『炎猫VS鬼』
ただでさえ乾燥した砂漠の空気がじりじりと灼け、小さな生物は逃げ場もなく息絶えていく。
死骸は瞬く間に乾き、熱い風に攫われ宙を舞った。それらはすべて、空の一点へ集まっていった。
「にゃっはあああああああ!」
乾いた空気を震わす歓喜の叫び。
輝く緋色の混沌の子シュレディンガーが、太陽を見上げていた。
「すまないにゃあ、小さき命たち。でも安心しろにゃ。その命、吾輩の力に変えてやる。いっしょにこの世界をぶち壊そうにゃ……まずは、あそこからかにゃあ」
金色の瞳孔が伸縮を繰り返し、遥か遠くの景色を捉える。
砂漠の民が数世代にも渡って開拓し、やっと築いた安住の地。エズトラの首都ピラミドの防壁と宮殿が、燃える爪と牙の標的となった。
「させるか」
シュレディンガーの遥か上空で、大気が揺れた。
「にゃ!?」
雨のように降り注ぐ風の刃。
緋色の猫人は地上と変わらぬ身のこなしで躱し、業火の吐息で残りを薙ぎ払った。
「にゃあ、生きてたのか賢者。たしか風のやつ」
男は冷たい瞳で見下ろしていた。
小柄ではあるが出で立ちは強者そのもの。今や正体を隠すことなく、額のツノを強烈な日の下に晒している。
「烈風の賢者シン・ミナトだ。覚えなくていい。お前はここで死ぬことになる」
賢者の名に恥じない膨大な魔力が、波動となってシュレディンガーを襲う。
しかし常人なら気を失う圧を受けても、舌なめずりと嫌味な笑みは消えなかった。
「馬鹿だにゃあ、お前。吾輩たちがなにを取り込んだのか忘れたのかにゃ? 超天魔法の化身の攻撃力と、お前たちの魔力だにゃ。そしてそれは今、吾輩の体に完全に馴染んだ。あのサンジェルマンにも勝る力に昇華しているんだにゃ。死にぞこないの賢者が、今さら吾輩に勝てるとでも?」
「勝つ必要はない。おれはお前を殺す。それだけだ」
崩れない強気に、シュレディンガーは小さく苛立った。
同時に「この強気な姿勢をどうへし折ってやろうか」とほくそ笑み、全身の毛を逆立たせた。
それが猫に起因した能天気なのか、百万回でも治らなかった気質なのかは知る由もない。
ただ、このときのシュレディンガーには大切なものが欠けていた。
ここが独壇場の狩り場ではなく、すでに戦場に変わっているという認識が。
目の前の男が、自分の想像を超えた力を持つかもしれないという危機感が。
それゆえに――――砂漠は地獄と化した。
「ギフト発動。先天顕現!」
雲一つない空が陰る。
暗雲立ち込め雷鳴轟き、風は暴風となって逆巻き暴れた。
「ぐ、お、お、オ、オ、オ、オォ!」
シンの青い肌が澄み渡り、体中の筋肉が膨張する。
ツノと牙が太く伸び、幼さの面影は消えた。
代わりに現れたのは、まさに鬼。
地獄の番人とも言うべき魔人が、砂の空に現れた。
「おれのギフト『先天顕現』は、血の中に眠る祖先の力を呼び起こす。かつて魔族の暴れん坊と恐れられ、一族郎党鬼ヶ島に流された力だ。さらにおれの賢者としての魔力も加われば……敵はナイっ」
シンが暴れる竜巻に手を入れると、凝縮し固められ荒々しい金棒の形に変わった。
「ふ、ふんっ! その程度で吾輩がだボッッ!」
巨躯からは想像できない素早さはまるで風。
暴風の金棒が猫の顔面を殴り飛ばし、砂の大地へ沈めた。
「試しでやったときは、これで殴ったものは粉微塵になったガ……」
そのような手応えはない。
生まれた流砂は螺旋を描き、蟻地獄のように沈んでいる。
「やるにゃ〜、お前」
砂のひと粒ひと粒が真っ赤に燃え上がった。
その中心から浮かび上がったシュレディンガーの体毛は同じ色に輝き、全身が深紅の炎と化している。
「まダまダ。ここからが本番ダ」
鬼が不敵に笑った。
次の瞬間、周囲は息の詰まる静寂に包まれた。
「荒々しき御霊、竜巻の爪、滅びの咆哮、尊大無二の不壊の牙。お前が駆けた大地には、一粒一塵の命も残らぬ。我、絶望を知る者、我、闇を見た者。我、希望を知る者。我、光に触れた者。世を蹂躙せよ、暴乱の神獣! 殲嵐白狐!」
荒れ狂う風が、目に見える一帯を支配した。
それは獲物を睨む眼となり、牙を剥く口となり、研ぎ澄まされた爪となった。
現界した時点でここは戯れの狩場。
現界した時点でここは彼の腹の中。
世界を蹂躙し尽くすまで止まない嵐の白虎が、深紅の猫の前に現れた。
「超天魔法!? 最高位唱えないと無理なんじゃ」
「賢者は探求を極めし者。超天魔法が発現してどんだけ経ったと思ウ。賢者がお前ら相手になんの対策もしないわけないダロウ」
シンが両腕を掲げると、白虎が竜巻を分けた。
先ほどを超える大きさの金棒が二本、鬼の両手に握られた。
「これで五分なんて思うナヨ? この姿なら、超天魔法を使っても魔力切れで死ぬ心配はナイ……さあ、覚悟シロ!」
二振りの巨大な金棒と暴乱の爪がシュレディンガーを襲った。
荒れ狂う嵐の中では、いかに混沌の子といえど矮小に見える。成す術なく風に飲まれ、大気に帰る運命。
――――――――では、なかった。
「ばーか」
触れた瞬間、風が焼けた。
真っ赤に焼けて、灼けて、妬けて、燒けていく。
猫の火種は一気に燃え広がり、嵐の白虎は断末魔を上げて消えた。
あとに残ったのは砂の上。
元の身体に戻り、黒く焦げたシン・ミナトだけだった。
「な……な、ぜ」
辛うじて喋れるが、灼ける空気に喉が渇く。
元通りに晴れた砂漠の空が、無慈悲に光を浴びせていた。
「知らないのかにゃ? 火は風で燃え広がるんだにゃ。そのせいで何度も焼け死んだからにゃー」
ケラケラと笑いながら、シュレディンガーは枕元に立った。
「そ、その、くらい、知って、いる。だか、ら」
「風を乱気流にして延焼を防いでいた。それに青鬼の体は火を通さないはずだ。かにゃ?」
歪曲した目と口が、紅の中に怪しく浮かび上がる。
シンは初めて、目の前の敵に恐怖を抱いた。
「知ってるんだよ、鬼のことは。四十六回目と五十回目の猫のとき、鬼のそばにいたからにゃあ。そのときに見た。たしかに青鬼は火をほとんど無効にした。逆に言えば、火じゃなければ効く」
シュレディンガーは笑いながら、足で器用に砂を掴み上げると、そのままサラサラとシンの顔に落とした。
「熱した砂なら大火傷にゃ! 風の中には巻き上げられた砂が大量に入ってた。火は警戒してても砂はぜんぶの気流を飛んでる。一部を熱してやれば、摩擦であっという間に広がるって算段だにゃ」
烈風の賢者のプライドはズタズタに壊された。
同じ相手に二度も敗れ、最強の技をいとも簡単に破られ、賢者ともあろう者が策略の裏をかかれた。
しかも相手はまだ、実力の半分も見せていない。
完全な敗北が、蘇った魂にまでのしかかってくる。
「んじゃ、バイバイにゃあ。せいぜい小娘女神に慰めてもらうにゃ」
右手の爪が伸びた。
炎がそのまま切れ味を帯びたかのような、恐ろしくも妖艶な爪だった。
「ちく……しょ……」
煤けた唇がカサついた言葉を紡ぐ。
「あいつらが、来る前に……片付け、たかった……の、に」
シュレディンガーの体が揺らいだ。
体毛の火が怯えたように震えた。
獲物にとどめを刺す絶好の機会に、強烈な冷水を差された感触があった。
「「鳥爛舞闘・双演! 弐の舞!」」
三本の刃が低空で、しかも高速で迫ってきていた。
「「狩染燕!」」
襲い来る斬撃は、突進の速力と合わせて音速を超えていた。
しかし、シュレディンガーは躱した。
咄嗟に後方へ跳ね、斬れたのは尻尾の先のわずかな毛先のみだった。
「にゃあ……来たか、ナミラ・タキメノ」
ナミラとアニがシンを守るように立ち塞がる。
二人の面持ちはどこか大人びていて、今までよりもさらに精悍な顔つきをしていた。
「あぁ、来たさ。お前を倒しにな」
風が砂を巻き上げる。
砂塵の音が、舞台を楽しむ観客の拍手に聞こえた。