを殴って怒鳴って苛めて晴らしている。わたしのことが嫌いだから。いっそ無関心でいてくれればいいのに。何度そう思っただろう。
わたしは思うのだ。理屈なんてものは経験則からくる感情には抗えないと。
嫌いの反対は無関心――それは理屈だ。その理屈をわたしは認めることができない。だって、わたしが経験してきた『嫌い』は確実に好きという感情の対極に存在するものだったから。わたしが彩花を想う気持ちとはまったく正反対のものだから。
「無関心なはずない、あの人は彩花のことが嫌いなんです」
最近のわたしがよくするようになった断定的な口調。
「そうかもね」
シズルさんの静かな相槌。できた人だ、そう思う。
どうしてこんなことにムキになっているのだろう。好きだとか嫌いだとか無関心だとか、どうでもいいことなのに。
大切なのはわたしが彩花を好きで、救いたいということだけのはずなのに。
6
最後の夢にしたい。止まった日々を終わらせたい。もう夢は見たくない。
前にしか進めないけど、前に進まない夢を消すんだ。
今度はどんな場所だろう。
わたしはイメージする、強い姿のわたしを。強い女性、強い人間。
宵闇の天使イルネス。
宵闇色のボディースーツと漆黒の長い髪、長い肢体に細い腰。ゲームキャラの均整の取れ過ぎた壊れた体型。
イメージを確かなものにしていく、白い人影を殺すためのイメージ。イメージに殺意を混ぜ込んでいく。終わらせる。終わらせてやる。
わたしは夢のなかで眼をひらく。夢は脳みそのなかで行われているはずなのに眼をひらくって何気におかしい。それほど、夢のなかはリアルなのだ。肌にあたる生温い風の感触も、じっとりと重い奇妙な暗闇も、夢と現実の境なんてないと思わせるほどにホンモノだ。
「あれ? また制服」
制服をイメージしたつもりはなかったのだけど。
夢のなかではいつも制服だ。なぜかわからないけど。地味な制服をわたしの無意識はわりと気に入っているのだろうか。でも丈の長い膝下まであるスクールスカートは全然強そうじゃない。
「田園風景っていうのかな、こういうの?」
田んぼ田んぼ田んぼ、田んぼしかない。
田んぼに挟まれた砂利道がつくる永遠のような一本道。
わたしを逃がさないのは、今度は両脇にある田んぼだった。水が張ってある田んぼは底なし沼のようだった。ずぶずぶと沈んでいきそうな黒い液体が溜まっている。
どうやら今回も脇道に逸れることはできないらしい。
「辛気臭いなあ……」
毎度のことながらそう思う。
彩花のつくりだす世界はいつも明けることのない宵闇。
彩花っていつもこんな世界にいたのかな。
「彩花――」
わたしは百メートルを疾走するスプリンターのように、スタートポジションをとる。気の滅入るような一本道をゆっくり歩いていたんじゃ、イメージが濁ってしまう。はやく夢の終着へと辿り着きたい。
「――待ってて」
砂利の地面を踏みしめる。
イメージする。ゲームキャラクタのような爆発的な推進力を。
前を向く。
行け。
爆発音と共にわたしは加速した。重量感のある暗闇を切り裂いて疾駆する。一瞬でトップスピードへと到達し、音速を超えた身体が突風のようにまっすぐに突き進む。
なんだか嘘みたいだ。
わたしはもうこの悪夢に順応している。ホンモノのようで嘘みたいな悪夢に慣れ切っている。慣れ切っているはずなのに、少しずつ消耗している。心を削るようにイメージした 強いわたしが、わたしを蝕んでいる。
現実のわたしは学校にも行かず、格闘ゲームをし続けている。だってそうしないと彩花を救えないから。
わたしはもう食事を何日も摂っていない、摂れないんだ。食べ物の匂いを嗅いだだけで吐き気がする。
きっと、この悪夢は彩花だけの意思で作られているんじゃない。わたしの願望も含まれている。彩花に会いたい、死んで欲しくない、一緒にいたいというわたしの願い。
その代償が現実のわたしを侵食している。彩花と一緒にいたいという願望がわたしを殺そうとしている。
関係ない。彩花を救ってわたしも死ぬ。それのどこに問題があるというのだろう。問題なんてない。彩花と一緒にいられればいいのだ、例え二人が生きていなくても。
死後の世界?
そんなものがあるかなんてわからない。死んだことがないから。
彩花なら知っているのかな。知っていたら教えてよ。
――わたしたち、そっちでもシンユウでいられるかな。
街灯すらない農道を化け物染みた膂力で踏み荒らしながら駆け抜ける。地面に足を着く度に、そこには破壊が生まれた。宵闇の天使イルネスでさえ、こんな膂力は持っていない。
やれる、わたしは確信する。
今度こそわたしのイメージは無敵だ。
正真正銘の終わりの気配にうっすらと笑みがこぼれる。
蛍火のように儚い白い光が網膜に映り込む。
不意打ちだろうが、奇襲だろうがどうでもいい。あいつを殺せればどうでもいい。純白の天使ソレイユ。宵闇のなかの太陽を消し去るんだ。
棒立ちの純白の天使へと、マッハの加速を維持したまま、握り込んだ拳を金髪蒼白の顔面へと打ちこむ。
くたばれ。
轟音と共に、ソレイユの身体は大袈裟に後方へ吹っ飛んだ。
「やった……」
まずは安堵。彩花を救うチカラがわたしのなかにあることを確認した安心感。
ぞくっ、と聴こえてはいけない音が聴こえた。
強さを得た安堵のあとにやってきたのは、刺さって抜けない刺のように、わたしを苛む嫌悪感だった。どろどろと染み込むように、ゆったりとじわじわとわたしのなかに入ってきた。
わたしがこの世界でもっとも嫌いもの。
――暴力。
わたし自身が加害者になって、誰かに暴力を振るうなんてことがあっていいのだろうか。 わたしはどうしようもなく破綻していたことにいまさら思い至った。
殺す、ってどういう意味。どういうこと。
他人を傷付けること?
他人に暴力を振るうこと?
違う、他人の全てを奪うことだ。一片すら残さずに他人を消すことだ。
「うっ……あああっ……」
夢だから。そんな陳腐な理由で許されていいはずがない。わたしが振るわれてきた暴力がそんなことで許されていいわけがない。夢だったら、そんなのない。
暗闇を彷徨うだけのわたしの瞳は何も映さない。奈落のような沼も、砂利の道も何も見えない。
じゃり。
ゆっくりと砂利を踏んで歩く音。
じゃり。
ソレイユの生気を欠いた瞳がぎらぎらと光り、わたしを見る。
悠然と一歩一歩わたしへと向かってくる。
傷がない、ダメージもない。なんで。
「なんで? 効いてないの? あり得ない、だったらこんな化け物をころ――」
――せるわけない。
わたしは言いかけた言葉を寸でのところで飲み込んだ。
殺せるの。殺していいの。わたしが殺していいの。
わたしの思考は暴力と殺人を切り離そうと必死に稼働する。でも、だけど、どうしても暴力の上位互換が殺人だという結論を覆すことができない。殺人と暴力という結び目を解いていくことができない。複雑に絡まった結び目はひとつも解ける気配をみせない。
暴力を振るわれたら痛いのだ、苦しいのだ、身体が、心が。だったら、殺されるのってどんな気分なんだろう。彩花、死ぬってどんな感じなの。わたしが他人に死を強要していいの。
――ソレイユがくる。
彩花の、SAVANTのソレイユがくる。
闇に浮き立った白いボディスーツとまばゆく光る黄金色。
迷うばかりのわたしへとソレイユは距離を詰める。抵抗しないとやられる。
でも、足が根を張ってしまったように地面から離れない。
ソレイユの長い指が微動すらできないわたしへと迫る。成す術なく顔面を鷲掴みにされ、砂利へと押し付けられる。ぐちゃぐちゃだ。またぐちゃぐちゃ。
もうだめだった。迷ってしまった。彩花とわたしのエゴを秤にかけてしまった。彩花を救うには悪魔のような純白の天使を殺さなくてはいけないはずなのに。暴力を嫌悪するばかりに、殺すという行為に迷いを抱いてしまった。
ソレイユはわたしを地面へと叩きつけると、それ以上は何もしてこなかった。
痛い、やっぱり痛い。
――暴力なんて大嫌いだ。
「もうやだよぅ……」
わたしは弱かった。すごくか弱かった。愚図でのろまで、もうやだ。
やだよぅ。
闘えない、他人を傷付ける覚悟がないのだから。
「彩花っ」
ソレイユの歩いていく方向には彩花がいた。
いかにも彩花らしい微笑を浮かべながらソレイユを見ていた。ソレイユをじっと見つめたまま、わたしには一瞥もしてはくれなかった。
暗闇が紅く染まっていく。
悪夢に鮮やかな色がつくのは、いつも彩花の死を見るときだけだ。純白の天使の金色の髪も、白色のボディスーツも、この赤色と比べれば暗黒色と変わらない。暗い世界、暗い思考。
もうやめてしまいたかった。
はじめから無理だったのだ。誰かを救うなんておこがましいこと、わたしにする権利はなかったのだ。だからもう終わりにしよう。
ごめんなさい、彩花。ごめんなさい。
※
絶望ってどんな色。きっとアラバスタのような白色と、百獣の王のタテガミの金色を混ぜ合わせた明るい色。
わたしの経験したどんな色よりも絶望に近い色。
わたしが眼を覚ますと殺風景な彩花の部屋は別の世界のようだった。別の世界というよりも別の次元。毛布に潜りこんだままのわたしは、起き上がり方を忘れてしまった芋虫のようにもぞもぞとしていた。
毛布からだした右手を開いたり閉じたりしてみる。なんだかリアリティがない。目覚めた気がしない。頭にはぼんやりと霞がかかり、思考がぼやけている。
ほんとうにここは現実?
現実を疑う。視界もピンぼけして判然としない。
こんなのが現実?
こんな曖昧なものが現実なのだとしたら、さっきまでわたしがいた悪夢の方がよっぽど現実という言葉に馴染む。
「きもちわるい」
夢も現実もわたしも誰かも、すべてきもちわるい。陰鬱とした思考は螺旋を描いてどこまでも堕ちていく。
わたしはわたしを救ってくれる誰かを求めていた。「もうやめていいよ」と慰めてくれるキャンディのように甘い誰かを。
わたしに優しかったのは、いったい誰だろう。わたしに優しかったのは、わたしの意思など無視して、わたしを壇上に立たせてくれたキクだけじゃないだろうか。キクのことを思い出す。クリーム色をした綺麗な花を咲かせたキク。記憶のなかで美化され続けたわたしのキク。あれほど美しいものがこの世界にあるのだろうか。
わたしを救ってくれるものは、いつだってわたしの想いに無視をする。
記憶のなかで永遠となったキクも、シンユウである宵風彩花も。彼らは何もせず、わたしが救われているだけなのだ。
「ばか……」
自分に向けたのか、誰に向けたのか、わたしにすらわからない独り言。
「ばかじゃないさ」
独り言に返事が帰ってくるとは思わなかった。慌ててベッドから飛び起きる。
わたしの寝ていたベッドに背中を預けながら、シズルさんは座っていた。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「シズルさんだって見ていたでしょう。だってわたしまた何もできなかった。シズルさんはわたしにしかできないって言ったけど、わたしにはもう無理だよ。これで何度目? わたしたちはあとどれくらい彩花が殺される悪夢を見ればいいの?」
ヒステリックなわたしの声は、不協和音のように狭い部屋に反響した。自分でさえ不快になるほどの金切り声に、自分の鼓膜を潰してしまいたかった。
「自分だけを責めないでいい。ぼくだって彩花を殺した犯人を絶対に捜し出すと息巻いておいて手掛かりひとつ掴めないでいる。目撃者ひとりいないんだよ、ぼくが調べれば調べるほど彩花は自殺したんだっていう真実が見えてくる」
「でも夢では純白の天使ソレイユに殺されてる」
「そうなんだ。ソレイユだけが、彩花の死は他殺だってぼくに信じさせてる。信じさせてくれているんだ、毎夜彩花を殺すあいつだけがっ!」
彩花が自分自身で死を選んだということは、わたしたちには耐えられないことなのだ。わたしたちには彩花が必要で、彩花にもわたしたちが必要だったのだと思い込みたいのだから。
彩花が死を選んだというのなら、それはわたしたちのせいになってしまう。彩花と唯一付き合いのあったわたしが、彩花の感じていた死の誘惑に劣っていたということになってしまう。
人は死ぬときには容易く死んでしまえる生物だけれど、生きようと思ってさえいれば、思いの外長く生きていられる生物でもあるのだ。
わたしたちには彩花をこの世界に留めておくだけのチカラはなかったのだろうか。
わたしたちは自分勝手だ。自己中心的でわがままだ。
彩花に責められたくないという理由だけで、彩花の自殺を否定している。彩花は自殺なんてしてはいけないのだと自分に言い聞かせている。
大好きな人にだけは責められたくない。わたしは宵風彩花のシンユウができていたのだと思いたい。彩花について知らないことばかりだったけれど、わたしと彩花はお互いを救い合えるシンユウだったのだと信じたい。
「わたしたち自分勝手ですね」
「ぼくたちは彩花にどう思われていたのかな」
他人に自分がどう思われているか。永遠に答えの見付からない永遠の命題。
だけどもし、彩花が自ら死を選んだというのなら――
――彩花にとって、わたしたちは価値がなかったのだろう。
彩花のシンユウだったことはわたしの妄想で、願望で、つまり彩花には無関係だったということなのだろう。
「彩花のこと、好きなんですね」
無理矢理話題を変えた。彩花の想いを想像してしまうのは、物凄く危険だと思ったから。わたしがここにいる理由も、彩花を救いたいという想いも、全てを根底から覆らせてしまうような予感がしたから。
「好きだった、初恋だったんだよ。幼い頃から一緒にいて、一緒に過ごして、お互いを支え合って生きてきたつもりだった」
シズルさんは渇いた笑い声をあげた。自分の言っていることが妄想だとでも言わんばかりに。
「彩花とシズルさんは……」
わたしは不思議と冴えていた。冴えなくてもいいときに、わたしの脳は冴えるのだ。
「そうだよ、ぼくらは兄妹じゃない。昔は平凡な、どこにでもいる幼馴染だった。二人で砂のお城をつくったり、お飯事をするような。ぼくたちは自然と一緒にいられたし、その時間が永遠に続くって信じて疑わなかった」
どうして。
わたしの咽喉元にはシズルさんへの問い掛けが溜まりに溜まっていた。でも咽喉の奥に詰まっているものを、吐きだしてしまっていいのかわからなかった。だって、それは彩花とシズルさんの問題なのだから。
だからシズルさんが話してくれるのを、無言で待っていることにした。
「だけど、ずっと前から兄妹なんだよ。義理の兄妹。あの男、近藤瑠璃は幼馴染という関係が興味深かったんだろうね。身寄りのなくなったぼくたちを義理の兄妹という枠に縛り付けたらどうなるか観察したかったんだと思う」
「どうして本当の親がいないの」とは口が裂けても訊くことはできなかった。
訊けないと思う、普通なら。
「近藤瑠璃って何者なの?」
だから二番目に訊きたかったことを訊いてみた。
「何者なんだろうね。道楽で他人の子どもを飼えるくらいには金持ちなんだろうけど」
「飼うって、わたしたちはペットじゃない」
わたしたちは親に飼われているんじゃない。わたしたちはわたしたちだ。親の勝手で捨てられたり、痛めつけられたりするために生まれてきたんじゃない。
「ぼくたちは犬や猫じゃない、わかってるさ、でもぼくは感謝しているんだよ。近藤瑠璃という最低の男に」
「なんで感謝なんか」
シズルさんはおかしくなっているんだ。けれど、こちらを向いたシズルさんの表情は真剣で、本当に心からあいつに感謝をしているように見えた。
「近藤瑠璃に救われなければ、ぼくと彩花は生きていけなかったんだ。あの人の道楽の一部になれなければ、ぼくは彩花と一緒にはいられなかった」
「だからってあいつは――」
――彩花が死んでも何も思わないんだっ。
紛いなりにも彩花の親のくせに、わたしの両親と同じように娘を嫌っていたんだ。許せないし、許したくない。例えシズルさんが彼に感謝していたとしても、わたしは絶対に許さない。
「ぼくは生きていけたんだよ。悲しいことも悔しいこともあったけれど生きてこれたんだ。彩花を好きだったあの頃のまま、変わらずに生きて来れたんだ。この意味がわかるか。彩花がいなくなってしまうまで、ぼくは本当に幸せだったんだ」
想いを伝えられない関係が幸せだったのだろうか。まるでわからない。まるでわからないけれど、きっとそれは真実だ。シズルさんが永遠に守っていきたいと思った砂のお城なのだ。
わからない。
彩花、この人は本当にあなたを愛しているんだよ。
わからない。
彩花がいなくなってしまった理由がわからない。
回想
「あなたが友奈千沙さん?」
わたしが彩花に出会ったのは高校に入学してすぐの頃だった。出会いと別れが吹き溜まる季節。
彩花を見た第一印象は『わたしとは違って綺麗な人だな』という何とも自分本位なものだった。
彩花の力を入れたら折れてしまいそうな腕や、スクールスカートからのびるカモシカのような脚を観察してから、脈絡なく話しかけてきた彩花に応えた。
「……うん」
応えたとはいっても入学当時、誰にでも怯えていたわたしは、彩花のように凛として自信に満ちた女の子と、まともに会話をする方法を知らなかった。
「あなたは何が好き、私はとくに好きなものはないわ」
初対面のときから彩花は他のどんな人とも違っていた。
脈絡なんて気にしないで喋る彩花の言葉も、ちっとも不自然だと思わなかった。
「わたしも好きなものなんてない」
「なら、あなたはなんのために生きているの?」
なんで生きているんだっけ。生まれてきたから。なんか違う。これかな。
「死ねないから生きているの」
「興味深いわ、死ねないから生きているなんて」
ちょっと面白い人、そう思った。
わたしがテキトウに答えたことを興味深いだなんて。
「もしかしてあなたは不死?」
フシ、節、父子、不死?
「えっ? なに?」
「不死だから『死ねない』なんてことあり得るわけないわね、ふふっ」
何が面白いのかわからないけれど、わたしもつられて笑ってしまう。彩花の微笑にはわたしを笑わせてくれる魔法がかかっているようだった。
「死ぬのが怖いの。だから死ねない、それだけ。『いつだって死ねる』そう言う人もいるだろうけど、そんなの全然現実的じゃない。身近に苦しみや辛さのない人間の強がりだと思う」
「そうね、きっとこの世には、死にたい死にたいと呟き続けて日本の平均寿命まで生きる人間もいるでしょうね。なんで生きているの? と訊いたら悟ったように『いつでも死ねるのに、なんで今死ななきゃいけないんだ』とか高尚そうに息巻くのでしょうね」
何の話をしているのかわたしにはさっぱりだった。さっぱりだったけれど、悪い気分はしなかった。
「その人はなんで死なないんだろう、死にたいなら死ねばいいのに」
「きっとわたしたちが空想で生み出したご老人は生きていたいのよ。あなたのようにマイナス思考で『死ぬことが出来ない』なんて考えない。いつでも死ねるのに、なぜ今死ななきゃいけないんだ。それってつまり『生きていたい』ってことじゃない。生きていたいから死なないのよ」
わたしも生きていたいんだけど。でも、健全に生きていけるとは思えない状況で生きているのはなかなか辛い。だから死ねない、生きたいじゃなくて『死ねない』の割合がわたしのなかではちょっとだけ多い。
臆病なのだ。愚図なのだ。
ぐずぐずとずぶずぶと生きている。
「わたしも生きていたいんだけどな」
健全に。
「ふふっ……」
彩花はまた微笑んだ。
彩花の微笑にはやっぱり魔力が潜んでいた。わたしは魔力に操られるままに笑ってしまう。
きっと彩花は自覚している、自分の微笑には他人を惹きつける魔力があることを知っている。
「……ウソツキ」
魔性の笑みという表現がこれほど似合う女の子がいるのだろうか。
それにしても、わたしが嘘吐き?
嘘をつくなんて器用なことできません。無理です。だから。
「嘘じゃないです。わたしは生きていたいんです」
――そんなに不幸そうな表情で?
わたしのなかで何かが割れる音がした。ガラス玉が砕けて弾け散るような、少しだけ小気味よい清々しい音がした。
このとき。
このときにわたしは恋に堕ちた。
彩花の万能の才能を感じ取ったときではない。
わたしの不幸を見抜かれた瞬間に。
わたしは堕ちていったのだ、彩花という宵闇の奥底へ。
※
ピアノやスケートやゴルフのプロになる人たちっていうのは、大抵の場合英才教育を受けているらしい。
英才教育ってなんかずるい、わたしはそう思う。わたしみたいな凡人とはスタートラインが違うのだ。ピアノを買ってもらえない子どもはピアノの演奏者にはなれないし、スケートやゴルフを子どもにやらせる親はなかなかいない。
これってずるくない?
英才教育って才能みたいなものだよ。努力がどうのっていうより、親の考え方や環境に左右されちゃうのってなんだかずるい。
わたしはこんな下らないことを大真面目に考えている馬鹿な女の子だった。
何事にも例外は存在する、そんな簡単なことにも気が付けない間抜けな女の子だった。
その日聴いた旋律は、嫌が応にも、わたしに例外という存在を印象付けた。
わたしの通う私立桐政学園高校は選択授業に音楽や美術がある。わたしは音楽の授業を選択した。アリサが気を使って「音楽を一緒にとろう」と誘ってくれたからだ。
内向的なわたしはなかなか学校に馴染めず、トモダチもいなかった。だから話しかけてくれるのはアリサだけだった。アリサはなにかあるごとに助けてくれたし、わたしはいつもアリサの厚意に甘えていた。
音楽とはいっても、楽器の演奏なんてしないし、合唱曲を歌って漫然と一時間を過ごすだけの授業だった。
わたしは合唱曲がわりと好きだ。
みんなで歌うと自分が薄れてなくなったような気分になれるから。
その頃のわたしは彩花の名前すらうろ覚えだったけれど、彩花も音楽を専攻していた。
わたしとは正反対に、彩花の存在感は十数人で合唱曲を歌ったからといって、希薄になるようなものではなかった。彩花の歌声は驚異的だった。彩花が発声をすると時が止まったように、わたしを含めた周りの人間は静まり返った。
それでも、彩花は無関心に歌い続けるものだから彩花は浮き立った。悪い意味ではなく良い意味で。
授業で彩花が一度ピアノを触ったことがある。音楽の教師が突然休んでしまったときのことだ。入学仕立ての一年生だったわたしたちは、サボっていればいいものを歌おうとしたのだ。教師がいなければ歌う必要なんかないのに。
「近藤さんなら、ピアノもできそうだよね」
誰かの口走った軽率な言葉で、彩花はピアノの前に座った。
わたしたちが歌ったのは、これまでの音楽の授業で歌った全ての曲だった。四曲か五曲、すべてとは言ってもそんなところだけれど。
楽譜がどこにあるかなんてわからなかったし、教員室に入ってとってくるなんて面倒な真似は誰もやりたがらなかった。だからわたしたちはみんながみんな記憶を頼りに今まで歌ったことのある曲名を列挙していった。
簡潔に言うと、列挙された全ての曲を彩花は完璧に演奏した。楽譜もなく、一度か二度歌っただけの曲を。
もともと知っていたのかもしれないけれど、わたしには彩花の全てが異常に感じた。
彩花はスポーツだろうと勉強だろうと、非凡な才能を次々に見せていった。彩花はたくさんの嫉妬や羨望の対象になっていった。でも、彩花にトモダチは一人もできなかった。トモダチがいない、というところだけはわたしたちは同じだった。
わたしはトモダチができない、彩花はトモダチを作らない。大きな違いはあったのだけれど、結果だけを見ればわたしたちは一緒だった。
※
春がゆっくりと夏へと移り変わっていく暖かい放課後のことだった。授業が終わってのんびりと時間が流れている教室。
「千沙は部活に入らないの?」
アリサの疑問は当然だった。わたしの通う私立桐政学園高校にはものすごく大きな部室棟という建物がある。部活動や委員会に尋常じゃないくらいのチカラを注ぎ込んでいる学校なのだ。文化系だろうと体育会系だろうと、関係なく惜しみなく、予算をつぎ込む学校なのだ。それってどうなのだろう、経営として成り立つのだろうか。
しかしながら、小難しいことを考えなければ、私立桐政学園高校は部活動をする者にとって最高の環境だった。
「入れないよ。わたしが入ったらその部活に迷惑をかけちゃうから」
「そうかなあ、文学部なんて千沙には似合うような気がするけど。本好きでしょ?」
それは本を読むことは嫌いじゃないけれど、文学部なんて入ったら本を書く側に回らなくてはいけなくなる。内面を曝け出したような愚にもつかないものを他人に見せなくてはいけなくなるのだ。それはなんか嫌だ。
「やっぱり無理だよ」
「そうかなあ、だったらわたしと一緒に――」
ふわりと羽根のようにソレは舞い降りてきたのだ。わたしとアリサがありきたりな会話をしているときに。柔らかく、それでいて鋭く尖った刃物のように、彩花はアリサの言葉を遮った。
「無理強いはよくないわ」
彩花はわたしとアリサのあいだに、あたかもそれが自然であるかのように、不自然に入りこんできた。
背筋が凍るような気がした。
ぞくり、という擬音が立つほどに、彩花のなかのなにかに恐れを抱いた。彩花が何か得体の知れないものに思えたのだ。
「あなたには関係ないでしょ」
険悪な雰囲気を隠そうともせず、アリサは彩花を邪険にした。
「関係しようと思っているの、これから」
「なんで?」
アリサが本当に迷惑そうに言った。
彩花とアリサのあいだには、入学した頃に何かがあったのだろうか。
何かがあったのだろう――という漠然とした確信はあったけれど、わたしが詮索するようなことではなかった。
誰にでも優しいはずのアリサが、嫌悪感をこうも表に現すというのは珍しいことだった。だからこそ、しっかりと記憶に刻み込まれている。
「わたしが関わりたいと思ったから」
まるで世界が自分を中心に回っているように、それを微塵も疑ってない風に彩花は言った。
「千沙、行こう。こんな人に関わっちゃ駄目だよ」
「アリサ、どうしたの?」
わたしにはなぜアリサが彩花を嫌うのか少しもわからなかった。彩花は変わった人に見えたけれど、嫌悪感を顕わにしてまで排斥するような人ではないと思えたからだ。
「どうもしないよっ、ただこの人と一緒にいたくないだけ」
「どうして?」
わたしは無神経にも、アリサが彩花を嫌う理由を訊いてしまった。
「だからどうもしないって」
もちろん教えてはもらえなかった。
わたしたちの会話を聴いて、彩花はまたあの微笑を浮かべた。
「友奈千沙さん、きっとわたしたち良いトモダチになれると思う」
預言のように呟いた彩花は、それから何も言わず黙って教室を出ていった。
スライド式のドアが、からからと空しく音を立てて滑る。
その音だけが、わたしの脳内でリフレインし続けていた。
※
体育の授業だった。
その日はうだるように暑くて、砂埃の舞うグラウンドは最低最悪のコンディションだった。じりじりと肌を焼くように照りつける太陽は、わたしたちに恨みでもあるかのように一向に雲に隠れることをせずに、ただ燦々と熱光線を発していた。
「体操するから二人一組に分かれろ」という体育教師の声がかかる。アリサを探したが、その日はアリサが休んでいて、二人一組にくっついていく周りの人たちを、おろおろと焦りながら見ていることしか出来なかった。
二人一組を作れずに浮き上がったのはわたしと彩花だった。
わたしは誰にも声をかけられないから。彩花は誰もが声をかけたがっているけれど、近づき難い雰囲気だったから。
「組みましょう」
彩花はわたしを見つけてこちらへ来てくれた。
ありがたかった。浮いていると目立ってしまうから。
「うっ……うん」
わたしは周りから遅れることなく、体操をはじめられた。ストレッチをするために彩花と手を繋ぐ。
わたしは他人に身体を触られることが嫌いだ。
体育なのだから仕方ないけれどやっぱり嫌だ。
――だって、触られる場所によっては『痛い』から。
「どうしたの、気分でも悪い?」
言われてみれば悪い。熱いし、くらくらする。視界が狭い。
彩花がなにかを言っているように聞こえた。だけれど、何を言っているのかは全く聴き取れない。
駄目だ、もう。
あとで気付くことになるのだけれど、わたしはあまりの暑さに倒れてしまったのだ。
目を覚ますと、白いカーテンが見えた。一面白色で、視界がぼやけてハレーションして、光のなかにいるようだった。
「ここどこ?」
わたしは誰にともなく訊いた。答えなど求めていない、ただ自己確認のためだけの問い。
「保健室に決まっているじゃない」
白いカーテンの向こうから凛とした声が聴こえた。
独り言に答えを返されると思っていなかったわたしは、もう何がなんだかわからなくなっていた。ただわたしがいる場所が保健室だと教えてもらっただけなのに。
「なんで?」
「なんでって、覚えていないの?」
何も覚えていなかった。
「あなたは突然の事故で十年間も眠り続けていたのよ」
事故?
十年?
嘘?
自分の腕を見る、身体を見る。
伸びてない。
「うそ?」
「嘘に決まっているじゃない。小説や漫画じゃあるまいし」
からからと彩花は笑う。わたしはカーテン越しに笑い声だけを聴いていた。
「じゃあ……」
「わたしに肩を借りて、保健室まで歩いてきたことも覚えていないの?」
「……うん」
まったく覚えていない。というより、気が付いたら保健室にいたのだ。それまで何をしていたのだろうか。
「友奈千沙、あなた体育の授業で倒れたのよ。倒れた、というよりも意識が混濁していたというような感じかしら。だから具合の悪そうなあなたを、私が保健室まで運んだの」
「うっ……ありがとう」
「どういたしまして」
視界が少しずつはっきりしてくると、わたしは彩花に訊いてみたいと思っていたことを口に出していた。よくあるのだ、思っていることをすぐ口に出してしまう。
わたしは典型的な嘘がつけない人種なのだ。
「近藤さんはなんでトモダチを作らないんですか?」
馬鹿で間抜けな質問だと思う。いつもこうなのだ。訊いてしまう、答えを求めてしまう。
カーテンの向こうに誰もいなくなったのではないかと思うくらいに、保健室は静まり返った。
無神経な質問に愛想を尽かして、彩花が出て行ってしまったのではないかとも思った。
身体を起こして、白いカーテンをスライドさせる。
彩花は石像のように固まってそこにいた。パイプ椅子に腰かけて、考え事をしていた。わたしがカーテンを開けたことにも気が付かないほど集中しているようだった。
うん、と彩花は頷いた。
「ああ、もう大丈夫なの?」
「あっ……うん」
「私がトモダチを作らない理由だったわね? ちょっと真剣に考えてみたのだけれど、必要ないから――じゃないかしら」
必要ない。トモダチってそういうものだっけ。必要とか不必要とか、わたしはトモダチがいた経験が少ないのであまりよくわからなかった。
「どうしていらないの?」
「たった一人のシンユウやコイビトがいれば十分、十二分だって思うから、かな」
「でも、シンユウもコイビトもトモダチからはじまるものじゃないの」
シンユウやコイビトっていうのは、トモダチがもっともっと仲良くなったものじゃないの。
「私には何となくわかるのよ、この人はシンユウになれる、コイビトになれるっていうのが。私にだけ使える魔法みたいなもの、かな」
そんな魔法があるのなら是非わたしに教えて欲しい。
でもきっと無理なのだろう。
魔法なんて素敵なものが、わたしに使えるわけがない。
「羨ましいな、わたしもその魔法を使ってみたい」
「使えるはずよ」
彩花は易々と肯定する。「私にだけ使える」なんてことを言っておきながら。
「無理だよ」
だってわたしには他人と向き合うチカラがないから。はじめから能力が備わっていないから。
「どうして無理なの?」
「だって、わたしにはトモダチが一人もいないんだよ」
そう言うと、彩花は未知の生物を見たような不思議そうな表情をした。
「美月アリサとはトモダチじゃないの?」
わたしは首を横に振った。
だって、アリサは誰にでも優しいのだから。わたしはアリサに助けられてばかりで対等じゃないから。トモダチって対等なものだから。だったらわたしとアリサはトモダチじゃない。
「あなたってわりと残酷なのね」
また彩花は微笑した。天使のようでいて悪魔のような善悪に中性的な笑い方。
わたしは残酷なのだろうか、きっと残酷なのだろう。だって動物のお肉を食べるときも何も感じないし。
「そうかな?」
「残酷よ、きっと無意識に何かを傷付けてる」
わたしが何かを傷付けているなんてことがあるだろうか。傷付けられるのはいつもわたしなのに。擦り切れる寸前で、ぼろ布同然に日々を生きているわたしが誰かを傷付けられるのだろうか。
「そんなことしてないよ」
「してるわ」
間髪を入れずに彩花は言った。
「してないったら!」
気が付いたらわたしは怒鳴っていた。図星なんかじゃ断じてない。断じてないのに、わたしは苛立った。
傷付けられるのはいつもわたしのはずだ。いつだって被害者なのに。加害者になる素質なんて持ち合わせていないはずなのに。
「それだけ元気があれば大丈夫そうね」
わたしの怒りを柳のようにいなして、彩花は軽く笑った。
感情の揺れを弄ぶような嫌な笑み。だけれど、彩花の笑顔は全てをぼかしてしまうように優美だった。
※
夏が中旬を迎えて、日増しに気温が高くなっていく頃には、わたしと彩花は日に何度か言葉を交わすようになっていた。勿論、彩花はキラキラと輝き過ぎていて、話しかけられないので、彩花がわたしに声をかけてくれていた。
なんで声をかけてもらえるんだろう、と何度も思った。だけれど、次第に今日は声をかけてもらえるかな、という期待へと変わり、最後には彩花がわたしに呼びかけてくれるのが心地よくなっていった。
その頃には近藤彩花の名前は、生徒数の多い桐政学園でも有名なものになっていた。
彩花のもつ『万能の才能』は人を惹きつけるには十分過ぎるほどの効力を発揮していたのだ。
万能の才能、なんていう馬鹿げた命名はわたしがして、誰にも言わず心のなかで呟いている言葉だ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。万能の天才と呼ばれた偉人以上に、彩花には万能という言葉が相応しいような気がした。事実彩花は何でもできたのだから。
彩花が声をかけてくれる頻度と反比例するように、アリサが心配してわたしに言葉をかけてくれる回数は減っていった。アリサと疎遠になっていくのを切なく感じたけれど、アリサは部活動や委員会もやっていたから、そういうものかなと納得していた。
放課後、だるさを誘う夏の夕暮れに、彩花とわたしは二人で教室に残っていた。窓を全開にしているのに、かかっている学園用の地味なカーテンはまったくと言っていいほど揺れていない。
学園に二人で残っている理由は、彩花が「誰もいなくなった学園を屋上から見てみたい」と言ったからだ。なんでそんなことをしたがるのか、わたしにはわからなかった。でも、断ろうという気持ちは湧いて来なかった。どんな刻であろうと、彩花といる時間はわたしのなかで煌めいていたから。
「学校ってわりと人がいなくならないんだね」
時間はもう夕方七時を過ぎていたが、夕陽は落ちていなかった。
「もういいかな。千沙、そろそろ屋上へ行こうか?」
そう言って、彩花はからからと鳴る教室のスライド扉をずらす。教室を後にする彩花のうしろを、わたしはついて行った。
スクールスカートをゆらゆらと揺らし、彩花はゆったりとした足取りで歩く。階段を昇り、錆びれて立て付けの悪い屋上の扉を開く。
扉が開いていくにつれ、わたしの目の前には紅い景色が広がっていった。夕陽が沈む時間だから真っ赤なんてことないけれど、一面紅色に見えたのだ。
彩花が階段の上からわたしに手を伸ばした。握れ、という風に。
ひらひらとなびくスカート、彩花の微笑、長い髪、甘い香り、その全てにつられるように彩花の手の平を掴んだ。
屋上へ出ると、やっぱり夕陽はもう沈みかけで、紅い景色なんてほんのちょっとしかなかった。
「まだ部活動をやっている人がいるよ。何が楽しいんだろうね、あれ」
彩花はちょっとだけ寂しそうに、グラウンドを走る人影を見つめて言った。
「どうなんだろう、わたしは運動音痴で、スポーツを楽しいなんて思ったことがないからわからない」
「私は運動が得意よ。だけどスポーツ系の部活動の何が楽しいのかわからない。不思議よね、運動が得意でも不得意でも部活動の何が面白いのかわからないなんて」
さっきの寂しさを取り繕うように彩花は微笑を浮かべた。
わたしもグラウンドを走る女生徒の姿を見た。遠目から見ても、必死に走っているのがわかった。苦しそうだった。
何であんなに苦しそうなのに走っているのだろう。
あれはきっと陸上部だ。周りに他の部員はいないから、きっと自主練習をしているのだと思う。
「あの人苦しそう」
「私なら彼女よりはもっとマシに走れるわ。彼女遅いわよ、あれじゃあ試合でもまったく勝てないんじゃないかしら」
彩花は憂欝そうに、がしゃがしゃと音を立てる金網のフェンスへともたれかかる。
彩花は走る彼女を羨ましそうに見つめていた。他人の感情に疎いわたしの勝手な考えだから、真偽なんてまったくわからないけれど、そう見えたのだ。
でも、彩花が走る彼女を羨ましく思う理由は、わたしには想像すらつかなかった。
「あの人、いなくならないね」
彩花はため息をついた。
「息苦しそう、あの人はなんで生きてるのかしら」
グラウンドで走る彼女の生きる理由。どうなんだろう。苦しそうに生きる意味ってあるのだろうか。
自問自答をしているかのようだった。
死ねないから生きているのがわたしのはずなんだけど。
「あの人も死ねないから生きているんじゃないかな?」
なんだか彼女はわたしと似ている気がする。
「わからないわ、だけど――」
彩花は、今はもうほとんど見えなくなった夕陽と、グラウンドを走る女生徒を交互に見つめた。
「――あの人はあなたほど卑屈に生きてはいないと思う」
辛辣な言葉だったけれど、怒りは湧いて来なかった。わたし自身、卑屈なことを理解して受け止めているから。
彩花はわたしのことをよくわかっていた。彩花は感情の動きに敏感で、しっかりとそれを把握できるチカラがあった。きっとそれは大なり小なり誰にでも備わっているチカラなのだと思う。だけれども彩花のそれは飛び抜けて精度が良いような気がした。
彩花はわたしに背中を向けて、頭だけを残して沈んでしまった夕陽を臨んだ。
「ねえ千沙、私の隣へきて」
言われるがままに彩花の隣に立った。沈んでいく夕陽を、わたしたちは黙って見つめていた。
夕陽が完全に沈むまで、ずっと隣り合っていた。
夜の街に順々に光が灯っていく。屋上から見ると、明るいところも暗いところも見渡せた。屋上は暗かったけれど、時間で作動する電灯がついていたので、隣にいる彩花の姿ははっきりと見えた。
「千沙」
わたしの名前を呼んでから、彩花はこちらを向いた。わたしも彩花の方を向いた。暗い屋上で向き合っているとなんだか変な感じだった。
彩花は両手を伸ばして、わたしの二の腕のあたりを、優しく掴んだ。
――痛い。
触られるのは嫌いだ。痛いから。
痛みに表情を歪めると、彩花はわたしを屋上の床へとゆっくりと座らせて、柔らかく寝かせた。
壊れものでも扱うように彩花は丁寧だった。
「なにするの?」
怯えはなかったけれど、彩花がなにをしたいのかまったくわからなかった。
彩花の指先がわたしの上半身のおうとつをゆっくりと滑っていく。
彩花の白くて細くて、闇に浮き立ったような指先は、段々と下へ降りて行った。
「千沙は私のこと嫌い?」
彩花の綺麗なソプラノがわたしの鼓膜へと届く。
なんなの。
わけがわからず泣きそうになってしまう。
「もう一度訊くよ、千沙は私のこと嫌い」
二度目でやっと言葉の意味を理解して、涙目のまま何度も首を横に振った。
すると、彩花はおもむろにわたしの制服の裾を掴んで、制服を剥ぐようにまくりあげた。
彩花はわたしの汚い身体をじろじろと見て、また微笑した。
あまりの汚らしさに笑われたのだと思った。いたるところが青紫色に変色しているわたしの肌があまりにも醜いから。
――見ないで、もう見ないで。
そう思うと、彩花はするり、とわたしから離れた。
わたしは困惑しながら立ち上がった。彩花の美しい微笑に瞳を奪われながら。
ふふっ、という彩花の上品な笑い声。
「私たちシンユウになりましょう」
そう言って、彩花は屋上の出口へと歩き出した。
暗い屋上で彩花の足音だけが聴こえた。
わたしは彩花の行動に戸惑うことしかできなかったけれど、彩花とわたしはこの電灯の明滅する暗闇の屋上で、確かにシンユウになったのだ。
※
「ロシアンルーレットって知っている?」
知ってる、とわたしは言った。
「レボルバー式拳銃は?」
なんとなくわかる、とわたしは言った。
「千沙はホンモノの拳銃を見たことがある?」
「ないよ」
拳銃なんて現代日本で平和に生活していたら見ることなんてないはずだ。
「レボルバーに弾丸を一発だけ入れて、目を瞑っても良い、とりあえずテキトウにシリンダーを回転させる。そしてこめかみに銃口を放さずあてる。映画なんかでは、シリンダーに何もかけないんだけど、それじゃあ弾丸がどの穴に入っているか丸わかりよね」
そうなんだ。
彩花は突拍子もなく変わった話をするから、わたしはいつも成程と頷くだけだった。
彩花は笑いながら話しを続ける。
「本当なら、ダミーの弾丸を装填するのだけれどね。一発入れてシリンダーを回転させるだけならハンカチか何かをかぶせないと勝負にならない。目隠しをさせられたり、精神不安定状態じゃなければミスなんてしない――」
ロシアンルーレットという単語とおおよその意味は知っていたけれど細部についての知識は、わたしにはあまりなかった。
「――あとあまり知られてないのだけど、ロシアンルーレットは交互にトリガーを弾きあってどちらかが死ぬまで続けると思っていない?」
「そうじゃないの?」
「そうじゃないの――」
オウム返しをするように彩花は応えた。
「――自分の手番がきて『次トリガーを弾いたら死ぬかも』と思ったら、銃口を空に向けてトリガーを弾くの。銃弾が飛び出たら自分の勝ちで相手の負け。拳銃が何も吹かなければ自分の負けで相手の勝ち」
どうでもいいような話をわたしは真剣に聞いた。彩花の声には他人に言葉を聞かせるチカラがあるようだった。
銃弾がでるってわかったら、銃口を空に向けられる?
「なんだか不公平なゲームだよね、命がかかっているのに」
だって、そのルールだとあとにトリガーを弾く方が確実に有利になると思う。最後の人は弾丸が出てくるのがわかるのだから。
「どうして? 二人で殺人ゲームをするのなら数学的には至極平等なゲームよ。最初から最後まで死の確率は六分の一。始めの一発は六分の一。二発目は五分の一――ではなく、一発目でゲームが終了していない確率五分の四を乗じるから六分の一。其処からはわかるでしょう?」
「でも、でも、最後の人は有利じゃないの? だって百パーセント銃弾が出るなら空に向けて撃てばいいんじゃないの」
彩花は呆れた様子を見せてから、大袈裟に笑った。いつも涼しげにしか笑わない彩花だから、大袈裟な笑い方は新鮮だった。
「あなた馬鹿なのね――」
彩花の馬鹿という言葉には悪意もなにもない。本当に楽しそうに言ったのだ。
「――それは認められないのよ。二分の一でトリガーを弾いて、それでも生きていたならトリガーを弾いた方の勝ちなの。だってそうじゃない方がおかしいでしょう?」
愚図のわたしは、そんな簡単なルールを理解するのにちょっぴりだけ時間をかけた。
「なんとなくわかった気がするけど、やっぱり最後の人は少しだけ有利だと思う。『銃口をこめかみに当てて引鉄を弾かなくてはいけない』というルールがあれば別だけど、最後の人は負けるけど死ななくても良くなるから」
「そんな生易しい殺人ゲームはないわよ。五発目の撃鉄を引いた直後、相手を撃ち殺す。そうしないと拳銃を奪われて、最後の弾丸が自分の眉間に刺さるから」
柔らかい声で、わたしに諭すように彩花は言った。
わたしはまた首を傾げた。でもそれ以上考えることが面倒になってので考えることをやめた。
「饒舌に語ってしまったけれど、殺人ゲームのルールなんてどうでもいいのよ。それに、『ラスト一発は勝敗が決しているから必要ない』というルールもあるしね。千沙の考えもあながち間違いじゃないのよ。これもどうでもいいことね」
どうでもいいんだ。
彩花はわりとテキトウなのかも知れない。
「私が言いたいのはね、拳銃でなら人は容易く死ねるってことなのよ」
「だいぶ話が変わるんだね」
夏を過ぎた頃になって気が付いたのだけど、彩花の自由さはそれまでのイメージとかけ離れていた。彩花は他人をあまり意識していないようで、何時でも何処でも自然に自由に過ごしているように見えた。
「でもロシアンルーレットで頭に銃口をあてると、頭蓋骨の丸みで弾丸が滑って上手く死ねないって言うわよね」
言うのだろうか。なんだか物騒なことを顔色ひとつ変えずにさらっ、と彩花は呟いた。
「上手く死ねないのはやだよね。植物人間とかになっちゃったらイチバン困る」
彩花はくくくっ、と忍んで笑った。なんだかそんな笑い方も彩花には似合っている。
「千沙の考え方は面白いわ、天然ボケなのね」
「天然ボケじゃないよっ」
わたしは彩花に笑われたのが恥ずかしくて、顔が赤くなってしまう。
「私わりと、天然ボケな子が好きなのよ」
彩花が冗談を言うように口に出した言葉に、また恥ずかしくなって俯いてしまった。
「好き」なんて直接的な愛情表現をされたことがなかったから。
「だからっ――」
「とりあえずね、千沙は刃物で死ねると思う? 代表的な刃物といえばカッターやナイフで、ポピュラーな自殺方法と言えばリストカットだけど、漠然としていて私の死のイメージとまったく結びつかない。リストカットじゃおもいっきり動脈を抉らないと死ねないのよ、恐ろしくて大抵の人間には不可能だと思うわ」
彩花は一人で話しているかのように話題を変えた。
いつもながら、ついていけない。でも悪い気はしないのだ。そういう自由奔放な彩花とシンユウになったのだから。
呆けているわたしを余所にして、彩花は勢いそのままに演説のように語った。
「じゃあ包丁は? 調理用具でしょ、どう考えても。だからこそ拳銃なの、私の死のイメージは拳銃なの」
彩花の自由さについていけないわたしは、黙って彩花のわけのわからない話を聞いていた。思えば、わたしは彩花のわけのわからない話を聞いているときが一番幸せだった。そして一番幸せなときを取り戻したいと思った。
わたしの人生でもっとも輝いていた時間。
ずっと彩花の隣にいたいな――そう思ったわたしを、ずっとわたしは覚えている。
※
その日も屋上だった気がする。憎らしい真夏の太陽が雲に隠れて、いくらか過ごしやすかった日の放課後。彩花とわたしは外界から切り離された屋上という空間で、さっきまで太陽の見えていた雲の切れ間を見つめていた。
彩花はわたしに「屋上へ来て欲しい」と言ったのだ。大切な話をするような、微笑を交えたいつもより少しだけ重い口調で。
屋上は風が死んでしまっているように無風だった。
彩花は屋上が好きだった。なにもかもあるようで、なにもないこの街の景色が気に入っているようだった。だから、度々彩花に誘われてわたしは屋上へやってきた。
屋上は学園の人気スポットらしいから、人がいないときを選ぶのが大変らしいのだけれど、彩花がわたしを屋上へ誘うときは、わたしたち以外の生徒はほとんどいなかった。
彩花はわたしの右手を、両手でしっかりと握った。
「温かい?」
彩花の手の平は驚いてしまうほど冷たかった。白くて長い指には熱というものが感じられなかった。
「冷たいよ」
「千沙の手の平は温かいわ」
わたしの手の平から体温を奪っていくように、彩花の手の平は段々と暖かくなっていった。彩花の手とわたしの手が同じくらいの温かさになったあたりで、彩花はわたしの瞳を見つめた。
黒真珠のように艶のある長い髪、整った目鼻立ち、すこしだけ切れ長な瞳、彩花のすべてがわたしを見つめているようだった。
「私たち約束をしましょう」
わたしが聞いた宝物のような言葉。
「なにを」なんてわたしには訊けなかった。いつもは抜けているわたしだけれど、約束の内容なんて訊いても無駄だと察していたから。わたしは彩花との約束なら、どんな約束だとしても首を縦に振るだろう。
――わたしたちはシンユウなんだもの。
お互いの瞳の色を確認するように、わたしたちは黙って見つめ合っていた。握りあった手の平もそのままで。
手の平の温度がさらに近付くと、お互いが同化してしまったような錯覚に陥った。
吸い込まれてしまいそうな彩花の宵闇色の瞳は、わたしを捉えて離さない。目を逸らせない。
「千沙、あなただけは――」
彩花の小さくて綺麗な紅色の唇が音を紡ぐ。
わたしはどんな約束でもしようと思った。彩花といられる時間だけが、わたしにとっての望んだ現実だったから。
雲が切れて、太陽の光がのぞいた。
天国へ向かう階段のような一筋の光がわたしたちを照らした。
まるで神話の登場人物になったように、わたしたちは向き合って約束を結ぼうとしている。一生涯裏切ることのない約束を。
きっとわたしたちは永遠にシンユウでいられる。漠然とした根拠のない希望的観測を思い描いた。
「――私のことを近藤彩花とは呼ばないで」
わたしは強く握り込まれた彩花の手を握り返す。
約束の意味なんて必要なかった。わたしにとっては、二人だけの宝石のような秘密を作り出す儀式みたいなものだったから。
「……呼ばない」
大袈裟に厳かにわたしは誓った。たった四文字の誓約だった。
「私はこれから宵風彩花になる。宵闇の宵に、春風の風。素敵でしょう?」
屋上には、確かに今までとは違う空気が流れていた。雲間からもれる光の筋が消えて、明るく照らされていた屋上も曇天の静けさを取り戻す。
時間にしてみれば、ほんの少し、太陽と曇り空が作り出した煌めきはわたしたちを祝福しているようだった。
湿気を掃う、清々しくて爽やかな風が通り過ぎる。
初雪のように白い指は、わたしの手の平をなぞりながら、優雅に離れていった。
約束の瞬間――はじめて彩花は宵風彩花になった。
わたしだけがそのことを知っていた。
いつかのように、彩花はフェンス越しにグラウンドを覗いた。つられて彩花の目線を追った。
グラウンドには沢山の生徒たちがいた。屋上とグラウンド、上と下。ふたつの世界は最果ての海を挟んでいるようだった。彩花とわたしで作り出した、価値のある屋上という世界と、砂埃舞う汚らしいグラウンドが同じ世界だとは到底思えなかった。
わたしが生きてきた十六年間は、すべてが偽物だったように感じた。約束の瞬間に比べたら、全ての景色は色褪せてしまうだろう。
彩花はもう何も言わなかった。
わけのわからない約束の意図も意味もなにひとつ説明しなかった。
いつもより近い空を見つめる。雲に覆われて暗い空。
きっとわたしはこの空を永遠に忘れない。
※
「覚えている?」
なんていうことを彩花に訊かれた。
場所はどこだっただろうか?
時間はいつだっただろうか?
不思議と思いだせない。もともとわたしは記憶力がよくないから、別に不自然でも何でもないのだけれど。彩花との思い出を忘れてしまうほど物覚えが悪いというのは、なんだか切ない。
「なにを?」
心当たりのなかったわたしはいつものように間抜けに訊き返したのだ。
「いつでも死ねる老人の話」
彩花とわたしがはじめて会話したときに作り出した架空の老人。いつでも死ねる、と言い続けて、日本人男性の平均寿命まで生きた醜い思考ロジックをもつ老人。
「私たちは架空の老人を馬鹿にしたけれど、私はいつでもどこでも死ねるのよ」
いつでも死ねる、そんな言葉に意味はない。そう言ったのは彩花自身のはずだ。
なのに。
「千沙、私はね――」
一呼吸、彩花は間を置いた。
わたしの咽喉は緊張のあまりごくり、と音を立てた。
彩花が恐ろしく儚げに見えたのだ。触ったら消えてしまいそうなほどに。
「――愛する人のためならいつでも死ねる」
彩花の言葉が冗談だったのか真実だったのか、今でもわからない。
でも、ただひとつわかっていることがある。彩花は死ねない老人じゃなかった。彩花が死ねない老人だったのなら、どんなにわたしは救われていただろう。
だけど、違った。
ただひとつわかっていること。
そう。
――彩花は死んでしまえる人だった。
回想 終
7
忘れられない記憶というものは大抵悪いものや辛いもので、忘れられない記憶というもののなかにひとつやふたつ、心から良かったと思える記憶があれば、それは幸せなことだ。
だってこの世界には、嬉しいことや楽しいことよりも、苦しいことや辛いことの方が多い。成長していくと誰もが気が付いていく。程度の差こそあれ、誰もがいつかは考える。
わたしは他人より、ちょっとだけそのことに気付くのが早かった。
忘れられない記憶、鬼の形相でわたしを睨みつける大人たち。わたしを産み落としたふたりだ。
ねちねちとぐちぐちと、如何にわたしが愚かなのか説き続けた母親。だからわたしは愚図で馬鹿で不細工だった。
毎日のように癇癪を起して、わたしを殴った父親。だからわたしの身体は青痣だらけの汚れた身体だった。
「だった」なんて言ったけれど全て現在進行形で、ただむかしよりちょっとだけ、わたしがふたりの化け物から逃げるのが上手くなっただけだ。
近づかない、喋らない、関わらないの三カ条。
わたしは愚図で馬鹿だけれど、逃げるのだけは上手かった。そういう性質なのだ。だからいまだにヴァージンでいられる。
それはなんだか、愚図で馬鹿で不細工で汚れたわたしの少しだけ素敵なところだ。
※
わたしは暴力を振るえない。例え夢のなかだとしても。だって夢と現実の境なんて、わたしにとっては意味のないものだから。
わたしは暴力に臆病なのだ。殴られるのも、殴るのも大嫌いなのだ。
純白の天使ソレイユを夢のなかで殴りつけたときに思い至った罪悪感。回避不可能な失望。
でも、最低最悪の夢は何度でも繰り返す。
宵風彩花は何度でも殺される。
「いい加減にしてよっ」
自分の叫び声と共に目を覚ました。
「わたしはもう何もする気はないんだよっ、もういいじゃない。やめさせてよ! 終わりにしてよ、終わらせてよ」
もうどこにもいない彩花に向けて叫んだ。カーテンを閉め切って陽の光を遮った彩花の部屋でわたしは暴れた。触れるもの全てを拒絶するように壁に向かって投げつけた。何かが壊れる耳を引き裂くような高音が心地よかった。
壊れているのがモノなのか、それともわたし自身なのかは、もうわからなくなっていた。
ドアノブの回る音がして、部屋の扉が開く。
わたしは無理矢理身体を駆動させて扉へと目を向ける。
「誰っ?」
誰か、なんて問い掛けに意味がないことくらいわかっていた。
だって彩花の部屋に入ってくる可能性があるのは――
シズルさんか近藤瑠璃だけなのだから。
「お前、ここは他人の家なのだから少しは遠慮をしろよ。部屋はぐちゃぐちゃ、壁はぼろぼろ。お前は一体何をやっているんだ?」
近藤瑠璃は相変わらずの傲慢さだった。
他人の部屋をぐちゃぼろにしているわたしの言えることではなかったけれど、こいつはいばりくさっていた。
「うるさいっ!」
黙れっ。お前に彩花の部屋で喋る権利なんてない。
「おい、なんだそれは。この部屋は全て俺の資産だぞ、お前が破壊して良い理由がないだろう」
近藤瑠璃は怒る様子もなく呆れる様子もなしに、ただ言葉を発した。
まじまじと近藤瑠璃を見つめた。言葉と態度が整合性を持っていないこの男の何かが気になったのだ。近藤瑠璃は凄惨たる部屋の姿を観察して喜んでいるように感じたのだ。まるでこいつの求めていたものが目の前に広がっているかのように。
それにしても、改めて近藤瑠璃を上から下まで眺めると、こいつは高校生だと言われても、疑うことなく信じられるほどに若々しかった。同じ年代の少年と話しているような気さえしてくる。
「なんだお前、じろじろと?」
「なんでもないよ」
わたしは慌てて目を逸らす。近藤瑠璃はふんっ、と鼻を鳴らして心底どうでもよさそうに嘲った。
くそっ、こいつを見ているとなんでこんなに腹が立つんだろう。
「ねえ、あんたさ、人を殴ったことある?」
「んだ、そりゃあ?」
「答えてよっ!」
本心からだるそうに近藤瑠璃は頭をかいた。
「だりいなあ、あるよ。で、それがどうしたんだよ? あとな、お前タメ口になってんぞ、年上を敬えってんだ」
そんなことどうでもいい。あんたはわたしの質問にだけ答えていろ。
「わたしはないよ」
「だからなお前、年上には敬語をだな――」
「どうやったら他人に暴力を振るえるの?」
本当に知りたかったことは違った。
――どうして他人はわたしに暴力を振るえるの?
どうして他人を傷付けて平気でいられるの。それが一番訊きたかった。だけど、わたし自身の優先順位は彩花より上にくることはない。
だから、何度無理だと思っても、未練たらしく彩花を救いたいと願ってしまうのだ。
白色と金色の悪魔に殺され続けるという悪夢から解放してあげたい。
未練というよりも執着なのかも知れない。
どっちでもいいけれど。
彩花を救いたいという願いだけは変わらないのだから。
「ふたつの方法がある」
近藤瑠璃は真剣ともおフザケともとれない中性的な表情をした。
「ふたつ……だけ?」
「ひとつ、これが他人に暴力を振るうイチバン楽な方法だ――そして、この世で最も悪辣で愚劣な方法だ」
近藤瑠璃はにやり、と擬音が立つほどの趣味の悪そうな笑い方をした。その趣味の悪い笑い顔を、記憶から抹消してしまいたいほどだった。
「思考と想像をしないことだ。他人の痛みは思考せず、他人の痛みを想像しない。くそったれな人間なら誰にでも可能な方法だ。ただ想像力を欠如させればいいんだから」
自分の痛みは思考せず、他人の痛みを想像しない。
確かに最低最悪の手段だ。
他人の痛みなんて、きっと誰にもわからない。わからないから想像する、その想像が正解でも不正解でも構わない。そういうものなんだ。
「想像することに価値があるってことなの?」
「価値なんてねえよ、意味があるだけだ」
そりゃそうか、価値はないよね。誰に認められるわけでも、誰を救えるわけでもないし。
「ふたつめは?」
ひとつめはわたしにはできそうにない。わたしは自身の痛みに思考せずにはいられない。思考は他人の痛みへの想像に変わるってわかっているから。
「ふたつめは――なあ? ところで、お前『餓鬼の喧嘩』って見たことがあるか?」
「知らない」
突然話を逸らした近藤瑠璃に対して、突き放すように言った。彩花を救うことに関係のない話をこの男とするつもりはなかった。
「まあ、聞けよ。餓鬼の喧嘩ってのはな、大抵一方がはじめに手を出してはじまるんだよ。俺は餓鬼が好きだからわかる、そういうもんだ。餓鬼はな、一発殴って、一発殴られたんじゃ納得できないんだよ。なんでかわかるか? 他人の痛みを想像できないから――だから自分が相手を殴って終わらないと不公平を感じる」
「なんで? おあいこじゃないの?」
「あのなあ、お前は馬鹿か? 餓鬼にはな、最初に手を出したくせに反撃されると逆上するやつもいるんだよ。『そんなに強くなぐってねーぞ』とか言ってな。正論言えば、強くなんていうのは手を出した方が決めることじゃないんだよ。殴られた側の判断することだ。わかるか? 典型的な想像力の欠如だ」
「よくわからないんだけど、何が言いたいの?」
「後ろから考えろ。先に手を出した方が、反撃されて逆上しないにはどうしたらいい?」
なぞなぞのようだった。頭の悪いわたしにはあまりにも難しい。でも、この男の前で「わかりません」なんていうのは、あまりにも悔しかった。
「殴らない?」
「馬鹿かお前は、お前が知りたいのは他人を殴る方法じゃないのかよ、馬鹿」
くそっ、むかつく。
なんだよこいつ、もったいぶりやがって。
近藤瑠璃は欠伸と溜息の中間くらいの加減で息を吐いた。
「ふたつめは覚悟をしろってことだ。相手の痛みを想像し耐える覚悟、反撃される覚悟。このふたつの覚悟があれば――お前は他人を踏みつけられる」
近藤瑠璃の理屈を聞きながら、昔のことを思い出していた。ずっと昔、わたしが馬鹿と言われたら、馬鹿と言い返せた頃のこと。
わたしだってはじめからこんなではなかった。
母親に愚図だ、馬鹿だ、不細工だといわれたら反抗していた。父親が癇癪を起して殴られれば、いつかこいつを闇打ちしてやろうと考えていた、そんな時期。
でも無駄なんだ。あいつらはわたしが反抗すると逆上してどうにもならなくなる。無抵抗で不干渉に徹するしか逃げる方法がなかった。反抗すれば余計傷付くから、傷付けられるのに慣れるしかなかった。
仕方ないって思った。
わたしより不幸な人間は発展途上国にでも行けば沢山いる。ゴミ拾いで毎日の貧しい食事を得ている人たちに比べたら幾分かわたしはマシなはずだ。
「覚悟があれば他人を傷付けていいの?」
「いいわけないだろ――」
間髪なんて言葉が入る隙間もないほどに近藤瑠璃は即答した。
「――わかるか? 『他人を傷付けて良いか』なんてのと『他人を殴れるか』なんていうのは別次元の話なんだよ、切り離せ」
「わかんないよ」
覚悟なんてありきたりなもので、人が殴れるわけない。
「そうかい」
そう言って近藤瑠璃は踵を返した。近藤瑠璃はふらっと現れて、ふらっと部屋からいなくなった。わたし独りになった滅茶苦茶な部屋は、宵闇どきのように閑散としていた。
暗いなあ。眠りたくないなあ。
だけど眠らないことはなぜか無理なのだ。宵闇に引き摺られるように眠りに堕ちる。抗いようのない宵闇は、わたしをどこまでも飲み込んでいく。
無秩序に散らかった部屋を宵風が攫っていく。
覚悟なんて、わたしにできる――はずもない。
8
わたしの最近の思考は、底なし沼のように深く深く沈んでいくことが多い。
それはそうか。
だって、眠るたびにシンユウが殺される生々しいグロテスクな映像を見せられるのだから。
「ねえ、起きてっ」
遠くから声がした。深海からわたしを引き上げるような優しい響き。
「ねえ千沙っ! ねえっ!」
久し振りに聴く声だった。
「ううううっ……」
瞼の動かし方を忘れてしまったように瞳が開かない。紅く染まった夢から立ち上がれない。不思議だとかおかしいなんて思わない。いつかは夢にとらわれてしまう、そんな嫌な予感はあったから。
だめ。
起こして。
「起きてよっ、死んじゃだめ」
死にたくないよ。ううん、まだ死ねない。
「アリサ? わたし……ここ……どこ?」
「彩花さんの部屋だよっ、迎えに来たんだよ。もうやめようよ、もう耐えられないよ。千沙の顔……この前よりずっと酷い」
わたしの顔はずっと前から酷いよ。
朦朧とする頭のなかで仕様もないことを考える。
「シズルさんはいる?」
思い出したことを忘れないよう頭の片隅に留めながら、必死でわたしの願いを叶えられるであろう人を探した。
「ここにいる」
アリサの後方から男の人のはっきりとした声が聴こえた。
アリサがいて、シズルさんがいる。きっとここは現実で今だ。夢だとか過去なんかじゃない。
最近のわたしは夢だとか現実だとか現在だとか過去だとか、本当によくわからなくなってしまっていた。
エニグマフォースという格闘ゲームなんかで彩花を救えると勘違いしたのはいつだっただろうか。自分の暴力に怯えたのは何処だっただろうか。
最後の手段に思い至ったのは――
「千沙ちゃんどうかした?」
シズルさんの声が遠くから聴こえた。フローリングの床からのろのろと背中を離す。
「これからわたしの言うモノを用意してもらえますか?」
最終手段で最終兵器。格闘ゲームの動きをトレースするなんて、今考えるとちょっと間抜けな方法よりは、随分と勝率の高い目的の果たし方。
「モノによるけど大抵のものは用意出来ると思うよ」
「本当ですか?」
「この世界はね、お金をかければ大抵のものは手に入るように出来ているんだよ。だから出来る、それに彩花を救うためなんだろう? 彩花を救うためならぼくは強盗でも何でもやるさ」
シズルさんがそう言うのはわかっていた。でも、わたしが欲しいものは値が張るとか入手困難とかそういう類のものではない。
「拳銃が欲しいんです」
違法なもの。この国では手に入れてはいけないもの。
アリサはわたしの言ったことを理解できていないようだった。それはそうだ、ケンジュウってあまりにも現実味に欠けているから。日本でずっと暮らしていて、高校生までに実銃を肉眼で見ている人ってどのくらいいるだろう。たぶんそんなにはいない。わたしだって見たことがない。
だって法律を破らないと手に入れられないものだから。
実際は拳銃の値段なんて四、五万円程度らしい。でも、ここは日本で、法律は拳銃の所持を許していない。だから無理だろう、そう思っていた。
「いいよ、拳銃の種類は? 何でもいい?」
その答えに一番驚いているのはわたしだった。無理だろうじゃなくて、無理だと思っていた。限りなく百パーセントに近い確率でわたしの願いは叶わないと思っていた。
だけど簡単にシズルさんはイエスと応えて、わたしの願いを聞き入れた。
わたしの眼に、はじめてシズルさんが特異に映った。
「いつまでに用意すればいい?」
わたしたちが残酷な夢を見始めてから、もう二十日以上経っていた。曜日や日にちの感覚なんてとっくになくなっていたけれど、カレンダーという便利な道具はわたしに過ぎ去った日数を教えてくれた。
はじめに見積もっていた一ヶ月という期間までもう日はなかった。
一ヶ月――わたしの精神が擦り切れるまでのタイムリミット。馬鹿らしい、精神のタイムリミットなんてわかるはずがない。明日か、三日後か、一週間後か、毎夜の悪夢がわたしを食い尽すまでの時間なんてわかるわけがない。
「出来るだけ早くして下さい。早ければ早いほどわたしたちには好都合です」
流暢に話すわたしの姿を、アリサは驚いた様子で見ていた。まるでわたしではないない誰かを見ているような瞳の色だった。
アリサに助けられていた頃のわたしなんて、とっくの昔に消えてしまっている。わたしは救う側なのだ。別に成長しただなんて思わない。むしろ宵闇の底まで堕ちている。
「ああ、悪くても三日後までには用意する。あと三度ならおそらく耐えられる」
「ねえ、あんたたち何言ってるの? ケンジュウがどうとか、あと三度なら耐えられるとか、私には意味分かんないよっ」
困惑というよりも恐ろしいものでも目の当たりにしたみたいに、アリサは悲鳴のような声を上げた。
うるさいな。
「わかんなくていいよ」
どうでもよかった。アリサが喚こうが何をしようが。
「千沙どうかしてるよっ! あんな女のために危ないことまでして。もっと自分を大切にしてよ、死んだのは千沙じゃないんだよ」
「だからわかんないって!」
美月アリサには友奈千沙のことなんてわからない。勿論、宵風彩花のことも。
アリサの強い瞳はわたしを睨んでいた。
「千沙なんてしんじゃえっ!」
防音の壁を通してもマンション全体に響き渡るような大声でアリサは怒鳴った。
それから壊れるほどの勢いで扉を閉めて、アリサは出て行った。
トモダチはいなくなった。
シンユウはいなくなっている。
わたしは独りになった。誰も助けてくれない独り。
後戻りなんてできない。わたしの後ろに道はない、ただ暗闇だけが広がっている。
こういうことだったんだ。わたしは独りで納得をした。
※
ソレがわたしの手元に届いたのは確かに三日後だった。白い布に包まれたソレはずっしりと重く、これが命の重さなんだ、なんて下らないことをわたしに考えさせた。
三日間、わたしはエニグマフォースをプレイし続けていた。イメージをより鮮明で確実なものにしておこうと思った。切り札はあるけれど、切り札だけでは彩花を救うことはできないような気がした。なぜ――理由なんて特にない。
ひとつでも彩花を救うために何かをしておきたかった。ただそれだけ。
なぜだか、わたしの思考は英雄だとか正義の味方っぽかった。少年小説のように熱く燃え滾るものがある感じだ。
「千沙ちゃん。ソレを用意したぼくが言うのもおかしいけど、もうやめてもいいんだよ」
何言ってるの。
これで終わりになるのに。
「彩花は自殺したんだ。目撃者がいた。彩花が歩道橋から一人で飛び降りるのを見ていた人がいたんだ」
彩花が自殺するわけない。
だって毎晩殺されてるじゃん。
「もういいんだよ、彩花はいつでも死んでしまえるやつだった。それだけのことなんだ」
シズルさんの震える唇は、わたしが理解不可能なことを音にしていった。
だってまだ生きてるじゃん。
毎晩わたしは彩花に出会っているんだよ。
宵闇と宵風の支配するどこかの場所で。いつも会う場所は違うけれど、毎晩出会っているんだよ。
「白い布を解いてどうするつもりだい?」
決まってる。彩花と同じ位置に着くのだ。
覚めることのない夢を見るのだ。
通り抜けていくだけのシズルさんの言葉に一度だけ答える。
「彩花を救って……わたしは死ぬ」
順番が違うけれど、些末な問題だった。
わたしが死んでから彩花を救うのも、彩花を救ってから死ぬのも驚くほど結果は変わらない。
わたしは彩花と一緒にいられる。
救うだとか、もっともらしいことを言っても、最後には自分本位な考え方だった。
※
――宵。太陽が沈んでから夜が明けるまでの、いろいろなものが寝静まる、漆黒と静寂が映える時刻。
月の光が白い布に反射して、ソレだけを宵闇の空間から浮き立たせている。開け放った窓から吹き込む宵風に、カーテンがゆらゆらと微動する。
わたしは彩花の部屋のベッドに座り込んで、白い布を巻き付けたソレと向かい合っていた。
部屋には独り。わたしだけ。
今夜が最後になる。予感ではなく確信がある。
最後にする、最後にしてやる。一ヶ月のあいだに何度呟いただろう。その度に自分自身に裏切られてきた。
緊張と恐怖で干上がってしまいそうだった。これからしようとしていることを思い描くだけで、おかしくなってしまいそうだった。でも、もともとおかしいから変わらないか。
白い布はどんどん重みを増していくようだった。マンションの一室にはそぐわない明らかに非現実的なモノ。
ソレを掬いあげるように両の手の平に乗せた。わたしの心は震える手を必死で抑えつけようとするけれど、一向に止まってくれる気配はない。わたしの腕から先は、まるで身体の一部ではないようにかたかたと動き続ける。頭から送られる電気信号を無視して勝手に暴れている。
止まれ止まれ止まれ。
思えば思うほどに震えは大きくなってわたしを苛んでいく。脳内が恐怖一色に埋め尽くされる。人間の持っている本能的な恐怖。
――死への恐怖。
「いくじなし、臆病者、びくびくするな、やれっ!」
言葉は宵闇へと吸い込まれて何の意味も持たない。死への恐怖がこんなもので収まるはずがない。自分のなかにふたりのわたしがいて、わたしを鼓舞するわたしと、恐怖に怯え震え上がっているわたしがせめぎ合っている。
せめぎ合って錯乱している。ふたりとも正気じゃない。
ソレは月明りを受けて、ぼんやりと白い光を放つ。ソレはまるで血液を欲しがっている吸血鬼のようだった。吸血鬼が舌なめずりをしているように見えた。白い布を被った鉄の塊は、わたしを殺したくてうずうずと蠢動している。
がたっ、と白い布に包まれたソレはわたしの手の平から零れおちた。まるで意思を持って独りでに動いたかのように、ソレは柔らかいベッドへと落ちた。その柔らかな衝撃で、はらりと鉄の塊を覆い隠していた白い布が開かれる。
背中を伝う氷のような液体がぞくぞくと身体全体を震わせる。
目の前には人殺しの道具があった。
どす黒い色の鉄の塊はわたしを睨みつけている。
呼吸が今まで以上に乱れた。
「ひぃ、ふぅう」
息を吐いているのか、息を吸っているのかさえわからない。
黒色の塊からわたしの視線は外れない。日常から外れた異物はどこまでも無機質に、それでいて大きく口を開く化け物のようにそこにあった。
わたしは半端にしか自由の効かない指で黒色の鉄の塊に触れる。触れると火傷してしまうドライアイスのように鉄の塊は冷え切っていた。実際は火傷なんてしないけれど、わたしの全てを焼いてしまうような冷たさが黒い塊にはあった。
ゆっくりと黒い塊を持ち上げる。
「ううううっ」
ごりっ、という音が聞こえるくらいに強くこめかみに銃口を押し当てる。引鉄を引くだけで、ちょっと弾くだけでわたしはこの世から消え去れる。
――頭蓋骨の丸みで。
なんだっけ。
「植物人間はいやだなあ……」
彩花と話したことを思い出す。
そっか、銃口を頭に当てると上手く死ねないんだっけ。じゃあどうすればいいのかな。
わたしの腕と手首と指は極自然に、流れるように駆動して――
――人殺しの道具の銃口を、わたしの咽喉の奥へと突き立てた。
いつの間にか震えは収まっていた。
これなら確実だ。
迷うことも恐れることも何もかも忘れて、わたしの指は引鉄を弾いた。
9
ここはいつも通り暗い。咽喉の奥で火薬を破裂させたというのに、不可解なほどに痛みはない。
そっか、ここは夢だから。もう目覚めないのならこの夢は死だろうか。あるいは現実だろうか。わたしにはもう虚構も現実もどうでもよくなっていた。
最後だ、と強くイメージする。
ここは願いが叶う場所。だって夢なのだから。夢は願いなのだから。
強い自分、強い女の子。
わたしの姿は相変わらず制服だったけれど、どうでもよかった。服装だけは他のものをイメージしても変わらなかった。
「なんだか地味な制服だな」
毎日のように袖を通していた地味な制服に、はじめて嫌悪というか不満を抱いた。
派手な姿が良い。わたしが少しでも強くいられるように。
膝下五センチなんていう規則に則ったスクールスカートをはじめてダサイと思った。
短い丈のスクールスカートの女の子は自信に溢れているように見えた。『下着を隠す』という本来の役割も果たせないようなスクールスカート。
目を瞑る。夢のなかで眼を瞑る。
すうすうと風が通り抜ける。
「うっわー、涼しいー。コレゼッタイ見えてるよ」
感じるはずのない涼風が、わたしの太腿をすり抜けて行く。今までスクールスカートに隠れていて風の通り過ぎる余地のなかった身体の一部に、冷たい風のあたる心地良さがあった。
生きてる、ってカンジだ。
自分でもなんだか全然わからないけれど、わたしは生きていた。
意識をして風景を眺める。毎日のように場所は変わるけれど、変わり映えのしない暗闇の風景。
「つまらない場所……」
彩花の作りだしたあまりにも胡散臭くて辛気臭いところ。
わたしは前を向いて歩きだした。
そこは彩花が死んだ日に見た夢と同じ場所。交差点と立体歩道橋、無機質なビルが立ち並ぶ――つまらない場所。
とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここはどこのほそみちじゃ。
奇妙な音階が耳を障る。
「わたしが出してあげる。彩花をこんな辛気臭いところから」
いつからそこにいたのだろう。
いつから見ていたのだろう。
太陽を浴びて輝くさざ波のような金色がそこにあった。宵闇のなかに、ぽっかりと浮かび上がる、ウエディングドレスのようなボディスーツ。完璧なプロポーション。
どうしても殺さなくてはいけない障害。純白の天使ソレイユ。太陽の名を冠する化け物。虚構の存在。彩花を虐殺するためだけに存在している悪魔。
「きたね、そっちから」
「―――――――――」
化け物の言葉はまったく聞き取れない。化け物の声は電子音のようにゴチャゴチャとして、異様に耳触りな音だった。
宵風がわたしと純白の天使ソレイユのあいだをすり抜ける。からからと黒色のコンクリートの上を、石ころの転がる音がする。向かい合ったわたしたちは間合いを計るでも、臨戦態勢をとるでもなく、お互いを睨み続けていた。
わたしは夢のなかで立ち尽くして、少しだけアリサに似ているソレイユの顔を見つめていた。
化け物め。
見れば見るほど純白の天使ソレイユの姿は、完璧な均整の上に成り立っているものだと認識できた。たぶん眼の前に立っている完璧な化け物が、彩花の作りだしたイメージなのだ。もともとエニグマフォースという格闘ゲームのキャラクターの一人でしかなかったソレイユを、彩花はその天才的な才能で、自分の理想通りに極限まで磨き上げたのだ。
自分の作り出した虚構に彩花は殺されている。
彩花はいったいなにをしたいのだろう。
宵闇の世界で何に囚われているのだろう。
そんなことを考え始めると思考はいつでもどこでも――
――なんで彩花は死んでしまったのだろう
という疑問に突き当たる。
考え事をしている場合じゃないことはわかっているけれど、思考することは必要なことだった。彩花を救って、彩花の隣にわたしがいるためには必要不可欠なことだった。
「―――――――――」
甲高いような、重低音のような無機質なような有機質なような化け物の声。
「だから何言ってるかわからないよ!」
聞き取れないし、聞き取るつもりもない。
だってお前はこれから殺されるんだ。
両足に力を込める。
今度こそ――これが最後になる。自分に言い聞かせて、宵闇の天使イルネスをわたしに乗り移らせる。イメージするまでもなく、頭にこびりついたイルネスの動きが溢れ出してくる。
目の前の化け物を駆逐するためだけのチカラ。
激しい破砕音とともに、わたしは白色の化け物へと駆けた。爆音がソレイユに届くよりもなお速く、ソレイユの懐へと入り込む。
ソレイユの下顎を目掛けて繰り出される身体全体を隅々まで無駄なく使い切った、豪速のアッパーカット。意識を奪うことに特化させた人体急所への一撃。
しかし、わたしが天を裂くように振り上げた拳はあっさりと空を切る。ソレイユは下から突き上げるわたしの拳をかわした勢いのまま、後方へ数度宙返りをして距離をとる。
凍りつくような無表情がわたしを見つめてくる。
くそっ。
歯噛みをする。白色と金色で構成された、人間によく似た化け物には余裕があった。少なくともわたしにはそう感じられた。
ただ単にわたしに興味がないだけかも知れない。化け物にとってはわたしなど関わる価値すらないのかも知れない。
はじめから純白の天使ソレイユは彩花を殺すためだけの装置なのだ。
「あんたなんかに彩花を殺させるもんか! 許さない! 許さない! 絶対に!」
咆えた。迷いも不安も恐怖も、すべてをどこかわたしの見えないところへ追いやるために。
黒色の、何の味気もないコンクリートの地面を、ソレイユのもとへ間合いを把握しながら近づいていく。
エニグマフォースと同じだ。
間合い取りは戦闘における必要不可欠な技術。間合い取りが正確であれば、自分の攻撃を通し、相手の攻撃を回避していくことができる。
彩花が作り出した宵闇の世界の構造は、エニグマフォースのバーチャル空間とよく似ていた。彩花の日常の大部分はエニグマフォースだったのだから、彩花のイメージを固定した世界がエニグマフォースを色濃く投影していたとしても不思議ではない。
もっともらしく理屈をつけてみたけれど、わたしに解る真実はなにひとつない。
非科学的なことに理屈を当てはめても無意味だ。
今は眼前の敵を――
――ただただ殺す。
ゆらり、と金色の髪が揺れる。今まで動きを見せなかったソレイユが風にそよぐ木の葉のようにひらひらと歩み寄ってくる。
間合い――なんて概念が本当にこの化け物に通用するのだろうか。
こいつは、この化け物は。
化け物染みた美貌にわたしは魅せられる。
化け物は一歩、二歩、三歩、一定のリズムを刻みながら押し迫る。
なにをするの。なにがしたいの。
造られた能面のような表情。美し過ぎる化け物の顔が鼻先に迫る。
「なっ……」
言いかけたわたしの唇が何かに塞がれた。理解が追い付かなかった。
ふんわりとした温かみのある優しい風が通り過ぎたようだった。金色と白色の混じり合ったそよ風。
白色の天使の唇は砂の味がした。でも心地よくて、全身が痺れて、どうしても抵抗できなかった。
すっ、と膝の裏から力が抜ける。化け物の唇がわたしから離れて行く。
「なんでこんなことするの?」
問い掛けに、もちろん化け物は応えない。それどころか顔色ひとつ変えなかった。
人の唇を奪っておいて、白色の化け物は何も感じていない。
純白の天使ソレイユ、この化け物はとことんわたしを怒らせたいらしい。
死んでしまえ。
握り込んだ拳を気に食わないやつの顔面へと思いっきり叩き付ける。当たるわけがない、そう思って振り上げた拳は僅かにソレイユの頬を掠めた。
わたしは人を殴れない。
もうわかってる。どうしようもない。それは確かな拒絶反応で、わたしの修復不可能な創口なのだから。
近藤瑠璃は言った。人を殴る方法はふたつだと。
どちらもできない。
だったらわたしは殴らない、ヒトなんて殴らない。
わたしは残酷だ。牛も食べるし、豚も食べる。年中貧血気味のわたしにとって、動物の肉は身体の機能を維持してくれる大切なものだ。味だって悪くない。たまに生臭いけど悪くない。
白色の化け物は家畜かそれ以下だ。断じてヒトなんかじゃない。ヒトの形をした獣だ。ゲームのキャラクタなんてヒトじゃない。虚構の存在は、ただ虚構で、家畜でさえない。
だから傷付けても何も思わない。絶対に思わない。わたしは傷付かない。牛肉や豚肉を食べるのと一緒なんだから。
「馬鹿げた理屈……」
わたしは意外と冷静なのかも知れない。変なところで冷静だから、下らない理屈を馬鹿げたものだと考えてしまう。でもやっぱり馬鹿だから、馬鹿げた理屈を信じていられる。
仕切り直しをするように、わたしと純白の天使ソレイユはファイティングポーズをとり向かい合う。格闘ゲームに合わせて言うのなら第二ラウンドだ。
「――――――」
調律の狂った化け物の叫び声が、第二ラウンド開始の合図になった。
鮮やかなステップと、流麗な舞のような打撃。上段と下段を使い分け、隙をつくっていく変幻自在の型は確かに、彩花のソレイユだった。
何度も、何本もネットの動画で見続けた動き。変幻自在な彩花のソレイユの動きに本来なら型なんてない。だけれども、わたしの、友奈千沙の宵闇の天使イルネスの動きは彩花のソレイユの動きの模倣だ。だからこそ、一定のレベルまでなら予測が付く。
防戦一方でガードを続けるわたしに対して、ソレイユの攻撃は延々と繰り返される。反撃しようにも隙がない。
今攻撃に転じたら、その隙を間違いなく狩られる。
ガードの上から、僅かだけれども削られていく。攻撃に移らなければ、ジリ貧で究極的には、このままではまた負ける。また彩花を死なせてしまう。
火花の散るような打撃の猛蹴。
ソレイユのタイミングをずらした足払いに、反応できずに一回転して転倒する。ダメージが少なくなるように、なんとか肩口から落ちる。だけど、下段攻撃を通されてしまったショックで態勢を立て直せない。
わたしに馬乗りになったソレイユが容赦なく拳を打ちつけてくる。
2D格闘ゲームなら馬乗りなんて自由は効かないはずなのに、ソレイユはそんな法則やルールなんて無視して現実的な攻撃を仕掛けてくる。
体力が減少しても身体機能が衰えないという格闘ゲーム特有の異常性と、現実における自由性。戦闘する上でそれぞれの有利な点を備えた理不尽な機能。
引き換え、こちらは痛みがあれば動きは鈍るし、宵闇の天使イルネスのイメージも濁っていく。対等な勝負なんて出来るはずがない。
痛い、痛い、痛い。
腕を十字にしたガードの上から、わたしの顔に恨みでもあるように顔面だけを目掛けて殴りつけてくる。
わたしの意思が折れそうになる寸前――
――化け物は辺りを見回してから、腰を上げて身を翻した。まるでわたしの存在を忘却したように。わたしに背を向けた。わたしを見ていない。
なにこれ。なんなのこいつ。
いらいらする。
こっちは決死の、というより現実的に死んでまで夢の世界に。
「お前を殺しにきているのに!」
化け物は振り向かない。聴いていない。聴こえていない。
わかっていた。わかっていたけれど、彩花が青春を費やしたエニグマフォースに、二年間積み上げてきたソレイユのイメージに――付け焼刃のイメージが勝てやしないことなんてわかっていた。
「だからってお前はッ!」
どくん、と激しく胸が跳ねた。
わたしは氷のように凍てついたナニカを握り込んでいた。ナニカは蠢く数百匹の蟲のように手のなかで息衝いていた。
口内がカラカラに渇き、湿りを失った舌が口内へと張り付く。
目をやる必要もなかった。手の内にあるものが何なのか、わたしにはわかっていた。わたしの咽喉もとから脳髄までを貫いた凶器。
わたしは腕と足と、身体全体に力を込めて立ち上がる。打ちつけた身体がぎしぎしと、骨の擦れるような音がする。
わたしはまだノックアウトされていない。
かたかたと震える脚で、ぎしぎしと音を立てる右腕で、いつか見た映画のように斜め向きに、氷のように冷たく光る拳銃を構える。手の平が火傷してしまいそうなほど冷たかった。そして腐り落ちてしまいそうなほど熱かった。
螺旋を描く狂った世界。ぼやけていく視界。
周りを埋め尽くすビルも、歩く人のいない宵闇に沈む歩道橋も、黒色の地面さえ、目に映る全てのモノが崩れていく。
死ぬなら拳銃だ。
この夢の世界を壊すなら拳銃だ。
白色の化け物、純白の天使を殺すのなら拳銃だ。
彩花の意思を根底から破滅させるには――
――どうやったって拳銃だ。
眼球が破裂しそうなほど広がる。視線の一直線上には光のない宵闇のなかでさえ輝きを放つ拳銃、銃口の先には白色の魔物――純白の天使ソレイユ。
真っ暗な世界は終われ。
わたしが終わらせる。
引鉄に力を込めると同時に、耳を劈く様な音が鳴り響いた。
乾き切った炸裂音と硝煙の匂い、灰色の煙。
わたしはどこか客観的に――崩壊の早まっていくビルの群れを見ていた。
心臓部から紅く染まっていく純白の天使ソレイユのボディースーツと、拳銃を突き出して立ち竦むミニスカートの女子。
宵闇の夢のなか、遥か上空からわたしは二人を俯瞰していた。
※
白煙の立ちこめる宵闇の世界はもうなくなりかけていた。彩花の精神によって創造された世界は意外に脆かったのかも知れない。
壊れていく世界のなかで彩花を探す。彩花はきっと、どこかでわたしを待っているのだから。
辺りを取り囲んだ白い煙が薄れていく。
いない。どこにもいない。
夢の終わりには彩花が現れるはずなのに。わたしを連れて行って欲しい。彩花と一緒にいつまでもいさせて欲しい。
「どこ? どこなの?」
きょろきょろとぐるぐると三百六十度を見回して、彩花を見つけ出そうとした。
宵闇の世界が終わるまでに彩花を見つけなければ。そんな強迫観念があった。見つけなければ、見つけなければ。
――見つけなければどうなるのだろう?
どうなるの?
どうなったら嫌?
彩花と一緒にいられなくなるのが嫌だ。きっと嫌なことが起こる。悪いことがある。
目の前が涙で霞む。なにを恐れているのかすらわからない。混乱して思考の収集がつかない。わけがわからない。彩花がいない。ないないない。なにもない。
わたしは意味もなく絶叫した。宵闇の世界全体に響き渡るほどの大きな奇声。叫んで叫んで叫び続けた。彩花の名前を、わたしの名前を、化け物の名前を、それらが混ざった言葉にすらなっていない他人が聴いても確実に理解不能な、気が狂ったような騒音を発し続けた。
自分でも何で急に叫んだのかわからない。彩花にわたしを見つけて欲しいと思ったのかもしれない。それともただ単純に、何かが決壊してしまっただけなのかもしれない。
後者の方がなぜかわたしに適合しているような気がした。精神の限界がココまでだったのだ。客観的にわたしを観察しているわたしはそう思う。一ヶ月、それがわたしの精神が崩壊するまでのタイムリミットだという考えは、概ね正解だったということになる。
主観と客観の入り混じる奇妙な困惑のなか、わたしの絶叫はなお続き、彩花を探す眼球は上下左右に高速で動き続け、咽喉も眼球も潰れてしまいそうだった。
いるのなら出てきて。いるのならわたしといて。
――何処見てるの、千沙?
建物の崩壊音と絶叫で不愉快に均衡のとれていた世界は、鈴の鳴るような清涼な声ひとつでがらりとその姿を変えた。勿論、暗い地面も暗い空も崩壊を止めたわけではなかったけれど、滞留した不快な熱気を押し流すそよ風のような彩花の声があれば、どうでもいいと思えた。
彩花が死んでから、彩花の殺される夢を見始めてから、ずっと聴いていなかった彩花の声を聴いた。
ずっと、永遠に聴いていたかった声。
「彩花どこにいるの? なにしてるの? はやくでてきてよ? 悪い夢はもう終わりなんでしょ? ねえ……もう一緒に帰ろうよ……」
――どこに? 私はもう死んでるのよ。
聴こえる声の方向に身体を捻り、わたしは彩花の姿を探す。
彩花はソレイユを背後から抱いていた。
右腕を肩口から、左腕を脇腹から襷のようにして、血の色に染まっていく純白の天使ソレイユを抱きかかえていた。身体を彩花に預け、目を閉じているソレイユは、何かから解放されたように穏やかな表情をしていた。
会いたかった彩花。
殺してやりたかった純白の天使ソレイユ。
願いが叶った瞬間。
わたしは彩花に呼びかける。それは宵風彩花だったり、彩花だったり、他の彩花を表す呼称だったかも知れないけれど、とにかく呼びかけ続けた。
彩花と一緒にいたかったから。
わたしも死んでいるのだから。
「彩花っ! わたし彩花が好きなの! ずっと、もっとずっとあなたと一緒にいたいのっ――」
わたしの告白に応えるように、宵闇の世界に澄んだ音が響いた。
壊れていく夢のなかでも、光り輝く宝石のような音色が彩花の唇から流麗に紡がれていく。
――千沙、さようなら。
――あなただけは、こちら側に来てはいけないわ。
わたしを取り囲んでいた不揃いなビルの群れも、宵闇に沈む歩道橋も、明滅を繰り返す信号機も全てがわたしの前から消えていった。シンユウも、わたしが憎んだ純白の天使ソレイユも、宵闇のなかに薄れ、この世界にはなにもなくなった。
0
はじめに思ったことは「ここはどこだろう」ということだった。どうやら天国なんていう華やかな場所ではなさそうだった、かといって地獄かと言われれば、そこまで劣悪なものにも思えない。天国でも地獄でもなければ、ここはどこなのだろう。夢か現実か、そのふたつのどちらかなのだろう。
ひりひりと咽喉の奥に小さな熱っぽい痛みを感じた。痛みを感じるということは、ここは現実なのだろうか。いや、わたしは彩花の妄想した夢の世界でも痛みを感じていたし、たかが痛み程度の要素では、自分のいる場所の判別などつけようがなかった。
わたしは『何か』を強く握りしめていることに気が付いた。
なんてことはない。
それはただの拳銃だった。
カーテンの隙間からはうざったい朝の日差しが差しこんでいる。朝の日差しを黒色の拳銃の装甲が反射する。
なんて軽いんだろう。なんて安っぽい造りなんだろう。
こんなものが人の命の重さなわけがない。柔らかいベッドの上で、不自然に寝転がりながら下らないことを考える。
起き上がり、白い壁に向かってがらくたみたいな拳銃を弾いてみる。
パチン、といういかにもっていうダサイ音がした。音を立てたビービー弾が壁に当たってからフローリングの床へと落ちる。
笑ってしまうほどに滑稽だった。ホンモノの拳銃なんて、いち高校生でしかないシズルさんに手に入れられるはずがない。常識で考えればわかりそうなものなのに、夢を終わらせる前のわたしは、玩具の拳銃をホンモノの凶器だと信じて疑わなかった。
常識で考えればホンモノの拳銃、ホンモノの凶器が手に入るはずがない。
――でも
――なにか違和感があった。
あれだけの質感、冷え切ったフォルム、咽喉が焼き切れる激痛、耳をつんざく炸裂音。すべてがわたしに都合の良い幻触、幻痛、幻聴、幻覚だったなんてことがあり得るのだろうか。
夢に堕ちる前、咽喉元に押し付けた銃口は確かなホンモノだったのではないか、そんな気がした。
段々と思考が落ち着きを取り戻していく。
あの悪夢で彩花が言っていたことを思い出す。偽物になった拳銃なんかより、今は彩花の言葉の方がよっぽど重要だ。でも、だからなんなのだろう。悪夢だったけれど、わたしが唯一彩花に会うことのできる方法を、自身の手で終わらせてしまったのだ。
彩花と一緒に死ぬことすら出来ずに、わたしは彩花と出会う手段を失った。
彩花が死んだ理由もなにひとつわからないままに。
がたっ、と部屋の扉を乱暴に開ける音がした。
ぼんやりと虚空を見つめていたわたしは、音がしてから少しだけ遅れて扉へと目をやった。
シズルさんならノックをして、尚且つ断わりを入れて返事が帰って来てから扉を開けるはずだ。アリサなら、わたしは今にして思えばあんなに酷いことを言ってしまったわけだけれど、アリサならきっとわたしを心配する一言を投げかけてくれるはずだ。
だから、扉に顔を向ける前に、誰が部屋に入ってきたのかわかった。
「静流から聞いたぞ。色々なことが終わったらしいな」
近藤瑠璃の心底どうでも良さそうな不遜な声だった。
「うん」とわたしは一応頷いた。あなたには関係がまったくないけど。
「他人は殴れたか?」
いつかわたしが訊いたことだ。他人に暴力を振るうふたつの方法。
「あなたが言っていたことなんか、これっぽっちも役に立たなかった」
わたしは親指の平と、人差し指の平を完全にくっつけて、近藤瑠璃の方へ向けながら言った。
近藤瑠璃は愛想なく笑った。だけれど、その顔は吉報でもあったように、とても良い笑顔をしていた。殴ってやりたいほどに良い笑顔だった。
暴力が大嫌いなわたしにもそう思わせてしまうほどの、本当にむかつく笑顔だった。
「くくくくっ、玩具の拳銃で引きこもりが一体何をしたというんだよ。くくっ、学びもせずビデオゲームをしているのは楽しかったか?」
うざったい大人だ。こいつ以上にうざったい人間を知らない。
「何しにきたんだよっ」
「ああ、くくくっ。様子を見に来たのさ、静流と友奈千沙、お前たちのな。聞いていないか? 俺はティーンエイジャの葛藤や苦悩を見るのが何よりも好きなんだ。そのために彩花や静流、お前たちを飼っているんだからな」
近藤瑠璃、この男にとってはこのくくくっ、という笑い方が最上の笑い方なんだろう。でもわたしにとっては最低最悪の不愉快極まりない笑い方だった。
近藤瑠璃は扉から離れ、部屋の窓側へと歩み寄る。それから、がっと勢いよく一ヶ月間一度も開かれることのなかったカーテンを開いた。
冬だというのに、苛つくほどに強い日差しが部屋のなかへと降り注いだ。
矮小な吸血鬼のように陽の光に溶けてしまいそうだった。
「うううううっ」
真面目に溶けてしまいそうだと思って、布団を頭から被り直し唸った。
がららら、とスライド式の窓が滑る音がして、冷え切った朝の風が雪崩れ込んできた。普通なら、きっと心地よい早朝の清風――とでも表現するのだろうけど、わたしには凍りつきそうなほど冷たい憎らしい風としか思えなかった。
「引きこもりの時間はもう終わりなんじゃねーのかよ? それにだな、なんだかこの部屋臭うぞ、死臭だとかそういった曖昧模糊としたものじゃなくてだな」
回りくどく近藤瑠璃は珍しく曖昧な話し方をした。
「なに?」
面倒くさいから面倒くさそうにわたしは言った。
誰かと話していたい気分じゃなかった。色々と複雑怪奇に絡み合っている思考を一人で整理したかった。
やれやれ、というジェスチャーで困り顔でわたしを見てから、近藤瑠璃は背を向けた。
「くせえんだよ。てめえの異臭にはてめえ自身じゃ気が付きにくいとは言うが、お前どんくらい風呂入ってねーんだよ?」
何を言われているのか理解に戸惑ったのだけれど、すぐに近藤瑠璃の言わんとしていることがわかって赤面した。
「嗅ぐなバカっ!」
自分の臭いを意識した瞬間、わたしはどうしようもなく死んでしまいたくなった。夢を見始めてからの『死んでしまいたい』とは、完全に真逆の心底どうでもいい死んでしまいたいだった。
一ヶ月、短いような長いような月日。
わたしは一ヶ月振りに純粋に笑ったのだった。
考えてみれば髪はぼさぼさ、肌はがさがさ、青紫色の痣は薄くなっていたけれど、わたしの姿は、行き場を失った浮浪者のように不衛生、不清潔だった。
部屋を飛び出して、ゆっくりとお湯を被り、なぜか沸かしてあった大型のユニットバスの湯船に浸かった。我ながらひどい。どんなに面倒でも、両親から折檻を受けたとしても、お風呂だけは毎日の習慣だったというのに。身体をお湯で清めることが、わたしの精神安定の手段だったのに。
一ヶ月でたまったフラストレーションを解消するように、長く長く湯船に浸かったわたしがお風呂から上がったときには、家に近藤瑠璃の姿はなくなっていた。
よくわからないやつだった。何がしたくて生きているんだろう。
リビングに置かれた時計は丁度六時で、それはわたしが学園へ出掛けていた時間だった。
※
わたしが学園へ行こうと思ったのは、義務感からでも勉学心からでもなく、ただの習慣からだった。六時に目覚めたのなら学園へ行く、そんな学生の習慣がわたしを学園へと向かわせた。一ヶ月間、一度も私立桐政学園高校の地を踏むことのなかったわたしにも、一年間で培った学生としての習慣が残っていたらしい。
彩花の家から私立桐政学園に通う場合、避けては通れない場所がある。
彩花の死んだ歩道橋。
避けては通れないとはいっても、ここは日本で、ただの平凡な街で、迂回路や回り道には事欠かないわけで、実際は避けて通れる。
でもなぜだろう。
学園に行こうと思ったのは習慣だったけれど、彩花の死に場所を通って行こうと思ったのは、確かにわたしの意思だった。
一歩一歩、彩花の死んだ歩道橋に近づいていく。その度にわたしの足取りは重くなる。もともと一ヶ月も引きこもっていて重かった下半身は、鉄球のついた鎖を引いているみたいにさらに重くなっていった。
身体を貫く風も、恐ろしいほどに冷たい。一ヶ月も暖房の付いた適温の部屋で過ごしていたせいもあるけれど、二月の風はわたしを縮みこませるには十分だった。
かたかたと小刻みに震える身体は上手く動いてくれない。
身体に不自由があろうとも、一歩一歩前に進んでいけば、確実にあの歩道橋へと近づいていく。
目の端にあの歩道橋が映る。
誰かいる。
歩道橋の真ん中、彩花の飛び降りたところ。
遠目からでも判別のつくプロポーション、同じ地味な制服を着ているはずなのにちっともみすぼらしい感じのしない着こなし。
歩道橋をゆっくりとした足取りで登る。
歩道橋の真ん中の人影は気が付いて、ゆっくりとわたしの方を向いた。
「千沙、どうして?」
アリサは酷くくすんだ表情をしていた。幽鬼のような、という表現が当てはまってしまうほどに沈み込んでいた。
いつかと同じように、わたしとアリサは歩道橋の中央で向かい合ったのだ。
「どうしてって、学校へ行くんだよ。わたしは学生だもの」
アリサはわたしの言葉にふるふると首を振った。
「私ね、最近すごく嫌な夢を見るの……」
わたしの言葉を聞く様子もなく、アリサは話し始めた。話し始めると、アリサの表情はさらに暗くなっていった。
「……嫌な夢だよ。人が死ぬ夢、わたしが彩花さんを殺してしまう夢。その夢には千沙もでてきて、私は私の意思とは無関係に千沙を……千沙の顔を……」
「わたしの顔をぐちゃぐちゃにした?」
アリサの言葉に繋げるように、わたしは喋る。
アリサの見ていた夢もわたしたちと同じだ。彩花はわたし、静流さん、アリサ、その三人に夢を見せていたのだ。
なんで?
どうしてアリサに?
疑問がふつふつと湧き上がってくる。でもつまり、だからなんなのだろうか。アリサが悪夢の登場人物だったからといって何なのだろうか。アリサが純白の天使ソレイユとして、その役を演じさせられていたからといって何なのだろうか。
最後に見た夢に、どういう意味があるのだろうか。
アリサは関係ないじゃないか。だって、彩花とアリサに繋がりなんてなかったはずなんだから。
「私を助けてよっ! あんな悪夢もう見ていられない、なんで私が彩花さんを殺さなくちゃいけないの? なんで千沙を傷付けなくちゃいけないの? なんでなんでなんでなんでなんで!」
わたしはアリサの涙声に、はっとする。
その取り乱し具合が尋常じゃないことに思い至る。
――あんな夢を見せられて、尋常でいられる方が狂っている。
アリサは――純白の天使ソレイユは加害者なんかじゃなかった。無理矢理加害者に仕立て上げられていた被害者だ。純白の天使ソレイユは彩花を積極的に殺害していたんじゃない。純白の天使ソレイユは宵風彩花を強制的に殺害させられていたんだ。
一体誰に?
そんな疑問の答えは、もうとっくに出ている。
悪夢を異常な精神で創作した張本人なんてはじめからわかっている。わたしたちはみんな踊らされていた。
誰よりも他人の感情の機微に敏い少女。
宵闇の少女。
わたしのシンユウ。
そんなものは宵風彩花しかいない。
はじめは彩花が誰かに殺されたんじゃないかと思っていた。眠りに着くたびに見続ける悪夢が、彩花は誰かに殺されたのだと、宵風彩花は被害者なのだとわたしたちに錯覚させた。
宵風彩花は――
「彩花さんって何なの? あの人はおかしいよっ! だって夢のなかでもあの人、私に殺される瞬間まで――口の端を釣り上げて嫌らしく笑っているんだよっ」
わたしの思考はアリサの大声に遮られた。
「わたしも彩花が何を考えていたのかわからない」
率直で、正直な彩花への感情。
「千沙はおかしいと思わないの? 近藤彩花は、はじめて会ったときからおかしかった。全然まともじゃなかった。あの人に振り回されるのはもう――嫌だよっ」
今にも泣き崩れてしまいそうに疲弊したアリサの言葉の真意は、わたしには掴めなかった。彩花とアリサのあいだに何かがあったのだろう。
『何か』。その何かにわたしは踏み込めない。
「わたしはそれでも彩花を助けたかった…………彩花と一緒にいたかった」
アリサの涙が移ってしまったのだろうか、わたしの瞳からも堰を切ったように涙が溢れ出した。最後の夢での、彩花のわたしへの返事。
――さようなら。
彩花の飛び降りた歩道橋の上で、彩花にフラれてしまったことをはじめて自覚した。さようなら――きっぱりとわたしの想いを突き放す言葉だった。
わたしは何度も何度も何度も、目元を手で拭った。ぼろぼろぼろぼろと止まることない涙を拭い続けた。
どうしようもなく自分勝手な理由でわたしは泣いた。先に涙ぐんで助けを求めてきたアリサとは完全に無関係な理由で、わたしは泣いていた。自分ひとりのためだけに涙を流していた。
かつん、かつん、とアリサが歩道橋の床を鳴らし近寄ってくる。一歩、二歩、三歩。俯いたわたしの視界にアリサの足もとが映る。
わたしの顎のあたりを撫でたアリサの指が、俯いていたわたしの顔を上げる。
デジャビュだった。いや、デジャビュではなく実際に夢のなかで起こった出来事。純白の天使に奪われたわたしの唇。あのときの怒り、憎悪、怖気が蘇る。
「いやっ――」
わたしは眼前まで迫っていたアリサを突き飛ばした。アリサは絶望したように困惑し、狼狽した。
「なんで千沙? わたしも彩花さんを救おうとしたときのように救ってよ! 穢れた私を拭い去ってよっ! 気持ち悪いあの女の感触を忘れさせてよっ!」
「わかんないよ、わかんない! アリサが何をしたいのか、何をして欲しいのかまったくわからない」
わたしは拒絶してしまった。
アリサの行為も、アリサの好意も。
アリサは立ち竦んだまま、何処を見ているのかわからない瞳で、何かを見ていた。
「一年前――桐政学園に入学してからすぐ、近藤彩花と出会って二人きりになった瞬間、無理矢理キスをされた。脈絡も何もなく、たまたま二人きりになったというだけで。しかも舌と舌を絡み合わせる穢らわしいキスを。あの感触が、あの怖気が今になってまたぶり返してきたの。意味不明だった、理解不能だった。ただ気持ち悪くて、吐き気がした。夢を見始めてから、あのときの記憶も感触も、全てが鮮明に蘇ってきて、うがいを何百回しても拭い去れなくて。近藤彩花は狂ってるっ、気色悪い、キモイキモイキモイ。だから千沙には近藤彩花に近寄って欲しくなかった。でも、だって、それでもどんどん千沙は近藤彩花に近付いて行って、近藤彩花が死んでからはもっと顕著になって、千沙までおかしくなって――」
「わたしはおかしくなんてなってない!」
おかしくなってはいたけれど、そう言わないわけにはいかなかった。
理解が追い付かなかった。アリサが心に溜めていたものは、アリサが仕舞い込んで忘れようとしていたことは、アリサが口にしたことはあまりにも強烈で、推測不可能なことだったから。
アリサが揺らいだ。文字通り、揺らいで、歩道橋の柵へともたれかかった。限界だとでも言わないばかりに。
「おかしいに決まってんじゃん! 死んでからもあんなキショイ女を追いかけて、近藤彩花はね、私の容姿だけにしか興味がなかったのよっ! 友奈千沙にも私にも興味がなくて、私の外見のためにだけに千沙を利用して、私から千沙を奪って、勝手に死んで、そんなキチガイ女を救おうだなんて思った千沙が――」
――おかしくねぇわけねぇじゃん。
アリサの整った顔立ちが崩れた。崩れて、歪んで、破顔した。最後にアリサは不気味に微笑んだ。
するっ、と何かに足下を掬われたようにアリサの身体は不自然に歩道橋の柵を乗り越えた。まるで、何かに浮かされたように。そして。
何かが破裂するような、激しい音が響いた。
太陽が頭を出し始めて宵が終わるそんな時刻に、それから『呪われた歩道橋』と呼ばれるようになるイビツな場所で、美月アリサは絶命した。
エピローグ
四月を迎え、わたしは私立桐政学園高校の二学年へと進級した。冬の寒さも僅かに残っていたけれど、桜は咲き誇り、春だなあ、なんてことをわたしに思わせた。
現実でもスクールスカートの丈を短くしたせいか、春先の風がふともものあいだを通り過ぎてくすぐったかった。
『呪いの歩道橋』。近藤彩花と美月アリサ、現在二人とも自殺という位置づけになっている。二人が自殺した歩道橋は一時忌避されていたものの、二人の死から時間の経った今では歩道橋を使用する人もなんとも思っていないだろう。
他人が自殺したことなんて、たった二ヶ月で忘れ去られてしまうものなのだ。
あの悪夢も、もう見ていない。というより夢というものをまったく見なくなった。本来夢は覚えているか、覚えていないかのもので、見る見ないのものではないらしい。人間は覚えていなくても睡眠を摂れば必ず夢を見ている。だから、夢を見ていない、なんて言い方はちょっとだけおかしい。
アリサが死んでしまった日から、わたしは割と真剣に学校に通っている。彩花の家から学園に通っている。
両親からの連絡はなく、わたしを気遣う様子はなかった。近藤瑠璃はわたしがマンションに住み着いても、何度か様子を見に来ただけで、わたしを追い出そうとはしなかった。 いわく、「おもしれえなあ」らしい。
他人の家から学校へ向かい、他人の家へ帰る。それだけで身体に刻まれていた青黒い染みは消えていったし、何かに怯えて暮らす必要もなくなった。なんだか至極簡単な、だけど現実的には、少なくともあり得ないと思っていた方法で、わたしは昔よりちょっとだけ自由になった。
精神的にも。
肉体的にも。
わたしは現状にわりと満足している。
彩花のとなりにはいられなくなったけれど。
ついでに失恋もしたけれど。
この現状は、彩花がわたしにくれたプレゼント、いや対価なのかも知れない。何の対価なのかはわからない。あれから二ヶ月経った今になってもわからないけれど。なんだか、そんな気がする。
話は変わるけれど近藤静流さんは、拳銃を渡されたあの日からどこにもいなくなってしまった。家にも学校にも。この地球上のどこかにはいるのだろうけど、わたしの周りからはいなくなった。
何故いなくなったか、なんて想像には何の意味もない。他人の感情の動きに疎いわたしが想像したところできっとわからないだろう。わからない、と決まっていることは考えない方が賢明だ。
彩花はいなくなって、アリサもいなくなって、静流さんもいなくなって――でもわたしはここにいる。それだけが現実なんだと思う。
夢や幻じゃなくて現実。そんな風に思う。
宵刻の『呪いの歩道橋』でそんなことを、そんな風に考える。二ヶ月振りにやってきた歩道橋は、宵の口にも関わらず、相変わらず車通りが多くて空気が悪かった。両脇に立ち並ぶビルの群れは灰色のくすんだ色をしていて景色も悪かった。
――千沙、千沙、千沙、千沙。
誰かが呼んでいるような気がした。誰かに呼ばれているような気がした。
「わたしも死んじゃおうかな」
いなくなってしまおうかな。
――千沙、あなただけはこちらにきてはいけないわ。
こちらへきてはいけない、と言われたような気がした。
どっちがいいんだろう。
どっちでもいいのかな。
わたしがこの歩道橋から飛び降りたとしても、彩花とは一緒にいられないだろう。同じ場所で死ねば、その場所で死んだ人のところへ行ける。そんな滅茶苦茶な理屈はないのだから。
理屈の通らない夢を見て、始めてそう思った。
真相は彩花の自殺。わたしの探していた犯人なんてものはいなかった。復讐心なんてものも、とうの昔に消えてしまった。だって彩花は望んで命を捨てたのだから。わたしの復讐心はもともと向かう方向がなかったのだ。
どうして宵風彩花は死んでしまったのか?
それは他愛のない、ありふれた、当たり前の理由。わたしが死んでしまった彩花を追いかけたのと同じ理由。わたしと彩花の想いは擦れ違っていたけれど、確かに同じ理由だった。
一陣の風がわたしの頬を撫でる。排気ガスで汚れた空気を一蹴するような心地の良い春の宵風だ。
歩道橋から宵の空を見上げる。
想像する。無駄だとわかっていても想像する。
彩花はきっと虚構と現実を別けていなかった。エニグマフォースと現実が重なり合い、二つの世界が混じり合って溶けあったものが、彩花の世界だった。
彩花とアリサが出会ったとき、彩花のなかで、決定的に虚構と現実が混じり合ってしまったのだろう。彩花は万能だから虚構と現実を完全に混じり合わせる方法を思いついてしまった。
――現実を虚構にしてしまえばいい。
それが彩花の解答だった。自殺することで自分の存在を虚構へと、完全なる宵風彩花へと変質させた。アリサを殺すことでアリサの存在を虚構へと堕とした。アリサを純白の天使ソレイユへと変質させた。
交わした約束も、わたしたちがシンユウになるための儀式なんかじゃなかった。近藤彩花が『宵風彩花』へと、虚構の存在に近づくためだけの儀式だったのだ。
彩花は誰よりも他人の感情の機微に敏く、わたしとは正反対だったから、アリサがわたしに向けていた好意についても知っていたのだろう。だからわたしを利用した。利用してアリサを殺した。
同じ場所で死ねば、その場所で死んだ人のところへ行ける。そんな馬鹿げた理屈を、彩花は信じていたのだろうか。
彩花はきっと何かを盲信しなくては生きてゆけなかったのだ。どんなに非現実的で、馬鹿げた理屈で、数えきれないほどの矛盾点を内包していたのだとしても。その全てを許容しなければ、死ぬことすらできなかったのだ。
――愛する人のためならいつでも死ねる。
彩花の言葉の裏側は「愛する人がいなければ死ねない」ということだった。だから、愛する人を見つけた瞬間に、彩花は死を決意したのだ。現実にアリサを、純白の天使ソレイユを見つけた瞬間に。
つまるところ、わたしたちが見続けた宵闇の夢の被害者は、美月アリサただ一人だけだった。わたしはわたしでやりたいようにやったし、はじめから彩花はアリサにしか興味がなかった。いや、純白の天使ソレイユにしか興味がなかった。
推測の域を出ない想像。正解はもう誰にも分からない。
わたしは歩道橋の錆びれた階段を一歩一歩確実に降りて行く。宵闇のなかで、階段を踏み外さないようにしっかりと。
コンクリートの地面に立ってから、もう一度歩道橋を見上げる。
歩道橋の中央に、二人の女の子が立っているような気がした。彩花は掴んだものを永遠に手放さないだろう。彩花は彩花なりの方法で虚構を手に入れたのだ。
「さようなら」
一方は拒絶で、一方は別れの言葉。
四月、はじまりの季節、わたしはシンユウの死んでしまった歩道橋に背を向けて。
シンユウ宵風彩花と絶交した。
~fin~