『誇り高きユダ・マリア』
ルーベリアは見知らぬ森の湖畔にいた。
空から見た景色が美しく、最期はここでと箒に命じた。主を失った魔法の箒は、魔力が尽きるまで彷徨い飛び続けるだろう。
「きれい……」
月が水面に映り、幻想的な光景を作り出している。
ルーベリアは腰を下ろし、湖畔を見つめ続けた。
もはや傷の痛みもない。
なにも感じぬ体に、ただ目の前の美しさが染み渡っていく。
「おぉ! こんなところにいい女が!」
せっかくの気分を邪魔する、無作法な声がした。
目をやると、伸び放題の黒い髭と髪を揺らす男がフラフラと近づいてきていた。
顔の印象は野盗そのものだったが妙に身なりがよく、まるで一国の王のようだった。
「消え……なさい」
「そう言うな。ほれ、一緒にどうだ? ひとり酒は寂しくてなぁ」
残りの力を使って殺そうかと睨みつけたルーベリアだったが、男の手に見たことのない酒があることに気づき、表情が緩んだ。
最期に感じる味が自分の血とは、さすがに寂しいものがある。
「よっこいせっと!」
男は遠慮なく隣に座ると、小振りのグラスに酒を注いだ。
「これはな、俺が特別に作らせたこの世に一本の酒よ。これだけは守ろうとな、王の寝室の壁に埋めて隠したんだ。歴代セリア王のあらゆる営みの隣で熟成した、ただ一つの秘薬よ」
ガハハと笑うと、伸びた髭がさわさわと揺れた。
まったく真実味に欠ける話だったが、男は本気で話しているように見える。ルーベリアは思わず笑い、なぜか胸に広がる懐かしさを心地よく感じていた。
「ほれ。自分で飲めるか?」
グラスを受け取り、軽く乾杯をした。
深い色を楽しみ口に運ぶと、初めて経験する芳醇な味が全身に広がった。ルーベリアは、ついに自身を満足させる酒に出会うことができたのだ。
「美味しい……こんなお酒、はじめてだわ」
「おぉ! そうかそうか! この味が分かるか! いや、さすがというか、本当にいい女だなぁお前は!」
嬉しそうに膝を叩く男を、ルーベリアはくすりと笑った。
「いやだわ……こんな、しわしわのおばあちゃんに……そんな」
「いーや、いい女だよ。酒の味が分かるのがその証拠だ」
ふざけた態度が一変、男は真剣な目でルーベリアを見つめた。
「いい女に年なんて関係ねぇ。見た目じゃねぇんだよ、これは」
男はルーベリアのグラスに、また酒を注いでやった。
「いい女の条件ってのは、酒の味が分かることと誇りの高さだ。お高く止まれってんじゃないぞ? 自分ってもんを、どれだけしっかり持てるかってことだ。誇り高く自分を持ってる女にゃ、自然と人が寄ってくる。お前も餓鬼共に慕われてるんだろ?」
自分のグラスを傾け、男はニヤリと笑った。
「今も俺はお前にメロメロよ! すぐにでも抱きてぇくらいにな!」
「あら、嬉しいわね……」
ルーベリアは男の肩に体を預けた。
もはや視界はかすみ、自分で体を支えることもできない。
「もっと喜んでいいんだぞ? 俺に見初められるなんて、光栄なことなんだからな!」
「そう……」
「昔もよ、いたんだ。とびきりいい女が」
湖畔の月を見つめ、男は語る。
「ぶらっと寄った娼館でな、一目惚れだった。あんないい女は他にはいねぇ。どんな高貴な生まれの女よりも誇り高く、生き様そのものが美しかった……だから、俺は守ったんだ。この酒乱王バボンが、酒より優先したんだ」
セリア王家最大の汚点、酒乱王バボン。
記録では、彼は革命軍に攻め込まれた城内を逃げ回ったあげく、酒蔵へ立て籠もり「お前たちの勝利の美酒にここの酒はもったいねぇ!」との嘲笑ののち、蔵ごと燃やされ死んだとされている。
しかし、革命の王子ロマンの手記には不可解なことが記されていた。
『城には酒や宝物は残っていた。にもかかわらず、酒乱王が世界中から集めた美女たちは一人もいなかった。混乱に乗じて逃げたと思われるが、その姿を見た者が一人もいないのはなぜなのだろう……』
その秘密を、バボン王は語る。
「その女は、あっという間に他の女たちからも慕われた。王妃でさえもだぜ? そして、あの日も女たちを連れて地下の隠し道から逃げてくれた。捕まっても慰みものにされるか、処刑に遭うからな」
「……う……ん……」
「その女に、俺は名と金のペンダントを与えた。名が気に食わなければ捨てるがいい、食うに困ればペンダントを売るといいと言ってな。だが……そうはしなかったんだよな。あいつは、お前たちは……」
優しい風に、きれいな虫の声が重なる。
「ホリーホック・ユダ・マリア。それがお前の先祖の名だ。そのペンダントは俺が贈ったものなんだよ。お前の目と生き様はあいつによく似ている。お前は本当に本当にいい女なんだ、ルーベリア」
隣の女はなにも答えない。
安らかに目を閉じ、グラスは傍らに転がっている。金のペンダントが月光を受け、柔らかく光った。
「……眠れ、誇り高き女の末裔よ。美しきルーベリア・ユダ・マリア」
バボン王はルーベリアの体を抱きしめ、ペンダントにキスをした。
「……許さねぇ」
静かな水面が乱れ、周囲の木々が倒れ始める。
これぞ彼の暴挙を誰も止められなかった所以。最盛期には大将軍すら凌駕したバボン王の力が今、怒りの涙と共に流れ出していた。
「この俺から女を奪いやがって! 許さねぇ……たとえ誰であろうと、俺からいい女を奪うことは絶対に許されねぇ! 酒乱王の怒りを買ったこと、後悔させてやる!」
月下に暴君の叫びがこだまする。
魂すべてが怒りに震え、復讐を誓った。
決戦のときが、迫っている。