壁の中
古いアパートのその部屋は、特別安かった。
駅から徒歩四分。
築三十年のアパート。
角部屋のワンルーム六畳。
家賃は周囲の相場より二万円ほど安い。
理由は「古いから」と説明された。
だが、このアパートより古いアパートは他にもあった。
なぜここだけが特別安いのかーー。
だが、俺はラッキー程度に考えて、そこまで気にしなかった。
***
問題に気づいたのは、引っ越した翌日のことだった。
ふと、この部屋の間取り図を眺めていたときだ。
図面には、六畳の部屋の横に小さな四角いスペースが描かれている。
初めは、押入れか何かだと思った。
だが実際の部屋には、収納がない。
大家にも収納はないと事前に説明されていた。
この部屋には、クローゼットも押し入れもないのだ。
私は部屋を見回した。
確かに、どこにも収納はない。
だが、図面には確かに収納スペースらしき四角い空間がある。
「収納でなければこの空間は一体なんだ?」
幅は約一メートル。
俺は壁のほうを見た。
部屋の奥の壁だけ、少し壁紙が厚くなっているように見えた。
私は大家に電話した。
「この部屋って……収納あります?」
大家は言った。
「……初めにも説明したとおり、収納はありませんよ」
「でも……図面に収納スペースのような空間があるんですが……」
電話の向こうでしばらく沈黙があった。
「……もしかしたら、そちらは古い図面かもしれません」
「……そうですか……」
夜になり、私はその壁を叩いてみた。
ーーコン
やけに軽い音がした。
明らかに、この壁の奥は空洞のようだった。
***
数日後。
夜中にふと目が覚めた。
壁のほうから音がしたからだ。
ーーコン
壁の向こうから。
ーーコン
誰かが叩いている。
俺はスマホをぎゅっと強く握りしめた。
ーーコン
ーーコン
俺は勇気を出して壁を叩き返した。
ーーコン
ーーコン
ーーコン
音が止まった。
そしてーー
ーーコン
ーーコン
ーーコン
同じ回数で叩き返された。
俺は背筋が凍りついた。
壁の向こうに誰かいるーーそう確信した。
だが、考えてみてほしい。
図面の収納は扉がない。
つまりーー出入り口がないのだ。
人が入れる構造ではないと言うことだ。
***
俺は次の日、大家に聞いた。
「あの……この壁の向こうって……何がるんですか……?」
大家は黙った。
そして、しばらくして言った。
「……昔、そこは押し入れだったんです」
「……だった?」
「ええ。……この部屋の最初の住人が、押し入れに子供を監禁したまま逃げて……その子が亡くなったようなんです」
「……つまり……、ここは事故物件ということですか……?」
「……いえいえ!何度か住人が変わりましたし……事故物件だなんて言わないですよ」
「……そんなの言い訳じゃないですか!」
俺は思わず声を荒げた。
電話の向こうで、大家はしばらく黙っていた。
「……まあ、そう思う人もいますよね」
「ここで人が死んでるんですよ?」
大家は小さく息をついた。
「あの……一つだけ、訂正しておきます」
私は息を呑んで、言葉を止めた。
「……その子供、亡くなったかどうかは、はっきりしていないんですよ」
「……どういう意味ですか?」
「当時、何ヶ月も家賃が支払われず困っていたのでーー警察も呼びましたし、押し入れも確認したんです」
「でも……子供は、どこにもいなかったんです」
私は言葉を失った。
「……いや、だから……どういう意味ですか?」
「監禁されていたのは事実です。逃げた住人が捕まって、警察で自白しましたから……。食事もほとんど与えていなかったようですし、最後に見た時は息をしていなかったと……」
大家は言葉を止めて、しばらく沈黙し、再びゆっくり話し始めた。
「でも……押し入れの中は空だったんです……」
私はゆっくり部屋の奥の壁を見た。
ーーコン
その瞬間、音がした。
俺は凍りついた。
ーーコン
ーーコン
俺はスマホを握る手に力を入れた。
「……大家さん、今の……聞こえましたか?」
「え?何にがですか?」
「壁を叩く音ですよ!」
「……実は、その音を聞いたというのは、あなたで三人目なんです。前の住人も、同じことを言っていました。夜になると、壁の中から音がする、と」
ーーコン
ーーコン
ーーコン
俺は震える手で壁に近づいた。
そして、勇気を出して叩いた。
ーーコン
ーーコン
ーーコン
音が止まった。
数秒の沈黙。
そしてーー
ーーコン
ーーコン
ーーコン
同じ回数で叩き返された。
俺は壁に耳を当てた。
その瞬間、はっきり聞こえた。
小さなかすれた声。
「……だ…し…て……」
大家が電話の向こうでそっと囁いた。
「そうか。やはりーー次は、あなたなんですね……」




