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四年目 静寂の大樹

 ──今日は一段と暑い、とカソウは帽子越しに空を仰いだ。白い綿雲が入道雲と呼ぶには小さく纏まっていて、夏空の蒼を一層鮮やかに見せている。


 カソウの住む島は、〈森の島〉だから、これでも他の地よりは涼しいのだろう。湿り気のある重たい暑さを、ひやりと温度の変わらない森の風が和らげてくれる。


 森は変わらない。森の移ろいはとても穏やかで、ほのかな青い匂いと、静かな温度がある。夏も、冬も、不可侵の森はその景色を塗り替えはすれど、温度を置き去りにする。そこに生きる一葉もまた、そういう存在なのだろう、とカソウは知っている。


 だからこそ、カソウは嘆かずにいられる。カソウが愛おしむ過去の全ては、一葉が森で守ってくれると、知っているのだから。





──────




 この森の木々は、その種類にもよるけれど、太く年月を感じさせる大木がとても多い。その中でも、広大な森に点在する特に大きな巨木は、それらの木々が小さく見える程の存在感がある。

 そして、そういった〝特殊な巨木〟は、やはり他の場所とは違う性質を持つモノが多い。


 四年目の場所、〈静寂(しじま)の大樹〉もまた、特殊な〝場所〟の一つだった。


 手を繋いで歩く二人の足に、緑色に苔むした地面がふかふかと柔らかさを伝えてくる。蔓草が巻き付き、緑を纏うようにして木肌に他の植物を住まわせる、古色蒼然とした雰囲気の巨木は、カソウの住む古い屋敷を二つ三つ並べても、まだ余る程幅が広い。間近に行けば、壁のようにすら思えた。


「  」


 カソウが笑顔で、一葉を呼ぶ。けれどそれは音にならずにただ吐息の揺れだけを残した。


「   」


 一葉の返した言葉も、同じように鼓膜を揺らさない。これが、この樹を〈静寂の大樹〉と名付けた所以だった。この樹、この枝葉の影の内では、声という声は音にならない。普段聴こえる鳥や虫の歌は絶え、この樹が発する木の葉のせせらぎだけが森の風を音にする。今この場では、二人は言葉を持たなかった。



 カソウが目を閉じる。聴覚を満たす大樹の呼吸の向こうで、幼い日の自分の声を思い出す。あの日の彼女は、誕生日だというのにひどく落ち込んで、泣きそうになりながら一葉を呼んだのだ。


『一葉、どうしよう。お父様と、喧嘩してしまったの。ひどい事言ってしまったのよ』


 些細と言えば些細な事だ。お互いに、ほんの少し言葉選びが拙かっただけ。大事に想われているのも想っているのも互いに分っていて、けれどだからこそ、並べた言葉の勢いに躓いてしまった。抑えきれなかった。


『謝ったらきっと許してくれるわ。でも、今は会いたくない。ねえ、一葉。私今、言葉を無くしてしまいたいわ。今だけ、落ち着くまで、何も言葉にしたくないの』


 いつもの誕生日とは違って、はらはらぽろぽろ泣くカソウに、一葉は困った顔をしていた。手を伸ばして、涙を拭って頭を撫でて、少し考え込んで、彼は言った。


『……分かった。今だけ、言葉を無くしに行こう』


 きょとんとして少し涙が止んだカソウを抱えて、飛ぶように一葉が連れて来たのが、ここだった。何も音にならない、どんなに声を出しても、他者を傷つける形をとらない場所。その時のカソウが、必要としていた場所。



 この大樹は音を欲しがるんだ。と、後から一葉は言った。自分の枝葉と根の間、その領域の音を集めて、紡いで、自分の音にする。そうして咲いた花は、とても綺麗な音で生まれるんだ、と摘んできて見せてくれた風鈴のような花を揺らすと、鈴や風葉、水の音に似た、澄んだ綺麗な音がした。



 今のカソウも、言葉を失くしたいと思う時がある。ふと一葉を見ると、カソウを見て眩しそうに目を細めていて、その優しい色をずっと見ていたくて。けれど時は止めたいと思わなくて。せめて言葉を、音にできる限りの自分の想いを、一葉に渡してしまいたかった。それが叶わないから、いっそ失くしたいと思うのだ。


 沈黙が降りる、静寂に包まれる。木の葉の囁く声だけが世界を気づかせて、まるで二人以外の全てが眠ってしまったかのようだった。


(ごめんね)


 音無し声で囁いた言葉に、一葉が首を傾げる。問うようにカソウを見つめる瞳に、困った顔で、寂しげに微笑む少女が映った。


 一葉はいつだって望まない。きっとそれは、森に生きるヒトになる前、村に生まれた人であった古い時代からそうだったのだろう。知る限りの彼の過去を思えば、〝望む〟事を知っていたのかすら。

 ただ、出逢って過ごす中で、視線に温度が、口元に微笑みが、言葉に柔らかさが、温もりに共感が生まれて、そうして望むようになった。望んでくれるようになったのに。


『笑って、カソウ』


『教えて、何が見たい?』


『嬉しい? ……良かった。ねえ、カソウ』


『どうか、笑って』


 ささやかな願い。淡く望む声。カソウが愛おしむ過去の欠片達。それを褪せぬ過去にしたい少女の我儘を、なんでもない顔をして叶えてくれる、優しい一葉。


(ごめんなさい)


 もう一度繰り返す音無し声に、一葉が少し困った顔をするのが見えて、カソウは一つ瞬きした。

 一つ閉じて、目を開く。寂しげな色を木漏れ日に隠して、カソウはふわりと微笑んだ。


 気にしないで、と言うように首を振れば、一葉はすっと一歩引いてくれる。カソウは何も無かったように手を伸ばして、彼女よりほんの少しだけ大きな手に、白い指を絡ませた。


 そんなカソウをじっと見つめて、一葉が口を開く。何を言うのかと首を傾げたカソウに、少し震えた唇を、しかし形にせずにまた閉じてしまって、一葉は微笑んだ。


 音の絶えた常磐色の木陰で、彼は何が言いたかったのだろう。隠す事もできるこの樹の下で、彼は何を言えなかったのだろう。


 その答えにきっと、カソウは手を伸ばせば触れられた。けれど、それはカソウも一葉も望まない事だったから。


 静寂の大樹。音を隠し守るこの樹にすら渡したくなかった形無い言葉は、目を伏せた一葉が深く深くしまいこんでしまった。この無音すらも過去にして、形無いものとして形にした。



 音が無い、と、言葉が無いでは違うから。言葉にしたい衝動すら無くして、ただ想いだけ、心だけで寄り添えたなら。そう思わず祈ってしまう。


 自分の選択に後悔は無いけれど。違える事は無いけれど。

 微笑み合う今は、過去になる今は、寂しさが香る事を自分に許そう。


 一葉が言葉にしなかったように。カソウもまた、静寂に溶かしたくない想いがあったから。

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