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二、言葉のワルツ

 翌日の放課後、俺は教室を出る前に一度全体を見渡した。まばらにしか残っていないが、それはいつものこと。だが今日は昨日とは違った。静山が欠席したからだ。風邪と言うことだが、昨日の帰りはそこまで風邪っぽいようには見えなかった。

 何だか気分が乗らない時には、ピアノに触れるのが俺にとっては一番だった。それに静山もいないことだし、今日は誰にも邪魔されないはずだ。足早に小屋へと急ぐ。

 小屋の近くに来て、誰もいないことを何度も確認して、急いで小屋の中へと入った。静かに音をたてないように扉を閉める。いつものことを繰り返しているだけだが、何故か緊張していた。そして一通りの動作が終わると、ほっと息を吐く。

 これでいつも通りにピアノを弾けると思い、ピアノへ向きなおり歩き出そうとした。

「霧川君?」

「うわっ!」

 突然暗がりから声がしたので、思わず声に出して驚きを露わにする。すぐにその声の主を見た。静山がピアノの近くにあった椅子に座りながら、少し眠そうな顔をしている。すぐ傍には机が置いてあった。今まで机に突っ伏しながら寝ていたな……っと、検討を付ける。

 さて、どうしたものかと思っていると、静山が寒そうに腕で自分自身を包んでいた。コートを着ているとはいえ、古い小屋の中は相当寒い。俺は自分のコートを脱ぐと、それを静山の膝の上に乗せた。寒いとはいえ、まだどうにか我慢はできる。何事もなかったかのように、蓋を開ける。

 静山はただ呆然とその動作を見ていた。だが一音鳴らすと、すぐに彼女は我に戻る。

「霧川君、ありがとう……」

「……静山さん、どうしてここにいるんだ。今日は風邪で休んでいたんじゃなかったのか?」

 溜息を吐きながら、ピアノに寄り掛かる。

「はい、今日は休みましたよ。朝起きたらちょっと体の調子がよくなくて。でも昼過ぎくらいには調子が戻ってきたので、遅れて行こうと思いました。でもその前に一度この小屋に来たくなり……。それで来て、椅子に座っていたら、何だかとても眠くなってしまい、今に至るわけです」

 悪びれた風でもなく静山は言った。この小屋では昼間は日差しがよく射し込んでくるため、まるで春の陽気と言わんばかりに暖かくなる。そんな所に座っていたら、思わず寝てしまうのはある意味しょうがない。

「静山さん、確かに昼は暖かいが時間も気にせずにこんな所で寝ていたら、また調子を崩してしまうよ。もう授業は終わったんだ。早く帰ったらどうだ」

「そうですね。でもこうして霧川君と会えたのですし……、一曲弾いてくれませんか?」

 その言葉を聞いて、俺は複雑そうな表情を浮かべた。

「どうしてそんなに俺のピアノを聞きたがるんだ? 俺より上手い人はたくさんいる。こんな普通の中学校にいる普通の中学生が弾くピアノなんて面白くも何でもないぞ」

 言っている自分自身でも痛くなるような言い草だが、それは一つの事実である。早く現実を見てもらおうと、少し大袈裟に言った。だが静山は目を丸くしながら、不思議そうに見ている。

「霧川君、どうしてそんなこと言うのですか? 素敵ですよ、ピアノの音色も霧川君自身も」

「静山さんは他の人の演奏をあまり聞いたことがないようだ。これくらいなら本当にどこにでもいる。そこらのコンクールに行ってみたらどうだ。こんな寒いところでわざわざ聞く価値はない」

「……わかっていませんね、霧川君は」

 静山はくすっと笑みを零す。いつもとは違う笑い方に、またしてもどきっとした。立ち上がり、手を後ろで組みながら、ゆっくりと俺の周りを歩き始める。

「確かに私は生の演奏というものをあまり聞いたことはありません。本当にたまに行くコンサートぐらい。その人達の演奏、とても上手で素敵ですよ。けど、霧川君の演奏はまた違う意味で素敵なのです。わかりますか?」

 下から覗き込むように視線を送る。あまりの視線の近さに思わず顔を逸らす。

「……わかるかよ、そんなの」

「そうですか……」

「なあ、教えてくれよ、何が素敵なのか」

「それは難しい質問ですね」

「何だって?」

 あれだけ言ってこう言い返されるとは、開いた口が塞がらない。

「上手く言葉に表現できないのです。霧川君の演奏を何度か聴いたら、言えるかもしれません」

「結局、俺のピアノが聞きたいだけかよ」

「それも一理ありますね」

 静山はにこにこしながら答えた。そう結論付かれると、どこかもの寂しい気分だ。だが逆に聴きたがっているという気持ちが伝わってくる。

 その気持ちが不思議と俺をピアノの椅子に腰を掛けさせた。静山が後ろからその様子を見ているのが分かる。

 いくら言っても、彼女はいつまでも俺のピアノを聴きに来るだろう。何日この小屋を通おうとも。邪険にしきれない感情があり、そして聴く人がいるのも悪くはないかもしれない、だから……という想いが人前で久々に弾かせようと俺を動かした。

 そっと鍵盤に両手を乗せる。暗譜している曲は何曲かあるが、今回は一番弾き込んだ曲を弾くことに決めた。静山が椅子に腰を掛けたらしい音が聞こえる。

 一呼吸して――、弾き始めた。



「霧川君はいつからピアノを弾いているのですか?」

 何曲か弾いたり、話したりしていると、あっという間に陽が落ちていた。すでに部活動が終わって、生徒たちは帰っている。人の目を気にしながらこっそりと正門を出た。その様子を見ていた静山は笑みを零した。その様子に俺は少し頬を赤らめさせる。

 そしてその帰宅途中に出た彼女からのセリフだった。

 俺はその質問を聞いて、一瞬口を一文字にする。そして辛うじて言葉を出す。

「……四歳くらいから。親がピアノを弾いていて」

「赤ちゃんの頃から聴いていたのですね、きっと体内にいるときから。そう言う風に育てられた子は、素敵な人になると聞いたことがあります」

「素敵かどうかはわからないが、音感はいい方だと思う」

 苦笑しながら受け返す。静山はたまに普通の人が使わない言葉を出してくる。それが俺にとっては新鮮だった。

「静山さんは何か音楽でもやっていた?」

「いいえ、何もやっていないです。音楽は聴くだけ。だから楽器を弾ける人達はとても尊敬しています」

「趣味とかは?」

「趣味ですか? まあ趣味と言えるほどではないけど……、小説を書いています」

「小説だって?」

「そうですけど、意外でしたか?」

「いや、むしろぴったりな感じが……」

 頭で考えず言葉が漏れる。それを遅いが慌てて口を押さえた。だが静山はその様子に嫌な表情を浮かべずに、むしろにっこりと笑う。

「ありがとう、そう言ってくれて。あまり外に出て遊べないから、そういう内向的なことが趣味になって……」

 小説と聞き、俺はあることを思いついて、にやっと笑みを浮かべた。そして少し含みを入れながら話を続ける。

「ねえ、いつか静山さんが書いた小説を読ましてくれよ」

「え?」

「俺のピアノを弾くだけじゃ、一方的過ぎる。静山さんの小説を読ませてくれるなら、ピアノを聴きに来てもいいけど? まあこんなピアノでよければの場合」

 その言葉に躊躇いはなかった。そんな条件を付けなくても言えたかもしれない。それは数時間だけでも彼女と一緒にいることが心地よかったからだ。だが素直になれない俺自身がいる。だから敢えてそんなことを言ってしまった。

 静山は少し驚いていたが、すぐに微笑を浮かべた。

「わかりました。次に書き終えた小説を最初に読んでください。……と言っても、今まで読んでくれた人は他にいないのですけどね」

 肩を竦ませながら言う。その様子がまた心に残るものだった。

 しばらく歩くと、やがて分かれ道に辿り着く。右に行けば静山の家、左には俺の家がある。

「では、今日はありがとうございました」

「ああ、こちらこそ。早く寝ろよ。病み上がりなんだから」

「お気づかいもありがとう。それでは、また明日」

 静山はさっと背を向けると、再び歩き始めた。その背中をしばらく見てから、俺も自分の家に向かって歩く。

 心はいつも以上に軽やかだった。



 家に帰ると、カレーの匂いが漂ってくる。その匂いを嗅いで、はっとして慌てて台所に行く。そこにはエプロン姿の兄さんが立っていた。ちょうど味見をしていたようで、小皿を手に持っている。俺より四歳上の兄さん、秋成は、バイトをしながら地方の国立大学に通っていた。兄さんはむすっとしながら、帰ってきた俺を迎える。

「秋谷、随分と遅い時間の帰宅じゃないか。今から作ったら、夕飯がかなり遅くなるぞ」

「ごめん、ちょっとやることがあって……」

「遊んでくるなら、先に言っとけよ。今日は俺が早く帰ってきたからよかったが」

 その時ガチャリと鍵が開く音がする。

「父さんのお帰りか。秋谷、迎えに行ってやれ。さて、久々に三人で夕飯でも食べるか」

 そう言うと、兄さんは鼻歌を出しながら、カレーをかき混ぜる。俺は言われたとおり、玄関に行って父さんを出迎えた。

「お帰り、父さん」

「ただいま。お、今日はカレーか。カレーはいいよな。父さんの大好物だ」

 上機嫌でリビングへ入っていく父さんに慌てて追いつく。リビングはいつも通り散らかっている。二、三日に一回掃除をするくらいだから、汚い部類に入る散らかり方だ。

 父さんは帰ってくると早々に脇にある位牌にお線香を上げる。そして手を合わせながら、ちらっと位牌の主の写真を見た。

「ただいま、母さん」

 その写真からは笑顔を向けている母さんの顔が父さんを始めとして、俺や兄さんに向けられていた。

 だが母さんからの挨拶の返事はない。



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