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もう一人の女

 シクロはあと三日で閉鎖される。


 それが期日であり、俺たちが島から退去しなければならないタイムリミットだった。政府が全島民に突然の立ち退きを課したのは半年前のことになる。


 近い将来、大規模な消失が発生し、最悪の場合、島民を含めたシクロそのものが消失する──消失調査研究推進本部コクハツが提出したその調査報告とその対策案を受け、政府が島民に避難指示を出したのである。


 これまで年に数件は必ず観測され続けてきた消失だったが、ここ二年ほどはぴたりと止んでいた。勿論喜ぶべきことではあったが、逆にどこか不気味であると島民の多くが感じていたところであり、そうした中で公にされた調査報告は島民に立ち退きを承諾させるに十分な理由となった。


 何よりこれまで消失によって人間が消えた事例はなかったにも関わらず、今回はついにそれが起こるというのである。


 政府はシクロを第一区画から第六区画にまで分け、それぞれの地区に退去期日を設定したが、期日を待たずして島を去る人間がほとんどだった。


 現在は第五区画までの立ち退きが完了しており、光明路が位置する第六区画も期日まで残り三日と差し迫っている。この第六区画の期日を最終として、島民はシクロから完全退去させられる。


 俺は早々にシクロを去らなければならないとわかっていながらも、いまだ立ち退けずにいた。


 全く知らない世界で一からやっていく気力がないというのが大きな理由だったが(シクロで生まれた人間のほとんどはこのスラムの外に出たことがない)、他にも俺みたいな人間は少なくない。


 そいつらはそれぞれが住まう区画の退去期日を過ぎると、まだ期日まで猶予のある区画へと流れていく。どのみち退去せねばならないのだから無駄な足掻きなのだが、俺はそんな奴らの気持ちも理解できる。


 俺は散々過食に興じて胃袋を満たした後、嘔吐に急き立てられるまでのごくわずかな瞬間に、いつだって母親のことを思い出す。


 もしも母親が迎えにきてくれたならば、ここから抜け出せるのかもしれない。そんな淡い期待を心の奥底で抱き続ける一方で、未練がましい自分を嘲笑せずにはいられなかった。



  *



「結己くんは彼方のお友達なの? 趣味は? 好きなものは何?」


 ラビは監視という状況下にも関わらず、やたら楽しげな様子である。しかも明らかに俺に興味を持っている。なぜかはわからない。勘弁してほしい。


 俺は彼方の下で働いているとだけ答えて、あとの質問は答えないままうやむやに終わらせた。


 ラビは俺と似たような年頃だろう。もしかすると彼女の方が一つか二つ、年上かもしれない。言動は幼いものの、容姿からすると少なくとも年下ということはないように思われた。栗色の髪に薄茶の双眸と、いくらか色素の薄い印象である。


 とりあえず目のやり場に困るのでベッドの上にあった白いタオルケットを羽織らせておく。それでも思わず視線を吸い寄せられるほど彼女の肌には透明感があった。白い生地を重ねても、まるでくすまない。もし俺が性欲を失っていなければ本当に手を出していたかもしれない。


 主に上半身を縛られているラビは、自由になる膝から下をぴょんぴょんと動かしている。いかにも上機嫌といった雰囲気だった。一体何がそんなに楽しいというのか──やっぱりこの女も彼方と同じように頭がおかしいとしか思えない。


 一方、俺は全くもって気持ちが落ち着かず、ストレスによる過食衝動が加速するばかりだった。勢いに任せて食い物を胃袋に詰め込みたいが、この女の前でそんなことできるわけないし、そもそも今は食い物の手持ちもない。


 俺から平常心を奪うのは、全裸の女を監視しなければならないという常軌を逸した状況は勿論のこと、俺の性的不能について「お店の女の子に聞いたことがあるんだ」といった彼方の言葉も大きかった。その精神的ダメージが尾を引いているのである。


 彼方があの女から直接聞いたのか、あるいはあの女が他の娼婦たちに漏らした話が彼方の耳に入ったのか、どちらにせよあの女が言ったのは確かなのだ。今も娼婦たちの間で噂になっていたと思うと吐き気がするが、女たちの雰囲気からしておそらくそんな事態にはなっていないだろう。それがせめてもの救いだと思うしかない。


 そもそも俺が摂食障害に陥った直接的なきっかけはその女にあった。もっともそれはあくまできっかけにしか過ぎず、根本的な原因までも彼女に押し付けることはできないのだが。


 一年半前、俺がソウエンで仕事を始めたばかりの頃、一人の女が店にやってきた。彼女は自らをエンと名乗った。


 俺より二つか三つ年上という程度だと思っていた彼女は、実は九つも年上の二十五歳で、それはちょうど俺の母親が失踪したのと同じ年齢だった。


 そして彼女と初めて肉体関係を持った夜のこと、エンは寝物語に俺に囁いた。


「失楽園のお話、してあげる。子どもの頃、聞いたでしょ?」


 唐突だったが、それもまた彼女らしいと思ったものである。エンはまるで猫のように気ままで奔放な女だった。自己中心的な性分が店の娼婦たちの反感を買っていたが、人目を気にせず自分を押し通す彼女のやり方が、俺には好ましかった。今思えば、ないものねだりだったのだろう。


 おとぎ話を語る彼女の口振りはまるで過去の事実を述べるかのような不思議な説得力があった。そして最後に彼女はこう締め括る。


「ほとんど知られていないけれど、実はこの物語には続きがあるの。そのお話はまた今度ね」


 そう言うとエンは目を閉じ、間もなく静かな寝息を立て始めた。


 失楽園の物語に続きがあるとは初耳だったが、しかし正直なところそんなのはどうだって良かったのだ。ただ俺はエンも母親と同じように、朝起きたら消えているのではないかという不安に苛まれて、なかなか寝付くことができなかった。それでもやがてまどろみが訪れて、俺は夢を見る。母親を探して見たこともない場所を彷徨う、それはいつもの夢だった。


 やがて身体を揺すられて目を覚ますと、エンが顔を覗き込んでいた。


「うなされてたよ。もう朝だから起きよう?」


 俺にはそれが心底嬉しかったのだ。俺はまるで子どもがするように彼女の手を握って、心が安らいでいくのを感じていた。


 だが幸せは長くは続かなかったし、失楽園の続きが彼女から語られることはなかった。エンはやはり気まぐれな性分だったのだ。


 出会ってから半年ほど経ったある日、彼女は突然、何も言わずに俺の前から姿を消した。その頃すでに彼女が俺への興味を失っていたのは、その態度からして明らかだった。


 結局のところ情けない話ではあるが、俺が過食症に陥ったきっかけはそれだった。


 よほど彼女に惚れていて捨てられたのがショックだったのかといえば確かにその通りなのだが、俺が自覚する根本的な原因は、彼女に母親の影を重ねすぎていたことにあった。彼方の言った「結己くんできないんでしょう?」というのだってそのせいなのだ。


 あの頃、彼女に対する独占欲と執着心は日に日に強まる一方だったにも関わらず、それと反比例するようにして彼女と肉体関係を持つことが儘ならなくなっていったのである。身体が言うことをきかないのだった。


 あの女が消えた時、やはり母親の時と同じだと思った。母親を失って自分の中にぽっかりと空いた穴、きっと俺はそれを彼女に埋めて欲しかったのだろう。そして実際、彼女によって満たされたと感じた瞬間も確かにあったのだ。あの朝だってそうだった。


 だがすべてが終わった後では、それだって虚しい錯覚に過ぎなかったのだと思わざるを得なかった。


 女に対して漠然とした嫌悪感を覚え始めたのもそれからだった。そして自分の中に空いたあの穴には今や、大量の食べ物が詰め込まれては吐き出されている。すっかり失われた性欲の代わりのように、過食への衝動は止め処ない。それが俺の現実だった。

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