女神の覚悟
どこまでも続き、どこにも繋がらない白き世界。
死者の魂が最期にたどり着く場所、冥界――――その中心で今、輪廻を司る女神シュワが全身を震わせていた。
「な、なん、なんで……なんなの、あれ」
驚愕、恐怖、動揺、悲嘆。
あらゆる感情が入り混じり、女神としての品位が保てない。
見守っていた下界に現れた、カオスと名乗る者たち。その存在は彼らの言葉通り、女神の理を外れたものだったのだ。
「天使のことは昔から知ってた。彼との戦いは避けられないと思ったから『前世』のギフトを与えたのにっ!」
頭を抱え、膝をついた。
この世界の歴史では、とある文明が繁栄を極める度、天使サン・ジェルマンの手によって滅ぼされてきた背景がある。
それは魂の循環を司る女神にとって、けっして許せない所業。魂は転生先となる命を見出すことができず、永く冥界に留まることになる。そのとき冥界は死の悲しみと未練に満ち、シュワは心を痛めていた。
「てっきり新しい天使が現れるんだと思ってた。なのに、私が知らない魂だなんて」
死者に慈愛を与える美しい手が、震えていた。
現世で彫られた彫像では、慈悲にあやかろうとその手を撫でる者が多い。どの像も漏れなく信仰によって磨かれ、彫像の手は輝きを放っている。
「なにも変わってないのね、シュワ。弱い娘のまま……愚かね」
しかし本人の目には、無力なか弱い手に見えた。
この手で哀れな魂を撫で、癒し、命の循環に戻すことはできる。
けれど、なにも掴めない。
女神のそばには、なにも残りはしないのだ。
――――そんな彼女が掴めるものは、たったひとつ。
拳を作り、自分自身を強く強く握りしめた。
「そうよ、変わってないわ。私は……わたくしはこのまま黙っていない。伊達に女神やってないのよ。あの子たちのサポートは、ここからでもできるッ」
そのとき、荘厳な静寂を保つ冥界が揺れた。
純白の奥底が唸り、不気味な反響を生んでいる。まるで警告を示すように、長く長く響いた。
「……あら。当てつけのように混沌の子なんて使ってきたのはそちらでしょう? 愚かな小娘大いにけっこう! 運命干渉のペナルティくらい、いくらでも受けてやります。それこそ今さらですもの」
だれもいない虚空に向かって、シュワは強気な視線を送った。
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ。
音が乱れ、嘲笑うように鳴った。
いたずらに鼓膜と心を引っ掻いたあと、音は満足げに止んだ。冥界に元の静寂が戻ると、シュワは小さく微笑んだ。
「さて。では手始めに、貴方たちから」
煙のように六人の魂が浮かび上がり、生前の姿を取り戻していく。
「本来であれば新たな生命に生まれ変わるところですが、まだ現世でやってもらわねばならないことがあります。どうかナミラを助けてあげてください。そして世界を救うのです」
魂はそれぞれ頭を下げ、女神からの言葉を胸に刻んだ。
「それからアンネ」
名を呼ばれた体が跳ねた。
聖母の賢者アンネ・ルーモスの魂は、本物の女神との出会いに感動していた。けれど同時に生前の行いを悔いており、恐怖を感じつつどんな罰でも受ける覚悟だった。
「白地での貴女の行いは、世界に混沌を招きました。操られていたとはいえ、けっして許されるものではありません」
「はい……申し開きのしようもありません」
「ですから今一度現世に舞い戻り、己の責務を全うしなさい。貴女には新たにギフトを与えます」
女神が手をかざすと穏やかな光が放たれ、アンネの魂と同化した。
「『若化』のギフトです。もちろん制約等はありますが、これで貴女は全盛期の若さを保つことができる。だからもう、仲間を裏切る心配もないですよね?」
「っ! はいっ、心より感謝を! 新たな命と新たな力、けっしてシュワ様の期待を裏切りませんわ!」
涙する頭を優しく撫で、シュワはアヴラ以外の四人にもギフトを与えた。
「アヴラには現世でべつの物を。蘇ったら、ナミラの元を訪ねなさい」
「はい。承知しました」
「では――――賢者たちよ」
シュワの体から後光に似た光が射し込み、賢者たちは自然と膝をついた。
「貴方たちの魂は今、我が御使いとなりました。蘇りし暁には、その使命を全身全霊で果たしなさい。ナミラ・タキメノを助け、自ら生み出してしまった混沌の子を倒すのです」
「「はっ!!」」
六つの気高き魂は、炭酸の泡に似た光の粒に包まれ、自身の肉体へと返っていった。
そしてまた冥界に静寂が訪れ――――――――悲鳴が起こる。
「ぎ、アッ! ああああああああああアアアアアアアアアああああああああああ!」
シュワの体内に六種類の苦しみが走った。
肉を焼かれる火の苦しみ。
血が逆流する水の苦しみ。
呼吸を奪われる風の苦しみ。
五臓六腑が凍てつく氷の苦しみ。
細胞が溶ける溶岩の苦しみ。
蓋をした凄惨な記憶をよみがえらせる光の苦しみ。
「負け……なぃ……アイン、さま」
浮かんだ女神の微笑みは、大いなる愛に満ちていた。
苦悶の大波に耐える姿はとても気高く、ただ同時に、ひどく哀れなものだった。