身代わりの花嫁は、伯爵に居場所をもらった
エマの居場所は、街の外れにある、崩れかけの建物だった。
元は倉庫だったらしいその場所には、壁の隙間から風が入り、雨が降れば天井のどこかから必ず水が落ちてくる。それでも、行き場のない子どもたちが身を寄せ合って生きるには、十分すぎるほどの「家」だった。
「おかえり、エマ」
先に戻っていた少年が、薪の代わりに拾ってきた木切れを火にくべながら言う。年は十歳くらいだろう。弟でも妹でもない。けれど、ここにいる子どもたちは皆、血のつながりがないというだけで、エマにとっては家族のような存在だった。
「今日はパンが安かった。少しだけ、余分に買えたよ」
そう言うと、奥から小さな子が駆け寄ってくる。破れた靴、継ぎはぎの服。それでも、笑う顔だけは、どうしようもなく眩しい。
エマは、彼らの頭を順番に撫でてから、袋を床に置いた。
ここでの暮らしは楽じゃない。
それでも、奪い合うよりは、ずっとましだった。
だから、扉を叩く音がしたとき、胸の奥がひどく冷えるのを感じた。
こんな場所に、客が来ることはない。
用があるとすれば、ろくな話じゃない。
扉の向こうに立っていたのは、身なりのいい男だった。貧民街には似つかわしくない、手入れの行き届いた靴と外套。後ろには、同じような服装の男がもう一人、無言で立っている。
「エマだな」
名前を呼ばれて、否定しなかったのは、それが意味を持たないとわかっていたからだ。
「話がある。中に入ってもいいか」
断る理由はあった。
けれど、断れる立場にはいなかった。
男は、部屋の中を一瞥すると、興味がなさそうに視線を戻した。
「単刀直入に言おう。こちらの条件を飲まないなら、この子どもたちは売る」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……何を、言って」
「人買いに、いくらでも需要はある。年齢も、数も、ちょうどいい」
淡々とした声だった。脅しではなく、事実を告げているだけの口調。
子どもたちが、息を呑む気配がした。
エマは、ゆっくりと息を吸う。
「……条件、とは?」
「簡単な話だ。身代わりになれ」
男は言った。
「ある家の娘が、結婚から逃げた。その代わりが必要だ。お前は、顔立ちも背格好も、条件に合っている」
つまり、消えてもいい存在。
脅せば言うことを聞く存在。
「拒否すれば、さっき言った通りだ」
エマが言葉を探している間に、背後で小さな足音がした。
「……行かないで」
誰かが、袖を掴む。
振り返ると、さっきまで笑っていた子が、必死に首を振っていた。
「エマがいなくなったら、どうするの。俺たち……」
続く言葉は、うまく声にならなかったらしい。代わりに、別の子が言った。
「売られるとか、嘘だよね? ねえ、エマ……」
嘘だと言ってやれたらよかった。
けれど、そんな優しい嘘は、ここでは何の役にも立たない。
エマは、いったん膝をついて、子どもたちと目の高さを合わせた。
「大丈夫」
それだけ言うのに、少しだけ、喉が痛んだ。
「私がいなくなっても、みんなはここにいる。……それでいい」
「よくない!」
今度は、別の子が声を荒げる。
「エマがいないと――」
そこで、言葉は途切れた。
エマは、ゆっくりと、ひとりひとりの顔を見る。
怖がっている顔。
縋るような目。
――だからこそ、だ。
生き残るためなら、このくらいの理不尽は、もう慣れている。
「……わかりました」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「行きます。あなたたちの言う通りに」
男は、満足そうに口の端を上げた。
「賢い選択だ」
そう言われても、何も感じなかった。
エマはただ、もう一度だけ、子どもたちの顔を見た。
大丈夫。
生きていれば、それでいい。
そう、自分に言い聞かせるようにして。
馬車に乗せられ、エマは屋敷へと連れて行かれた。
貧民街からそう離れていないはずなのに、窓の外の景色はまるで別の国のものだった。舗装された道、整えられた街路樹、静かに行き交う人々。座席は柔らかく、揺れも少ない。さっきまでいた場所と、同じ街だとは思えなかった。
やがて馬車は、高い塀に囲まれた屋敷の前で止まる。門をくぐり、案内された応接の間は、過剰な装飾こそないものの、調度品の一つひとつに金がかかっているのがわかる部屋だった。
少し待たされてから、扉が開く。
入ってきたのは、よく肥えた男と、着飾った婦人、それから若い娘だった。
娘は、柔らかな色のドレスを揺らしながら、部屋の隅に立つエマを見て、ぱっと表情を明るくした。
「……あ、やっぱり似てる」
それは、感心したというより、面白いものを見つけたみたいな声だった。
「ねえ、お父様。これなら大丈夫よね? 遠くから見たら、誰も気づかないと思う」
男は、エマを一瞥し、満足そうに口の端を上げる。
「……なるほど。聞いていた通りだ。顔立ちも背格好も、条件に合っている」
婦人も、扇で口元を隠しながらうなずいた。
「少し整えれば、十分でしょうね。伯爵の屋敷に出しても、恥にはならないわ」
“出して”。
その言葉は、人ではなく、品物に向けられるものみたいに聞こえた。
男は、椅子に腰を下ろし、機嫌よさそうに指を組む。
「もともと、この縁談はこちらから伯爵に持ちかけたものだ。爵位に財力……ああいう相手と繋がっておけば、こちらの立場も悪くない」
婦人が、さも当然という顔で続ける。
「最初は、この子も乗り気だったのよ。顔立ちがいいって聞いて」
「だって、イケメンなんでしょう?」
娘――本物のアリスは、軽い調子でそう言って、肩をすくめた。
「それなら、悪くないかなって思っただけ。でも……」
そこで、少しだけ顔をしかめる。
「噂を聞いたの。伯爵の屋敷、使用人が長く続かないんでしょう? 関わった人、みんなすぐにいなくなるって。……ちょっと、怖いじゃない」
男――ローデリヒ公爵は、軽く鼻で笑った。
「怖くなった、か。まあ、無理もない。だが、話はもう通っている。伯爵は、この縁談を受けた」
婦人は、ため息まじりに言う。
「政略結婚というのは、そういうものよ。相手と繋がりは持ちたい。でも、この子を差し出すつもりはないわ」
その視線が、何のためらいもなく、エマに向く。
「だから、代わりが必要だったの」
ローデリヒ公爵が、当然のことのように言った。
「条件にも合っているし、何より……いなくなっても、困る者がいない」
胸の奥が、静かにきしむ。
エマは、ただ黙って、それを聞いていた。
――なるほど。
この人たちにとって、大事なのは金と名誉。
娘は守るもの。
私は、使い捨てにしていい“代わり”。
「ねえ、ちゃんとやってね」
アリスが、くすりと笑って言った。
「私の代わりなんだから。変なことしないでよ? 私の名前で行くんだからさ」
それは、冗談めかした、軽い口調だった。
誰かに用事を押し付けるみたいな、気軽さ。
エマは、何も言わなかった。
「さあ、身なりを整えなさい」
婦人が、使用人に指示を飛ばす。
「髪も、服も。伯爵の屋敷に送るんだから、みすぼらしいままじゃ困るわ。……“アリス”として行くんでしょう?」
その名前を、エマは心の中でなぞる。
――アリス。
それが、今日から自分が名乗ることになる名前だった。
別室に連れて行かれ、湯を使わされ、髪を整えられ、見慣れない服を着せられる。
鏡に映った自分は、確かに、少しだけ“それらしく”なっていた。
もう一度応接の間に戻ると、アリスは興味を失ったように鏡の前に立ち、エマの方はちらりとも見なかった。
「じゃあ、よろしくね。代役さん」
それだけ言って、くるりと背を向ける。
エマは、小さく頭を下げた。
「……承知しています」
それで、十分だった。
ほどなくして、再び馬車が用意された。
今度こそ、行き先は伯爵クラウスの屋敷だという。
エマは、席に座り、窓の外を見た。
――私は、“アリス”。
そう言い聞かせるたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
*
伯爵クラウスの屋敷は、噂から想像していたよりも、ずっと静かだった。
広い敷地に、整えられた庭。建物も大きいが、どこか落ち着いている。
出迎えた使用人の数は、驚くほど少なかった。
――人が、少ない。
それが、最初に浮かんだ印象だった。
応接の間に通され、しばらく待つ。
やがて扉が開き、背の高い男が入ってくる。
黒い外套。無駄のない体つき。整った顔立ちだが、表情は硬い。
「……君が」
それだけ言って、わずかに間を置く。
「アリス、だったな」
低く、落ち着いた声。
エマは、一瞬だけ胸の奥が強く脈打つのを感じながら、静かに頷いた。
「……はい」
本当の名前を名乗る場ではない。
クラウスは、短く息を吐いた。
「形式ばった挨拶は、いらない。しばらく、この家で暮らしてもらう。部屋は用意させてある」
少しだけ視線を逸らす。
「使用人の数は多くない。不便なことがあれば言ってくれ」
それだけ告げて、背を向けかける。
拍子抜けするほど、あっさりしていた。
「あの……」
思わず、声が出る。
クラウスは振り返った。
「何だ」
「…私は、その…」
“妻として”来たはずの立場だ。けれど、どう切り出せばいいのかわからない。
クラウスは、少し考えるように視線を落としてから、言った。
「必要以上のことは、今すぐ求めるつもりはない。君が、この家に慣れるまででいい」
言葉は少ない。
けれど、その口調は、噂にあった“人がすぐいなくなる伯爵”とは、どうしても結びつかなかった。
「困ることがあれば、使用人か、私に言え」
それだけ言って、部屋を出ていく。
取り残されたエマは、しばらくその場に立ち尽くしてから、ゆっくりと息を吐いた。
案内された部屋は、ひとりで使うには広すぎるくらいで、窓からは庭が見えた。
整えられたベッドと、机の上の水差し。
――追い払われる場所、ではなさそうだ。
エマは、そっと椅子に腰を下ろす。
期待してはいけない。
私は、“代わり”なのだから。
*
夕食は、広い食堂でとることになった。
向かいに座るクラウスは、必要以上に喋らないが、給仕が来るたびに短く礼を言い、淡々と食事を進めている。
料理は、エマには少し贅沢すぎるくらいだった。
子どもたちは、今ごろ何を食べているだろう。そんなことを考えながら、フォークを動かす。
しばらくして、クラウスが言った。
「使用人が少ないが、不便はないか?」
エマは、少しだけ考えてから、首を振る。
「いえ。十分にもてなされています。静かで……落ち着きます」
「ならいい」
短い返事だった。
食器の音だけが、しばらく続く。
エマは、意を決して、もう一度口を開いた。
「……人が少ないのには、何か理由があるんですか?」
クラウスは、少しだけ手を止めたが、すぐにまた食事に戻した。
「詳しくは、知らない方がいい。厄介なことに巻き込まれるかもしれない」
それだけだった。
エマは、それ以上は聞かなかった。
――この人は、人を遠ざけている。
ただ追い払うためじゃないのかもしれない。
やがて、話題は自然と途切れた。
食事の終わり際、クラウスがもう一度だけ口を開く。
「この結婚は、政略だ」
エマは、フォークを置いた。
「断れば、面倒になる。だから受けた。それだけだ」
言い訳するような口調ではなかった。ただ、事実を述べているだけだった。
「君に何かを求めるつもりはない。ここでの暮らしに慣れればいい」
それで話は終わり、クラウスは席を立った。
エマは、しばらくその場に残り、静かな食堂を見回す。
こんなに整った食事も、穏やかな空気も、エマには初めてのものばかりだった。
――なんて、いい場所なんだろう。
でも、ここは、居場所にはなれない。
そう思いながら、ゆっくりと席を立った。
*
その夜、エマはひとりで、廊下の窓際に立っていた。
庭は、月明かりに照らされて静まり返っている。昼間に見たときよりも、ずっと広く、ずっと遠く感じた。
ここは、安全で、静かで、何もかもが整っている。
それなのに、胸の奥に残るざわめきだけは、どうしても消えなかった。
足音がして、エマは振り返る。
廊下の向こうに、クラウスが立っていた。
「眠れないのか」
短い問いかけだった。
「……いえ。ただ、少し……」
言葉を探して、曖昧に首を振る。
クラウスは、それ以上踏み込まず、少しだけ間を置いてから言った。
「何か、気になることがあるなら、聞こう。無理にとは言わないが。」
エマは、少しだけ迷ってから、静かに口を開く。
「……守らなきゃいけないものが、あるんです」
クラウスは、何も言わずに聞いていた。
「それを、置いてきてしまって……。ここにいると、ちゃんと守れているのか、不安になる」
すべては言っていない。
でも、嘘でもなかった。
クラウスは、少しだけ視線を落としてから、短く言った。
「それが何なのかは知らないが、必要なら手を貸そう。どんなことであれ、こちらで引き受ける」
命令でも、慰めでもない。ただ、事実を並べるような言い方。
エマは、思わず彼の方を見る。
「どうして、そこまで…?」
クラウスは、ほんの少しだけ、答えに迷うような間を置いた。
「……君も進んでここに来たわけではないだろう。家の都合だ。私が面倒事を避けるために結婚を受けたせいでもある。せめて私だけでも、君を見て助けるべきだ。」
それだけ言って、視線を庭に戻す。
エマは、胸の奥が、静かにほどけるのを感じた。
――この人は、今ここにいる“私”を気にかけてくれている。
そう思うと、不思議と、さっきまでのざわめきが、少しだけ遠のいた。
クラウスは、何も言わずに、ただ庭を見ていた。
けれど、並んで同じ景色を見ているこの時間が、エマには、ほんの少しだけ、長く続けばいいと思えた。
*
数日後の午後、エマはクラウスと並んで、屋敷の廊下を歩いていた。
倉庫に届ける書類があるらしく、そのついでに場所を教える、というだけの用件だった。昼間の屋敷は夜ほど静かではないが、それでも人の気配は少ない。
エマは、歩くたびに足元を意識していた。
見た目は綺麗でも、このヒールのついた靴はどうにも安定しない。角を曲がったところで、わずかにバランスを崩す。
「……っ」
足首が内側に折れ、視界が傾いた。
次の瞬間、腕を掴まれ、体が引き寄せられる。
「危ない」
低い声と同時に、胸元にぶつかって、息を呑む。
「す、すみません! 私の不注意で……」
そう言いながら足を引こうとした瞬間、足首に鋭い痛みが走った。
「……っ」
思わず顔をしかめると、クラウスはすぐに視線を落とした。
「……足か」
「い、いえ……大丈夫です。本当に、ちょっと……」
そう言って一歩踏み出そうとして、また痛みに息を詰める。
クラウスは、短く息をついた。
「無理をするな」
次の瞬間、視界がぐっと持ち上がる。
「……え?」
気づいたときには、体が浮いていた。
クラウスが、ためらいもなくエマを抱き上げている。
「医務室に行く」
「ま、待ってください! 歩けます、たぶん……!」
「たぶん、で歩くな」
淡々とした声だったけれど、有無を言わせない響きがあった。
エマは、思わず彼の外套を掴んでしまってから、自分が何をしているのかに気づいて、慌てて手を離した。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
視線を上げると、すぐ近くに、彼の顔がある。
思っていたよりもずっと近くて、思っていたよりも落ち着いた表情で。
――近い。
そんなことを考えてしまった瞬間、胸の奥が熱くなる。
でも、すぐに、別の言葉が浮かんだ。
――私は、身代わりだ。
この人が抱えているのは、本来なら“アリス”であって、私じゃない。
そう思った途端、さっきまでの熱が、少しだけ遠のいた。
医務室に着くまでの間、エマは、できるだけ、余計なことを考えないようにしていた。
医務室に着くと、クラウスはエマを長椅子に座らせ、自分もその前にしゃがみ込んだ。
「少し、見る」
そう言って、慎重に足首に触れる。
「……捻っているな。腫れも出ている」
その声は相変わらず淡々としているのに、指先の動きは驚くほど慎重だった。
冷たい布で冷やし、包帯を用意する。
「少し、痛むかもしれない」
「はい」
きゅっと唇を噛んだのを見て、クラウスは一瞬だけ手を止めた。
「無理に我慢しなくていい」
そう言ってから、また作業に戻る。
包帯が巻かれる間、エマはずっと視線の置き場に困っていた。
こんなふうに、目の前で膝をついて世話をされるなんて、落ち着かない。
でも、その距離が、なぜか、嫌じゃなかった。
「ありがとうございます」
ようやくそう言うと、クラウスは立ち上がりながら短く答えた。
「当然だ。誰にでもある。今は、無理をするな」
それだけ言って、扉の方を見る。
「部屋まで、送る」
エマは、小さく頷いた。
立ち上がろうとして、また足に力が入らないと、クラウスは何も言わずに、そっと腕を差し出した。
それにすがる形で、歩き出す。
けれど、その距離が、いつまでも許されるものじゃないことも、エマはちゃんとわかっていた。
部屋の前まで来ると、クラウスは足を止めた。
「今日は、無理をするな。医師を呼ぶほどではないが、腫れが引くまでは、歩き回らない方がいい」
「はい。ありがとうございます」
扉の前で向き合うと、昨日よりも、少しだけ距離が近いことに気づく。
支えてもらっていた腕の感触が、まだ残っている気がして、エマは視線を落とした。
クラウスは、一瞬だけ何か言いかけるように口を開き、それから閉じた。
「必要なものがあれば、言え」
それだけだった。
「はい」
短く答えると、クラウスは小さく頷いて、踵を返す。
去っていく背中を見送りながら、エマは胸の奥に、さっきとは違う温度のものが残っているのを感じていた。
――近い。
物理的な距離の話じゃない。
少し前まで、ただの“居候の令嬢”と“形式だけの夫”だったはずなのに、今は、同じ歩幅で廊下を歩いた記憶が、やけに鮮明だ。
扉を閉めて、ベッドに腰を下ろす。
足首はじんじんと痛むけれど、不思議と、気持ちは落ち着いていた。
――私は、身代わりだ。
その事実は、変わらない。
けれど、それでも、あの人の手は、確かに“私”を支えていた。
*
同じ頃。
ローデリヒ公爵家の応接室では、午後の光を受けて、重たいカーテンが静かに揺れていた。
ソファに腰を下ろしたローデリヒ公爵は、手元の書類を一枚、ぱらりと閉じる。
「……人を雇って調べさせてみたがな。どうやら、噂ほど酷い相手ではないらしい。あの伯爵」
向かいに座る夫人は、扇を揺らしながら、少しだけ肩をすくめた。
「屋敷もきちんと整っていて、金払いも悪くないそうですわ。……もっと早く、ちゃんと調べておけばよかったですわね。噂話だけで判断して」
公爵は、鼻で笑う。
「まったくだ。余計な手間をかけた」
少し離れた場所で、娘――アリスは、鏡を覗き込みながら髪を整えていた。
「ねえ、お父様。その伯爵、顔は本当にいいんでしょう?」
公爵は、娘の方を見て、にやりと笑う。
「ああ。戦功も本物で、領地も広い。条件としては、かなりいい縁談だ」
アリスは、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、やっぱり私が行くべきよね?」
夫人は、ちらりと公爵を見てから、にっこりと微笑んだ。
「そうね。あなたは、“病気で動けなかった”ことにしておきましょう。今はもう治った、で通せばいいわ」
公爵は、指を組んで、あっさりと言う。
「問題は……あの“身代わり”だな」
夫人は、ためらいもなく頷いた。
「もう、役目は終わり、ということですわね」
「そういうことだ」
公爵は、当然のように言った。
「最初は評判が悪すぎてな。大事な娘をやるわけにはいかず、代わりを立てた。だが、実際は話が違った。それなら――」
肩をすくめる。
「本物を出した方が、よほど得だろう?」
アリスは、鏡から視線を離して、興味なさそうに言った。
「じゃあ、その人は帰ってもらえばいいの?」
「そうだ」
公爵は、何の躊躇もなく頷く。
「こちらにも事情がある、と言えば済む話だ」
夫人は、扇で口元を隠して、くすりと笑う。
「『病で嫁げなかったから、身代わりを立てていた』……そう説明すれば、外聞も悪くありませんものね」
アリスは、あっさりと言った。
「じゃあ、私が行くのね」
「ああ」
公爵は、満足そうに頷く。
「――お前こそが、本来の花嫁だ」
誰も、“身代わり”にされた娘の行き先については、口にしなかった。
それが、最初から、考える必要のないことのように。
*
翌朝。
包帯を巻いたまま廊下に出ると、ちょうどクラウスが向こうから来るところだった。
視線が合う。
「具合は」
「少し、痛みますけど。歩けます」
そう言うと、クラウスは一瞬だけ足元に視線を落とし、それから頷いた。
「……無理はするな」
それだけ言って、並んで歩き出す。
歩く速さは、自然と、昨日よりも少しだけ遅い。
エマは、そのことに気づいて、胸の奥が、わずかに温かくなるのを感じた。
――気遣われている。
大げさな言葉も、特別な態度もないのに、それだけで、十分だった。
ほんの数歩、並んで歩いただけ。
それでも、二人の間の距離は、確かに、昨日より近い。
……そのときだった。
屋敷の正面から、慌ただしい足音と、使用人の声が聞こえてきたのは。
「旦那様……ご来客です」
クラウスは足を止め、短く頷いた。
「通せ」
エマの胸の奥に、理由のわからないざわめきが広がる。
ほどなくして、広間の扉が開いた。
先頭に立って入ってきたのは、よく整えられた口ひげの男――ローデリヒ公爵。
その腕に夫人が寄り添い、少し遅れて、淡い色のドレスに身を包んだ娘、アリスが続く。
エマの心臓が、小さく跳ねた。
――来た。
ローデリヒ公爵は、にこやかな笑みを浮かべて一礼する。
「これはこれは、伯爵閣下。突然の訪問、失礼いたしますな」
クラウスは、表情を変えずに答えた。
「用件は」
「ええ、実は……少々、申し上げにくい話でして」
公爵はそう前置きしてから、夫人に視線を送る。
夫人は一歩前に出て、扇を閉じた。
「本当に、申し訳ありませんでした。この子は……本当は、体調が優れなくて」
そう言って、隣の娘――アリスの肩に、そっと手を置く。
アリスは、困ったように微笑む。
「ずっと熱が下がらなくて……とても、嫁ぐなんて無理な状態だったの」
公爵が、重々しく頷いた。
「そこで……やむを得ず、身代わりを立てたのです。縁談を流すわけにもいきませんでしたからな」
その言葉に、エマの指先が、かすかに冷たくなる。
「……ですが、ご覧の通り、今はもうすっかり回復しております」
公爵は、娘の肩に置いた手を、誇らしげに叩いた。
「ですから――本物の娘を、お連れしました」
そして、視線が、ゆっくりとエマの方に向く。
「身代わりは、こちらで引き取ります。どうか、ご理解を」
それは、お願いというより、最初から決まっていたことを告げる口調だった。
応接の間に、重い沈黙が落ちる。
クラウスは、しばらく何も言わずに、その一家を見ていた。
それから、ゆっくりと、エマの方に視線を向ける。
その目に見つめられた瞬間、胸の奥が、ひやりと冷える。
――来る。
この人に、知られてしまう。
私は、“アリス”じゃない。
「……つまり」
クラウスが、低い声で言った。
「君は、最初から、別人を寄越していた、ということか」
公爵は、悪びれた様子もなく、肩をすくめる。
「いやいや、閣下。こちらにも事情がありましてな。結果的には、何の問題もなかったでしょう?」
そして、当然のように続ける。
「もう役目は終わりました。ですから、その子は――」
「少し、待て」
クラウスの声が、その言葉を遮った。
視線は、まだエマから離れない。
「……君は」
一瞬、言葉が止まる。
エマは、息を詰めた。
「……“アリス”ではないな」
その一言で、何かが、はっきりと壊れる音がした気がした。
エマは、唇を噛みしめて、俯く。
――ばれて、しまった。
「名前は」
ほんの一瞬、迷ってから、エマは小さく答えた。
「エマ、です」
その名が、応接の間に落ちる。
ローデリヒ公爵は、どこか満足そうに頷いた。
「ええ、そういうことです。では、そのエマ嬢は――」
そう言って、公爵は一歩、前に出た。
「こちらで引き取ります。役目は終わったのですからな」
その言葉に、エマの肩が、わずかに強張る。
――やっぱり。
最初から、そういう扱いだった。
自分は、返されるだけの存在なのだと、わかっていたはずなのに。
足を動かそうとした、そのとき。
「待て」
クラウスの声が、低く響いた。
公爵は、意外そうに眉を上げる。
「何か?」
クラウスは、しばらく、何かを考えるように黙っていた。
視線は、床でも、公爵でもなく、エマの方に向いている。
包帯の巻かれた足首。
昨日、支えた腕の感触。
並んで歩いた、あの短い廊下。
それらが、頭の中を、静かに過ぎていく。
「確かに、話としては、筋は通っている」
そう言ってから、ゆっくりと続ける。
「最初から、君たちは“別人”を寄越していた。なら、返すのが正しい、とも言える」
エマの胸が、きゅっと縮んだ。
――やっぱり、そうなる。
でも。
クラウスは、そこで一度、言葉を切った。
そして、はっきりと、公爵を見据える。
「……だが」
空気が、張りつめる。
「今、この屋敷にいるのは、君たちの娘ではない」
公爵は、わずかに目を細めた。
「……何をおっしゃっている?」
クラウスは、エマの方に、もう一度、視線を向ける。
その目は、いつものように淡々としているのに、どこか、強い。
「ここにいるのは、エマだ。……そして」
ほんの一瞬だけ、言葉に迷うような間があった。
「私の妻は、ここにいる」
その言葉に、エマは、はっと顔を上げた。
公爵も、夫人も、アリスも、一瞬、言葉を失う。
「……何、を……?」
公爵が、信じられないものを見るように言う。
「閣下。彼女は、身代わりですよ? 最初から、あなたの“本当の花嫁”ではない」
「知っている」
クラウスは、静かに答えた。
「だが、ここに来て、ここで過ごし、ここで私の妻として暮らしていたのは、彼女だ」
エマの喉が、きゅっと詰まる。
「それだけで、十分だ」
短い言葉だった。
でも、それは、はっきりとした拒絶だった。
公爵は、顔色を変えた。
「……閣下、それは――」
「彼女は、返さない」
クラウスは、きっぱりと言った。
その声に、迷いはなかった。
応接の間に、再び、重い沈黙が落ちる。
エマは、ただ、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥が、痛いほどに熱い。
――どうして。
どうして、この人は、そこまで言ってくれるのか。
自分は、身代わりなのに。
本物の花嫁じゃないのに。
それでも。
クラウスは、もう一度、エマの方を見て、静かに言った。
「……君は、ここにいろ」
その一言で、エマの視界が、少しだけ滲んだ。
「ふざけないで!」
最初に声を荒げたのは、アリスだった。
ドレスの裾を握りしめ、エマを睨みつける。
「その人は、私の代わりに来てただけでしょう? 身代わりよ。そんなの、最初から――」
「アリス」
ローデリヒ公爵が、低い声で制した。
だが、その視線は、すでにクラウスに向けられている。
「閣下……冗談が過ぎますな。こちらは、正式な縁談として――」
「正式?」
クラウスは、静かに、しかしはっきりと遮った。
「最初に私に差し出されたのは、“君たちの娘”だと言っていた人物だ」
公爵は、わずかに言葉に詰まる。
「……それは……」
「違った、という話だろう」
クラウスの声は低いが、揺れていない。
「つまり、最初に嘘をついたのは、君たちだ」
その一言が、応接の間に落ちる。
アリスは、はっとしたように口を閉じ、公爵は、わずかに顔を強張らせた。
「……しかし、閣下。こちらにも事情が――」
「事情があれば、何をしてもいい、ということにはならない」
淡々とした口調だった。
けれど、その言葉には、はっきりとした拒絶があった。
「君たちは、“娘”を差し出したと言った。私は、それを信じた。結果として、ここにいたのはエマだ」
クラウスは、エマの方を見る。
包帯の巻かれた足首。
少しだけ不安そうに伏せられた視線。
「……そして、私は、彼女を妻として迎えた」
アリスが、信じられないというように叫ぶ。
「そんなの、勝手すぎるわ! 私は――私は、本物の娘よ!? 私の方が――」
「本物かどうか、という話をするなら」
クラウスは、視線を逸らさずに言った。
「ここで私と暮らしていたのは、彼女だ。……それが、私にとっての答えだ」
公爵は、拳を握りしめた。
「……閣下。こちらの顔も立てていただきたい。これは、我が家の――」
「君たちの都合で、彼女を動かすつもりはない」
きっぱりと、そう言い切る。
「彼女は、ここに残る」
しばし、重い沈黙が落ちた。
やがて、公爵は、悔しそうに歯噛みしながら、視線を逸らした。
「……わかりました。今日のところは、引きましょう」
そう言って、夫人とアリスに目配せする。
アリスは、不満そうに唇を噛みしめながらも、何も言えずに踵を返した。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
応接の間には、クラウスとエマだけが残った。
しばらく、どちらも言葉を発せずにいた。
「……後悔は、していないか」
先に口を開いたのは、クラウスだった。
視線は、いつものように、まっすぐ前を向いている。
「こんな形で、君を引き留めて」
エマは、少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、首を横に振った。
「いいえ」
小さく、でも、はっきりと言う。
「……私は、最初から、ここにいる資格なんてないって、思っていました。でも……」
言葉を探してから、続ける。
「それでも、あなたが“ここにいろ”って言ってくれたなら……それで、十分です」
クラウスは、わずかに目を伏せてから、短く頷いた。
「……なら、いい」
それだけ言って、踵を返しかけて、ふと足を止める。
「……足」
「……あ」
エマが反射的に答えると、クラウスは、ほんの少しだけ歩み寄った。
「まだ、無理はするな」
そう言って、そっと、支えるように腕を差し出す。
エマは、一瞬だけ迷ってから、その腕にそっと体重を預けた。
「ありがとうございます」
「……当然だ」
いつもの短い答え。
でも、今日は、それだけで十分だった。
数歩、ゆっくりと歩いてから、エマは、ふと思い出したように口を開く。
「……あの……私、外に……大切な人たちを残してきていて……」
クラウスは、足を止めた。
「……子どもたちです。家族じゃないけど……一緒に、生きてきた子たちで……」
言いながら、エマは、少しだけ不安になる。
こんなことを言って、迷惑だと思われないだろうか、と。
けれど、クラウスは、少し考えるように視線を落としてから、言った。
「居場所が必要なら、用意する。迎えに行くことも、できる」
エマは、目を見開いた。
「……いいんですか……?」
「君が、大切だと言うなら」
それだけの理由でいい、というような言い方だった。
胸の奥が、きゅっと熱くなる。
「……ありがとうございます」
今度は、さっきよりも、少しだけ、声が震えた。
クラウスは、ほんの一瞬だけ、こちらを見る。
「ここは、君の場所だ」
そう言って、また歩き出す。
エマは、その横に並びながら、思った。
――身代わりでも。
――本物じゃなくても。
それでも、私は、ここにいていい。
差し出された腕の温もりが、はっきりと、それを教えてくれていた。
*
クラウスは、昔から人を遠ざけてきた。
屋敷に人が定着しないのも、噂が勝手に広がるのも、訂正する気はなかった。
必要以上に近づかれない方が、都合がいい。そう思っていたからだ。
誰かと関われば、失う可能性も増える。
なら、最初から距離を取っていればいい。
それが、ずっと続いてきた生き方だった。
――あの日、彼女が来るまでは。
身代わりだと知ったときも、正直、驚きはしなかった。
あの公爵家なら、そういうこともするだろう、と。
それでも。
並んで歩いた廊下。
転びそうになったときに掴んだ腕の軽さ。
小さく「ありがとうございます」と言った声。
それらは、いつの間にか、彼の中に残っていた。
気づけば、視線は彼女を追っていて。
歩く速さも、無意識に合わせていて。
――手放したくない。
それが、いつから芽生えた感情なのかは、わからない。
ただ、あの場で「返す」という選択肢だけは、どうしても選べなかった。
理由をつけるなら、いくらでもつけられる。
だが、本当は、そんな理屈は必要なかったのだと思う。
彼女が、ここにいる。
それだけで、よかった。
廊下の先に、小さな後ろ姿が見えた。
壁際を歩き、時折、足元を確かめるように立ち止まる。
まだ、無意識に、痛めた足をかばっている歩き方だった。
エマだと気づいて、クラウスは、自然と歩調を速めていた。
追いついて、横に並ぶ。
「……まだ、無理はするな」
それだけ言うつもりだった。
だが、口を開いたついでに、もう一言、続けてしまう。
「君が怪我をすると困る」
エマは、少しだけ目を瞬いてから、小さく笑った。
「……気をつけます」
短いやり取り。
それだけなのに、胸の奥が、わずかに緩む。
しばらく、二人で並んで歩く。
その沈黙が、なぜか、以前よりも苦ではなかった。
――まだ、これは恋と呼ぶには早いのかもしれない。
それでも。
少なくとも、もう彼女を、遠ざけるつもりはなかった。




