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トップアイドル、地元に帰る〜アイドルを辞めた幼馴染が俺としたいこと〜

作者: 小絲さなこ

「ねぇ、起きてよ」


 ゆさゆさと揺さぶられ、俺の意識は夢と現実を行ったり来たりしている。


「起きてってば!」

「ぐえっ」


 腹に衝撃を受け、瞼を開ける。


「な、な……?!」


 とんでもない美少女と目が合った。


「やっと起きたぁ。あけおめことよろ、旭陽(あさひ)


 美少女が満開の向日葵のような笑顔を俺に向けている。しかも、布団に包まる俺の上にまたがっているんだが……


「あけお……え、え……千夜(ちよ)?」


 裾花(すそばな)千夜(ちよ)──アイドルになるからと、中学入学と同時に東京へ行ってしまった幼馴染だ。


「おま……なんで……」

 

 彼女の人差し指が、俺の唇の動きを止める。

 

「その反応。ニュース、見てないんだ?」

 

 枕元の通信端末を手繰り寄せる。

 やたらと通知が来ているが、今はスルーだ。


「『あずきちょこみんと』卒業を発表。ちょことみんとは芸能界を、引退──!」


 通信端末に表示されているニュース一覧がそれで埋め尽くされている。


「ど、どういうことだよ……」

「どうって……そのまんまだけど」


 千夜は首を傾げて俺を見ている。


 いやいやいや、ちょっと待ってくれ。

 寝起きの脳みそに鞭を打つ。

 えーと、整理しよう。


 現役女子中学生アイドルグループ『あずきちょこみんと』

 彼女たちの素顔は謎に包まれているが、俺はそのうちひとりの正体を知っている。

 今、俺の腹にまたがっている美少女こそ、謎のアイドルグループ『あずきちょこみんと』のセンターをつとめる『ちょこ』だ。


 隣の家の住人であり、俺とは同い年の幼馴染。物心つく前からの付き合いだが、会うのは小学校卒業以来だ。 

 成長期だし、約三年会わなければお互いそれなりに変わる。俺はその間、声変わりしたし、背も伸びた。千夜はどうだろうか。

 

 白い肌。

 長い睫毛に縁取られた大きな瞳。

 通った鼻筋に、小さめだが艶々とした唇。

 整った配置は左右対称。

 黒いストレートヘアは胸が隠れるくらいの長さ。

 白いニットの首元が大きく開いていて、ぽつりと鎖骨に黒子が見える。

 俺は視線を逸らした。そこから下はじっくり見ない方がいい気がする。


  

「アイドル、辞めちゃった」

「えへへ〜じゃねぇよ。お前『トップアイドルになる!』って言って、東京行ったじゃねーか!」

「うん。そうだね。ちゃんとトップアイドルになったよ」

「たしかに、ドル(たい)の新人賞やら最優秀賞やら取ったし、センターだったけどさ……ていうか、いつまで俺の上に乗ってんだよ」


 着替えるからと千夜を部屋から追い出す。

 階段を降りる彼女の足音を聞きながら、SNSで「あずきちょこみんと 卒業」と検索した。


「マジだ……」

 

『あずきちょこみんと』──メンバーは『あずき』『ちょこ』『みんと』の三人で、全員現役女子中学生。

 仮面をつけて顔の上半分を隠し、本名、出身地、誕生日などの個人情報も非公表という謎に包まれたアイドルグループだ。

 顔の上半分を隠す仮面は、ベネチアンマスクを参考にしたデザインで、衣装も優雅なものが多く、そういったことからも他のアイドルとは一線を画していた。

 圧倒的な歌唱力とダンスパフォーマンスで多くの人を魅了した彼女たちは、デビュー曲からブレイク。その年の日本アイドル大賞の最優秀新人賞、最優秀作品賞を受賞。翌年には大賞と特別賞を受賞。

 だが、デビュー三年目を迎えた昨年夏からは、メンバー全員が受験生ということもあり、活動休止していた。

 そして本日、新年になった瞬間、メンバーの卒業つまり解散が公式サイトで発表されたのだ。


 その発表から九時間経とうというのに、公式サイトは繋がらない。

 仕方がないので、ニュースサイトで『三人からの大切なお知らせ』を全文掲載している記事を探した。


「メンバーの今後について……あずきはソロで活動。ちょこ、みんとの二人は引退。学業に専念し、それぞれ別の道へ……」


 引退? 別の道……?

 あれだけアイドルになりたいと努力していた千夜が?



 一階のリビングに入ると、千夜と俺の家族が呑気に茶を啜っていた。馴染み過ぎだろ。

 新年の挨拶を交わすと、雑煮が食卓に並ぶ。我が家では、おせちを大晦日に食べ始める。大晦日の晩飯は、お年取り魚とおせち。一年で一番豪華な食事である。そのかわり、元日の朝は質素にしているのだ。

 うちは蕎麦屋で、昼間に賄いで蕎麦を食べたからと大晦日の夜に蕎麦を食べないのだが、他の蕎麦屋のお宅はどうなんだろうか。


「千夜ちゃんが持ってきてくれたおやきもあるわよ」

 

 母がおやきを乗せた皿を持ってきた。蒸し器で温め直したようで、湯気が立っている。


「試作品なんです。良かったら感想聞かせてください」

「千夜ちゃんが考えたんですって」

「へー。中身なに?」

「野沢菜とクリームチーズ」

「ふうん」


 千夜の家は和菓子屋だ。おやきの専門店もあるが、この辺りでは和菓子屋でおやきを製造販売していることが多い。


「いいんじゃないか」

「食べてから言ってよ」

「お酒に合いそうね」

「おばさまったら、うちの父と同じこと言ってる〜」

「意外に美味いな」

「ありがとうございます〜」

 

 父は正直言って期待していなかったのだろう。興味深そうな表情で味わっている。あの様子だと結構気に入ってるかもな。

 

「おいしー!」

 

 小学生の弟が「ぼくこれ好き!」と手を挙げた。

 

「わぁ、うれしい。ありがと〜」

「外国人にはウケるかもしれんな」

「そう思います? お蕎麦とセットでいけそうですか?」

 

 問われた祖父は、腕を組んで瞼を閉じた。眉間に皺が寄る。

 

「蕎麦との相性は、どうかねぇ。若いヤツらは珍しがるかもしんねぇが」

「やっぱ、定番の、ふつーの野沢菜が一番だろ」

「だからぁ、旭陽は食べてから意見してよ」


 千夜はおやきを手で半分に割り、俺の口の前に突き出した。有無を言わさぬ視線。仕方なく受け入れる。


「うーん……クリームチーズ多くね?」

「だって、クリームチーズたっぷりって、嬉しくない?」

「千夜がクリームチーズ好きなのは知ってるけどさ、個人的な好みより味のバランスの方が大事じゃねーかな」

「む。正論……」


 千夜は唇を引き結び、悔しそうな表情を浮かべている。


「でも、野沢菜とクリームチーズは合うと思うよ。改良したやつをイベント限定で売るならアリじゃね?」


 思わずフォローしてしまった。

 ぱああ、と効果音が付きそうな満面の笑みをこぼす千夜から視線を逸らす。なんだか落ち着かない。テーブルの真ん中、重箱のなかの栗きんとんを小皿に取る。


「旭陽、栗きんとん好きだねぇ」

 

 そう言う千夜の前には、くるみ入りの田作りが山盛りになった小皿。

 

「千夜のくるみ好きほどじゃねーよ」

「ぼくもくるみ好きだよ!」

「そうだねぇ。おんなじだねぇ」

「栗きんとんも好き!」

「うるさいなぁ。静かに食えよ」


 弟のテンションが高くて苛立つ。こいつは昔から千夜に懐いているんだよなぁ……

 

「千夜ちゃん、三学期からこっちに戻ってくるの?」

 

 煮しめをつまみながら、母が千夜に問いかけた。

 

「いえ、今の……東京の中学に卒業まで通って、高校からこっちに戻ります」

「どこの高校受けるか決まってるの?」

 

 千夜が首を振ってから俺の顔をチラリと見る。

 

「旭陽はどこ行くの?」

 

 まさかとは思うが、俺と同じ高校に行きたいって言うんじゃないだろうな。

 俺が志望校を言うのをためらっていると、母がそれを口にしてしまった。

 

「じゃあ、私もそこにしよっと」

「マジかよ。大丈夫なのか。俺が言うのもなんだけど、県内トップレベルの高校だぞ」

「ちゃーんと勉強してるもん」

「学年三位内をキープしてるって聞いたわよ。すごいわね」

「いやぁ……成績落ちたらアイドル辞めるって約束だったものですから」

 

 照れた表情を浮かべる千夜だが、内心「もっと褒めて!」と思っていることだろう。なんとなくだが、そんな気がする。

 

「そうだ、合格祈願に駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社に行ってきたらどうだ」

 

 父の言葉に思わず箸を止める。

 

「あそこは『すべらない神社』だものねぇ」


 母が追い討ちをかけてくる。

 

「私たちにぴったりじゃん」

 

 そう言って千夜は俺に抱きつき

 

「ねぇ、旭陽、一緒にいこ?」

 

 耳元でトドメを刺した。



 あぁ、昨日、店の手伝いや片付けで疲れたから、今日は夜までゆっくりすると決めていたのに!


 さようなら、俺の寝正月……



 市街地の、北西にある地附山(じづきやま)

 その山の中腹にあるのが駒形嶽駒弓神社だ。


 午後になっても混雑している善光寺(ぜんこうじ)周辺を避けるコースで歩いたので、だいぶ遠回りになった。

 日当たりの悪い場所や道の隅に雪が残っている。住宅地を縫うように坂を登ると、善光寺の納骨堂である雲上殿(うんじょうでん)が見えてくる。

 車道に沿っていくと駒形嶽駒弓神社の参道入口。そこの短い階段を登ると、その道の奥に鳥居と狛犬が見える。


「ふー……やっと着いた」

「いや、まだまだこれからだぞ」

「わかってるってば」

 

 鳥居をくぐると、延々と続く階段が待っているのだ。

 長い階段をゆっくりと登る。昨晩から今朝にかけて降った雪が残っていて、滑りやすくなっている。


「こんにちはー」

「こんにちはー」


 すれ違う者同士で挨拶を交わすのは、山登りする際のマナーのひとつ。

 ここはお山なのだと実感するやり取りだ。

 さすが元日。普段よりも参拝客が多い。とは言っても、両手で数えられる程なのだが。


「ち、ちょっと、まって……」


 立ち止まった千夜は、ぜえぜえと息をしている。


「体力ねぇなぁ。アイドルになるために必要だから〜とか言って、色々トレーニングしてなかったっけ?」

「仕方ないでしょ。去年の夏からレッスンも減らしてたんだから」

「マジか。油断してると太るぞー。俺は陸上部引退しても走ってるけどな」

「旭陽は単に走るのが好きなだけでしょ」



 ぼーん……

 ぼーん……

 ぼーん……


 麓にある善光寺の鐘の音だ。日中,毎正時になると聞こえてくる音。

 

 ぼーん……

 ぼーん……


 三回鳴ったあと時の数鳴るから、今は午後二時ちょうど。


「ん!」

 

 千夜が俺に向かって腕を伸ばす。

 

「なに?」

「手、繋いで」

「な、なんでだよ」

「だって、手ぇ繋いでないと、旭陽どんどん先に行っちゃうんだもん」

「わかった。ゆっくり行くから」

「むー」

 

 千夜は頬を膨らませた。

 

「ここで手ぇ繋いだら危ないだろう」

「むぅう。正論〜!」


 

 長い階段の突き当たり、右を向くと短い階段。それを登ると、社務所がある場所に出る。社務所の前を通った奥にある手水舎の側には、石の階段。それを登っていくと、本殿と大きな岩が迎えてくれる。


「やっと着いた……」


 小ぢんまりとしているが、地域に大切にされていると感じる、落ちつく空間だ。

 本殿は善光寺と同じ撞木造(しゅもくづくり)。社紋は卍。

「善光寺奥の院」などと呼ばれ、善光寺の善光寺の注連縄を焚き上げる神事が行われるなど、善光寺との関係が深い神社だ。

 地附山で地滑り災害があったとき、被害を免れたことから「すべらない神社」と呼ばれている。


 参拝を済ませ、ゆっくりと階段を降りていく。

 葉が落ちた木々が多いものの、景色がよく見えるわけではない。

 このまま降りて善光寺へと向かっても、まだ混んでいるだろう。少しだけ歩くことにした。

 

 参道入口から出て、地附山公園へと続く車道を登る。この時期、地附山公園は冬季封鎖しているため、車はあまり通らない。

 少し歩くと、善光寺平(ぜんこうじだいら)を一望できる場所がある。


 真っ青な空。

 澄んだ空気。

 街並みの奥、山の稜線──志賀高原(しがこうげん)の辺りに少し雲がかかっている。


「アイドルは単なる通過点なの」


 呟いた千夜は、真っ直ぐに前を向いたまま、まるで隣に誰もいないかのように言葉を紡いだ。

  

「私がアイドルになって有名になったら、うちのお店も有名になると思ったの。でも、お母さんにアイドルになったらプライバシーが無くなるからって反対されて……」


 千夜の母親は若い頃にアイドルをしていたのだという。

 なかなか芽が出なかったものの、少しずつファンが増えていった。だが、これからという時に体調を崩して倒れてしまい──ストーカー被害に遭っていたこともあり、そのまま引退……


「でも、私、どうしても諦めたくなくて」


 千夜の熱意に負け、母親は千夜がアイドルになることを認めた。

 ただし、三つの条件付きだ。

 本名は出さない。

 顔出ししない。

 落ち目になる前に引退する。


「顔出しなしでアイドル活動なんてできるわけがないって思っていたんだけどね」


 千夜は息を吐いた。


「『みんと』も私と似たような感じで『あずき』は顔出しに抵抗があった。三人の事情と、ミステリアスなアイドルを売り出したい事務所の意向が合致したの」


 そして、その狙い通り売れたのだ。


「お父さんには、やり直しができる若いうちにやってみればいいって言われて……反対はされなかったけど、条件を出されたの」


 その条件はふたつ。

 活動するのは中学時代の三年間だけ。

 学校の成績が落ちたら、すぐにアイドルを辞めること。


「──だから、最初から三年間だけのつもりだったの」

「そっか……」

「だから、未練とか……そういうのは、ないんだよ」


 千夜は空を見上げた。


 歩いている時には感じなかったのだが、風が冷たい。

 そろそろ帰ろうか──と言おうとしたところで、千夜がこちらに視線を向けた。

 

「それにね」


 なぜだろう。小学生の頃「アイドルになりたいけど、体力がないとダメなんだって!」と毎日を体操や運動をしたり、動画を見てダンスの練習をしていた千夜の姿が脳内をよぎる。まるで走馬灯のように、小学生の千夜がアイドルを目指している姿を追いかける。


「東京に行ってアイドルになって、色々な人に会って、色々なものを食べてわかったの。離れるとわかることがあるって言うけど、本当なんだね……」


 千夜は一度唇を結んだ。

 大切なことを告げるかのように、真っ直ぐに俺を見つめる。


「私、もうひとつの夢を叶えたいの」

「もうひとつの夢?」

「うん。小さい頃、旭陽と約束したでしょ」


 約束?


「覚えてないかー」

「ごめん」

「ううん。でも、思い出してくれると嬉しいかな。そうだ、当ててみて。間違ったら罰ゲームね!」

「罰ゲームって、何させる気だ」

「ここから、旭陽の中学時代の恥ずかしーいエピソードを叫ぶ、っていうのはどう?」

「近所迷惑だろ」

 

 この山の中腹には住宅地が広がっているのだ。

 

「じゃあ、耳元でコッソリでいいよ」

「恥ずかしいエピソードっていうのは、そのままなのかよ」

「降参も罰ゲームだから」

「ルール変更すんなよ……えーと、店を継ぐことか?」


 千夜の家の店は、兄が継ぐと聞いた気がするが、気が変わったのか? あの人、最近ギター担いでいるし。音楽に生きるぜ、和菓子職人にならねーよ、などと言っているのかもしれない。

 あの店には、うちの蕎麦屋でセットメニューにしている商品もあるし、なんといっても老舗。無くなってほしくない。


「ちょっと違う、かな」

「じゃあ、暖簾分けか。二号店としておやき専門店をやりたいとか?」

「近い。すごーく近いよ。でも、ちょっと違うんだなぁ」

「じゃあなんだ……?」


 俺は頭を抱えた。

 このままでは、恥ずかしいエピソードを千夜の耳元で言わなければならない。

 ヤバい。正解も恥ずかしいエピソードも思い浮かばない。


「わかんないかー。ヒント、出そうか?」


 千夜はニヤニヤ笑っている。


「千夜の夢がどんなものでも俺は応援するぞ」

「んー。そうじゃなくて、ふたりで叶えるものなんだけど……」

「え……俺と?」

「じゃあ、降参ってことで」

「ふざけんなよ。ちょっと待ってろ。考えるから……」


 

 はらはらと白いものが落ちてきた。

 心なしか雲が増えてきた気がする。

 そういえば天気予報では夕方から雪だと言っていた。


「私、ここからの眺め好き」

「俺も」


 どちらからともなく、手を繋いだ。

 千夜の手は俺のものよりも、小さくて、柔らかくて、冷たい。


 昔から俺たちはよく手を繋いでいた。

 手を繋ぐことを気持ちがひとつになる行為だと思っていたのかもしれないし、ただ触れたかっただけなのかもしれない。


 今、手を繋ぎたくなった理由を必死になって探す。

 そのどれもこれもが、恥ずかしいものばかりで狼狽えた。


 雲が切れ、太陽の光が注いでくる。

 はらはらと、雪は舞い続ける。

 下の方から自動車が走る音が聞こえ、消えていく。


 名前を呼ぼうとして、唇を閉じる。何度かそれを繰り返す。

 手を離すのは簡単だ。

 だが、それをしたいとは思わない。

 冷たかった千夜の手が、俺の掌と同じ温度になっていく。


 千夜の頭は、俺よりも低い位置にある。あの頃は同じ位置にあった顔が、遠く感じる。

 男女の身長差なんて、大した問題ではないはずだ。それなのに、遠いと思ってしまう。

 あの頃と視線の高さが違うからといって、見えるものまで違うとは限らないのに。


 

 取り止めもなく思考が巡るのは、会話がないからだ。

 帰るタイミングを逃してしまった気がする。だが、まだここでこの景色を見ていたい気もする。なぜだろう。疑問を抱きつつも、その答えを今探す必要はないと思った。繋いだ手を握りしめる。

 


「私、普通の女子高生になれるかなぁ……」


 あまりにも小さな声だったので、風が吹いていたら聞き取れなかったかもしれない。


 千夜は、アイドルとして活動する一方で、それを隠して都会で暮らしていた。その三年間、何があったのか詳しいことは俺にはわからない。

 だが、普通の中学生活ではなかったことは想像出来るし、これからの生活が不安になる気持ちもわかる。


「おかえり、千夜」


 口に出してから、俺は脳内で自分自身を罵倒した。

 何を言ったら千夜を元気づけられるか──わからないまま出た言葉がこれかよ。もっと気の利いたことが言えないのかよ、俺!


「それ、今言う〜?」


 笑う千夜の潤んだ瞳と、陽の光を反射した雪が、キラキラと輝く。



 胸の奥がうずいている。

 何かが競り上がってきて、鼻の奥がツンとした。


 あぁ、そうか。

 

 俺は、千夜が帰ってくる日を待っていたんだ。ずっと────


 

 

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