夜毎、鏡の向こうで-間宮響子-
五月一日。
午前中の清々しいほど晴れていた空は午後になると暗雲が立ち込め湿った霧雨が音もなく降り出した。
間宮響子は、依頼人の女が差し出した古びた手鏡を、指先だけで受け取った。
「……これが、原因なのね」
目の前の女は無機質な目で響子の手元にある古びた鏡を見つめながら機械仕掛けの人形の様に頷いた。目の下には黒い隈。眠れていない顔だった。
「夢に出るんです……毎晩。同じ場所、同じ部屋……でも、少しずつ“違う”んです」
響子は何も言わず、鏡面を覗き込んだ。
――その瞬間、鏡の奥で“何か”が動いた。
(……いる)
確信だった。霊ではない。もっと粘着質で、悪意が形を持ったような“何か”。
「この鏡、どこで手に入れたの?」
「祖母の遺品です。使ってはいけないって……でも、ただの迷信だと思って……」
愚かだ、と響子は思ったが口には出さなかった。
すでに手遅れだ。
「夢の内容を詳しく話して」
女は震える声で語り始めた。
最初の夜。
古い家の中に立っている夢。見知らぬはずなのに、なぜか“帰ってきた”という感覚があった。
二日目。
部屋の奥に、もう一枚の鏡が現れた。そこに映る自分が、ほんの一瞬だけ笑った。
三日目。
鏡の中の“自分”が、先に瞬きをした。
四日目。
振り返ると、背後に誰かが立っていた。
だが、顔は見えない。
ただ、“自分と同じ輪郭”をしていた。
「……五日目は?」
響子が問うと、女は顔を覆った。
「私、起きられなかったんです……朝、目が覚めなくて……家族に叩き起こされて……」
そのとき、女の声がかすれた。
「でも……夢の中では、“起きてた”んです」
響子はゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどね」
これは夢ではない。
“入れ替わり”だ。
その夜、響子は女の家に泊まり込んだ。
問題の手鏡は、寝室の机の上に置いたままにする。
「絶対に触らないで。何があっても」
そう言い残し、響子は隣室で霊視の準備を整えた。
深夜二時。
空気が変わった。
じわり、と湿った気配が床を這う。
鏡のある部屋から、微かな音がした。
――コン。
――コン、コン。
誰かが、内側から叩いているような音。
響子は扉を開けた。
寝室の灯りは消えている。
だが、鏡だけが、ぼんやりと光っていた。
「……来たわね」
近づいた瞬間。
鏡の中の“響子”が、こちらを見ていた。
動かない。
だが、目だけが――笑っている。
(……違う)
これは自分じゃない。
“向こう側の何か”だ。
そのとき、背後で布団が軋んだ。
振り返る。
眠っているはずの女が、ベッドの上で“起き上がっていた”。
だが、その動きは人間のものではない。
関節が逆に曲がり、ぎこちなく、糸に操られるように立ち上がる。
そして――
「ねえ」
女の口が開いた。
だが、声は二重に重なっていた。
「どっちが、本物だと思う?」
響子は一歩も動かなかった。
代わりに、低く呟く。
「あなたは、“外に出たい”だけでしょう」
鏡が震えた。
内側から、無数の手が浮かび上がる。
顔のない人影が、ぎっしりと詰まっている。
全員が、こちらを見ている。
「出して」
「出して」
「出して」
声が重なり、部屋を満たした。
響子は懐から符を取り出し、鏡に叩きつけた。
瞬間、悲鳴が弾けた。
だが――
遅かった。
翌朝。
依頼人の女は、ベッドの上で穏やかに眠っていた。
呼吸も正常。
ただ一つだけ、異常があった。
鏡が、消えていた。
完全に。
跡形もなく。
数日後。
響子は自宅の洗面所で、顔を洗っていた。
ふと、顔を上げる。
鏡の中の自分と、目が合う。
……一瞬だけ。
ほんの、一瞬だけ。
鏡の中の“響子”が、現実の響子よりも、わずかに遅れて微笑んだ。
その夜。
夢を見る。
古い家。
見覚えのある部屋。
そして、奥に置かれた一枚の鏡。
そこには――
“こちら側”の自分が映っている。
必死に何かを叫んでいる。
だが、声は届かない。
響子は、ゆっくりと理解した。
(……ああ)
(あの時、入れ替わったのは――)
どちらだったのか。
もう、誰にもわからない。
それ以来。
鏡を見るたびに、わずかな“ズレ”がある。
瞬きのタイミング。
呼吸の間。
笑う速度。
すべてが、ほんの少しだけ違う。
そして、夜。
夢の中で。
“あちら側の響子”が、こう囁く。
「ねえ」
「次は、あなたの番よ」
今、見ているその鏡も。
本当に“こちら側”のものだと――
どうして言い切れる?
――(完)――




