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喫茶店を出た僕たちは、そのあと彼女のリクエストでカラオケ店にやってきていた。
「うふふ。カラオケなんて久しぶり。部活動とかが忙しくてなかなか行けなかったんだよね~」
彼女は指定された部屋へと入ると、飲み物などの注文も後回しにさっそく機械を操作して曲を入れ始めた。
「歌いたい曲いっぱいあったんだよね~。いろいろ入れちゃうけどいい?」
「うん。好きなだけ歌っていいよ。僕は別に歌とかどっちでもいいから」
「ええ? そんなこと言わずに坂下くんも歌ってよ。どんな歌声か気になるし」
「いやいや、僕は……」
僕が遠慮するのも聞く耳持たない様子で、彼女は僕にも曲を選ばせようと本を押し付けてきた。
「よおし、今日はいっぱい歌うぞー」
彼女はそれから歌いに歌いまくった。
僕はそれを横で聴いているだけで幸せだったが、ときどきは無理やりマイクを持たされ歌わされた。
僕は本当に信じられなかった。
憧れだった彼女とこうして過ごしていることが。
こんな夢みたいな時間がずっと続けばいい。できるだけ長く彼女とこうして過ごせたらいい。
それを実現するには、きっと大きな賭けに出なければいけないだろう。賭けに負ければ、すべてが崩れ去り、永遠に彼女には会えなくなるかもしれない。少なくとも、こんなふうに気楽に喋りあうことはできなくなるだろう。
だけど、なにもしなければ、それは時とともに消え去っていくだけ。大きなチャンスは今を逃したらやってくることはない。
本当に彼女のことが好きなのなら、僕は勇気を出さなければいけないだろう。
その後僕たちはカラオケ店を出て、近くの公園でまたおしゃべりをしたりした。
そんなことをしていたら、時間はあっという間に過ぎ去り、気が付いたときには辺りはすっかり夕暮れどきを迎えていた。
帰途についた僕たちは、とある橋の上まで来ていた。
そこは中学時代にいつも通っていた場所だった。よく部活帰りに、そこから夕陽が遠くの山の向こうに沈んでいく光景を眺めていたことを思い出す。
二人で並んで歩いていると、彼女がふとその場に立ち止まった。彼女の視線の先には、オレンジ色に光る大きな太陽が浮かんでいた。
「ここから見える夕陽が好きだったの。中学時代いつも眺めていた」
夕陽に照らされた彼女の横顔は、神秘的なほどに美しく、濡れたような睫毛が艶っぽく見えていた。
「僕もよくここから夕陽を眺めていたよ。ゆっくり山の端に光を滲ませていく太陽が、とても綺麗でなんだかもったいなくて」
彼女がこちらに視線を向けた。
僕はドキドキして、自分の心臓がどうにかなってしまうのではないだろうかと思った。
言わなければいけない。今日のこの日が終わる前に。
またただの元クラスメイトに戻ってしまう前に。
「高倉さん。僕……」
言いかけたそのとき、僕の後ろから、大きな風が吹き上げた。ゴウッという音が聞こえるほどの強風にあおられ、僕は思わず目を瞑った。
そして次に目を開いた瞬間、僕は驚きに目をさらに大きくした。
彼女はそこにいた。
けれど、彼女は本当にはそこにいなかった。
なおも吹き付ける強風は、僕の髪を逆立たせ、服の袖をはためかせていた。
けれど、彼女はそんな風が吹いているにも関わらず、服はおろか、髪の毛一本すら微動だに動いてはいなかった。
まるで風は、そこに彼女がいないかのようにすり抜けていっていた。
「あ……、そん、な……」
僕はそしてすべてを悟った。いや、気づいていたのに考えないようにしていたことに、ようやく目を向けたのだった。
なにかがおかしい。
そのことに、僕はどこかで気づいていた。けれど、それを考えてはいけないと、僕の心が拒否反応を示していた。
それを理解してしまったら、きっと僕はどうにかなってしまうだろう。僕のなにかが壊れてしまうだろう。
そのことを知っていたから僕は、自分のなかの違和感に覆いを被せ、目を向けないようにしていた。
今日最初に図書館で会ったとき、入り口で僕は同じように風に後ろからあおられた。しかし彼女の襟は風で立つこともなく、髪の毛がなびくこともなかった。
図書館の司書が「延長ですか?」と問うてきたのも当たり前だ。彼女ではなく、僕が借りた本を出して、また借りると言ったのだから。
喫茶店で飲み物を頼んだときもそう。モーニングのサービスは一人にひとつずつしかつかない。飲み物を二つ頼んだのに一人ぶんしかモーニングが来なかったのは、そこに僕しかいなかったからだ。店員さんはきっと奇妙に思ったことだろう。一人で二つも飲み物を頼み、ぶつぶつと一人でしゃべっていた僕のことを。
カラオケは、ほとんど歌声の聴こえない部屋となっていたはずだ。
「ああ、どうして……」
ぼろぼろと大粒の涙が、僕の頬を流れ落ちていった。
信じたくなかった。考えたくなかった。
まだここにきみがいると、夢見ていたかった。
「ごめんね」
彼女は寂しそうに微笑みながら言った。
僕は首を振る。謝らないでくれ。それが真実だと認めないでほしい。
「最後に楽しい思い出ができて良かったよ」
「最後とか……言うなよ。せっかくこうして仲良くなれたっていうのに……!」
「それは本当に私もそう思うよ。生きているうちに坂下くんとこんなふうに仲良くなれてたら、もっと楽しかっただろうな」
「高倉さん! 僕はきみのことが……っ」
彼女は黙ってうなずき、口を静かに動かした。
それを見て、僕はただひたすら泣いた。
太陽が沈んだときには、橋の上には僕だけしか立っていなかった。