『炭化』
体の輪郭が曖昧になり、己の存在すらかすんでいく光の中で。
シュレディンガーとしての自我は、静かな独白を吐き出していた
――――百万回の生の中で、幸せを感じたことはあった。
――――友もいた、家族もいた。
――――けれど、すべて奪われた。
――――今度はこちらの番だ。今度はこちらが奪う番のはずだ。
――――だから――――ダカラ――――!!
ミ ナ ゴ ロ シ ニ シ テ ヤ ル
「っ! 離れろイフリート!」
ナミラが叫ぶが早いか、力を取り戻しつつあった火の精霊王は素早く距離をとった。
彼の脱出のために技を解いたナミラも、額に冷汗を流しながら反射的に下がっていた。
「これは」
空が暗黒に塗り替えられていた。
真昼間の砂漠にあって、血も凍る夜の冷気が漂っている。同時に言いようのない、不気味で全身を舐めまわされるような不安が、ナミラたちに襲いかかっていた。
「にゃあ……にゃああああ」
シュレディンガーは鳴いていた。
鳴いて、泣いて、啼いて、亡いていた。
姿は獣人の要素を失い、小さく痩せ細った黒猫となっている。辛うじて生えた二本の尻尾だけが、外見での異常性を伝えていた。
しかしナミラは天を覆う闇のすべてから、シュレディンガーのむせかえるような気配を感じていた。
「ナミラ様、これは火の魔力じゃねぇ。炭や灰……燃えたあとに残るもんが凝縮されてるみたいだ。そんなのには魔素もねぇはずなのに、この力は」
「わからない。だが油断できないのは確実だ。イフリート、まだ全快じゃないとこ悪いが、お前は守りにまわってくれ。アニとアヴラにはもう動いてもらってる」
「わかりました……ご武運をお祈りしてますぜ!」
イフリートは自然と同化し、熱い魔力を広げた。
眷属である妖精と精霊たちも力を発揮し、砂漠はひとまず、元の熱気を取り戻した。
「……手が出せないな。前世は一万以上集まっているんだが、お前が恐ろしく感じるよシュレディンガー」
剣先の震えに自傷の笑みを浮かべる。
「だが、なにもせず見ているわけにはいかない。くらえっ! 真・斬竜」
竜心を振り上げ、闘気の竜を放とうとした。
「なっ」
しかしナミラは技を放つことができなかった。
竜心は握っていたはずの手から静かにすべり落ち、流れる砂の上に刺さってしまった。
「どういうことだ」
手の感覚がない。
力が入らず、指も動く素振りを見せない。
ナミラは慌てて、鎧の隙間から両手を見た。
手は黒く炭化して崩れかけ、皮膚は白い灰となり、風に攫われた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
痛みはない、だからこそ恐ろしい。
体の炭化は今も広がり、それどころか足や腹にまで予兆が現れ始めている。
「な、なんだこれはっ! いや……なんだっていい。早く止め「にゃあ」ないと」
耳元で声がした。
いつの間にか、二尾の黒猫が顔の横に座っている。
そして即座に攻撃を仕掛けようとしたナミラの顔を、二本の尻尾がヌラリと撫でた。
「ガあッ!」
起こったのは前世の邂逅。
だがそれは、必ずしも女神のギフトによるものではなかった。
ギフト『前世』という入口に、シュレディンガーが生きた猫としての百万の生が無理やりねじ込まれていく。ひとつひとつは短くとも、その密度と濃度は今までの比ではなかった。
「こうなると……思ったにゃあ」
ささやいた猫の目の前から、ナミラの体が消えた。
ただ静かに、黒く脆く変わりながら、下へ下へと落ちていく。
「魔力はもう……吾輩のものになったと……言ったにゃ。火の力は、ただのオマケ……超天魔法の名残りでしかない」
「『炎王の憤怒!』」
怒りを燃やしたイフリートの攻撃が、一匹の猫に放たれた。
豪炎の球が周囲を照らし、小さな影すら飲み込み消した。ナミラは精霊が受け止めたが、まだ意識が戻らない。その間も炭化の浸食は止まらなかった。
「火の力を舐めんな!」
「火……火は……ダイキライにゃ!」
太陽を思わせる火球は、シュレディンガーの咆哮を浴びると一瞬で黒く染まった。
眩い熱は失われ、精霊王の必殺技が燃えカスの塊と化した。
「くそが!」
だが再び燃え上がり、炭化した肌を燃やし尽くした。
「キライにゃ!」
しかし燃えたそばから炭となる。
燃えては消え、輝いては燃え尽きを、幾度となく繰り返していく。
「くっそ……せっかく戻った体が、また」
「おまたせ精霊王」
火球の背後に飛んできたアヴラは、自身の魔力をイフリートの技に注いだ。
「来てくれたか火の賢者! よっしゃ、このまま押し切るぞ!」
「無理ね。私が加勢したところでこの状況は変わらない。時価稼ぎにしかならないわ。どこかで隙を見て、一度引かないと」
少し息の上がったアヴラは、努めて冷静だった。
賢者としての知見をフル稼働した結果、手負いのナミラを抱えては勝機なしと判断。他の仲間との合流を最優先としていた。
「アニが戻り次第、ナミラを回収して逃げるわよ。精霊の手を貸して」
「無理じゃねぇか? 炭化の範囲や条件がわからない上に、奴は恐ろしく速い。逃げられると思うか?」
「それでも逃げるしかないのよ。アンネの元にいけば、ナミラだって回復できるかもしれない。逃げの一手しか残されてないのよ」
「いーや、まだある」
イフリートはさも自信と策ありげに笑ったが、中身が伴っていないことはアヴラにもわかった。
「こんなときに適当なこと言わないで。本当に悠久を生きてる精霊王なの?」
「お前こそ本当に火の賢者か、アヴラよ。火を司るなら、まだまだ燃え尽きちゃいけねぇ。時間稼ぎ上等だ。限界まで燃やして消されてを繰り返そう」
「それでなにが得られるっていうの!」
大量の魔力を注ぎ続け、アヴラに早くも疲労の色が見え始めた。
さらにイフリートとの会話に苛立ち、自然と語気が強まってしまう。
けれどイフリートは、万象王の時代から生きる火の精霊王は、揺らめく篝火のような笑みを浮かべた。
「勝利だ。このまま時間を稼ぎ、ナミラ様の意識が戻れば必ず勝てる」
「なにを根拠に」
「オレなりの根拠はあるが、まぁほとんど賭けだな。だがお前も賢者なら付き合え。全快ではないが、精霊王の力を余すことなく貸してやる。こんな機会、古文書とやらにも残ってないだろう?」
「……あぁもう!」
アヴラのギフト『心燃魔力』が燃え上がり、少女の身に宿る魔力を一気に底上げした。
「燃えるじゃない! 情欲よりもやっぱりこっち! 頭の中がギラついて仕方ない!」
「それでこそ火の賢者だ!」
火力を増した火の塊は、明滅の如く点火と炭化を繰り返す。
下方ではシュレディンガーの金色の瞳が、瞬きもせずに見上げ、ただ殺意と憎しみを抱いていた。
そのさらに下。
砂の上に横たわるナミラの肉体は、すこしづつ炭と化している。
その――――最奥。
前世を旅する彼の魂は、自らが知らない別の魂の軌跡をたどっていた。