『大丈夫だよ』
にゃあ。にゃあ。
――――声が聞こえる。
胸を焦がすように懐かしい、どこかの猫の声が。
「………きみは」
ナミラの前には、一匹の猫がいた。
美しいとは言えない、汚れて乱れた毛並み。痩せた体には、伸び切った爪と目ヤニの塊も見える。
今のナミラはこの猫と恋人の関係にあった。
姿は対象的に身ぎれいな雌猫であり、公園で浴びる日の光が白い体を眩しく輝かせているところだった。
「きみは……」
呟いた瞬間、胸に激痛が飛び込んだ。
それは体を貫く火矢がもたらすものであり、放ったのは町に攻め込んだ敵国のエルフだった。
「にゃあ! にゃあ!」
恋人が泣き叫び、必死で矢を引き抜こうとする。
しかし細く小さな体には力が足りず、流れ落ちる涙では燃え広がる火を消すことはできない。
「にゃあ! んにゃああああああ!」
町が、故郷が、恋人との思い出が、燃え盛る炎に飲み込まれていく。
薄れゆく意識の中で「泣かないで」「はやくにげて」と言いたかった。でも彼は、その場から動こうとはしなかった。
恋人を焼く火に体を擦り寄せ、共に灰となることを選んだ。
ただ瞳だけは、揺らめく炎の世界と踏み荒らす足を怨みをこめて睨みつけていた。
次は雄猫同士の友だった。
港町でいっしょに育ち、ときどき魚を獲って楽しく暮らしていた。
だがその生活も、押し入った海賊の手によって奪われた。ナミラはまた世を怨む友を遺し、この世を去った。
その次は親子で、相手は親だった。
またその次は兄弟だった――――雌猫の友人、姉妹、祖父と孫。こちらが飼い主で、強盗に襲われて飼い猫を庇うこともあった。
「なんだこれは……こんな偏りがありえるのかっ、ガッぐっ」
ナミラの中に眠る前世の旅は、千にも満たないまま終わりを告げた。
続けて見えた景色は、最初の雌猫。
かつての自分が死んだあとの、最も愛した存在の視点に立っていた。
「あぁ! うあああああっわああああああああああ!」
すべてわかった、まるで自分のことのように。
自分を失った最愛の相手が、なにを見て、なにを感じ、なにをしたのか。
その果てに、どうなってしまったのかを。
「ぎゃああああああああああああにゃあああああああああああああ!!」
有無を言わさず始まった百万の前世を巡る旅は、ナミラの前世とは関係ない場合のほうが多い。
だからどんな関係であったのか、どんな経緯で悲劇に見舞われたのかわからない。
けれどシュレディンガーが生きてきた百万に至る前世のすべてに、共通していることがあった。
彼はすべての命で、命よりも大切な存在を奪われていた。
彼はすべての命で、敵よりも弱く無力だった。
彼はすべての命で、なによりも怨みを募らせて死んだ。
戦火をばらまく、文明を持つすべての種族を。この世界のすべてを。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
純粋な心だったからこそ、濁り高まった憎しみの感情。どんな魔法よりも恐ろしく、どんな技よりも強い力の源がここにあった。
逃げ場なく囲い、躊躇なく入り込み、狂ったように襲う濃縮された悲劇。ナミラの魂はいつシュレディンガーの魂に飲み込まれてもおかしくはなかった。
「ぐ、くっあ、ぐぅ!」
オンラとジルの怨みを経験していたことでわずかな耐性ができていたナミラは、百万の悲劇に必死で抗い続けていた。
だがそれも、いつ消えてもおかしくない風前の灯火と化している。
百万匹の猫の怨念が、魂を食らいつくそうと爪を突き立てているのだ。
「にゃあ」
なんとか繋ぎ止める意識の中、猫の声が聞こえた。
それはかつてのナミラ自身。そしてシュレディンガーが初めて失った、あの恋人だった。
「もう、彼にはわたしの声は届かない。あなたしかいないのナミラ」
鈴の音が鳴るような声で、小さな願いは囁かれた。
「彼を救って。勝手なおねがいだって、本当は倒さなきゃいけないんだってわかってる。だけど! あんなの彼がかわいそう! ただの野良猫だったのに、どうしてこんな……わたし、彼のためなら禁忌だって侵すわ! だから、だからっ」
姿はない。
けれど小さな体で必死にすがる少女のような姿が、ナミラのまぶたにハッキリと浮かんだ。
「きもち……わかるよ。それに今のきみは、まるで」
ナミラはすでに、煙の中に消えそうな声で呟くことしかできなかった。
――――だが、しかし。今この瞬間、一匹の猫に希望と力を見出した。
「そうか……なら魔力の流れは……闘気の質を変えて……」
蘇った前世の知識と経験が収束し、ナミラの中で形となっていく。
ほんの数秒のことだったが、すべてが終わったときに現れたのは、神々しく穏やかな顔だった。
「大丈夫、もう大丈夫だよ。俺も……シュレディンガーも」
これからなにが起こるのか、ただの猫である前世にはわからない。
ただ言葉にできない安心感に満ち溢れ、生前は愛する彼にしか抱かなかった信頼を寄せた。
「さあ、おいで」
蠢くシュレディンガーの怨念は、憎しみのままに人間の少年を飲み込んでいく。
けれどナミラは、身を任せた。
他の前世が止める間もなく、百万の憎しみに堕ちていった。
「………………にゃ?」
ひとつ、剥がれた。
百万分の一でしかないが、一匹の子猫が魂の塊から離れていった。その顔は愛らしく、憎しみとは無縁の世界を思わせた。
またひとつの前世が離れた。またひとつ、またひとつ、また一匹、また一匹と、猫の怨念は数を減らしていく。
「にゃあ」
ほんのりと灯る光があった。
白と金色がやわらかく混ざり、自らを引き裂かんとする爪を包み込む。
やがてゆっくりと肉球を覆い、両脚と尻尾、体を抱きしめて、最後には頭を撫でる優しい光。
光の正体は言うまでもなく、ナミラ・タキメノの魂だった。
「にゃあ」「にゃあ」「なぁん」「にゃあん」
次々と、確実に怨みの数は減っていた。
「大丈夫だよ。言ってごらん、ぜんぶ受け止めるから」
光と闇が重なり、二つの魂が混沌として混ざり合った。
しかしその均衡はゆっくりと、光の割合が広がっていく。
「……いいこだね。じゃあ、元の世界に戻ろうか。きみたちの友達を助けなきゃ」
気づけばナミラの周りには、数多くの光り輝く猫たちがいた。
みんな宝石のような瞳を輝かせ、穏やかな顔をしている。
そして彼らの光が朝日のように満ち、ナミラの意識は肉体へと誘われていった。