青い虹
じゃぁ、あたしがこうちゃんのこころに虹をつくるから!
意固地になって言い張ったのを、いまでも覚えている。たしか、高校の頃だったか。
「俺は他人の心に虹をつくるために生まれてきたんだよ」
名前の由来を訊いたとき、こうちゃん、虹輝はそう答えた。普段は突拍子もないくらい明るい性格の彼の声に、一瞬寂しさが滲んだ。それでは彼の心に虹をつくるのは誰だ。自分が持たないものを他人に持たせるのは難しいに決まってる。ただただ、安直な考えだった。あたしの宣誓を聞いた彼は、どことなく微笑んだ気がした。
あれから何年経ったんだろう。指折り数えて、丁度両手に収まることに気づく。あたしは洗濯物を畳み終えると長男坊の入園書類に手をつける。あたしの字は独特だとよく言われる。昔から変わらないねぇ、なんて呑気な声が聞こえた気がした。うるさいなぁ……早く帰ってこいよ、ばか旦那め。今年で3歳になる息子はよく喋るようになった。だから、あたしに目眩でもあるとすぐに飛んできて「ままだいじ?」なんて訊いてくるのだ。私のたまに混じる無意識な方言はこの子の語彙にも影響が……なんて頭を抱えた日もある。直したいのだけど、どこが違うのかわからないせいで、なかなか難しい。それを彼はまた、ばかにしながらあたしの頭をくしゃくしゃに撫でるのだ。息子に同意を求めながら。まったく……と私がむくれると、さらに盛大に煽ってから、ふっと微笑む。……やっぱりこの人にはかなわない。
考えてることはだいたい通じて、冗談を言いたいタイミングもバチッと合う。出逢うべくして出逢ったんだ、なんて。付き合いたての頃は舞い上がったものだった。けれど、こうちゃんに未だに言えてない秘密があたしにはある。
最近、視界が霞んでみえるのだ。
昔からじゃない。ただここ数ヶ月のことだった。ほんの少し、白っぽく見えるだけ。疲れてるだけだ、なんて頬を叩いて、寝室でお昼寝中の息子の様子を窺いに行く。と、ほぼ同時に玄関のドアが開く音がした。
「たっだいまーパパのお帰りだぞー!」
「ねぇいま昼寝してるの! 大声出さないで!」
「あっごめん……」
「ぱぱもままもうるさぁい」
覚束ないろれつが寝起きでさらに回らないまま、息子は両親に苦情を立てる。二人して息子にへこへこ謝ってから、おかえり、と呟いた。
「寂しかったんだろ?」
「……別に」
「ほんとはー?」
「……」
あたしは、息子に見つからないくらいの淡い淡いキスを頬に落とした。また頭をくしゃくしゃにされる。息子もこうちゃんにくしゃくしゃ攻撃を食らっている間に、食事の用意をしに抜け出す。
やわらかな色合いをした野菜を洗って切って鍋に放った。棚から白い食器を手に取ろうとしたとき、皿はあたしの手をすり抜けて木目の床へと落ちていった。衝撃音に男二人がどたどたとキッチンにやってきて、ふたりで「だいじ?」なんて言った。「大丈夫」だよーなんて声をかけながら破片を拾い集める。おかしいな。確かにこの手に収まる距離だったのに。途端、指先にじわりと熱を感じた。切ったのだ。自分の手に赤いはずの血が流れていくのをぼんやりと見ていたら、こうちゃんが強張った面持ちで近づいてきた。こうちゃんは慣れた手つきで食器の欠片を集めてビニールに包んだ。それからあたしの腕を掴んで蛇口の水に当てさせた。掴まれた腕はなんとなく変な感じがした。
結局夕食はこうちゃんが完成させた。あたしも、そろそろ限界だな、と思った。今週で何枚目だろう。食事を頬張るこうちゃんの顔は、やっぱりどこか不満そうだ。
「なぁ紫乃」
「うん?」
「俺に隠してることあるだろ」
「……特に何も」
「なぁ」
こうちゃんの語勢が強くなる。と同時にあたしは萎縮する。怖くなると呼吸が浅くなって思考が遠のいていくのは思春期の後遺症。
「言いたくないならいいけど」
そぅ、と曖昧に返す。
「お前の不自然さがわからないとでも思ったか?」
ふふ、とあたしは笑った。自分でもわからないけれど、なんか笑いたい気分だった。こういう笑い方をすると心の底辺がキリッと痛む。淡い感情を締め上げるみたいに。目がおかしいのは不思議と自分でもわかっていた。そしてそれが何を意味するのかも。
「たぶん、あたし失明する」
「……まじで言ってんのか?」
頷いて咀嚼を続ける。こうちゃんが腑に落ちてないのは一目瞭然だった。
「病院の先生はなんて?」
「行ってない」
「ちゃんと検査した方がいいって」
「行きたくない」
白濁しているのは目だけじゃない気がした。いつもそう。突然やってくる、スノードームの中みたいな感覚。誰かにどれだけ愛されても、あたしは雪の降る中でひとり。ひとり。ひとり。誰もあたしに届きやしないし、あたしは誰にも届かない。
こうちゃんが何か話しかけてきたのがわかった。けれどなんだか、答えたくない気分だったから答えなかった。食事が終わったのかこうちゃんは席を立って、息子の面倒を見始めた。残されたまだ割れてない白い皿をあたしはずっと見ていた。
そんな「白い期間」はいつの間にか終わってて、あたしはいつものあたしに戻るのだ。抱きついて心境を心の呼応で感じようとするこうちゃんの背中をぽんぽん叩いて、だいじょーぶだいじょーぶ、って唱えた。
いつから始まったのかもわからない白の恐怖は、時間と共にどんどん重なっていく。何回かこうちゃんが諭すように話しかけてきたことがあったけれど、何を言っていたのかは忘れてしまった。はじめはとても淡いもの。織り重なって白くなる。白。白。白。そして暗闇は突然やってきた。
「紫乃ー。紫乃? 起きてー……るのか。……どうした?」
いつもは早いあたしが起きてこない異様さに、こうちゃんは何かを察したようだった。
「……もしかして」
「どこ? どこ? あたし?」
自分の頬を叩き続ける。手のひらから伝わるのはあたしの頬。
「だれかいるの? ねぇ! あたし、あたし、あたし? こうちゃん? こうちゃん? こうちゃん!!」
突然、何かあたたかいものが身体を覆った。昔抱えて寝たぬいぐるみのような。くまさん……とあたしが呟くと、こうちゃん、だよ、とそのあたたかいものは震えた声で応えた。あたしは荒れた呼吸を整えて、そこにいるであろう愛しい人に手を伸ばした。その人も手を伸ばしたのだろう。あたしの指先は、自分じゃない指先に触れた。あたしは食らいつくように手を繋いだ。それから、泣き虫なのは相変わらずだね、って言ってやった。いつもなら「そっちこそ」が返ってくるはずなのに、今日はただ泣き声だけが聞こえて、ちょっと不安になった。
父親の泣き声に驚いたのか息子が駆けてきた。足音の方を向くも、あたしの目は焦点が合ってないように見えるらしい。
「……まま?」
「んー?」
「ままのせかい、しろい?」
「んー。白いっていうか、透明、かな」
「嘘つけ、真っ暗なくせに」
「うるさいなぁ。昔みたいに詩人を発揮させてくれよー」
「昔みたいに、じゃないくて、今もだろ」
こうちゃんは息子の名前を呼んだ。
「ママの白い世界が、黒になっちゃったみたいだから、病院に行ってくるね。ばっばのところで待ってられる?」
「はーい」
聞き分けのいい子に育ったものだ。……待てよ。
「病院なんて行きたくない!!」
「失明してすぐならまだ助かるかもしれない。目が見えないからってその事実を運命だと勘違いするな。昔からお前の悪い癖だぞ」
「やだ! 行きたくない! 絶対怒られる!!」
「おいおい……俺が何度お前を説得しようと大声上げたと思ってんだよ……」
「え、こうちゃん怒ったの?」
ここ数週間の記憶はとても曖昧だった。白かった上にぼーっとしていたのだろう。こうちゃんが怒ったのだとしたら、また白い期間に落ちてたのかもしれない。
「大の大人が、本人の同意なしで診察できるわけないだろうに……。まぁ今日はもう限界ってこと。行くよ」
有無を言わさず、こうちゃんが横にいるらしい息子に声をかける。
「ママを病院に連れて行かせ隊、隊長殿! 作戦Aを実行します! 直ちに準備を整え、配置についてください!」
はい! と元気な返事の後に息子の足音が遠のいていった。
あたしは怒られる、という動作が酷く怖い。幼い頃怒られ慣れてない所為と、たぶん思春期の後遺症。出来るだけ隠してきたつもりだけど、きっとこうちゃんにはバレている。あたしがそんなあたしを消したいことも。
しばらくして、あたしは着慣れない素材の服に着替えさせられて、硬い布団の上にいた。ここに来るまでの騒音が酷すぎて疲れてしまった。すこし眠ったらしく、息子の声で目が覚めた。
「おえかきしてるの。おえかきしてるんだよ、まま」
またこうちゃんに吹聴されたのか、実況する息子の声とクレヨンが画用紙にぶつかる音が続く。息子は男の子なのに絵を描くのが好きだ。それもとても子供らしい絵。太陽をぐりぐりと描き、クレヨンを寝かせて青空を描く。机にぶつかっているのであろう音と、不安定でまだ浅い声が心地いい。途端、その声は急に低くなった。
「お絵描きしてるんだよ。紫乃」
「……こうちゃん?」
ままとーぱぱとーぼくーとー。なんて、また浅い声が聞こえる。
「ままはいまとーめーなせかいなんでしょー?」
「そう、だね」
「そしたらここはこのいろー。ここはこのいろー」
「紫乃、虹は何色だと思う?」
「七色でしょ?」
ふと、昔こうちゃんと交わした約束を思い出した。
「……架けられなくてごめんね」
「何言ってるんだよ」
こうちゃんは、あたしがホントにばかみたいなことを言ってるような風に笑った。ホントにホントに軽いことみたいに。あたしは黙った。
紙のめくれる音がした。
「あーだめーいまにじかいてるのー」
「何色の?」
あお。
ぱぱがね、いちばんとおいのはあおだって。ままはいまとーめーなんかじゃないって。
「詩人さんや。詩人紫乃さんや」
「……なによ」
「見えなくてもあるんだよ」
「……詩人なのはどっち。って言うか、なんか諦めた風に言わないでよね」
「出逢った時は詩人さんだったね。中二病が抜けてないくらいの」
「うるさいなぁ」
「俺と生きようよ」
「生きてるじゃん」
ほんとうに、生きよう。
取られた手はかたく握られていて、繋いだ相手が誰だかぐらいは嫌でもわかる。言っている意味もわかったし、こうちゃんの言いたいこともわかった。
あたしが逃げていたことはなんだろう。とても大切なことのはずなのに、すぐ忘れてしまう。忘れようとしていたことはなんだろう。白い画用紙の上に描かれた、青い虹に手を伸ばす。指先に青を擦り付けた。確かな色。世界に元々色はあったのか。彩るのは誰だ。目を閉じて暗闇の中で青を探した。ただ遠く遠く曖昧なそれに触れようとして、掠れた。あたしの中の何かが剥がれる。青を抱きしめるほどに。指先に残っているのはクレヨンじゃなくなっていた。あたしの色。……あたしの色。衝動に駆られて、あたしはそれをめいっぱい頬張った。熱の塊が喉を伝って身体を巡った。その一部は昇って涙となって溢れ出た。あたしの目から。
瞬きしてからは一瞬だった。頬を伝う涙にはまだ熱が残っていた。目の前に広がったのは白い病室。けれど、とても鮮やかな。こうちゃんと、こうちゃんに似た男の子があたしを覗き込んでいた。
まま、どこいってたの?
君が描いた遠い青のなかだよ。
おかえり。
こうちゃんはこうちゃんで、息子は息子で。眩しいほどに鮮烈だった。鮮やか過ぎる世界から逃げようとしてたのはあたしだったのだ。
病院の先生には事情を説明して退院させてもらい、そこから2、3日は今までのことがまるでなかったみたいに体調がよかった。それも束の間、また目眩や吐き気に苛まれることになる。昔懐かしい感覚。昔は昔でもそれは4年前の感覚。お医者さんによると3ヶ月だそうだ。
大切なこと。病院からの帰り道であたしは一人、空を仰いだ。青くて遠い。見えない虹。アスファルトに視線を落として、自分の身体を抱く。ほんとうに生きるということ。あたしはこうちゃんの真似をして、ふっと微笑んでみた。息子が描く画用紙の中に、もう1人増えることになるのだ。愛しいひとたち。
いまはただ、この子が青い虹が見える子に育つことを祈るばかりである。