あこがれの証明
この会社に入ってまだ三年目――いや、もう三年目。中堅とは言えないが、新人でもない頃。僕は直属の上司、明園マネージャーの下で毎日忙しくしていた。
僕の仕事は激務だったが、明園さんの仕事はそのさらに上を行っていた。それは誰の目にも明らかだった。だけど明園さんはそれを表に出すことはなかった。だから他部署の人間や上層部からは「鉄の女」なんて言われてしまっていた。
困ったことに明園さんには欠点がない。少なくともペーペーの僕からはそう見えていた。対人能力も高く、実務能力も少なくとも僕ら部下に関わることについては不満の一つもなかった。「鉄の女」なんて言われているけど、冷たい印象はなく、むしろよく笑う明るい女性だった。
「お疲れ様、ケーコクくん」
「溪谷です」
「……このやり取り、何回目だろうね」
「百万回くらいですかね」
白いブラウスと黒いジーンズというラフな格好をした明園さんが缶コーヒーを僕の机に置いた。自分のと同じ、無糖のやつだ。明園さんは二十時になると、いつも残っている部下にコーヒーを奢ってくれる。
フロアを見渡せば、いつものようにほとんど社員の姿は見えない。うちの会社は基本的にみんなササッと帰る。残業時間は繁忙期を除けばあまりない。悪くないところだと思う。
だけどその中でも明園さんの業務は山積みだった。仕事ができる人のところに仕事は回ってくると誰かが言っていたが、明園さんはまさにそれなんだろうと思う。
「杉谷くんも薪国さんも帰ったよ」
「二人はきっとデートですよ、金曜ですし」
「だろうね」
二人が付き合っているのは部署内の誰もが知っている。社内でその空気を出してはいないから、みんな黙認している。それにふたりとも三十代の大人だ。わきまえてくれているのはわかる。
「ケーコクくんは彼女いないの?」
明園さんは僕の隣の杉谷さんの椅子に座って足を組んだ。ジーンズに包まれた足はスラッとしていて、思わず視線を誘われてしまう。
「彼女はいないです」
「何その言い方。彼氏がいるの?」
「そんなことはなくて」
僕は慌てて両手を振った。仕事モードを一旦オフにして、僕は明園さんと向かい合った。明園さんは腕も組んで、天井を見上げていた。
「首が凝ってるのよね。さすがに週一回は整体に行きたいわぁ」
「整体行ったことないんですよね。やっぱりいいですか?」
「気持ちいいというか、あるべきところにあるべきパーツが戻っていく感じね」
「へえ」
僕はまだそこまで肩や首や腰にダメージを感じたことはない。
「若いっていいねぇ」
「明園さんだってまだ若いじゃないですか」
「三十過ぎてるのに?」
「僕にはお姉さんみたいなもので」
そして僕は昔から年上が好きで――とはさすがに言えなかった。
「ケーコクくんは仕事できるからさ。私、いつも多く仕事振っちゃって」
「あ、それは全然。むしろ嬉しいです」
「こんなに残業してるのに」
「みんなに比べれば多いですけど、明園さんはもっと仕事あるじゃないですか」
「そりゃマネージャーだからね」
明園さんはうんと伸びをした。
「今日は仕事この辺にして、ちょっと出かけない?」
「出かける?」
で、デートってやつですか?
というふうに安直な期待はしない。
居酒屋で仕事の話かもしれない。
と、思ったのに、僕らはなぜか土曜の朝をホテルで迎えていた。
「ふぅ、良く寝た。気持ちよかった」
明園さんはベッドから出て裸のまま伸びをした。女性らしい曲線が美しかった。
昨夜のことはあまり覚えていない。居酒屋でしこたま飲まされたところは間違いなく事実だ。
「嬉しかったよ、ケーコクくん。私のことをちゃんと見てくれる人がいたんだって」
「それは、でも」
「良かったんですかなんて訊いちゃだめよ」
ベッドに戻ってきた明園さんは、僕に口づけをした。
「実はね、異動なんだ」
「異動……」
「ロンドン」
ロンドンに子会社があることは知っていた。だけど、それが僕に関わる事態になるなんて、一体誰が想像できただろう。
「あっちのCIOの直属で、諸々立て直しをすることになるんだって」
「そんな、でも、ロンドンなんて」
明園さんの仕事の内容なんてどうでもよかった。僕はその「異動」の物理的距離のあまりの大きさに目が眩んでいた。
「目的は半分達せられたし、まぁ、いいかな?」
間近に見える明園さんの目が潤んでいた。
「半分って?」
「ケーコクくんの気持ちの確認。酔ってたけど、本音ってことでいいんだよね」
「もちろんです!」
「嬉しいな」
明園さんはそう言うと僕を押し倒して胸に頬を当てた。
「私もずっとケーコクくんが好きだったんだ。入社したての頃はそうでもなかったんだけど、だんだんね」
「どこが、って訊いちゃだめなんですよね」
「そうだよ。で、そういうところが好きなんだ」
明園さんはそう言って、きちんと畳まれた衣服を身に着け始めた。名残惜しい光景だった。
「本当は四月からは君がよければ、君とみんなには内緒で付き合おうと計画してた。だけど、それは無理になっちゃった」
「待ってます」
「え?」
「戻ってきますよね、こっちに」
「何年かかるかわからないし。その間、お互いにいい人に出会うかもしれない」
「それでも」
「無理よ」
明園さんはマネージャーの顔になった。
「あなたを縛るわけにはいかない。好きだから」
「だってほら、今ならいくらでも通話できるし、毎日顔だって見られる」
「でも触れることはできないでしょ」
「だけど」
「温もりって大事なの。声、言葉、表情……そう言うものをいくら積み上げたとしても、肌の温度一つに全然及ばない。そういうものよ、ケーコクくん」
「僕の明園さんへの想いを捨てなきゃってことですか」
「その想いはあこがれってことにしておいて。あこがれはやがて思い出になるから」
「明園さん」
「香美って呼んでいいよ。ケーコクくんがよければ」
「か、香美……さん」
「なぁに?」
「僕は香美さんのあこがれにはなれない。不公平です」
「そんなことないよ」
明園さんは首を振る。
「言葉と思い出をくれたじゃない。それで十分」
明園さんは微笑んだ。
―――
四月には明園さんがいた痕跡は、オフィスからすっかり消えてなくなった。それが僕にとっては大きな喪失感になり、虚しさとなった。
明園さんはプライベートな情報をくれなかった。お互いのためだと言い張って。だから僕には連絡手段がない。海外の子会社に行ってしまった以上、会社をまたいで情報が行き来することもほとんどない。
そんな中、僕は杉谷さんが教えてくれたURLにアクセスする。
「あ、明園さん!?」
WEBニュースに明園さんがいた。ロンドンの子会社で成果を挙げたことが評価され、取材された様子だった。おびただしい量の英文だったが、どうにか読めないこともない。ブラウザの日本語翻訳機能も駆使しながら、僕はどうにかそれを読み進める。
その中で明園さんは言っていた。
"If dreams and longings remain untouched, they fade into mere memories. But the things we truly want will never settle for that. I believe in this, and I'm here to prove it."
ざっくり翻訳すると、
「夢や憧れは、そのままだとただの思い出になってしまう。だけど、本当に欲しいものは思い出には留まったりしない。私はそう信じ、それを証明しようとしている」
――こんな感じだろうと思う。
これは俺に向けられたメッセージなのかもしれない。
俺は画面の中で微笑む明園さんの美しい微笑を見て、「よし」と呟いた。