『水底から森へ』
ビピン王国。
女神シュワが沐浴をした伝説が残る、ビワル湖の周囲に栄えた国。かつては豊穣な大地に恵まれたが、度重なる戦争の末に今は首都と湖のみを領土とする小国。観光業で細々と生き残る、古き国である。
しかし街並みは歴史を感じさせ、ビワルの奇跡と呼ばれる景観は多くの人々に感動を抱かせる。静かでゆったりとした時間が流れると、近年は移住を考える退役軍人も多い。
そんな厳かな国に。
「走れえええええええええ!」
似つかわしくない叫び声がこだましていた。
「指名手配中の三人に酷似してるぞ! 追え!」
逃げるナミラたちと、追うエージェント。
ビピン王国はすでに、ダーカメ連合と手を結んでいた。
「ガオちゃんのせいだよ! お土産屋さんのお饅頭、勝手に食べるから!」
「だ、だって美味しそうだったんだよぉ! おばちゃんも、おひとついかが〜? って言ってたもん!」
「それはただの呼び込みでしょ!」
「いいから走れ! 撃ってはこないが、数はどんどん増えていくぞ!」
観光客の間をすり抜け、三人はビワル湖を目指していた。
最終目的地のオレヘインの森は、遥か先の対岸に広がっている。
「なぁ! 湖に行ってどうするんだ? 船奪うのか?」
馬車の屋根を飛び越えながら、ガオランが聞いた。
「いや、そんなことはしない。本格的に犯罪者になるからな」
「じゃ、じゃあどうするの? ドワーフは泳ぎ苦手だよ〜?」
アーリの訴えに、ナミラは人混み越しにニヤリと笑った。
「泳ぐ必要はない! だけど迷わず飛び込め!」
「えぇ〜!」
嘆きながらも逃げ足は緩めず、ついに遊覧船の停泊所まで辿り着いた。
サファイアのように煌めく水面が、一面に広がっている。
「飛び込めー!」
「ひゃっほーう!」
「ひえぇぇぇぇ!」
穏やかな波の中に、三つの波紋が花火のように広がった。
「ごぼぼぼばぼぼっ」
「むぐぅぅぅぅ!」
泳げないアーリはガオランにしがみつき、目すら開けられない。
しかし、ふと暖かな感触が全身を包んだ。
恐る恐る目を開けると水と体の間に空気の膜ができ、呼吸すらできた。
「え! な、なにこれ!?」
「すっげぇ!」
驚く二人とは対照的に、ナミラは優しい微笑みを浮かべていた。
そのうち目の前に渦が生まれたかと思うと、美しい女性の姿が現れた。
「ウンディーネ、よろしく頼む」
「はい、ナミラ様」
丁寧なお辞儀をして、ウンディーネが音もなく進み出した。
それに合わせて、空気の膜がナミラたちを運んだ。
「ウンディーネ……水の精霊が協力してくれるなんて」
ガオランの腰にしがみついたまま、アーリが感動の声を漏らした。
「なあなあ、エルフの奴らも全員こんなことしてんのか? 隠れ里っていう割に、この国の連中にはバレバレなんじゃねぇの?」
意外と鋭い指摘に、ナミラは笑った。
「この湖には百年に一度、龍神の怒りって呼ばれる竜巻の大量発生が起きるんだ。隠れ里は通常、族長会議の場として利用されている。そして、その会議も百年に一度だ」
「分かった! エルフたちが湖に入るときに、その竜巻が起きるんだな?」
「正解。ウンディーネとシルフが契約を結んでてな。湖の中は穏やかだけど、上は同じのが起きてるぞ。だから、エージェントが追ってこない」
ガオランとアーリが見上げると、水面を隔てて別世界のように荒々しい竜巻が暴れていた。
「今年は族長会議とエルフたちの避難、そして俺たちのせいで三回も起きてしまったからな〜。ビピンの人たちは世界が終わるとか騒ぎそうだな……」
どう混乱を鎮めようか悩みながら、ナミラは湖の景色に目をやった。
宝石の中にいるような、美しい世界。
様々な生き物が住み、生命の営みを感じられる。つい先程まで慌ただしい逃走に身を置き、これから起きる大きな戦いにも考えを巡らさなければならない。
しかし、今はすべてを忘れられる。
訪れたつかの間の休息、神秘的で優しい時間。
ナミラたちはウンディーネに身を委ね、心穏やかなひと時を過ごした。
「着きましてございます」
せせらぎのような声と共に、三人の体が止まった。
眼前には岸壁が広がり、見上げる地上にはオレヘインの木々が見えていた。
「どうするの? 上がる?」
「いや、ここが入り口だ。二人共、俺に捕まって」
二人が腰に捕まると、ナミラは真似衣の呪文を唱えた。
姿がゆっくりと変わる。
かつて掟破りの罪を犯し、追放された元王子。
冒険者となり、仲間を逃がすために命を落とした、エルフの姿に。
「我が名はロメイン・シキ・シセーダ。西にその名を掲げる血筋。隠匿されし聖域よ、我らを迎え入れよ」
周囲を泳いでいた魚たちが、弾かれたように逃げ出した。
「タブリ キグ キウジャエ オレヘイン チヂウミ」
古代エルフ語の合言葉を口にすると、目の前に光の文様が浮かび上がった。
光は次第に強まり、荘厳な門となった。
「ありがとう、ウンディーネ。協力感謝する」
「とんでもない、お役に立てて光栄です。森ではシルフがお待ちしています……我ら水の眷族、貴方様に尽くします。どうか、今生の旅路に祝福があらんことを」
ウンディーネの丁寧な見送りを受け、ナミラは門に触れた。
しがみつく二人と共に眩い光に包まれる。
次に目を開けたとき、三人は背の高い木々が並ぶ森の中に立っていた。
「おぉ……マジで森の中だ」
「ね、ねぇナミラくん。ギフトのことは聞いたけどさ、精霊が畏まるってどんな前世があるの?」
「ま、それは追々な」
姿を戻しながら、ナミラは笑った。
「……おい、ナミラ」
二人を置いて我先に進もうとしたガオランが、険しい顔で爪を立てた。
周囲を忙しなく見回し、匂いを嗅いでいる。
「気づいたか、ガオラン。だけど、手は出すなよ?」
「ど、どうしたの?」
アーリも槌を出したが、ナミラは両手を上げて無抵抗の意思を示した。
「エルフたちのお出ましだ」
次の瞬間、生い茂る枝葉から無数の矢が放たれる。
三人を囲むように突き刺さった初撃には、警告と威嚇が込められていた。
「動くなっ! こちらの許可なく動けば、容赦なく射抜く!」
並の者なら震え上がる怒声が響く。
ガオランとアーリは警戒を緩めずにいたが、ナミラは落ち着いていた。
「貴様らは何者だ。どうやってこの聖域を知り、どうやって精霊の協力を得、どうやって封印を解いた。質問の答え以外、言葉を発することは許さん!!」
エルフの包囲網は、誰一人姿を見せないまま築かれた。
ガオランは歯を食いしばり「臆病者め」という言葉をなんとか飲み込んだ。
「この顔を見れば、答えが分かりますよ」
両手を上げたまま、ナミラは天を仰いだ。
しばしの沈黙。
アーリは怒声の主が顔を確認しているのだろうと思った。
「きみはっ!」
近くの枝が揺れ、一人のエルフが降り立った。
金色の髪を揺らす長身で、立派な鎧を纏っている。先程までと同じ声の主だが、表情は喜びに溢れている。
「久しぶりだな! あの混乱もきみなら大丈夫だとは思っていたが、よく無事で。弓を下ろせ! 私の恩人だ!」
張り詰めていた空気が和らぐ。
しかし代わりに、周囲にいるであろうエルフには動揺が広がった。
「ここに来たのも納得だ。ようこそ、と言ったほうがいいのかな?」
近づいて来たエルフと、ナミラは熱い握手を交わした。
「お久しぶりです、レゴルスさん」
かつてシュウ、ゴーシュと共に戦った男。
北の三英雄の一人、レゴルスとの再会を果たした。