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身代わりの花嫁は、伯爵に居場所をもらった

作者: 春野スミレ
掲載日:2026/02/23

 エマの居場所は、街の外れにある、崩れかけの建物だった。


 元は倉庫だったらしいその場所には、壁の隙間から風が入り、雨が降れば天井のどこかから必ず水が落ちてくる。それでも、行き場のない子どもたちが身を寄せ合って生きるには、十分すぎるほどの「家」だった。


「おかえり、エマ」


 先に戻っていた少年が、薪の代わりに拾ってきた木切れを火にくべながら言う。年は十歳くらいだろう。弟でも妹でもない。けれど、ここにいる子どもたちは皆、血のつながりがないというだけで、エマにとっては家族のような存在だった。


「今日はパンが安かった。少しだけ、余分に買えたよ」


 そう言うと、奥から小さな子が駆け寄ってくる。破れた靴、継ぎはぎの服。それでも、笑う顔だけは、どうしようもなく眩しい。


 エマは、彼らの頭を順番に撫でてから、袋を床に置いた。

 ここでの暮らしは楽じゃない。

 それでも、奪い合うよりは、ずっとましだった。


 だから、扉を叩く音がしたとき、胸の奥がひどく冷えるのを感じた。


 こんな場所に、客が来ることはない。

 用があるとすれば、ろくな話じゃない。


 扉の向こうに立っていたのは、身なりのいい男だった。貧民街には似つかわしくない、手入れの行き届いた靴と外套。後ろには、同じような服装の男がもう一人、無言で立っている。


「エマだな」


 名前を呼ばれて、否定しなかったのは、それが意味を持たないとわかっていたからだ。


「話がある。中に入ってもいいか」


 断る理由はあった。

 けれど、断れる立場にはいなかった。


 男は、部屋の中を一瞥すると、興味がなさそうに視線を戻した。


「単刀直入に言おう。こちらの条件を飲まないなら、この子どもたちは売る」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「……何を、言って」


「人買いに、いくらでも需要はある。年齢も、数も、ちょうどいい」


 淡々とした声だった。脅しではなく、事実を告げているだけの口調。

 子どもたちが、息を呑む気配がした。


 エマは、ゆっくりと息を吸う。


「……条件、とは?」


「簡単な話だ。身代わりになれ」


 男は言った。


「ある家の娘が、結婚から逃げた。その代わりが必要だ。お前は、顔立ちも背格好も、条件に合っている」


 つまり、消えてもいい存在。

 脅せば言うことを聞く存在。


「拒否すれば、さっき言った通りだ」


 エマが言葉を探している間に、背後で小さな足音がした。


「……行かないで」


 誰かが、袖を掴む。

 振り返ると、さっきまで笑っていた子が、必死に首を振っていた。


「エマがいなくなったら、どうするの。俺たち……」


 続く言葉は、うまく声にならなかったらしい。代わりに、別の子が言った。


「売られるとか、嘘だよね? ねえ、エマ……」


 嘘だと言ってやれたらよかった。

 けれど、そんな優しい嘘は、ここでは何の役にも立たない。


 エマは、いったん膝をついて、子どもたちと目の高さを合わせた。


「大丈夫」


 それだけ言うのに、少しだけ、喉が痛んだ。


「私がいなくなっても、みんなはここにいる。……それでいい」


「よくない!」


 今度は、別の子が声を荒げる。


「エマがいないと――」


 そこで、言葉は途切れた。


 エマは、ゆっくりと、ひとりひとりの顔を見る。

 怖がっている顔。

 縋るような目。


 ――だからこそ、だ。

 生き残るためなら、このくらいの理不尽は、もう慣れている。


「……わかりました」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「行きます。あなたたちの言う通りに」


 男は、満足そうに口の端を上げた。


「賢い選択だ」


 そう言われても、何も感じなかった。


 エマはただ、もう一度だけ、子どもたちの顔を見た。


 大丈夫。

 生きていれば、それでいい。

 そう、自分に言い聞かせるようにして。


 馬車に乗せられ、エマは屋敷へと連れて行かれた。


 貧民街からそう離れていないはずなのに、窓の外の景色はまるで別の国のものだった。舗装された道、整えられた街路樹、静かに行き交う人々。座席は柔らかく、揺れも少ない。さっきまでいた場所と、同じ街だとは思えなかった。


 やがて馬車は、高い塀に囲まれた屋敷の前で止まる。門をくぐり、案内された応接の間は、過剰な装飾こそないものの、調度品の一つひとつに金がかかっているのがわかる部屋だった。

 少し待たされてから、扉が開く。


 入ってきたのは、よく肥えた男と、着飾った婦人、それから若い娘だった。


 娘は、柔らかな色のドレスを揺らしながら、部屋の隅に立つエマを見て、ぱっと表情を明るくした。


「……あ、やっぱり似てる」


 それは、感心したというより、面白いものを見つけたみたいな声だった。


「ねえ、お父様。これなら大丈夫よね? 遠くから見たら、誰も気づかないと思う」


 男は、エマを一瞥し、満足そうに口の端を上げる。


「……なるほど。聞いていた通りだ。顔立ちも背格好も、条件に合っている」


 婦人も、扇で口元を隠しながらうなずいた。


「少し整えれば、十分でしょうね。伯爵の屋敷に出しても、恥にはならないわ」


 “出して”。


 その言葉は、人ではなく、品物に向けられるものみたいに聞こえた。


 男は、椅子に腰を下ろし、機嫌よさそうに指を組む。


「もともと、この縁談はこちらから伯爵に持ちかけたものだ。爵位に財力……ああいう相手と繋がっておけば、こちらの立場も悪くない」


 婦人が、さも当然という顔で続ける。


「最初は、この子も乗り気だったのよ。顔立ちがいいって聞いて」


「だって、イケメンなんでしょう?」


 娘――本物のアリスは、軽い調子でそう言って、肩をすくめた。


「それなら、悪くないかなって思っただけ。でも……」


 そこで、少しだけ顔をしかめる。


「噂を聞いたの。伯爵の屋敷、使用人が長く続かないんでしょう? 関わった人、みんなすぐにいなくなるって。……ちょっと、怖いじゃない」


 男――ローデリヒ公爵は、軽く鼻で笑った。


「怖くなった、か。まあ、無理もない。だが、話はもう通っている。伯爵は、この縁談を受けた」


 婦人は、ため息まじりに言う。


「政略結婚というのは、そういうものよ。相手と繋がりは持ちたい。でも、この子を差し出すつもりはないわ」


 その視線が、何のためらいもなく、エマに向く。


「だから、代わりが必要だったの」


 ローデリヒ公爵が、当然のことのように言った。


「条件にも合っているし、何より……いなくなっても、困る者がいない」


 胸の奥が、静かにきしむ。

 エマは、ただ黙って、それを聞いていた。


 ――なるほど。


 この人たちにとって、大事なのは金と名誉。

 娘は守るもの。

 私は、使い捨てにしていい“代わり”。


「ねえ、ちゃんとやってね」


 アリスが、くすりと笑って言った。


「私の代わりなんだから。変なことしないでよ? 私の名前で行くんだからさ」


 それは、冗談めかした、軽い口調だった。

 誰かに用事を押し付けるみたいな、気軽さ。


 エマは、何も言わなかった。


「さあ、身なりを整えなさい」


 婦人が、使用人に指示を飛ばす。


「髪も、服も。伯爵の屋敷に送るんだから、みすぼらしいままじゃ困るわ。……“アリス”として行くんでしょう?」


 その名前を、エマは心の中でなぞる。


 ――アリス。


 それが、今日から自分が名乗ることになる名前だった。


 別室に連れて行かれ、湯を使わされ、髪を整えられ、見慣れない服を着せられる。

 鏡に映った自分は、確かに、少しだけ“それらしく”なっていた。


 もう一度応接の間に戻ると、アリスは興味を失ったように鏡の前に立ち、エマの方はちらりとも見なかった。


「じゃあ、よろしくね。代役さん」


 それだけ言って、くるりと背を向ける。

 エマは、小さく頭を下げた。


「……承知しています」


 それで、十分だった。

 ほどなくして、再び馬車が用意された。

 今度こそ、行き先は伯爵クラウスの屋敷だという。


 エマは、席に座り、窓の外を見た。


 ――私は、“アリス”。


 そう言い聞かせるたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 *


 伯爵クラウスの屋敷は、噂から想像していたよりも、ずっと静かだった。

 広い敷地に、整えられた庭。建物も大きいが、どこか落ち着いている。

 出迎えた使用人の数は、驚くほど少なかった。


 ――人が、少ない。


 それが、最初に浮かんだ印象だった。

 応接の間に通され、しばらく待つ。


 やがて扉が開き、背の高い男が入ってくる。

 黒い外套。無駄のない体つき。整った顔立ちだが、表情は硬い。


「……君が」


 それだけ言って、わずかに間を置く。


「アリス、だったな」


 低く、落ち着いた声。

 エマは、一瞬だけ胸の奥が強く脈打つのを感じながら、静かに頷いた。


「……はい」


 本当の名前を名乗る場ではない。

 クラウスは、短く息を吐いた。


「形式ばった挨拶は、いらない。しばらく、この家で暮らしてもらう。部屋は用意させてある」


 少しだけ視線を逸らす。


「使用人の数は多くない。不便なことがあれば言ってくれ」


 それだけ告げて、背を向けかける。

 拍子抜けするほど、あっさりしていた。


「あの……」


 思わず、声が出る。

 クラウスは振り返った。


「何だ」


「…私は、その…」


 “妻として”来たはずの立場だ。けれど、どう切り出せばいいのかわからない。

 クラウスは、少し考えるように視線を落としてから、言った。


「必要以上のことは、今すぐ求めるつもりはない。君が、この家に慣れるまででいい」


 言葉は少ない。

 けれど、その口調は、噂にあった“人がすぐいなくなる伯爵”とは、どうしても結びつかなかった。


「困ることがあれば、使用人か、私に言え」


 それだけ言って、部屋を出ていく。

 取り残されたエマは、しばらくその場に立ち尽くしてから、ゆっくりと息を吐いた。


 案内された部屋は、ひとりで使うには広すぎるくらいで、窓からは庭が見えた。

 整えられたベッドと、机の上の水差し。


 ――追い払われる場所、ではなさそうだ。


 エマは、そっと椅子に腰を下ろす。


 期待してはいけない。

 私は、“代わり”なのだから。



 夕食は、広い食堂でとることになった。


 向かいに座るクラウスは、必要以上に喋らないが、給仕が来るたびに短く礼を言い、淡々と食事を進めている。


 料理は、エマには少し贅沢すぎるくらいだった。

 子どもたちは、今ごろ何を食べているだろう。そんなことを考えながら、フォークを動かす。


 しばらくして、クラウスが言った。


「使用人が少ないが、不便はないか?」


 エマは、少しだけ考えてから、首を振る。


「いえ。十分にもてなされています。静かで……落ち着きます」


「ならいい」


 短い返事だった。


 食器の音だけが、しばらく続く。


 エマは、意を決して、もう一度口を開いた。


「……人が少ないのには、何か理由があるんですか?」


 クラウスは、少しだけ手を止めたが、すぐにまた食事に戻した。


「詳しくは、知らない方がいい。厄介なことに巻き込まれるかもしれない」


 それだけだった。

 エマは、それ以上は聞かなかった。


 ――この人は、人を遠ざけている。


 ただ追い払うためじゃないのかもしれない。


 やがて、話題は自然と途切れた。


 食事の終わり際、クラウスがもう一度だけ口を開く。


「この結婚は、政略だ」


 エマは、フォークを置いた。


「断れば、面倒になる。だから受けた。それだけだ」


 言い訳するような口調ではなかった。ただ、事実を述べているだけだった。


「君に何かを求めるつもりはない。ここでの暮らしに慣れればいい」


 それで話は終わり、クラウスは席を立った。


 エマは、しばらくその場に残り、静かな食堂を見回す。


 こんなに整った食事も、穏やかな空気も、エマには初めてのものばかりだった。


 ――なんて、いい場所なんだろう。


 でも、ここは、居場所にはなれない。

 そう思いながら、ゆっくりと席を立った。



 その夜、エマはひとりで、廊下の窓際に立っていた。

 庭は、月明かりに照らされて静まり返っている。昼間に見たときよりも、ずっと広く、ずっと遠く感じた。


 ここは、安全で、静かで、何もかもが整っている。

 それなのに、胸の奥に残るざわめきだけは、どうしても消えなかった。


 足音がして、エマは振り返る。


 廊下の向こうに、クラウスが立っていた。


「眠れないのか」


 短い問いかけだった。


「……いえ。ただ、少し……」


 言葉を探して、曖昧に首を振る。


 クラウスは、それ以上踏み込まず、少しだけ間を置いてから言った。


「何か、気になることがあるなら、聞こう。無理にとは言わないが。」 


 エマは、少しだけ迷ってから、静かに口を開く。


「……守らなきゃいけないものが、あるんです」


 クラウスは、何も言わずに聞いていた。


「それを、置いてきてしまって……。ここにいると、ちゃんと守れているのか、不安になる」


 すべては言っていない。

 でも、嘘でもなかった。


 クラウスは、少しだけ視線を落としてから、短く言った。


「それが何なのかは知らないが、必要なら手を貸そう。どんなことであれ、こちらで引き受ける」


 命令でも、慰めでもない。ただ、事実を並べるような言い方。

 エマは、思わず彼の方を見る。


「どうして、そこまで…?」


 クラウスは、ほんの少しだけ、答えに迷うような間を置いた。


「……君も進んでここに来たわけではないだろう。家の都合だ。私が面倒事を避けるために結婚を受けたせいでもある。せめて私だけでも、君を見て助けるべきだ。」


 それだけ言って、視線を庭に戻す。


 エマは、胸の奥が、静かにほどけるのを感じた。


 ――この人は、今ここにいる“私”を気にかけてくれている。


 そう思うと、不思議と、さっきまでのざわめきが、少しだけ遠のいた。


 クラウスは、何も言わずに、ただ庭を見ていた。


 けれど、並んで同じ景色を見ているこの時間が、エマには、ほんの少しだけ、長く続けばいいと思えた。



 数日後の午後、エマはクラウスと並んで、屋敷の廊下を歩いていた。


 倉庫に届ける書類があるらしく、そのついでに場所を教える、というだけの用件だった。昼間の屋敷は夜ほど静かではないが、それでも人の気配は少ない。


 エマは、歩くたびに足元を意識していた。


 見た目は綺麗でも、このヒールのついた靴はどうにも安定しない。角を曲がったところで、わずかにバランスを崩す。


「……っ」


 足首が内側に折れ、視界が傾いた。

 次の瞬間、腕を掴まれ、体が引き寄せられる。


「危ない」


 低い声と同時に、胸元にぶつかって、息を呑む。


「す、すみません! 私の不注意で……」


 そう言いながら足を引こうとした瞬間、足首に鋭い痛みが走った。


「……っ」


 思わず顔をしかめると、クラウスはすぐに視線を落とした。


「……足か」


「い、いえ……大丈夫です。本当に、ちょっと……」


 そう言って一歩踏み出そうとして、また痛みに息を詰める。

 クラウスは、短く息をついた。


「無理をするな」


 次の瞬間、視界がぐっと持ち上がる。


「……え?」


 気づいたときには、体が浮いていた。

 クラウスが、ためらいもなくエマを抱き上げている。


「医務室に行く」


「ま、待ってください! 歩けます、たぶん……!」


「たぶん、で歩くな」


 淡々とした声だったけれど、有無を言わせない響きがあった。


 エマは、思わず彼の外套を掴んでしまってから、自分が何をしているのかに気づいて、慌てて手を離した。


 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。

 視線を上げると、すぐ近くに、彼の顔がある。


 思っていたよりもずっと近くて、思っていたよりも落ち着いた表情で。


 ――近い。


 そんなことを考えてしまった瞬間、胸の奥が熱くなる。

 でも、すぐに、別の言葉が浮かんだ。


 ――私は、身代わりだ。


 この人が抱えているのは、本来なら“アリス”であって、私じゃない。


 そう思った途端、さっきまでの熱が、少しだけ遠のいた。

 医務室に着くまでの間、エマは、できるだけ、余計なことを考えないようにしていた。


 医務室に着くと、クラウスはエマを長椅子に座らせ、自分もその前にしゃがみ込んだ。


「少し、見る」


 そう言って、慎重に足首に触れる。


「……捻っているな。腫れも出ている」


 その声は相変わらず淡々としているのに、指先の動きは驚くほど慎重だった。

 冷たい布で冷やし、包帯を用意する。


「少し、痛むかもしれない」


「はい」


 きゅっと唇を噛んだのを見て、クラウスは一瞬だけ手を止めた。


「無理に我慢しなくていい」


 そう言ってから、また作業に戻る。


 包帯が巻かれる間、エマはずっと視線の置き場に困っていた。

 こんなふうに、目の前で膝をついて世話をされるなんて、落ち着かない。


 でも、その距離が、なぜか、嫌じゃなかった。


「ありがとうございます」


 ようやくそう言うと、クラウスは立ち上がりながら短く答えた。


「当然だ。誰にでもある。今は、無理をするな」


 それだけ言って、扉の方を見る。


「部屋まで、送る」


 エマは、小さく頷いた。

 立ち上がろうとして、また足に力が入らないと、クラウスは何も言わずに、そっと腕を差し出した。


 それにすがる形で、歩き出す。


 けれど、その距離が、いつまでも許されるものじゃないことも、エマはちゃんとわかっていた。


 部屋の前まで来ると、クラウスは足を止めた。


「今日は、無理をするな。医師を呼ぶほどではないが、腫れが引くまでは、歩き回らない方がいい」


「はい。ありがとうございます」


 扉の前で向き合うと、昨日よりも、少しだけ距離が近いことに気づく。


 支えてもらっていた腕の感触が、まだ残っている気がして、エマは視線を落とした。


 クラウスは、一瞬だけ何か言いかけるように口を開き、それから閉じた。


「必要なものがあれば、言え」


 それだけだった。


「はい」


 短く答えると、クラウスは小さく頷いて、踵を返す。

 去っていく背中を見送りながら、エマは胸の奥に、さっきとは違う温度のものが残っているのを感じていた。


 ――近い。


 物理的な距離の話じゃない。

 少し前まで、ただの“居候の令嬢”と“形式だけの夫”だったはずなのに、今は、同じ歩幅で廊下を歩いた記憶が、やけに鮮明だ。


 扉を閉めて、ベッドに腰を下ろす。


 足首はじんじんと痛むけれど、不思議と、気持ちは落ち着いていた。


 ――私は、身代わりだ。


 その事実は、変わらない。

 けれど、それでも、あの人の手は、確かに“私”を支えていた。



 同じ頃。


 ローデリヒ公爵家の応接室では、午後の光を受けて、重たいカーテンが静かに揺れていた。


 ソファに腰を下ろしたローデリヒ公爵は、手元の書類を一枚、ぱらりと閉じる。


「……人を雇って調べさせてみたがな。どうやら、噂ほど酷い相手ではないらしい。あの伯爵」


 向かいに座る夫人は、扇を揺らしながら、少しだけ肩をすくめた。


「屋敷もきちんと整っていて、金払いも悪くないそうですわ。……もっと早く、ちゃんと調べておけばよかったですわね。噂話だけで判断して」


 公爵は、鼻で笑う。


「まったくだ。余計な手間をかけた」


 少し離れた場所で、娘――アリスは、鏡を覗き込みながら髪を整えていた。


「ねえ、お父様。その伯爵、顔は本当にいいんでしょう?」


 公爵は、娘の方を見て、にやりと笑う。


「ああ。戦功も本物で、領地も広い。条件としては、かなりいい縁談だ」


 アリスは、ぱっと顔を輝かせた。


「じゃあ、やっぱり私が行くべきよね?」


 夫人は、ちらりと公爵を見てから、にっこりと微笑んだ。


「そうね。あなたは、“病気で動けなかった”ことにしておきましょう。今はもう治った、で通せばいいわ」


 公爵は、指を組んで、あっさりと言う。


「問題は……あの“身代わり”だな」


 夫人は、ためらいもなく頷いた。


「もう、役目は終わり、ということですわね」


「そういうことだ」


 公爵は、当然のように言った。


「最初は評判が悪すぎてな。大事な娘をやるわけにはいかず、代わりを立てた。だが、実際は話が違った。それなら――」


 肩をすくめる。


「本物を出した方が、よほど得だろう?」


 アリスは、鏡から視線を離して、興味なさそうに言った。


「じゃあ、その人は帰ってもらえばいいの?」


「そうだ」


 公爵は、何の躊躇もなく頷く。


「こちらにも事情がある、と言えば済む話だ」


 夫人は、扇で口元を隠して、くすりと笑う。


「『病で嫁げなかったから、身代わりを立てていた』……そう説明すれば、外聞も悪くありませんものね」


 アリスは、あっさりと言った。


「じゃあ、私が行くのね」


「ああ」


 公爵は、満足そうに頷く。


「――お前こそが、本来の花嫁だ」


 誰も、“身代わり”にされた娘の行き先については、口にしなかった。

 それが、最初から、考える必要のないことのように。


 *

 

 翌朝。


 包帯を巻いたまま廊下に出ると、ちょうどクラウスが向こうから来るところだった。


 視線が合う。


「具合は」


「少し、痛みますけど。歩けます」


 そう言うと、クラウスは一瞬だけ足元に視線を落とし、それから頷いた。


「……無理はするな」


 それだけ言って、並んで歩き出す。

 歩く速さは、自然と、昨日よりも少しだけ遅い。


 エマは、そのことに気づいて、胸の奥が、わずかに温かくなるのを感じた。


 ――気遣われている。


 大げさな言葉も、特別な態度もないのに、それだけで、十分だった。


 ほんの数歩、並んで歩いただけ。

 それでも、二人の間の距離は、確かに、昨日より近い。


 ……そのときだった。


 屋敷の正面から、慌ただしい足音と、使用人の声が聞こえてきたのは。


「旦那様……ご来客です」


 クラウスは足を止め、短く頷いた。


「通せ」


 エマの胸の奥に、理由のわからないざわめきが広がる。


 ほどなくして、広間の扉が開いた。


 先頭に立って入ってきたのは、よく整えられた口ひげの男――ローデリヒ公爵。

 その腕に夫人が寄り添い、少し遅れて、淡い色のドレスに身を包んだ娘、アリスが続く。


 エマの心臓が、小さく跳ねた。


 ――来た。


 ローデリヒ公爵は、にこやかな笑みを浮かべて一礼する。


「これはこれは、伯爵閣下。突然の訪問、失礼いたしますな」


 クラウスは、表情を変えずに答えた。


「用件は」


「ええ、実は……少々、申し上げにくい話でして」


 公爵はそう前置きしてから、夫人に視線を送る。

 夫人は一歩前に出て、扇を閉じた。


「本当に、申し訳ありませんでした。この子は……本当は、体調が優れなくて」


 そう言って、隣の娘――アリスの肩に、そっと手を置く。

 アリスは、困ったように微笑む。


「ずっと熱が下がらなくて……とても、嫁ぐなんて無理な状態だったの」


 公爵が、重々しく頷いた。


「そこで……やむを得ず、身代わりを立てたのです。縁談を流すわけにもいきませんでしたからな」


 その言葉に、エマの指先が、かすかに冷たくなる。


「……ですが、ご覧の通り、今はもうすっかり回復しております」


 公爵は、娘の肩に置いた手を、誇らしげに叩いた。


「ですから――本物の娘を、お連れしました」


 そして、視線が、ゆっくりとエマの方に向く。


「身代わりは、こちらで引き取ります。どうか、ご理解を」


 それは、お願いというより、最初から決まっていたことを告げる口調だった。


 応接の間に、重い沈黙が落ちる。

 クラウスは、しばらく何も言わずに、その一家を見ていた。


 それから、ゆっくりと、エマの方に視線を向ける。


 その目に見つめられた瞬間、胸の奥が、ひやりと冷える。


 ――来る。


 この人に、知られてしまう。

 私は、“アリス”じゃない。


「……つまり」


 クラウスが、低い声で言った。


「君は、最初から、別人を寄越していた、ということか」


 公爵は、悪びれた様子もなく、肩をすくめる。


「いやいや、閣下。こちらにも事情がありましてな。結果的には、何の問題もなかったでしょう?」


 そして、当然のように続ける。


「もう役目は終わりました。ですから、その子は――」


「少し、待て」


 クラウスの声が、その言葉を遮った。

 視線は、まだエマから離れない。


「……君は」


 一瞬、言葉が止まる。

 エマは、息を詰めた。


「……“アリス”ではないな」


 その一言で、何かが、はっきりと壊れる音がした気がした。

 エマは、唇を噛みしめて、俯く。


 ――ばれて、しまった。


「名前は」


 ほんの一瞬、迷ってから、エマは小さく答えた。


「エマ、です」


 その名が、応接の間に落ちる。

 ローデリヒ公爵は、どこか満足そうに頷いた。


「ええ、そういうことです。では、そのエマ嬢は――」


 そう言って、公爵は一歩、前に出た。


「こちらで引き取ります。役目は終わったのですからな」


 その言葉に、エマの肩が、わずかに強張る。


 ――やっぱり。


 最初から、そういう扱いだった。

 自分は、返されるだけの存在なのだと、わかっていたはずなのに。


 足を動かそうとした、そのとき。


「待て」


 クラウスの声が、低く響いた。

 公爵は、意外そうに眉を上げる。


「何か?」


 クラウスは、しばらく、何かを考えるように黙っていた。

 視線は、床でも、公爵でもなく、エマの方に向いている。


 包帯の巻かれた足首。

 昨日、支えた腕の感触。

 並んで歩いた、あの短い廊下。


 それらが、頭の中を、静かに過ぎていく。


「確かに、話としては、筋は通っている」


 そう言ってから、ゆっくりと続ける。


「最初から、君たちは“別人”を寄越していた。なら、返すのが正しい、とも言える」


 エマの胸が、きゅっと縮んだ。


 ――やっぱり、そうなる。


 でも。

 クラウスは、そこで一度、言葉を切った。

 そして、はっきりと、公爵を見据える。


「……だが」


 空気が、張りつめる。


「今、この屋敷にいるのは、君たちの娘ではない」


 公爵は、わずかに目を細めた。


「……何をおっしゃっている?」


 クラウスは、エマの方に、もう一度、視線を向ける。

 その目は、いつものように淡々としているのに、どこか、強い。


「ここにいるのは、エマだ。……そして」


 ほんの一瞬だけ、言葉に迷うような間があった。


「私の妻は、ここにいる」


 その言葉に、エマは、はっと顔を上げた。

 公爵も、夫人も、アリスも、一瞬、言葉を失う。


「……何、を……?」


 公爵が、信じられないものを見るように言う。


「閣下。彼女は、身代わりですよ? 最初から、あなたの“本当の花嫁”ではない」


「知っている」


 クラウスは、静かに答えた。


「だが、ここに来て、ここで過ごし、ここで私の妻として暮らしていたのは、彼女だ」


 エマの喉が、きゅっと詰まる。


「それだけで、十分だ」


 短い言葉だった。

 でも、それは、はっきりとした拒絶だった。


 公爵は、顔色を変えた。


「……閣下、それは――」


「彼女は、返さない」


 クラウスは、きっぱりと言った。

 その声に、迷いはなかった。


 応接の間に、再び、重い沈黙が落ちる。


 エマは、ただ、その場に立ち尽くしていた。

 胸の奥が、痛いほどに熱い。


 ――どうして。


 どうして、この人は、そこまで言ってくれるのか。

 自分は、身代わりなのに。

 本物の花嫁じゃないのに。


 それでも。

 クラウスは、もう一度、エマの方を見て、静かに言った。


「……君は、ここにいろ」


 その一言で、エマの視界が、少しだけ滲んだ。


 「ふざけないで!」


 最初に声を荒げたのは、アリスだった。

 ドレスの裾を握りしめ、エマを睨みつける。


「その人は、私の代わりに来てただけでしょう? 身代わりよ。そんなの、最初から――」


「アリス」


 ローデリヒ公爵が、低い声で制した。

 だが、その視線は、すでにクラウスに向けられている。


「閣下……冗談が過ぎますな。こちらは、正式な縁談として――」


「正式?」


 クラウスは、静かに、しかしはっきりと遮った。


「最初に私に差し出されたのは、“君たちの娘”だと言っていた人物だ」


 公爵は、わずかに言葉に詰まる。


「……それは……」


「違った、という話だろう」


 クラウスの声は低いが、揺れていない。


「つまり、最初に嘘をついたのは、君たちだ」


 その一言が、応接の間に落ちる。

 アリスは、はっとしたように口を閉じ、公爵は、わずかに顔を強張らせた。


「……しかし、閣下。こちらにも事情が――」


「事情があれば、何をしてもいい、ということにはならない」


 淡々とした口調だった。

 けれど、その言葉には、はっきりとした拒絶があった。


「君たちは、“娘”を差し出したと言った。私は、それを信じた。結果として、ここにいたのはエマだ」


 クラウスは、エマの方を見る。


 包帯の巻かれた足首。

 少しだけ不安そうに伏せられた視線。


「……そして、私は、彼女を妻として迎えた」


 アリスが、信じられないというように叫ぶ。


「そんなの、勝手すぎるわ! 私は――私は、本物の娘よ!? 私の方が――」


「本物かどうか、という話をするなら」


 クラウスは、視線を逸らさずに言った。


「ここで私と暮らしていたのは、彼女だ。……それが、私にとっての答えだ」


 公爵は、拳を握りしめた。


「……閣下。こちらの顔も立てていただきたい。これは、我が家の――」


「君たちの都合で、彼女を動かすつもりはない」


 きっぱりと、そう言い切る。


「彼女は、ここに残る」


 しばし、重い沈黙が落ちた。

 やがて、公爵は、悔しそうに歯噛みしながら、視線を逸らした。


「……わかりました。今日のところは、引きましょう」


 そう言って、夫人とアリスに目配せする。

 アリスは、不満そうに唇を噛みしめながらも、何も言えずに踵を返した。


 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。

 応接の間には、クラウスとエマだけが残った。


 しばらく、どちらも言葉を発せずにいた。


「……後悔は、していないか」


 先に口を開いたのは、クラウスだった。

 視線は、いつものように、まっすぐ前を向いている。


「こんな形で、君を引き留めて」


 エマは、少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、首を横に振った。


「いいえ」


 小さく、でも、はっきりと言う。


「……私は、最初から、ここにいる資格なんてないって、思っていました。でも……」


 言葉を探してから、続ける。


「それでも、あなたが“ここにいろ”って言ってくれたなら……それで、十分です」


 クラウスは、わずかに目を伏せてから、短く頷いた。


「……なら、いい」


 それだけ言って、踵を返しかけて、ふと足を止める。


「……足」

「……あ」


 エマが反射的に答えると、クラウスは、ほんの少しだけ歩み寄った。


「まだ、無理はするな」


 そう言って、そっと、支えるように腕を差し出す。

 エマは、一瞬だけ迷ってから、その腕にそっと体重を預けた。


「ありがとうございます」


「……当然だ」


 いつもの短い答え。

 でも、今日は、それだけで十分だった。


 数歩、ゆっくりと歩いてから、エマは、ふと思い出したように口を開く。


「……あの……私、外に……大切な人たちを残してきていて……」


 クラウスは、足を止めた。


「……子どもたちです。家族じゃないけど……一緒に、生きてきた子たちで……」


 言いながら、エマは、少しだけ不安になる。


 こんなことを言って、迷惑だと思われないだろうか、と。


 けれど、クラウスは、少し考えるように視線を落としてから、言った。


「居場所が必要なら、用意する。迎えに行くことも、できる」


 エマは、目を見開いた。


「……いいんですか……?」


「君が、大切だと言うなら」


 それだけの理由でいい、というような言い方だった。

 胸の奥が、きゅっと熱くなる。


「……ありがとうございます」


 今度は、さっきよりも、少しだけ、声が震えた。

 クラウスは、ほんの一瞬だけ、こちらを見る。


「ここは、君の場所だ」


 そう言って、また歩き出す。

 エマは、その横に並びながら、思った。


 ――身代わりでも。

 ――本物じゃなくても。


 それでも、私は、ここにいていい。

 差し出された腕の温もりが、はっきりと、それを教えてくれていた。



 クラウスは、昔から人を遠ざけてきた。


 屋敷に人が定着しないのも、噂が勝手に広がるのも、訂正する気はなかった。


 必要以上に近づかれない方が、都合がいい。そう思っていたからだ。


 誰かと関われば、失う可能性も増える。

 なら、最初から距離を取っていればいい。


 それが、ずっと続いてきた生き方だった。


 ――あの日、彼女が来るまでは。


 身代わりだと知ったときも、正直、驚きはしなかった。

 あの公爵家なら、そういうこともするだろう、と。


 それでも。


 並んで歩いた廊下。

 転びそうになったときに掴んだ腕の軽さ。

 小さく「ありがとうございます」と言った声。


 それらは、いつの間にか、彼の中に残っていた。

 気づけば、視線は彼女を追っていて。

 歩く速さも、無意識に合わせていて。


 ――手放したくない。


 それが、いつから芽生えた感情なのかは、わからない。

 ただ、あの場で「返す」という選択肢だけは、どうしても選べなかった。


 理由をつけるなら、いくらでもつけられる。

 だが、本当は、そんな理屈は必要なかったのだと思う。

 彼女が、ここにいる。


 それだけで、よかった。

 廊下の先に、小さな後ろ姿が見えた。


 壁際を歩き、時折、足元を確かめるように立ち止まる。

 まだ、無意識に、痛めた足をかばっている歩き方だった。

 エマだと気づいて、クラウスは、自然と歩調を速めていた。

 追いついて、横に並ぶ。


「……まだ、無理はするな」


 それだけ言うつもりだった。

 だが、口を開いたついでに、もう一言、続けてしまう。


「君が怪我をすると困る」


 エマは、少しだけ目を瞬いてから、小さく笑った。


「……気をつけます」


 短いやり取り。

 それだけなのに、胸の奥が、わずかに緩む。


 しばらく、二人で並んで歩く。

 その沈黙が、なぜか、以前よりも苦ではなかった。


 ――まだ、これは恋と呼ぶには早いのかもしれない。


 それでも。

 少なくとも、もう彼女を、遠ざけるつもりはなかった。

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