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壁の中

作者: 桔梗
掲載日:2026/07/08

古いアパートのその部屋は、特別安かった。


駅から徒歩四分。

築三十年のアパート。

角部屋のワンルーム六畳。


家賃は周囲の相場より二万円ほど安い。

理由は「古いから」と説明された。

だが、このアパートより古いアパートは他にもあった。


なぜここだけが特別安いのかーー。

だが、俺はラッキー程度に考えて、そこまで気にしなかった。


***


問題に気づいたのは、引っ越した翌日のことだった。

ふと、この部屋の間取り図を眺めていたときだ。


図面には、六畳の部屋の横に小さな四角いスペースが描かれている。


初めは、押入れか何かだと思った。

だが実際の部屋には、収納がない。


大家にも収納はないと事前に説明されていた。

この部屋には、クローゼットも押し入れもないのだ。


私は部屋を見回した。

確かに、どこにも収納はない。

だが、図面には確かに収納スペースらしき四角い空間がある。


「収納でなければこの空間は一体なんだ?」


幅は約一メートル。


俺は壁のほうを見た。

部屋の奥の壁だけ、少し壁紙が厚くなっているように見えた。

 

私は大家に電話した。


「この部屋って……収納あります?」


大家は言った。


「……初めにも説明したとおり、収納はありませんよ」


「でも……図面に収納スペースのような空間があるんですが……」


電話の向こうでしばらく沈黙があった。


「……もしかしたら、そちらは古い図面かもしれません」


「……そうですか……」


夜になり、私はその壁を叩いてみた。


ーーコン


やけに軽い音がした。

明らかに、この壁の奥は空洞のようだった。


***


数日後。


夜中にふと目が覚めた。

壁のほうから音がしたからだ。


ーーコン


壁の向こうから。


ーーコン


誰かが叩いている。


俺はスマホをぎゅっと強く握りしめた。


ーーコン

ーーコン


俺は勇気を出して壁を叩き返した。


ーーコン

ーーコン

ーーコン


音が止まった。


そしてーー


ーーコン

ーーコン

ーーコン


同じ回数で叩き返された。

俺は背筋が凍りついた。


壁の向こうに誰かいるーーそう確信した。

 

だが、考えてみてほしい。

図面の収納は扉がない。

 

つまりーー出入り口がないのだ。

人が入れる構造ではないと言うことだ。


***


俺は次の日、大家に聞いた。


「あの……この壁の向こうって……何がるんですか……?」


大家は黙った。

そして、しばらくして言った。


「……昔、そこは押し入れだったんです」


「……だった?」


「ええ。……この部屋の最初の住人が、押し入れに子供を監禁したまま逃げて……その子が亡くなったようなんです」


「……つまり……、ここは事故物件ということですか……?」


「……いえいえ!何度か住人が変わりましたし……事故物件だなんて言わないですよ」


「……そんなの言い訳じゃないですか!」


俺は思わず声を荒げた。

電話の向こうで、大家はしばらく黙っていた。


「……まあ、そう思う人もいますよね」


「ここで人が死んでるんですよ?」


大家は小さく息をついた。


「あの……一つだけ、訂正しておきます」


私は息を呑んで、言葉を止めた。


「……その子供、亡くなったかどうかは、はっきりしていないんですよ」


「……どういう意味ですか?」


「当時、何ヶ月も家賃が支払われず困っていたのでーー警察も呼びましたし、押し入れも確認したんです」


「でも……子供は、どこにもいなかったんです」


私は言葉を失った。


「……いや、だから……どういう意味ですか?」


「監禁されていたのは事実です。逃げた住人が捕まって、警察で自白しましたから……。食事もほとんど与えていなかったようですし、最後に見た時は息をしていなかったと……」


大家は言葉を止めて、しばらく沈黙し、再びゆっくり話し始めた。


「でも……押し入れの中は空だったんです……」


私はゆっくり部屋の奥の壁を見た。


ーーコン


その瞬間、音がした。

俺は凍りついた。


ーーコン

ーーコン


俺はスマホを握る手に力を入れた。


「……大家さん、今の……聞こえましたか?」


「え?何にがですか?」


「壁を叩く音ですよ!」


「……実は、その音を聞いたというのは、あなたで三人目なんです。前の住人も、同じことを言っていました。夜になると、壁の中から音がする、と」


ーーコン

ーーコン

ーーコン


俺は震える手で壁に近づいた。

そして、勇気を出して叩いた。


ーーコン

ーーコン

ーーコン


音が止まった。

数秒の沈黙。


そしてーー


ーーコン

ーーコン

ーーコン


同じ回数で叩き返された。

俺は壁に耳を当てた。


その瞬間、はっきり聞こえた。

小さなかすれた声。


「……だ…し…て……」


大家が電話の向こうでそっと囁いた。


「そうか。やはりーー次は、あなたなんですね……」

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