抱き締める
「そうそう結己くん、彼方から伝言があるの」
「……伝言?」
「彼方が冷蔵庫のもの自由に食べていいって」
彼方に過食衝動を見透かされていることに思わず舌打ちしたくなる。だがすぐそこに欲しいものがあるとわかると、なおさら食べたくて仕方がない。強烈な欲望が頭をもたげるが、しかし目の前にはラビがいる。なんとか食欲をセーブしなければならなかった。
「……ふうん」
俺は敢えて気のない風に返事をする。もしラビが彼方から過食のことを聞かされていたとしても、そんなのは彼方の勘違いであると思わせてしまえば良い。
「あんたは腹減ってない?」
問いかけるとラビは喉が渇いたと言うので、俺は部屋の片隅に置かれた冷蔵庫を開く。中には菓子類から惣菜までこれでもかとばかりに詰め込まれていた。この部屋の冷蔵庫の中身はいつもこうなのだろうか、それともわざわざ彼方が用意したのか。
どちらにせよ敢えてラビに確かめる気は起こらない。もし彼方が俺のために用意したのだとしても、嬉しいとか感謝であるとか素直にそういった感情を抱けないのは確かだった。
俺は魚肉ソーセージを十本くらいテープでまとめた束をさりげなく二つ取り出して、そばにあったサイドテーブルの上に置いた。それからペットボトルを物色する。
「なに飲む?」
炭酸系飲料から果汁百パーセントジュースまで色々取り揃えられているのだが、ラビは水が良いというのでミネラルウォーターを取り出した。ちょうど五百ミリリットルのものがある。
俺の中では、早速盛大に魚肉ソーセージを食らいたいという衝動と、ラビの前であるから控えめにしなければならないという理性がせめぎあっている。
ちなみに食い物のセレクトについては、冷蔵庫からあまり大量に食い物を取り出すのもおかしいし、かといって何度も扉を開閉するのも妙だろうという判断基準により、なるべく不自然にならない範囲のものを選んだつもりだった。
それでもラビはソーセージを見やって、
「それ全部食べるの?」
と不思議そうに言うものだから、俺は動揺を押し隠して「そんなわけねえじゃん」と返す。
歯で封を千切って魚肉ソーセージを食らいながら、ペットボトルを開けてそのままゆっくりとラビの口に注いでやる。
やがてラビは喉を潤して満足すると、こちらが聞いてもいないのに自分の身の上を明かしてきた。
「ねえねえ結己くん結己くん、私ね、今まで彼方以外の人とまともに接したことがないの」
「……ええ?」
俺はなるべく丹念な咀嚼を心がけながら、ラビの話に耳を傾ける。
「大きな木、あるでしょ。ええと名前……」
「エラルシディア?」
思わず聞き返してしまう。大きな木といえばシクロの中央に生える大樹エラルシディアの他にないが、その名が出てこないなんてことはシクロの住人なら有り得ない。コクハツの研究施設に囲まれながら、真直ぐに空へと伸びる大樹エラルシディアはシクロのランドマークなのだ。
「そうエラルシディア! 私、その根元で目が覚めたの。それより前の記憶がないの」
俺は返す言葉がない。記憶喪失の話はテレビなどでは耳にするものの、実際に出会うのは初めてだった。その悲惨な境遇に、咄嗟に的確な慰めの言葉も浮かばず、俺は強迫観念のように役不足を恐れて焦る。だがラビ本人はといえば全く思い詰めた様子はなく、敢えて気丈に振舞っている気配も感じられない。
「でね、なんかヘンな人たちに追いかけられて、逃げてるうちに出会ったのが彼方だったの」
ヘンな人たち、というのはおそらくコクハツの人間なのだろう。ラビが目を覚ましたエラルシディアの根元は、コクハツ研究施設の敷地内である。外部からの侵入者と判断されて追いかけられたと考えるのが妥当だが、しかし厳重な警備が敷かれたそこにラビがどうやって忍び込んだのか疑問ではある。
「それからはずっと彼方と一緒なの」
何でもラビ曰く、夜眠る時以外はこのように縛られて生活しているとのことだが、それはここ二、三ヶ月のことらしい。この二年間で彼方の束縛は徐々にエスカレートしていったとのことだった。
「とは言ってもね、彼方と出会ってすぐの時から外出は禁止されてたの。外は治安が悪くて危険なんでしょ?」
返答に窮してしまう。危険だからというのは建前に違いなかった。島外の人間から治安が悪いと言われることはあっても、シクロで暮らす人間にとってここは日常生活の場であり、出歩くのを控えた方が良いほど危険などという意識はない。
彼方はラビのことを恋人だと言ったが、おそらくラビにとって彼方は単なる恋人という以上に保護者のような存在なのだろう。記憶を失くして右も左もわからないラビの面倒を見たのが彼方なのである、そうなるのが自然であるように思われた。ラビにとっては彼方のルールがすべてなのだ。だから彼方の無茶苦茶な要求も呑んでしまえるのかもしれない。
「そんなわけで結己くんは私にとって特別なの、はじめて会話する彼方以外の人だから」
ラビが俺に興味を持っている理由も、やたらに楽しそうな訳も、ようやく理解するが、それにしたって好奇心旺盛すぎるだろう。そして俺はといえば逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
そもそも俺は女が苦手なのだ。ソウエンで娼婦の世話役をしていたといっても、それはあくまで表層的で当たり障りのないものだ。きっとこの女との関係はそうはいかない。彼女はあの娼婦たちとは違って、何せ俺自身に興味を持っている。だが本当の俺なんて見せられたものじゃない。性的不能に過食症、ゲロに塗れた俺のことなんて構わずに放っておいて欲しい──のだが気づけば、ラビが俺をじっと見つめているのである。
俺はその視線が何を意味するのかはじめ理解できず、居心地の悪さを覚えながら次の魚肉ソーセージに手を伸ばした時、はっと合点が行った。
十本ほどが二セットあったはずのソーセージが、この短い間に残りたったの一本になっている。一気に食い過ぎた。サイドテーブルの上にはソーセージの代わりに、食べ終えたあとのビニール包装が小さな山を作っていた。
我ながら阿呆すぎる。本当の俺なんて見せられたものじゃないと思いを巡らしたばかりだというのに間抜けにも程がある。だが普段なら決してこんなことにはならないはずだった。現にこれまでだってずっと娼婦に気づかれずにやってきたのだ。
彼方によって過食に耽る環境が整えられていたこと、そしてラビという奇妙な女を監視するというこの正気じゃない状況に流されて、つい感覚が狂ったに違いなかった。とにもかくにも早急に誤魔化さなくてはならない。
「あ、あの……」
俺は本来の調子を取り戻そうと、いつも娼婦にしているみたいに軽い話題でも振ろうとするのだが、焦燥に駆られるばかりでちっとも言葉が出てこない。
「その、ええと……」
ラビは挙動不審な俺を真直ぐに見つめていたが、やがてあまりに唐突に告げた。
「それじゃあ結己くん、私のこと抱き締めて」
「……え?」
今なんて言った?
「私のこと抱き締めれば大丈夫」
……おいおいおいこの女は一体何を言ってるんだ? 俺は耳を疑う。
「ええ……? 何? 大丈夫て、何が……?」
「結己くん、私ね、こうやって縛られてるから、自分から抱き締められないの。だから結己くんから私のこと抱き締めて」
いやだから何で。
なぜそうしなければならないのかさっぱり意味がわからない。もっともらしく紡がれるラビの言葉はしかし、何の説明にもなっていない。
だが結局のところ俺は──我ながら全くもって理解しがたい話ではあるのだが、彼女の申し出を跳ね除けることができなかった。
自分でも認識できない意識の奥底で彼女を受け入れずにはいられなかった、そうとしか言い様のない感覚だった。勿論それは下心なんかじゃない。もしも彼方に知れたら厄介なことにならないかという躊躇さえ簡単にどこかへ飛んで行った。
俺は椅子に座ったラビの肩にそっと触れた。タオルケット越しの指先に、彼女の感触を覚える。気まずくてラビの顔を見ることはできなかった。そして俺は覆いかぶさるようにゆっくりとラビを抱き締める。