第29話
リペラの呪文のような叫び声が背後から聞こえた直後、首を絞めつけていた圧力がふっと消える。
「げほっ、げほっ!」
気管に唾が入り、むせ返るように咳き込みながら、圭介は肩で息をしつつ首元を押さえた。
喉の奥が焼け付くように痛むが、呼吸は確保できた。
何が起きたのか。ぼやけた意識の中、目に飛び込んできたのは床に転がっている腕。
圭介は急いで自身の両腕を見る。問題なくついている。
「ヴォルプータスの腕か......?」
呻き声が耳に届いた。
視線を向けると、狼の姿をしたヴォルプータスが、片腕を失った状態で顔をしかめていた。切断されたのは人間の手に変異した左前脚。
断面は不気味なほど滑らかだった。肉が裂けたわけでもなければ、刃物できられたわけでもない。光そのもので焼き切られたかのように、熱を帯びて蒸気をあげていた。
背後を振り返る。
そこにいたのは、魔法陣を足元に浮かべ、まばゆい光をまとったリペラだった。
最初から使えたのか、ついさっき宿ったのか。どちらにせよ助かったことには変わりはない。
「光弾よ、穢れし存在を貫け!」
リペラの声が響くと、彼女の周囲にいくつもの光の弾が出現した。
光弾は周囲の光を吸い寄せるように粒子を取り込み、輝きを増していく。
その光景に、圭介の喉から乾いた笑いが漏れた。
「ははっ......マジで言ってる?」
彼女は確かに光弾と言っていた。ということは光弾が直線的に放たれることになる。
自分はその射線上にいた。
「マズいって!」
身を翻そうとするが、脇腹に痛みが走り体勢が崩れた。仮に今走り出せたとしても避け切れるかどうかわからない。
リペラがこちらに気づいて声を張り上げた。
「ケイスケさん! 伏せて!」
その言葉に、反射的に頭を抱えてその場に伏せ込む。
耳元を鋭い風圧と音が通り抜けた。光弾は単発ではなく、機関銃のように連続で発射されている。
顔を上げてみれば、ヴォルプータスは部屋の中を縦横無尽に飛び回りながら、何とか回避していた。
しかし、光弾も一筋縄ではなかった。
跳弾だ。壁、天井、床に、弾は一度ぶつかった後も消えず、反射しながら軌道を変えてヴォルプータスを追い詰めている。
予測不能な角度から迫る追撃の数々。いかに身体能力が上がっていようと、切断された左前脚の影響もあり、完全な回避は不可能だった。
焼け焦げる音とともに、灰色の毛皮が焦げ、皮膚が裂ける。一発、一発と光弾が体を掠めるたびにヴォルプータスの動きが徐々に鈍っていくのが見えた。
「ハァ......ハァ......ハァ......」
動きが鈍っていたのはヴォルプータスだけじゃない。
リペラの額にはびっしりと汗が浮かび、頬を伝う滴が床に落ちるたび、かすかな音を立てていた。
疲労と緊張が重なり、息は浅く、速く、肩がわずかに震えている。涙袋がピクピクと痙攣する。
光弾の雨がいくらヴォルプータスを追い詰めているとはいえ、奴のしぶとさは相当なものだ。
しかもリペラの魔法があの密度で放たれているうちは、自分たちがうかつに近づける状況ではない。
「クソガキがぁ! そんなに食われたいのなら、お前から食ってやる!」
低く唸る声を発し、ヴォルプータスが足腰に力を入れる。
リペラと光弾の軌跡との間に、ほんの僅か、一瞬だけ生まれた空白を奴は見逃さなかった。
人間の身体能力なら切り込むことは出来ないが、奴は狼の身体を姿をしている。狼の脚力ならこの一瞬の隙を突くことが出来る。
「父と母と同じ運命を辿れッ!」
ヴォルプータスが残された三本の脚で床を叩き割る勢いで踏み込む。
だが、既に圭介は床に右手を押しつけていた。
「足元はよく確認しないとな──アイス!」
圭介がスキルを唱え、ヴォルプータスの真下に冷気を送り込み、滑らかな氷の膜が発生させた。
目の前の獲物に意識を集中していた巨体は、床の変化に気づくことなく、派手に足を滑らせる。
「な──っ!?」
狼の身体が宙を舞う。剥き出しの爪が空気を切り裂き、仰向けになった腹が天井の明かりを受けて鈍く光った。
巨大な体躯はもはや制御不能。バランスを崩したまま、重力に引きずられるようにして床へ――
「ふんッ!」
セクオールの手から槍が放たれた。空気を切り裂き、真っすぐヴォルプータスの腹部を貫通した。
槍の勢いそのまま、狼の身体を壁まで吹き飛ばし、鈍い音をたてて打ちるける。
灰色の毛皮が内側に吸い込まれ、しなやかな四肢へと変わっていく。金色の長髪が床に流れ、尖った耳は丸みを帯び、人の姿、女の体へと戻った。
腹部には槍が深々と突き刺さり、そこから赤黒い血が大量に溢れ出ている。左腕の断面は腐蝕したかのように黒ずみ、力なく垂れていた。
変身が解けた。体力の限界がきて、狼の姿を保てなくなったのだろう。
セクオールとリペラがヴォルプータスへと歩み寄る。
セクオールが無言のまま、彼女の腹に突き刺さっている槍を力任せに引き抜く。
「ガハッ──!」
ヴォルプータスの口から血が噴き出す。鉄臭い飛沫が空中を散り、床に赤い雨を降らせた。噴き出した血液はすぐに広がり、床の木目を飲み込みながら、静かに染みを広げていく。
リペラが一歩前に出た。
圭介はリペラの声に驚く。いつものような柔らかさはそこにはなく、今にも噛みつきそうな低く鋭い声だった。
「お前みたいな屑でも、血は赤いのね」
誰に対しても敬語を崩さなかったリペラ。
その瞳には言葉にならないほどの怒りと憎悪が込められていた。
「でも、お父さんもお母さんも......生まれてくるはずだった家族の苦しみは、そんな程度の痛みじゃなかった!」
叫びが空気を裂いた。
その言葉は、彼女がずっと胸の奥で温め続けてきた、明確な意志だった。
リペラの人差し指に光が集まり始めた。
「仇を……取るつもり?」
口元から血を垂らしながら、ヴォルプータスはそう問いかけた。
身体のあちこちから血を流し、壁に寄りかかっているにもかかわらず、その目に宿る光は消えていない。
本当に末恐ろしい奴だ。
リペラの指先はぶれなかった。瞳も、ただ真っ直ぐに相手を捉えている。
「それが遺言?」
「フッ......私の、人の事言えないけど......目の前のことに夢中に......なりすぎなんじゃない?」
ヴォルプータスはそう吐き捨てた。
口調はあくまで軽く、それが逆に不気味さを際立たせていた。
「はったり?」
「人を殺したことがないから......そう言えるのさ......」
その表情には、得体の知れない愉悦が滲んでいた。
それと同時に、血で濡れたその口が、ゆっくりと開かれる。
「私には……『隷属』が宿っていることを、忘れたか……!?」
ヴォルプータスの言葉が終わると同時に、甲高い音が部屋中に響いた。
音の出どころは部屋にある窓。砕け散ったガラスの破片が、鋭い光を反射させながら宙を舞っていた。
割れた窓の向こうから巨大な影が一直線に飛び込んでくる。広げた翼は大人二人を容易に覆うほどの大きさ。
巨大な鷹が迫ってきていた。




