君がいた記録なんていらない。
僕に必要なものは一つだけ。
僕たちの脳はとても厄介だ。
与えたことばかり覚えているくせに、与えられたことはすぐに忘れてしまう。
――――例えば、君にあげた大きなぬいぐるみとか。
――――――――例えば、いつか君からもらった小さなお菓子とか。
それに、自分の失敗はすぐに忘れてしまうのに、他人の失敗はいつでも思い出すことができる。
――――――――例えば、僕が君のアイスを黙って食べてしまったこととか。
――――例えば、君が時々待ち合わせに遅刻して来ることとか。
でも、嬉しいことはすぐに慣れてしまうのに、辛いことはいつまでも反響する。
――――――――例えば、君の隣を歩くことができたあの日々とか。
――――例えば、君が目の前で車にぶつかって、命を落としてしまったこととか。
どうせなら、辛いことはすぐに忘れてしまいたいのに。
どうやらそうはいかないらしい。
そうして気づいたのは、僕の脳は、“僕と君”のためには出来ていないということだ。
僕1人のために最適化されている。
そして、それは“僕の成長のため”ですらない。
優先されるのは、きっと“欲望”。
――――他者に何かを与え、見返りを求めるが故に、記憶は消えず。
――――他者の失敗を咎め、そのちっぽけな優越感を求めるが故に、記憶は消えず。
――――より強い幸福を求めるが故に、小さな幸福を軽んじ。
――――そしてあの瞬間の光景が脳裏を離れない限り、僕はきっとあいつへの復讐を諦めない。
記憶は、欲に繋がることばかり覚えている。
満たされた記憶は、意識しなければすぐにこの手から離れてしまうような頼りなさで。
一度手放してしまえば、微睡の中で見た夢のように、もうはっきりとは思い出せない。
それが僕たちの脳で、僕たちの記憶力の限界だ。
だから誰もが記録に残す。
忘れたくない何かを忘れてしまっても、また思い出すことができるように。
忘れたい何かを少しでも内側から吐き出すように。
脳の不便さに抗うために。
脳の限界に諦めたが故に。
時間の流れに逆らうために。
あぁ。
時間はなんて優しいんだろう。
どんな悲しみもいつか癒してしまう。
時間はなんて残酷なんだろう。
どんな強い想いもいずれ風化させてしまう。
でも僕たちが記録に残せば、忘れ去ってしまった想いはいつでも蘇る。
いつか思い出したい悲しみは記録に残し、忘れたい悲しみは風化してしまうのを待てばいい。
僕らはそうやって記憶を取捨選択して生きている。
多分それが一番賢くて、効率的で。
だからみんなが記録をつける。
でも僕は、あの記憶の全てを外へ出したくなかった。
君の全てを。
あの美しくて、楽しくて、輝いていて、でも時々怒りが湧いて、悲しくて。
そんな幸せな日々を、僕の中から逃がしたくなかった。
忘却が加速してしまう気がしたから。
もう覚えておく必要がないと、そう脳が判断してしまう気がしたから。
もう前に進むべきなんだと、そう僕の中の何かが認めてしまう気がしたから。
だから記録に残したくなかった。
いらない記憶なんてひとつもないんだ。
いつまでも僕の中に残しておきたいんだ。
片時も手放したくないんだ。
それがどんな記憶でも。
それがどれだけ心を蝕むとしても。
君が僕の中から出ていってしまう恐怖に比べればたいしたことないって、そう思うから。
片時でも君を忘れてしまう恐怖に比べればたいしたことないって、そう思うから。
君さえ隣にいれば、僕は大丈夫なんだ。
もう君に触れることができなくなってからずいぶん経った。
君との写真は持ってない。
あるのは君にあげた大きなくまのぬいぐるみと、お揃いにしていたネックレスとか、ペンケースとかだけだ。
でも僕は君の顔をはっきりと思い出せるよ。
君の仕草も、匂いも、声も。
美しくて、楽しくて、輝いていて、でも時々怒りが湧いて、悲しくて。
そんな幸せな日々の全てを、はっきりと覚えている。
まだ僕の記憶は、記録よりも確かに、君を映し出せる。
今も僕の隣で、君が歩いている。
願わくば、このまま君の隣で、最後まで。
君といた記憶。それだけだ。