表
「ごめんあそばせ」
赤いワインが、とぽとぽと淡いピンクのドレスに注がれる。グラスを傾けているのは、深紅のドレスがよく似合う、きつい美貌の令嬢。吊りがちの目が細められ、形よく真っ赤に彩られた唇が、愉悦を刷いて弧を描く。
一方、淡いピンクのドレスに身を包んだ令嬢は、あまりのことに目を見開いて、唇をわななかせた。儚げな美貌に驚愕を浮かべて、反射的に一歩身を引く。
しかし、深紅のドレスの令嬢は、それが気に入らないとばかりに顎をそびやかせ、グラスを勢いよく振って、繊細なレースで飾られた胸元に、残りのワインをバシャリとぶちまけた。
「や、やめて……!」
悲鳴のような声をあげて、赤く染まった胸元に手をやった。けれどもう遅い。高級な絹もレースも、二度と使えない。ついでに、触れた手袋もだいなしになっていた。
「どうして……」
涙を浮かべて、彼女を睥睨する令嬢を上目遣いで見あげる。小柄で華奢な彼女は、さながらウサギやリスのような小動物のよう。対する令嬢は、豪奢な妖艶さに傲慢さがにじみ、まるで御伽噺に出てくる悪い魔女のようだった。
「男性から贈られたドレスを着るのがどんな意味を持つか、ご存じではないの? 今すぐこの場から退出なさいな」
「これは、ダニー様が、ドレスを仕立てられない私を気遣ってくださったものです!」
「わたくしは、そのようなことを問題にしているのではないの。それと、親族でもない男性を愛称で呼ぶのがどういうことか、それもご存じではないの?」
「それは、ダニー様がそう呼べとおっしゃったからです!」
深紅のドレスの令嬢は扇で口元を隠し、それでもそうとわかるように、溜息をついた。そして、憐みのまなざしで、ピンクのドレスの令嬢を見やった。
「しっかりとした行儀作法の先生を招いたほうがよろしくてよ。……ああ。そのお金も伝手もないのでしたね。でしたら学園の先生に、」
「酷いです! 私のことだけならばまだしも、家のことを持ち出すなんて! うちは下位ではありますが、誠心誠意、国王陛下に仕えております! 何ら恥じるところはございません!」
「わたくしは、そのようなことを言っているのではないの。……ああ、時間切れね」
ピンクのドレスの令嬢越しに遠くを見て、すぐに令嬢に視線を戻す。
「最後に一つだけ忠告します。……これからは、人の話をよくお聞きになって」
騒がしい足音がして、令嬢たちの間に男性が割り込んできた。深紅のドレスの令嬢が、何歩か下がって距離を取る。
「レオノーラ! そこで何をしている!」
「ダニー様!」
ピンクのドレスの令嬢が、安堵とわかる声音で彼を呼び、その呼び声に応えて振り返った彼は、令嬢のドレスのありさまに眉を吊り上げた。すぐさま深紅のドレスの令嬢──レオノーラ──を睨みつける。
「どういうことだ!」
「わたくしが彼女にワインをかけてしまいましたの」
「なぜそのようなことを」
「この場にふさわしくない装いをしていらしたので」
「ふさわしくないわけがあるか! これは、私が贈ったものだ!」
お手上げだと言うように、レオノーラは扇の影で盛大な溜息をついた。
「なんて態度だ! だいたいおまえは、人に敬意の欠片も持たず、いつでも見下し、心無い言葉を投げつける。それどころか、慈しむべき下位のものを虐げ、恥じるところがないとは。
もう我慢がならん! おまえのような者とは、ここまでだ! おまえのような性根の卑しい女を、私の横に置くなど、国にも害悪にしかならん。婚約は破棄だ!」
「そうですか。かしこまりました。謹んでお受けいたします。正式な破棄は、殿下から陛下を通して、父の方へお願いいたします。では、ごきげんよう」
令嬢はこれ以上ないというほど優雅に膝を折り、挨拶をした。そして、反論が来ると身構えていた彼らが戸惑っているうちに、踵を返して、立ち去ったのだった。
こうして世継ぎの王子の婚約者だった侯爵令嬢は、婚約を破棄され、新しく王子の婚約者となった令嬢への度重なるイジメを糾弾されて、尼僧院へと送られた。
その道の途中、金にあかせて安楽な生活を送ろうと巨額の寄進を積んだ馬車を従えていたことが仇になり、盗賊に襲われたという。盗賊の慰み者になったとも、それを嫌って自害したとも言われている。
どちらにしても、それ以降その行方は杳として知れず、また、王太子夫妻をはばかって、令嬢のことは人の口に上らなくなったのだった。




