『灼ける空気』
混沌の子の襲来は、文字通り世界を混沌とさせた。
逃げ惑う者、戯れ言と嘲る者、自暴自棄になる者、祈る者――――。
人の数だけ起きた混乱は、有能な統治者たちによって鎮められた。
ナミラの罪は蘇った賢者によって贖いが宣言された。同時に女神シュワからの託宣を伝えられ、人々は大小ではあるが、その胸に覚悟の灯火を宿した。
種族、国家、あらゆる宗教の元首が対混沌の子への一致団結を発表。最盛期のダーカメ連合を超える規模で、まさに世界中がひとつの方向に動き出した。
――――それが最大級の幸運なのか、あるいは最悪の不幸なのか。
――――それが運命と女神の導きなのか、あるいは大いなる意思による誘いなのか。
どちらにせよ計り知ることのできない巨大な力。それを前に人々が手を取り合い、戦おうとしている。
この世界の住人が〝奇跡〟を感じるには、それだけでじゅうぶんだった。
「…………では結んだ盟約に従い、この雷迅のガルフが進行を務めましょう。奴らが姿を消して、はや二ヶ月。混沌の子の足取りについて、なにか情報を掴んだ方はいますかな?」
円卓に水晶玉が並べられ、様々な種族・国家連合の代表の顔が浮かんだ。
セリア王国はその長い歴史と有する軍事力を背景に、最も多くの国が栄える人族のまとめ役となっていた。
近年重なった戦いの疲弊は無視できるものではなかったが、ダーカメ連合をはじめとする強豪国の支持を得ての抜擢となった。その中にはエルフの長老や魔族国家ナスミキラもあり、実際はこの未曽有の集団の中心を担っている。
「……どこもありませんか。まぁ、現れないほうが助かりますがの。さて、それでは定例の報告を。まずはナスミキラ代表、ムク殿」
「はい。現在ナスミキラ領内では、戦闘可能な魔族の強化を引き続き行い、各国に派遣を続けております……その受け入れと派遣先での待遇に、我が主に代わり感謝を。すべての地にて、皆さまから温かな手を差し伸べていただいたと聞いております」
新緑の増えたムクの頭が深々と下げられた。
枝で休んでいた小鳥が飛び立ち、緊迫した空気にかわいらしい声を添えてくれた。
「次はうちですね。ダーカメ連合のレイイチ・ベアです。連合が取り仕切っている流通の安定化は、野盗を懐柔したことで魔獣の脅威のみとなりました。また万が一に備えた食料や物資の貯蓄も、目標の七三パーセントが完了。冒険者ギルドのクエスト消化率も常時九〇パーセントを超えておりますので、概ね順調です」
「うむ、さすがですな。その調子で頼みますぞ」
「エルフ精鋭への精霊王様による加護の付与は、ほぼ完了しております。ただ、各地への派遣はまだ手間取っておりまして。特に砂漠地帯は環境に不慣れなのもあり、まだ数名のみでございます」
「砂漠は想像以上でしたか。ならば代わりに、他の種族で戦力を補完致しましょう」
「獣人ドワーフ連合『牙と槌』だ。各所の要塞城塞の補強は進んでる。だが場所によっては物資が足らねぇ。ダーカメさんよ、お願いできるかい?」
「承知した。ギルドを中継地点とし、効率化を図ろう。詳細がまとまり次第、こちらに一報を」
戦いの始まりも終わりも見えない日々の中で、人々はできることを積み重ねていた。
あらゆる可能性を考慮し、その規模は前例などない。疲労と心労は溜まるいっぽうだったが、当事者たちの目はギラつき生気に満ちていた。
「……うむ、各所の報告は以上ですかな。では儂からは〝特記戦力〟の現状を」
ガルフはのそりと立ち上がり、通信とはべつにもう一つの水晶を取り出し、中を覗き込んだ。
「皆様もご承知の通り、この〝特記戦力〟に括られた者たちは混沌の子に対抗しうる強者。それぞれ各地に配置され、来たるべきときまでの鍛錬を義務付けられておる。その中で、お伝えする必要のある者が数名」
ガルフがひと吹き息をかけると、清廉な顔つきの男女が浮かび上がった。
「聖具を操りし四勇士。その呪いを《《完遂》》致しました。これまでどの適合者も成し得ていない偉業じゃが、それゆえ、もはや人ではない……どの子も未来有望な若者。特にアレキサンダー王子は名君と成りえた。じゃが彼らは、すべて覚悟の上でこの道を選んだ……どうかこの偉業に敬意と感謝を。この力は必ずや、混沌の子から人々を守るでしょう」
喝采と祈りに包まれる中、意図せず脳裏に浮かぶのはアインズホープに入学したばかりの幼さ残る姿だった。
学び舎で勉学に励み、汗を流し、青春を過ごしてきた若き命。なにより自分とルーべリアが育てた、かけがえのない未来への種子。
穏やかで平和な未来を迎えられなかったのは、自分たち大人が不甲斐ないからだと、ガルフは自らを責めずにはいられなかった。けれど若くも強い信念に、ひとりの人間として心からの尊敬を抱いていた。
そしてそんな若者が、今数多く存在している。その中には、命より大切な愛娘もいる。
だからこそ人一倍、老体に執拗に鞭を打ち、最強の賢者は働き続けていた。
「次にナミラ・タキメノについて」
ナミラの名が出ると、円卓の空気に静寂が戻った。
チャトラ殺害の件もあり、ナミラが持つ前世の力は周知のものとなっている。各地を回って前世の欠片を集める彼を、今は総出で支援している状況だった。
「さきほど連絡があり、今は旧帝国領の島におると。さらに皆の協力で、約一万の前世が蘇ったそうじゃ。引き続き旅を続け、混沌の子が現れればすぐに駆け付けるそうじゃ」
「その中に、例の前世はあったのですか? あのネアンとかいう子どもが言っていた前世が」
レイイチの質問に、同調のざわめきが乗った。
しかしガルフは、ひげをゆっくりと横に揺らした。
「目的の前世はなかったらしい。しかし、二世紀ほど前の賢者の前世が蘇ったらしくての。モモと新しい魔法を考えておるそうじゃ。アニくんもいっしょじゃし、なぜかアヴラもくっついとるから、道中の心配はなかろうて」
ほんの少し親馬鹿の顔を覗かせたガルフは、ふいに遠い目で窓の向こうの空を見つめた。
「願わくば、子どもらの出番なくいきたいのぉ」
ゆったりとこぼれた本音に、その場の大人たちはそろって頷いた。
「さて、他の賢者についても言っておこうかの。アヴラ以外の者は賢者塔で」
――――――――続こうとした声が出なかった。
円卓のあるセリアルタだけでなく、世界中の空気が一瞬で熱くなった。
いや、ただ熱くなったのではない。
吸い込んだだけで喉を枯れさせるほど、ひどく《《灼けた》》のだ。
「報告! エズトラ領内、中央砂漠にて混沌の子を確認! 猫のシュレディンガーと思われます!」
緊張は高まれど動揺は広がらず。
世界最高峰の大人たちは迅速に冷静に、現れた危機への対応を始めた。
「エズトラ王家に通信! 国民、非戦闘員の避難を!」
「一体づつとは限らない。他も警戒怠るな!」
「エズトラへ援軍派遣! 特記戦力に通達! 一番近い者はだれか!」
「烈風のシンがいたはずじゃ。儂もすぐに向かう……じゃが」
覗き込んだ水晶の向こうに、若く凛々しい眼差しがあった。
ガルフは視線を合わせると、目を細めて呟いた。
「念のため、いいかの?」
「もちろんですガルフ様。距離はありますが、一〇分もせずに着けるでしょう」
「待っててね、ととさま!」
ナミラとモモの頼もしい声を受け、ガルフはマントを翻した。
けれどけっして、彼らの到着を待つつもりはない。もちろん、死ぬつもりもない。
こんな気の休まらない世界の危機などさっさと終わらせて、二人に「結婚はいつか」とせっつかねばならないのだから。