『今に繋がる夢』
「逃げろ! いいから逃げろ!」
喉がひりつき、呼吸する度に肺が痛む。
ネズミを蹴散らし虫を踏みながら走り続けて、熱い体から粘り気のある汗が流れている。
「おやびん! やだよ、おやびんもいっしょに行こうよ! この子のお父さんなんだよ? ねぇ、おやびん!」
足下の女が、金切り声を上げる。
腕に抱えた赤ん坊が、恐怖を感じて泣き出した。
(そうか、これは……)
自由の効かない体と突然の逃亡劇に戸惑ったが、女を見下ろすナミラはすぐに状況を理解した。
これはリッパーマンの記憶。
命を奪い続けた殺人鬼が、生涯で唯一人を救った出来事。
下水道へ攻め込んだ左大将軍の小隊から妻子を逃した、死の直前の一幕。
「いいから行け馬鹿! 俺がその餓鬼ごと殺してやろうか!」
ひっ、と息を飲んだ女は咄嗟に赤ん坊を庇った。
母親としての愛情が起こした、反射的な行動だった。
「……初めて俺に反抗したじゃねぇか。そうやって、しっかり守ってみせろっ!」
「おやびん!」
女はすがるように泣き叫ぶ。
体は小さく、前歯が抜けたみすぼらしい姿の少女。親に捨てられ、リッパーマンと共に下水道で生きてきた。彼を『おやびん』と慕い、子を産み、ハナビと呼ばれたウルミの曾祖母である。
「あいつらを殺したらすぐに行く! だから■■■■■のとこまで急げ! あいつなら助けてくれる!」
……待て。
今、俺はなんて言った?
「ぜったいだよ? ぜったいぜったいぜったいだよ!」
「あぁ、絶対だ! 邪魔をする奴らは、みんな俺が殺してやる……もし近くにいなくても、なんかあったら俺を呼べ。殺しに行ってやるからよ」
「わかった! この子といっしょに■■■■■のとこで待ってるから! ずっとずっと、おやびんのこと待ってるからね!」
駄目だ、どうしても聞き取れない。
自分の言葉もハナビの言葉も、酷いノイズに邪魔されてしまう。視界もその瞬間だけ歪み、口の動きを読むこともできない。
リッパーマンは鼻をすするハナビと、泣き止んだ赤ん坊の頭を撫でた。
そして二度と振り返らず、遠ざかる足音を聞き届けた。
「……売女と忌み子はその先か?」
きらびやかな鎧を身に纏い、追いついた当時の左大将軍が剣を向ける。
「いい鎧と剣だなぁ、お前。髪もいい色だし、歯も全部あるな!」
よだれを垂らしながら、リッパーはほくそ笑む。
「だから殺す」
刃こぼれした古いナイフに舌を這わせ、小隊にゆっくりと近づく。
傍ではひどい臭いの汚水がボコボコと泡立ち、共に戦うと言ってくれている。
「死ぬのは貴様だ、化け物め。巷ではお前を『リッパーマン』などと呼んでいるが、今日斬られるのは貴様である。己の存在を悔いるがよい」
「はははは! そりゃあいい! 初めての名前だ!」
次の瞬間。
リッパーマンは左大将軍に飛びかかった。
「お礼に殺してやるよおぉぉぉ!」
下水道に、野太い声と戦いの音が響き渡る。
「……はっ!」
ナミラはびっしょりと寝汗を掻き、ベッドから飛び起きた。
静かな夜が窓の外に広がっている。
おもむろに体を見ると、先程まで大男であった体躯は少年のものになっており、全身には包帯が巻かれていた。
「夢か……でも」
胸に残る居心地の悪さ。
夢だと分かった今でも、頭にかかる疑念の靄が晴れることはなかった。
「前世で見聞きしたもの、経験や記憶はすべて引き継がれるはずだ。なのに……どうやっても思い出せない。リッパーマンの人格でも同じようだな」
顎を指で触り、柔らかなシーツを見つめ、しばし考えを巡らせる。
「あのとき、リッパーマンたちは誰を頼ろうとした? あのとき、ハナビは赤ん坊を連れてどこへ行ったんだ?」
口にしたはずの言葉も、過去の出来事も思い出せない。
リッパーマンが知るあのなにかに関する情報が、得体のしれないものに邪魔されすくい上げることができない。
月が薄い雲から抜け出したとき、ナミラはひとつの結論を口にした。
「現代に繋がる、重要ななにかがあるのは間違いない。それは、過去に干渉する能力を持っているか……それとも」
ふと、窓の外に目をやった。
「今の俺とは比べ物にならない実力の差があるか、だな。最悪の場合は、その両方だけど」
ナミラは深いため息をついた。
「ただでさえ疲れてるってのに、勘弁してほしいぜ」
仰向けに倒れ、天井を見上げる。
幾何学模様の細やかな絵が、自分の快気を祈っている。まだ見慣れぬ装飾だが、ここは王都にあるタキメノ家の、自分の部屋にほかならない。
ナミラは目を閉じ、ウルミとの戦いから今日までの出来事を思い返した。




