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五、夜に奏でる想い

 その晩、夢を見た。

 花畑の真ん中でストレートの黒髪の少女が一人立っていたのだ。近づこうとするが、何故か距離は縮まらない。むしろどんどん遠ざかっていた。そして思いあまって、俺は叫んだ。

「千春!」

 少女はくるっと振り返った。そして笑みを浮かべる。だがどこか切なそうだ。どうしてそんな顔をしているのか聞こうとしたとき、唐突に夢から目覚めた。



 三日後、俺は医者に特に問題はないと言われて退院した。だが学校がまだ数日休んでいろとの連絡が入っている。腕にある痣もまだ鮮明に残っているし、時折全身に痛みが走るから、その通達には感謝していた。

 その日は平日、昼間の家は誰もいない。何となくクラスの連絡網を出して、ある家に電話を掛けた。しばらくコール音が鳴り続け、最後には留守番電話サービスに繋がってしまう。受話器を見ながら、仕方なく下ろした。まだ千春は退院していないのか、だがこの身ではお見舞いに行けないなと肩を竦める。

 ソファーに体を下ろすと、奥のドアが目についた。この三年間、開かずの間のように開いたことのなかったドアに。惹きつけられるように、そのドアの元に行く。ドアには可愛らしい埃を被ったウサギのプレートが付けられている。そこには『レッスン室』と書かれていた。

 ゆっくりとドアを押す。

 中は綺麗に片付いている。そして中央にはグランドピアノが一台置いてあった。カバーをかけているとはいえ、所々埃が被っている。それを一蹴するかのように、ばっと埃を振り払った。そして蓋を開ける。

 昔は何度もこの鍵盤を叩いたものか。物心が付いたときにはただ弾いていた。

 椅子に腰を掛け、まだ治りきっていない腕を鍵盤に乗せる。無性に一曲弾きたくなったのだ。

 そして一音押すと、一気に弾き始めた。

 どこか悲しくなる音、だがどこか希望に充ち溢れた音。

 音の粒が鍵盤から流れるように出てきた。その曲は最後に母さんから教えてもらったもので、家ではもう何年も弾いていない。おぼつかない指でどうにか弾いていった。

 それを弾きながら、頭の中はこの三年間のことを走馬灯のように抜けて行く。

 母さんが死んでから、家の中にピアノの音は無くなった。家でピアノを弾かず、進学した中学校で何気なく見つけた調律されたピアノ。それに心惹かれ、決して忘れることができなかったピアノへの想いをそこへぶつける。いつしかそこで弾くことが習慣となっていた。

 そして千春との出会いは小屋のピアノ以上に俺の心を突き動かした。心の底に埋めようと思っていた想いを呼び起される。そして新たに芽生えた不思議な感情――。

 すべてが駆け抜き終えたとき、曲は弾き終える。

 なぜか呼吸が酷く荒かった。顔を俯きながら、激しく呼吸をする。何かが弾けたような気がしたのだ。

 突然誰もいないはずの部屋から拍手が沸き起こった。驚いて振り向くと、そこには父さんが感嘆した表情で立っている。つい府抜けた声を出す。

「父さん、どうして、ここに……」

「仕事が予想以上に早く終わったから。秋谷、今の曲は……」

 俺は何が言いたいのか瞬時に分かった。そしてその言葉通りに返す。

「母さんに最後に習った曲だよ」

 驚愕の顔をするかと思ったが、父さんの顔はいつも以上に穏やかな顔をしていた。そして俺とピアノに近づく。

「あれ以来、ピアノの音を聴いていなかったんだな。何だか信じられない」

「父さん?」

「なあ、秋谷……」

 何となく父さんを眺める。急に窓から光が差し込んだ。

「またピアノを弾いてくれないか? そう母さんが秋谷に弾いてもらおうと思った曲、聴いてみたいんだ」

 どこか父さんは目を潤ましていた。その言葉にはただ頷くしかできない。それを見ると、父さんは俺の手をそっと触った。

「ありがとう」

 小さくも出されるその言葉は俺を漆黒の闇から一気に救いあげてくれる。

 自分のせいで母さんを失ってしまったかもしれないから、皆を悲しませないためにもピアノを弾いてはいけないと思っていた。ピアノを弾きたいという純粋な素直な気持ちが閉ざしていた。

 だがこの言葉のおかげでようやく遠慮なくピアノを弾けることができる。そして自分自身に対して、素直な気持ちで接し、ピアノを弾けそうな気がしたのだ。

 光は徐々に部屋に広がっていく。それはまるで俺の心の中を象徴しているようだった。



 * * *



 一週間ぶりに学校に登校すると、真っ先にあの日助けたクラスメートが駆け寄ってきた。それを皮切りに、他のクラスメートも近寄ってくる。

「霧川君……、ごめんなさい」

「いいよ、別に大した怪我じゃないし。それより、そっちは大丈夫なのか?」

「おかげさまで、元気よ。……ありがとう」

 その言葉に素直に心が嬉しくなった。何だか言い寄ってくる人たちの言葉もどれも身に()みてくる。いつもとは全く違う風に教室を見渡すことができた。

 だが、何か違った。

 クラスメート達が再び自分たちの椅子に戻っていくと、近くにいた友達に気になることを尋ねる。

「なあ……静山はどうしたんだ?」

「あの日以来休んでいるぞ。怪我はたいしたことはないが、風邪をひいたとか。ほら、静山って結構休みがちだし、最近風邪が流行しているじゃないか。そんなに気にすることはないと思うぞ」

「そうか、ありがとう……」

 お礼を言ったはいいが、どこか納得できない自分がいた。本当に風邪なのだろうか……?



 あの小屋に行けば、もしかしたら千春はいるかもしれないという、単純な想いからそこに足を向けていた。だが、その日はあの時とは違って、誰もいない。愕然としながら、椅子に腰を下ろす。

 どうしても不安が拭い切れなかった。ひたすらに漠然とした闇だけが胸を覆い尽くす。

 ここでピアノを弾く気にもなれず、足早に家に帰った。



 * * *



 それから二週間ほど経つ。期末テストも行われたが、千春が教室に顔を出すことはなかった。電話をしたり、担任の先生にしつこく問い詰めていたが、ただ、「風邪を(こじ)らしている。うつすと大変だから、見舞いには行かないでほしい」の一点張り。

 どうにも納得できない中でようやく期末テストは終わりを告げた。

 家のドアを開けると、電話のコール音が鳴っている。まだ誰も帰ってきていないことを確かめると、急いで家に上がって、受話器を持ち上げた。

「もしもし……」

『あの、霧川君のお宅ですか……?』

 その声を聞いて、胸がどきりと飛び上がった。

「静山……、いや千春か!?」

『秋谷君……?』

 そう答える声はまさしく会いたかった千春のものだ。

「どうしたんだ、全く連絡も取れなくて。風邪を拗らせたと聞いた。もう大丈夫なのか?」

『まあ、少しは良くなりました……。あの、秋谷君』

 どこかたどたどしい声が引っかかる。

「何だ?」

『今晩、会えますか? ようやく小説が書き終えたから、最初に読んで欲しくて……』

 突然の申し出に正直びっくりした。しかも夜とは、あの千春にはらしくない発言だ。

「今晩? まあいいけど。場所は何処か指定でもある?」

『それじゃあ、あの小屋に……』

「わかった」

 そう言うと、がちゃりと向こう側の受話器が置かれた。後には空しいコール音が響くだけ。どこか不安もあったが、今は久々に千春に会える方の気持ちが高ぶっていた。レッスン室に行き、軽く指鳴らしの曲を弾いてから、今まで丹念に練習してきた曲を弾き始める。今の気持ち共に、この曲を聴かせて上げたかったから。



 すぐに夜になり、兄さんと父さんには友達の家に忘れ物をしたとか適当に言って外に出た。こんな夜だ、正直何時間もいるわけはないだろう。

 夜の学校の正門は固く閉ざされていた。だが端の方に夜間警備員さんの門がある。そこを恐る恐る通り抜け、見回りをしている警備員さんの目を盗みながら、小屋へと急いだ。

 小屋に入ると、すでに千春がランプに明かりを灯して待っていた。寒そうにマフラーを首に巻いている。ささやかであるが、カーテンが外界を遮断していた。久々に千春の顔を見たが、以前より痩せ細って見える。

「千春……?」

「秋谷君、ごめんね、こんな時間に」

 椅子から立ち上がると千春は鞄から、大きなクリップで留められた紙の束を手渡した。その表紙には大きく題名と『静山千春』と書かれた字が飛び込んでくる。

「これが私が今まで書いていた小説。まだちゃんと日を置いて見直していないし、自信はないけど、これで良ければ読んでください」

 その紙の束を受け取ると、ぱらぱらと紙を捲った。丁寧に文が綴られている。

「これは、どういう話なんだ?」

「大まかなあらすじとしては、病院で入院している少女がたまたま友達の見舞いに来ていた音楽好きの少年に出会って、自分の生き方を変える話」

 千春は少し照れくさそうに言っていた。その仕草がまた可愛い。

「へえ、何か凄そうな話だな。生き方を変えるなんて、その少年はよっぽど凄いんだな」

「そうね、その少年の心がとても素敵だったから、少女はその心に惹かれたのよ」

 夢中になってページを捲っていたが、その姿を見ていた千春の表情がどこか悲しそうだ。それを振り払おうと思い、小説を一度机の上に置いた。

「千春、聴いてほしい曲があるんだ。夜だから音を抑えなくちゃいけないけど、それでもいいなら聴くかい?」

「もちろん!」

 千春の顔は一気に明るくなった。それを見て、少しだけ安堵する。

 椅子に腰を掛け、蓋を開ける。消音用のペダルを踏んで、ささやにだが音を奏で始めた。

 その曲は母さんに最後に教えてもらった曲。家で再びピアノを弾くようになってから、それを重点的に練習した。そして最近、ようやく人に聴かせてもいい段階になったのだ。

 千春が背中の向こうでじっと見つめながら、聴いているのがわかる。

 どこか温かみがあり、人を和ます。時には力強く弾く場面もある。

 まるで人生の大きな流れを弾いているかのような曲だ。様々な起伏を乗り越えて、迎える最後――。

 それは静かなピリオドだった。

 少しだけ余韻を持たせて、ゆっくりと手を離す。たった一人の観衆は静かに拍手をしていた。振り返ると、千春の目からは涙が流れている。その様子に驚いた。

「ごめんね、つい感動しちゃって……」

 感動するほどの曲を俺は弾いたのかと、思わず首を傾げてしまう。

「秋谷君、何か吹っ切れたようですね」

「え?」

「音がそう言っています。以前よりもずっとのびのびとした音が出ています。それはきっと、自分自身に対して素直になれたんでしょうね」

 千春からそう言われると、何故か嬉しくなる。それが思考から体のほうに乗り移ったのか、小さく華奢な体を抱きしめていた。千春は驚いたような表情を浮かべていたが、すぐに微笑み返す。そして母さんのようにそっと俺の頭を撫でた。

「秋谷君はもう大丈夫ですよ。今度は是非みんなの前で弾いて下さい。たくさんの人が感動するはずです」

「俺の音が感動するのか?」

「ええ。お母さんの想いと秋谷君の想いが混じり合って、それが音を紡いでいるんです。温かく癒される音が。それはきっと皆の心にメロディーとして響きますよ」

 その言葉を聞いて、何故か急に泣きたくなってくる。母さんがいなくなってから、泣くまいとしていたのに、どうしてか千春の前では全てを曝け出してもいいかもしれないと思った。

「泣いてもいいですよ、こんな私でよければ」

 その言葉につられて、堪らず嗚咽を出し始める。何となくだが、この行為が最後になるかも知れないと思っていた。優しく受け止め、素直な自分を再び出してくれた、この少女。一人の少女としてだけでなく、どこか母さんに近いものを帯びていた。

 だから、いつまでも、いつまでも離したくはなかった――。



 さすがに中学生が出歩くにはよくない時間となり、俺達は帰路についている。

 多少話もしたが、俺が一方的に話す感じで、それを千春は相槌を打っていた。そしていつもの分かれ道に付く。

「ここでお別れだね」

「ああ、寒いから早く帰って、寝ろよ。そして早く学校に来い」

「うん、そうだね」

 千春は憂いの顔を浮かべ、下を向いていた。隠そうともしないその様子に、より胸がざわめく。

「秋谷君、その小説読んでおいてね」

「次、会う時には返すよ」

「あと……、自分自身を大切に、自分に対して素直に生きてね」

「あ、ああ」

 紡がれる言葉が一音一音、心の中に響いてきた。千春は顔を上げて、真っ直ぐ俺を見つめる。その顔は一気に俺の胸の高鳴りを上がらせた。そこには満開の桜のように、可愛らしい笑顔があったのだ・

「私、秋谷君に、会えてよかった」

「何を言っているんだ?」

「――今まで、ありがとう。さようなら」

 それだけ言うと、颯爽と走り始めた。手を伸ばして止めようとしたが、その手は空をきってしまう。そして何も掴めなかった掌に目をやりながら、ストレートの黒髪の少女をいつまでも見ていた。



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